てのひらが教えてくれたこと
知り合ってすぐ、圭介の家庭環境を知った。――――俺、途中まで父子家庭だったんですよ。
圭介に告白されたのは爽やかな晴天が続いていた週末だった。
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「心菜さん、今度の日曜日に公園行きませんか」
まだ正式に付き合う前、圭介は私を「心菜さん」と呼んでいた。私も彼を「圭介くん」と呼んでいた。
駅で待ち合わせて、電車に乗って岬にある公園へ向かった。芝生のスペースでフリスビーやバトミントンを楽しむカップルや親子連れ、遊歩道で犬を散歩させている人、たくさんの人が初夏の心地良い陽気の中、寝転がったり駆け回ったりと思い思いに過ごしていた。私たちは緩やかな傾斜のついた芝生をゆっくりと上っていった。遊具がある広場を左に、木製のテーブルセットが備え付けられたピクニックスペースを右に、他愛のないおしゃべりをしながら高台を目指す。ゆったりと流れる時間の中、初めて手を繋いだ。遮るもののない空は薄い絵の具を塗ったように優しい水色で、雲はなく心地良い風が吹いている。こんなに長閑な休日はひさしぶりだった。ちょっと厚めの大きなてのひらが圭介らしい温かさで私の手を包み込んでいる。初めてなのに、懐かしい。それで分かった。彼は特別なのだと。男と女の相性は肌を重ねたら分かると言うけれど、肌はセックスだけのことじゃない。てのひらだけで十分だ。
空いているベンチに座り弁当を広げた。私が用意したそれを圭介は残さず食べた。美味しい、美味しい、そればかりを繰り返して、もういいってばと苦笑するくらい、蓋にくっついたサラダの残りまで食べた。
「心菜さんが俺のために作ってきてくれて……、ほんと感激でした。でもそれで心菜さんに無理させたなら申し訳なくて……ほんとすみません」
「大袈裟。言ったでしょう、私はお料理を作ることが苦じゃないって。昔からやってるから、このくらいは全然大変じゃないし」
食べ終えた容器を重ねながら言う。本当はもちろん、父と弟に作る料理の三倍は手が掛かっていたけれど、楽屋裏まで披露する必要はない。
「すみません。じゃあ、あの……」
「ん?」
「またお願いしても、いいですか」
恐縮しながら要求するちぐはぐさが可笑しくて私は声を立てて笑った。陽射しが眩しくて、それに負けないくらい眩しげに私を見る圭介の眼差しが照れくさくて、調子に乗らないの、と呆れてみせても心はじんわり、そわそわした。
「心菜さんの得意料理ってなんですか?」
圭介が身を乗り出す。
「そうだなあ。弟が好きなものが必然的に得意料理といえばそうなのかなあ。ハンバーグとか揚げ物とか麻婆豆腐とか、ご飯がすすむ系」
「弟くん、羨ましい」
「でも本人はデリバリーやファミレスの方が間違いなく好きよ。大学生になってようやく私のごはんから解放されたって喜んでる。そうそう、地方出身のカノジョが出来てね、今はカノジョのアパートに入り浸ってて家にもあまり帰ってこないの。今頃は念願のジャンクフード三昧なんじゃないかな」
「心菜さん、弟くんに会わせてください」
「え」
黙って聞いていた圭介が突然拳を振った。
「俺、説教します。自分がどんなに恵まれているか、言ってやらなきゃ分からないんですよ。だって心菜さん、弟くんのために青春を犠牲にしてきたんですよね? それを当たり前だと思ってるならそれは間違いだって、俺がガツンと言ってやります」
「まあまあ、落ち着いて」
興奮する圭介をなぜか宥める羽目になった。
「気づいてないんですよ、心菜さんの存在の大きさに。心菜さんがいなかったら弟くんの今はないはずですよ。大袈裟じゃなく、俺は自分が男だから分かるんです」
唇を噛みしめた圭介を控えめに窺った。
「俺が父子家庭だったことは言いましたよね」
「うん」
風になびいた髪をてのひらで押さえながら続きを促す。
「新しい母さんが来るまで俺と親父の食事はカップ麺や菓子パンやクッキーやコンビニの弁当でした」
「……!」
思わず、絶句した。
「前の母親が家を出ていったのは、ばあちゃんが死んで少し経ってからでした。ばあちゃんと仲が悪かった母親は、俺と親父がいつまでもばあちゃんの死を悲しんでいるのが気に入らないって言ってましたが、まあ、それは口実で理由が他にあることは子供心にもわかってました。家の中で両親はほとんど喋らなくなってたし、俺の記憶にも母親が笑っている顔がないし。親父が母親を引き止めなかったことや、母親が知らない男の車に乗っていったことなんかから『大人の事情』ってやつを感じ取ってました」
「お母さんとはその後、連絡は?」
「一度だけ、会いに行ったというか、見に行った、ことはあります。もう別の家庭をもって子供もふたりいて幸せに暮らしてました」
圭介は淡々と言って、私を気遣うように笑顔を向けた。
「とにかく母親は出ていって、古くて広い家には俺と親父だけになりました。俺たちは途方に暮れました。親父は家事がまるっきりできないし、おまけに仕事も半端じゃなく忙しくて俺もまだ子供で自分に何が出来るのか見当もつかなくて、洗濯物はどんどんたまっていくし着る服はなくなるし、水を飲みたくても台所のシンクはコップやカップ麺の容器でいっぱいだし、ペットボトルはゴミ袋から溢れて廊下も占領していって、家じゅうどこもひどい状態で。だから、部屋の掃除がしてあって洗濯した衣類が箪笥の中に入ってて、時間になればテーブルにご飯が並んでるなんてすごいことなんですよ。あたりまえのことじゃないんです。洗濯カゴの中から汚れた服を取り出してまた身につける経験なんか、弟くんにはないはずですよ」
圭介が体験した幼少時代を頭の隅で想像した。
「そういうことは長く続いたの?」
「子供心にはすごく長かった気がするんですけど、実際には四ヶ月ぐらいだったみたいです。親父の異変に気づいた職場の人が、知り合いに失業中の女の人がいるからって紹介してくれて、その人が急場しのぎに俺たちの世話をしてくれることになったんです。家事は得意じゃないからお金はいらないって、手伝うのは、ちゃんとした家政婦を雇うまでの間だけって約束で。でも、それから……」
「もしかしてその人が?」
「今の母親です」
圭介は嬉しそうに頷いた。もう随分経っているはずなのにはにかんで頭を掻いている。
「自己申告の通り、その人は本当に家事が苦手でした。だけど明るくて。……いや、最初から明るかったわけじゃないです。来たばかりの頃はあまり笑わなかったから。なにかに傷ついていて、可哀想だった、です」
最後だけ早口で言って、圭介は話題を戻した。
「とにかく! 俺が弟くんに言ってやります。心菜さんをもっと敬えって。心菜さんがお姉さんだってことに感謝しまくれって。じゃないとぶっとばす……っていうのはえっと」
物騒な言い回しに自分で気づき、圭介は慌てて言い直した。
「じゃないと後悔するぞって」
「ありがとう」
くすくす笑いながら礼を言った。
「圭介くんが弟だったらよかったな。すっごく大事にしてもらえたんだろうなあ。反抗期の苦しみも味わわなくて済んだかも」
――アネキは母親じゃねぇだろ。ただのアネキだ。
中学生になると弟の生活態度が乱れた。きつく叱ったとき、声変わりを終えた弟は吐き捨てるように言った。あの頃は私もまだ張り合っていた。泣き虫だった頃の弟の残像があるから負ける気はしなかった。
「母親じゃなかったらなんなの? いまさらお母さんが欲しいとか言っちゃうわけ?」
ちょっと馬鹿にして鼻で笑ってやった。でも弟は真顔を向けてきた。
「欲しかったね。アネキみたいにヒステリーじゃない大人で優しくて美人の母親が」
「!」
若葉さんのことだと直感した。弟は無意識に「欲しい」ではなく「欲しかった」と言った。若葉さんを忘れていない証拠だった。
「とにかくうぜぇんだよ」
捨て台詞で去っていった弟を引き止めることもできず、私はその場に崩れ落ちた。
あのとき、汚い手を使って若葉さんを追い出したりしなければ、弟はもっと良い子になっていたんじゃないだろうか。こんな乱暴な言葉を使ったり、または無視したり、親の仇のように私を睨みつけ背を向けることはなかったのではないか。考え始めるとどんどん落ち込んでいった。
それからの弟は私の許可を得たとでもいうように反抗期を激しくさせた。そして私は罪悪感から弟の悪態に見て見ぬふりをした。
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