告白

 

 圭介にだけはなぜか、打ち明けることができた。

 これまで誰にも話したことがない私に付きまとう、それを。

 


   +


 ――――私ね、子供の頃に読んだ絵本のことが忘れられないの


「絵本?」

 ふたりで公園を歩いていた。夏が終わって、穏やかな季節になった頃だった。

「神様が、誕生するのを嫌がる赤ちゃんにこの先に起こる『サイアク』な出来事の数を教えてあげるって話」

「うん」

 覚えている限りの内容を、真面目な顔つきの圭介に教えた。


 それは、生暖かい胎内にいる赤ちゃんを神様がみつめているシーンから始まる。

 赤ちゃんは外の世界には興味がなく、大きなお腹をさすり汗まみれで苦しんでいるお母さんにも知らんぷりで毎日うとうとしている。楽しい夢を見てときどき寝言を言ったりくすくす笑ったり、目を覚ましてからは運動のため手足をばたばたさせる。白いヒゲを蓄えたおじいさんの神様は業を煮やし話しかける。「そんなに元気なら早く出ていったらどうだ」赤ちゃんは答える。「やだよ。だって外の世界はつらいことがたくさんあるって聞いたもん」「そんなことはないぞ、楽しいこともいっぱいあるぞ」「でも苦しいことや悲しいこともあるんでしょう。だったらいやだよ」身体を丸め、赤ちゃんはまたまどろみの中に戻ってしまう。神様は困り果て教えるのだ。『サイアク』な出来事は四回でそれ以上はやってこない。だから安心しなさい」赤ちゃんはようやく反応する。「ほんとう?」「ああ、ほんとうだ。それ以外はワクワクすること、楽しいことがいっぱい待っているぞ」赤ちゃんは疑って聞く。「嘘じゃないよね?」「嘘なものか。わしは神様じゃぞ」「うーん」まだ動こうとしない赤ちゃんに神様は言う。「外の世界はびっくりするくらい広いのだ。行ってみたいと思わないか」「どこへ行けるの?」「おまえが望むなら世界中のどんな場所へも行ける」赤ちゃんの目が輝く。「それから?」赤ちゃんの問いかけに神様はどんどん答えていく。夢中になって遊ぶだろうおもちゃや遊園地のこと。可愛い動物たちのこと。美味しい食べ物やきれいな音楽のこと。これから出会えるたくさんの友達のこと。「あとは?」ワクワクする赤ちゃんに神様は宝物を広げるように言う。「おまえをとっても愛してくれるお父さんとお母さんに会える」それを聞き、赤ちゃんは決心して反転する。神様は小さな光を指して言う。「あの光の向こうにはたくさんの希望や夢が待っている――」


 圭介はじっと耳を傾けている。

「それがラスト?」

 私は、ううん、と首を振る。

「ページを捲った感覚は残ってるけどその先が思い出せない」

 読んだ場所はどこだったのだろう……、床暖房が入っていたから寒い季節だったはずだ。足の裏が不快でハイソックスを脱ぎたくてたまらなかった。そんなことだけは覚えていて、大人になった今も『サイアク』を投下される直前、この絵本が頭の中でパラパラと捲られて足元がむず痒くなる。

「この絵本が伝えたいことはともかく、私は子供心に、自分の人生にも四回の『サイアク』が起きるのかと恐ろしくて震えたわ。でもね、四回目の『サイアク』を乗り切ったとき正直、ホッとしたの。もう安心だって。もう『サイアク』は起きないんだって。でも現実には私の『サイアク』は更新を続けてて。やっぱり、あの絵本には続きがあるんだって思った。四回というのはあくまで基本の数で、実は『サイアク』には上限がなくて、悪いことをしたらその都度加算されていく、だから十分気をつけて生きていきなさい――みたいなね」

 夢中で話し終えたら急に恥ずかしくなって、最後は軽快に閉じた。子供じみていると笑われる気がした。けれど圭介は眉根を寄せたまま、静かに言ったのだ。

「それ、トラウマになってるんじゃない?」

 私は一瞬ぽかんとして、それから自分自身に向けるように、聞き返した。

「子供の頃に読んだ、ただの絵本だよ?」

「でも、そういうこともあるんじゃないかな。凄惨な事件に巻き込まれたとか、被害者家族になってしまってとか、そういう大きなことだけがトラウマになるわけじゃないと思う。たとえば――、とにかくさ」

 私を励ますためか、圭介は雑談のようなものを避け、結論を急ぐように続けた。

「大丈夫。はもうやってこないよ。だって、これからは心菜のそばには俺がいる」





    +


「――――ココ?」

 私を覗き込む心配そうな顔をぼんやり眺める。

「どうした、浮気でもされたか?」

 道哉の問いかけに、まさか、と答える。

「じゃあ嘘でもつかれたか?」

 ……嘘の方がマシだった。「親が反対したんだと思う」

 膝の間に顔を埋めて言った。

「なんだそれ。ココのなにが気に入らないっつうの?」

 自分のことでもないのに憤ってくれる親友に少しだけ、救われる。

「私、うまくできなかったから」

「なにを?」

「会話とか」

 あの日の態度を思い返す。石膏で固めたみたいに動かなくなった私の頬も。

「初めての経験なら緊張するのはしょうがないって」

 私は強く、左右に首を振る。

「そんなことで結婚がダメになるなら駆け落ちしちまえよ」

「そんな勇気、圭介にはないよ」

 私はそれでもいいと思っていた。だけど圭介は私よりも親を選んだ。ずっと私だけを優先してくれていたのに、最後の最後に手を離された。


「――中学生の頃、お父さんに恋人ができたときのこと覚えてる?」

 道哉は知らない。私がした残酷なことをなにも。だから私を擁護できるのだ。

「ああ、いたよな、確か……」

「若葉さん」

 一息に言った。この名を心の外に出したのはあの日以来だった。私だけじゃなく、若葉さんが去ってから家族はその名を二度と口にしなくなった。

 道哉は記憶を辿るように目を細めた。

「若葉さんはある日突然やってきた。そしてあっという間に、最初から家族だったみたいな顔をして家の真ん中にいたの。お父さんも弟も若葉さんが笑ったり喋ったりしてるのが嬉しくてしかたがなくて、自分たちの何が若葉さんに気に入られるか、それを知ろうといつも若葉さんの表情ばかり追ってた。家の中心は若葉さんだった」

「イヤなやつだったんだろ」

 私はあの頃、道哉にも友達にも若葉さんを会わせなかし、若葉さんの悪口を言い触らした。そうしなければ自分のやっている卑怯な行為に押し潰されそうだったから。

「若葉さんってね、よく笑うしよく喋るしめげないしね、一生懸命なの。顔だけじゃなくて、性格もイライラするくらいカワイイ人」

 道哉が窺うように私を見たのは、私の口調が変化したせいだ。隠しても滲んでくる後悔の念が重いから、気づくのは容易なんだと思う。

「あの頃の私がもっと大人だったら、私はお父さんと若葉さんを祝福してあげられたのかな。お父さんがお母さんを忘れてしまうことを許してあげられたのかな」

 自分がしたひどいことを誰にも打ち明けずに今日まできた。記憶から追い出してしまおうと、努めた。

「ふたりの幸せを壊した私を神様はちゃんと見てるんだね。私にも同じ想いをしなさいって、結婚したいと思うくらい大好きな相手と結ばれないってことがどれほど苦しいことか、味わってみなさいって」

「ココ、もういい」

 溢れて止まらない涙は懺悔をしても罪を洗い流さない。

「わかったから」

 道哉の角ばった指が私の頭を撫でた。恋人を解消してから道哉は私の髪や肩に触れなくなった。一線を引く彼が主義を曲げている。今、私はどんな顔をしているのだろう。


「その人なんだ」

 歯を喰いしばって顔を上げた。

「圭介のお継母さん、若葉さんなんだ」



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