お祝いワイン
「ラスクみっけ。俺、このメーカーの好き」
道哉の視線を辿ってキッチンカウンターに手を伸ばす。
「どこかのお土産みたい。お父さんが会社で貰ってきたのよ」
カゴごと手渡しながら、現実と思考が混乱していることに戸惑う。――楽だからな
自分の心が発した声か道哉のそれか分からなくなった。うやむやのまま、ビールとつまみを手にテレビがある和室へ移動した。
「それよりおまえのカレシってどういうやつ?」
「圭介のこと?」
「圭介っていうのか」
反射的に口にしてしまったが、後悔している間もなかった。
「おじさんは知ってんの?」
「一応は知ってる。ここに来たこと、あるから」
「なんだよ、知らないの俺だけかよ」
またむくれる道哉は、じゃあ俺のことも伝えてねえんだな、と意味深な目を向けてきた。
「言ってないけど……、でも圭介が、過去の恋愛はどうでもいいって言うから、言わなかっただけ。聞かれたら隠さなかったよ」
言い訳のような口調になってしまったけれど、圭介にそう言われたのは事実だ。
――過去があって今の心菜がいる、だから元カレのことは気にしないし聞かなくてもいい。
「カノジョの昔の恋愛が気にならないってよっぽど遊び人なんじゃねえの?」
「そうじゃなくてっ、ずっと男子校で部活を一生懸命やってた子なの、女の子とも一対一よりグループ交際が多かったみたいで」
つい、擁護するみたいにムキになってしまった。
――俺、部活ばっかりしてたから。
圭介は言った。水泳と彼女とを天秤に掛けたら圧倒的に水泳のほうが楽しかったのだと。
――それに同級生の女子ってなんか子供っぽくて、恋愛対象にならなかった。
それって女の子が言う台詞じゃない?
私は、くすりと笑ってからかったのだ。
「今、“子”って言わなかったか? まかさ、年下?」
道哉の驚いた声に、現実に引き戻された。
「うそだろ。ココが年下と? まったく想像できねえ」
道哉は興味津々でテーブルの向こうから身を乗り出してきた。
「どんなヤツなんだよ」
「どんなって……、どんな……、まあ、ひとことで言ったら私みたいに捻じれてない、かな」
手短に答えようと思ったのに、口に出したら私の中に圭介が溢れてきた。
「子供っぽいのに、芯があって、しっかりしてて、きちんと他人と向き合える人。――誰かを故意に傷つけたり策略を巡らせたり人の想いを踏みにじったり、そういうことはたぶん、生まれから一度もしたことがない、そういう人」
「ふーん。で、結婚がダメになった理由は?」
道哉はビールを飲み干し、温め直した肉じゃがをつまみながら聞いてきた。
「ねえ、次ワインにしよ」
話題を変えるために立ち上がった。
「貰ったスパークリングワインがあるんだけどひとりじゃ飲みきれないし、あまったら捨てるしかないからもったいなくて開けられなかったんだよね。冷蔵庫に入れっぱなしっていうのもそろそろやばいかなって」
野菜室からワインを、棚からグラスを取って戻りコルクスクリューと共に渡す。
「開けて、開けて」
普段ワインを飲まない道哉は渋い顔で受け取って、これどうやって外すんだよ、と悩みつつも右手で栓を押さえ巻きつけてある針金を左手で外した。格闘する道哉を眺めながら、圭介を思う。本当は貰い物の安いワインなんかじゃない。結婚がきちんと決まったらふたりで飲もうと買っておいたとっておきだ。すぽん、と軽快な音が立った。
「注いで」
道哉を急かした。爽やかに跳ねる発泡の粒を見る。甘草の香りが控えめな樽香とともにやってくる。グラスに顔を寄せて黄金色の液体が注がれるのを待った。テイスティングの真似事をして道哉がひとくち飲んだ。
「お。結構イケるじゃん。もっと甘ったるいかと思ったら意外とすっきり」
「でしょ」
軽く返した声は、まるで私の声じゃないみたいに遠くに聞こえた。
「ねえ、道哉。世の中にはさ、するっと幸せになる人がたくさんいるよね」
唐突に無関係なことを話し始めた私に、道哉が不思議そうにしている。構わずに、頭の中で暴れだす何かを逃がすように、話し続ける。
「小さなトラブルはあるのかもしれないけど、どうにもならないような、そんな悲劇には見舞われなくて、ちゃんと選ばれたり、ゴールに辿り着けたりする。一方、華やかなことも大それたことも望んでなくて、平凡でいい、こっそりでいい、静かにただ、小さな幸せを携えて生きていければいいって願ってるのに、どうにもならない……最悪な結末しか渡されない人もいて。それは神様が、」
頭が異様に重たくなって、意識して背筋を伸ばした。
「神様が、操作しているって思わない? おまえはまだまだ許されないぞって。おまえだけは幸せにはしないぞって。神様はすごく――、私には冷たくて、だから私が幸せに手を出すと、頃合いを見計らって『サイアク』を投下するんだ。もうそれ、ずっとなのかなあ。ずっと永遠に続くのかなあ」
「ココ、大丈夫か?」
私は頬で、笑ってみせた。道哉にではない。あの“絵本”を子供の頃、偶然という名目で私に読ませた神様にだ。
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