会いたい人
†
「心菜おかえり」
家の前で圭介が私を待っていた。
濃紺の空は私たちの顔色までは映さない。
私は後退り、圭介から軽蔑の言葉を浴びせられるのを、待った。
何を言われても仕方がない、圭介の大好きな継母を、私は苛め抜いて傷つけた。
「びっくりさせて、ごめん」
「……」
「携帯が繋がらなくて」
「……」
「心菜……もしかして、怒ってる? 月曜日の約束守れなかったこと。ほんとごめん。それで」
と言って圭介はスーツの上着ポケットから用紙を取り出した。
「今日これから行かない?」
「……え?」
私はとても間抜けな声を出したと思う。「今、なんて?」
思わず聞き返した。と同時に恐る恐る圭介に視線を合わせた。圭介の表情は週末に別れたときのままだった。
目まぐるしく思考を回転させた。――圭介は今も私と結婚しようと思っている? なぜ? ――若葉さんはまだ圭介に私の過去をバラしてない? ――そうであるなら、それはなぜ? ――あの手紙……、文字のないあの手紙、あの意味はなに? ――無言の圧力……、親として、圭介との結婚は絶対に認めないという最終通告。
圭介を見る。
私だけに優しい人。私だけを特別に、降るように愛を与えてくれた人。
もしも、私の罪を知ったら、私に掛けた愛情や時間のすべてが無駄であるどころか、吐き気を覚えるほどの後悔の記憶になるのか。若葉さんへの罪悪感から私と恋愛し、結婚までしようとした自分を責めて生きていくことになるのか。――そうか、私から別れればいいのか。圭介にあのことを知られることなく、すべてを終わらせることを若葉さんは望んでいるのか、圭介のために……
「月曜日、ほんとにごめん。次の日からメール既読にならなくて、すごく気になってたんだけど俺のほうでもちょっと揉め事があって――あ、それはたいしたことじゃなんだよ? でも俺の体が、あかなくて……あとで、ほんと、遠くないあとって意味だけど、あとで、ちゃんと説明す――」
「ごめん」
私はぴしゃり、と言った。
「何言ってるかわかんない」
自転車の学生が通り過ぎるのをやり過ごしてから続けた。
「気が変わっちゃった。悪いけど結婚はナシで。あと圭介とも別れるわ」
「心菜、冗談きついよ……」
淡々と告げながらも、心臓は力強い鼓動を響かせている。――圭介が会いに来てくれた、私に愛を向けてくれている――、そのことが嬉しくてたまらない。私は今、矛盾と混乱の中にいる。
「別れるってなんでそうなるんだよ、俺は別れない」
「ばいばい」
「心菜っ!」
圭介をその場に残し、真っ暗な家の中に入った。そうして、圭介の気配が消えるまでじっとしていた。
+
平日になっても圭介は家に来た。
「おかえり……、心菜、ほんとごめん。許して」
「……何度来てくれても、無理だから」
+
「心菜、おかえり」
「……」
+
「おかえり、心菜……」
「……」
+
「心菜……」
敷地のガレージで圭介は今日も私を待っている。
デジャヴのように、あの頃の私と圭介が重なっては消え、現れる。
♰
父と若葉さんが別れてから少し後のことだった。
若葉さんが私たちと離れてどんな風に暮らしているのか確かめたくなった。
あの頃の私は、ただ若葉さんの家へ行くという無意味な行為を繰り返すことで自分の罪を軽くしようとしていたのかもしれない。
何度目の日曜日だっただろう、いつものように電柱に身をあずけて若葉さんの部屋を見上げていると、一台のタクシーが私の横を過ぎて若葉さんの家の前で停まった。降りてきたのは大振りのピアスをつけたショートカットの女性だった。その人は迷うことなく私の前に戻ってきた。
「きみ、若葉の恋人だった人の娘でしょ。写真で見たことがある。若葉にまだなにか用?」
その人は名乗らなかったし、私の名前も聞かなかった。ただ冷えた目で私を見下ろして、若葉を追い出せて満足した? と口元に侮蔑を乗せた。
「あのさ、若葉はきみが何をやったか全部知ってるからね。弟に大怪我させたのも若葉じゃないよね」
「!」
「若葉たちは、きみにこれ以上手を汚させちゃいけないって、身を裂かれるような想いで別れを決めたんだよ」
膝が震えて立っているのがやっとだった。
「心から愛した人と別れるって、地獄よ。こんなこと言ったって今は分からないだろうけど。でもいつか必ず分かるから。だからそのときまで、このことずっとずっと、覚えておきなさい」
その人がどんな表情をしていたのか分からない。私はただ地面を見ていた。項垂れた私の長い髪が太陽と世界から私を隔離する中、ひび割れたアスファルトの裂け目に意識を傾けた。
「若葉にはきみがここに来たことは言わない。その代わり、きみも若葉を傷つけることを生き甲斐にする毎日からもう卒業するのね」
私は身を起こし、俯いたまま走った。目印にして歩いてきた建物を次々に越して、若葉さんにもしも会えたら、どうして出て行っちゃったの? と責めてやろうと思っていたことや、どうしてあきらめちゃったの? と詰ろうと思っていたことや、若葉さんがくちゃっとした笑顔をまた見せれてくれることや、私の肩を抱いて「わかった。一緒に帰るよ」と言ってくれると想像し続けた毎日を、来た道のあちこちに脱ぎ捨てるように置いて帰った。
信号で足を止めた。流れる車の列を交互に見ながらあまりの滑稽さに笑い出したくなった。そっか……。全部バレてたんだ、私のしたひどいこと。
だけど頬はぴくりとも動かなかった。笑えない、笑えるわけがなかった。
寂しそうな父の顔を思い出す。私が若葉さんのせいにして数々の失敗に呆れて見せるとき、父は言った。――時間が掛かっても気づいてくれるって、お父さんは信じてるよ
あれは若葉さんに言っていたんじゃなかった。私に送っていた信号だった。父と若葉さんは、どんどんエスカレートしていく私の行為に決断を下さざるを得なかったのだ。私のために。
あの日を境に私は変わった。
見た目には未明と早朝くらいの差しかないようでも心の内ではきっちりと線引きがされた。自分のことは二の次に、父と弟を大切にするようになった。ふたりへの償いが他に思いつかなかった。友達の誘いも学校のクラブ活動や行事もすべて断って父と弟の世話に専念した。特に弟のことは強迫観念に似た使命感を持って躾けた。弟に反抗期がやってきても、もう私を「ココちゃん」と慕うことはなくなり代わりに「アネキ」と突き放して呼ぶようになっても。
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