第三章
結婚退職
朝は、始まる。
目覚ましと共に起き着替えて洗濯物を回し、朝食の用意をしながら父と自分の弁当を作り、合間に新聞を取りに庭へと出る。
いつもと変わらない慌ただしさの中でも、ふとひとりになると涙が零れてくる。道哉の前で泣いてしまってからというもの、歯磨きの途中で、浴槽で、髪を乾かしている最中にも涙腺がどうかしてしまったかと疑うほど、涙は簡単に頬を伝った。
圭介と連絡を絶って四日が過ぎた。
「おはよう、心菜ちゃん」
ポストに突っ込んだ手が止まったタイミングで、隣に住むおばさんから声を掛けられる。十四才の頃の私が、闇雲にばら撒いた嘘を信じて若葉さんに冷たく接してくれた中のひとりだ。
「おはようございます」
私の涙はすっと隠れて、いつも通りの挨拶ができた。私の罪は今も日常のあちらこちらに散らばっていて、私を監視している。涙を見せて他人から同情されることは許されない。
「今日も暑くなるのかしらねえ」
「きっと暑くなりますよ、出掛けないのが一番です!」
「だめよ、エアコン代がかさむもの。ショッピングセンターで涼むのが一番よ」
「なるほど。メモメモ」
おばさんに合わせて少し世間話をし、ポストから新聞と、そして白い封筒を取り出しながら会釈で別れる。
家の中へ入る前に素早く封筒を開封した。強く折り目のついた白い便箋が三枚、文字は書かれていない。いつも同じだ。封筒には宛名シールが貼られている。この家の住所と私の名前。一枚一枚印刷したのか、それともまとめて用意したものなのか、あと何枚届くのか……、執念を通り越して怨念に思えるその行為に、私は恐怖する。
♰
会社では、私に対しての“お祝いムード”が広がっていた。
同僚たちの口から簡単に漏れた結婚話は当然上司の耳にも入り、早々に退職話が進んでいった。
「いつまで働ける?」
結婚後も働きたい
など言える社風ではないことはわかっていたから、私はテンプレの答えを口にした。
「できましたらなるべく早くに」
「そうだろうな、準備もいろいろとあるだろうし」
「先に有休を少し頂ければありがたいのですが」
「もちろんだ」
簡単な会話で、来週から十日の休みが認められた。
あっけなかった。
鮎川さんが控えめに、私を見ていた。
微笑みと共に首を傾けるとぎこちなくそばにやってきた。
「あまりお話しできないままお別れするの、すごく残念です」
社交辞令だとしても嬉しかった。圭介と同じ年の新入社員の女の子は初々しさの鏡だった。
「私も、とても残念」
「あの、よかったらメール交換しませんか」
「もちろん」
私は静かに受け入れた。同僚たちともとうの昔に交換している。業務以外でメールをくれる人は誰もいなかったが、私もしていないのだから仕方ない。きっと鮎川さんとも交換するだけになるはずだと思いながらスマホを近づける。
「谷口さんの結婚相手ってどんな方なんですか?」
「……ええとね、幼なじみ」
私を気遣って聞いているのだろうと割り切り、私は嘘をつく。道哉が私を便利に使ったことを思い出していた。
「幼なじみと結婚?! 付き合って長いんですか?」
「子供の頃から、かな」
「す、すごいですね」
大きな目をより見開いて言われた。
太い息を吐き出した鮎川さんを残し、逃げるように席へ戻った。
……言わない、誰にも。
もう結婚自体が白紙に戻ったなんて。
辞める必要もないのに、嘘をつきとおすなんて。
今ならわかるのだ。
若葉さんが父との別れと同時に仕事を辞めてしまった理由が。私も同じだ。圭介と出会ったこの場所を、眺めて生きていくなんて耐えられない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます