始まりの日

「圭介くん?」

 気がつくと私たちの間に沈黙が流れていた。

 弟を頭の隅に追いやって圭介に視線を合わせた。

「どうかした?」

 圭介は俯いたまま、足元に向かって言葉を落とした。

「俺、弟にはなりませんから」

「え?」

 なんて言っているのか聞き取れない。耳を寄せると今度ははっきりと聞こえた。

「俺は弟じゃなくてあなたの恋人になりたいんです」

 響きの強さに驚いて反射的に目を見開いた。戸惑うくらいの深い瞳が私を捉えて離さない。

「……でも私、年上だし、今までの恋愛もうまくいかなかったしそれに」

「昔のことはどうだっていいんです。今、俺の目の前に心菜さんがいる、そのことがすべてなんです」

「いったい私のどこが良いの?」

 逃げるみたいに聞いた。はじまりから圭介の気持ちは知っていた。だけど心のどこかで、私はまだ信じていなかったのかもしれない。

「聞いたことなかったけど、教えて」

 目の前でバケツの水をひっくり返したのが縁だなんて、そんなことが恋のはじまりだったら相手は私じゃなくてもいいはずだ。

「心菜さんのことは」

 言葉をいったん止め圭介はしきりに唇を舐めた。緊張のせいか目が斜めに下に正面にせわしく動く。

「――心菜さんのことは、気がついたら好きになってました。あの日も、書類を持ってビルを出て行ったあなたがいつ戻ってくるのかって、何度も入り口の方を見てた。そろそろ他の場所に移動しなきゃいけない時間になって、今日はもう会えないかとあきらめて柱の陰にモップを回してふと顔をあげたらあなたが歩いてくるのが見えた。勝手に足が前に出て、そしたらそこにバケツが」

 圭介の声は早口だった。聞き漏らさないよう、私も必死に言葉を拾う。

「ずっと目で追ってました。あなたのことが気になって気になって、これが恋かどうか一生懸命考えて、悩んで、遠くから見ているだけにしなきゃいけないと思ってたけど、我慢できなくなって」

 記憶を呼び起こしているのか、圭介は切なさを持て余して私を深くみつめた。その眼差しは私の心を鷲掴みにした。

「初めてあなたと目が合ったとき、息が止まったんです。覚えてないでしょう? あなたは通り過ぎて俺はその場で動けなくなった」

 圭介の言う通り私には覚えがなかった。いつが圭介との出会いかと聞かれれば、迷わず目の前でバケツをひっくり返されたあの日と答える。

「心菜さんと挨拶をかわす間柄になって俺の意識は変わりました。それこそ革命的に。あなたに見られると勝手に頬が笑い出した。身体の中でなにかが跳ねた。時には音楽も鳴った。それで確信したんです。俺があなたを好きになるのは初めから決まっていたことだって。逆らえないことだって」

 膝に乗せていた手に圭介の右手が重なった。

「心菜さん、俺とつきあってください」

 こんなにも一途に、男に求愛されたことは今までになかった。

「絶対大切にします。誰よりも。何よりも」

 全身が痺れるようだった。感動が小指の爪の先にまで走った。

「あなたを愛しています」

 浚われた、と自覚した。魂ごと浚われてしまった。


 夕暮れも待たず、繋いだ手を引いてホテルへ入った。無言のままただ互いをみつめ、抱き合ってからは何度もキスをして、キスをして、キスをして、ぎこちなくひとつに重なった。

「心菜」

 終わったあと、圭介は唐突に私を呼び捨てにした。甘く湿った響きがくすぐったかった。

「なに、圭介」

 笑いながら、私も圭介を呼び捨てにした。圭介は身体を重ねる前と同じ手つきで私を腕の中に包んだ。

「もう後悔しても遅いから。俺は一生ぜったい、心菜から離れない」

 耳元で囁かれぞくりとした。年下の従順な男の子は恋人の肩書きを手に入れたときから男になった。

 それから敬語と遠慮も捨てた。嫉妬心も隠さなくなった。私を束縛する権利を得たとばかりに、たとえば、待ち合わせの場所でちょっと声を掛けてきただけの見知らぬ男にケンカを売ったり、混雑する映画館で身体がぶつかり「すみません」と会釈しあった男の前ですらこれみよがしに私の肩を抱き寄せたり、ショッピングでは男性店員と私の前に壁を作ったり、こっちの方が恥ずかしくなるくらいの『恋人アピール』をする。私は呆れて、私なんてそうそう狙われないから、と現実を教えても圭介は、まるで分かってない、という顔をした。

「心菜は自分が思ってる以上にすっごい魅力的なんだぜ。俺は男だから分かるの」

「はあ、そうですか」

 そんなこと言ってくれるのはあなただけだよ、と心の中で溜息をつきながら、女としては、やはりまんざらでもなかった。



 ふたりの間で結婚の話題が出始めると、圭介はそれまで以上に家族のことを話すようになった。

「最初は俺のほうが母さんと仲が良かったんだよ、いつのまにか親父が参戦してきて、どっちがたくさん母さんを笑わせられるか競うようになった。親父はプロポーズという手段に出た。張り合ってた俺も途中から出る幕がなくなって、必然的に家族になってくれるように、親父の援護に回るようになったんだ」

「健気ね」

「だろ。けどなかなか母さんは『うん』とは言わなかった。前の恋が母さんの中で終わらなかった」

「うそ」

 おもわずてのひらで唇を覆った。陳腐な表現しかできない自分が恨めしい。

「母さんが前の男を想い続けていることも全部承知で親父は言い続けた。『なにも心配しなくていい。俺たち親子に愛されてただ笑っていてください』って。体が痒くなるような台詞だろ? だけど本気で言い続けたんだ。どのくらい経ったかなあ、――ある日、母さんから“今日休みます”って連絡が入って、親父が『よし、行くぞ』って。俺は全然ピンときてなかったけど、親父にはわかったんだよね。母さんが前の男に会いに行くつもりだって。で、俺たちは母さんを尾行した」

「……なんだか、すごい話ね」

 圭介は肩をすくめて、これは実話です、とわざと真面目な顔を作った。

「母さんは、ちょっと離れたところからある家をずっと見てた。俺たちもその後ろから母さんをずっと見てた。結構長い時間だったと思うんだけど、そのとき親父となにを話してたのか全然覚えてないんだ。ただ不安とか恐怖とかネガティブな感情は覚えてる。母さんが前の恋人と“仲直り”したら、家にはもう来なくなるのかなとか、そうなったら母さんとは二度と会えないのかなとか」

「ごめん、切ない。……なんか泣きそうよ」

「俺も思い出すと切ない」

 圭介は笑いながら言った。

「で、ここからもっと切ないからな。――家からひとりの男が出てきた。母さんは慌てたように身を隠した。それで俺たちは、その男が母さんの忘れられない男だとわかったんだ。明るいだけが取り柄のロマンチックばかのガサツ系な親父とは違って、物静かで冷たそうでかっこいい男だった。俺は『負けた』って思ったよ。たぶん親父も思ったはず。当時の俺にはボキャブラリーはないからさ、『ドラマに出てくるイケメンの若い刑事みたい』とかなんとか、そんな感想を口にした記憶がある。親父は無言になって、何回もため息ついてたな、――あ、言わなきゃよかったって子供心に反省したよ」

「子供だもの、言っちゃうわよ」

 過ぎたことなのに圭介を庇っってまた笑われてしまう。

「だけど母さんの足、その男のほうには動かなかったんだよね。ただ男の背中を、見えなくなるまで見送って、少ししたら母さんは空をちょっと仰いだ。そして来た道を戻ったんだ。そのときの親父の顔、見とくんだったなって今でも後悔してる。たぶんどうしようもないほどほっとして、泣き笑いみたいな情けない表情をしていたはずだからさ。そしたら未来永劫、弱みを握れたよな」

 同意を求められ、私は家族の一員になったようなつもりで笑いながら頷いた。

「で、晴れて結婚したのね」

「んー、すぐにではないけどね。なんとか、結婚にこぎつけた。――親父は辛抱強いよ。けど俺もその血を引いてる。大切な人がこっちを向いてくれるまで、いつまででも待てる。待つことは平気かな」

「そっか、平気なんだ、すごいね」

 他意はなかった。けれど圭介がひとり、勘違いから慌てだした。

「……あ、心菜、もしかして俺の辛抱強さを試そうなんて考えてる?」

「さあ、どうしよう」

 ちょっとからかいたくなった。

「待って。今の撤回。待つことは平気じゃない! 今それやられたら折れる!」

「やってみなきゃわからないよね?」

「心菜~」


 私たちはなんでもない会話の途中でじゃれ合う。圭介は人前でもどこでも、想いを持て余したって顔ですぐに抱き寄せようとするから、その腕を解こうとする私とは動物園の小さな兄弟ライオンみたいな動きになる。

「もう、ほら、みんな見てるからやめてってば」

「別にいい。みんな他人だし」

「知り合いがいるかも」

「いたらなんなの」

「あ。お父さんが!」

「えっ、どこ?」

 最後には反則技を使って逃げるしかない。『お父さん』の威力にはさすがの圭介も手を離すからだ。その隙に私は体勢を立て直す。何度騙されても反射的にびくっとする圭介が数秒後にまたやられた、と気付いてももう遅い。そんなときの、餌を前に「待て」と言われた犬みたいに切ない表情をする圭介が、私はとても好きだ。








   【第二章おわり】

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