元カレの恋愛事情


 家の中には朝食に焼いた魚のにおいがまだ残っていた。会社帰りに圭介と会う約束をしている朝は普段の日より慌しい。服装や持ち物に気を取られて台所仕事がやや手抜きになってしまうから。


 窓を開け放って空気を入れ替えた。道哉に手伝ってもらい冷蔵庫から酒の肴になりそうなものを出してもらう。昨日の夕食に作った明太子のポテトサラダとひじきの煮物、肉じゃが。ついでに冷えた缶ビールも二本取る。

「そういえばこの前持ってきた珍味セット、あれは?」

 道哉の両親が半年ほど前に北海道へ行った。珍味セットはそのときの土産だった。

「いつのはなしよ。とっくの昔にないって」

 何ヶ月も前のことを数日前の出来事みたいに口にされて小さく笑った。相変わらず私たちには時間の感覚というものがない。数ヶ月会わずにいても十日程度にしか思えなかったり、何年も前の思い出をすぐに取り出せたり。私に同性の友人がいなくても寂しくなかったのは間違いなく道哉のおかげだ。


「道哉はまだ結婚しないの?」

「ああ?」

 ウィッグを外し、荷物の中からハーフパンツとTシャツを取り出して着替えた道哉と、私も並んでメイクを落とす。

「つきあって結構経つよね」

 タオルで顔を拭いて素顔のお互いをみつめた。道哉は男に戻り、私は私のまま冴えない表情をさらしている。

「まみちゃんって言ったっけ」

 私と別れた後、報告を受けただけでも両手の数ほど彼女を作った。女装のことを隠さなかったから、それが理由で終わった恋もあったらしい。道哉に、どうして女装を続けるのかを聞いたことがあった。道哉は言った。

 ――おまえと長くつきあってて、こういう格好したら可愛いのになとか、こういう表情したらぐっとくるのになとか、いろいろ思うところがあって、まあ、それを自分でやってみたらすげえ楽しかったわけ。

 それを聞いた私が複雑な心境だったことを道哉は知らないだろう。


「まみちゃんは道哉が可愛いと思うことを全部表現できる子なんでしょ」

 ――やっぱさ、あれが本物の女だって思うわけ。俺みたいに作って女やってるわけじゃなくて、滲み出てくるっつうの、可愛さが。こう、見てると胸がきゅ、ってなるんだよな。

 「俺より可愛い子みつけた」と自慢しに来たのはいつだったか。それからは彼女一筋、他の女には目もくれなくなった。

「そろそろ進展あってもいい頃でしょ」

 過去に一度だけ会ったことのある彼女は、女の私から見ても確かに可愛い子だった。借りていた本を返すために道哉の部屋へ行ったときが初対面にして最後になったけれど、あのときの柔らかい印象は今も覚えている。人見知りな私に一生懸命話しかけてくれて、自分の分のプリンを差し出してくれた。


「彼女と洋服買いに行ったりメイクの勉強会開いたり、今でも仲良くやってんでしょ」

「そんな時代もあったなあ」

「今はしてないの?」

「してない。別れたから」

「なんで?」

「まみの家族にバレたから」

「バレたって、あんたの女装が?」

「そ。あいつの部屋で着せ替えごっこしてたら、兄ちゃんが来た。居留守使ってやり過ごそうとしたら合鍵で入ってきやがった。ひとり暮らしってことで油断した」

 道哉が語った修羅場が私の瞼の裏でも再現された。

 最初は、インターフォン壊れてるのかな、鳴らしたんだけど……、と勝手に足を踏み入れた言い訳をしながら遠慮気味だったまみちゃんのお兄さんが、やがて道哉が男であることに気づき、と同時に身につけているスカートとメイクにぎょっとし、道哉が低い声で「はじめまして、まみさんとつきあってます」と大真面目に挨拶をしたあたりには、違和感が嫌悪感に変わり混乱状態になったことは想像に難くない。取り乱すお兄さんをまみちゃんは必死になって宥めただろう。


「本人同士が好きなら、周りのことは関係ないんじゃない?」

 言いながら、胸のあたりが狭くなった気がしてそっと手を添える。

「無理だな。俺、ものすっごく嫌われてるし。変態呼ばわりだし」

「だけどまみちゃんの気持ちは変わらないんでしょう?」

 私の質問には答えず、道哉はぞんざいに言った。

「家族に反対されるような男とじゃ、まみは幸せになれない」

「まみちゃんがあんたより家族を取ったっていうの?」

「迷って当然だろ、まみは悪くないって。結婚はふたりだけの問題じゃないからな」

「……そんなのって」

 圭介のことを考えずにはいられなかった。圭介も、最後の最後で恋人より親を選んだ。

「だからさ、俺おまえのことダシに使ったから」

「は?」

「元カノが忘れられないから別れるって言ったわけ。やっぱりおまえとの歴史に敵う女はいないって」

「ばかばかしい。そんな嘘、信じると思うの?」

「ま。こっちはとにかく終わったことだ」

 眉間を寄せた私に道哉は「さ、飲もう飲もう」と話題を切った。使い終わったタオルを洗濯カゴに放り込み、鼻歌でも歌いだしそうな軽い口調でリビングへと戻っていく。その強がりな背中が私自身と重なった。やせ我慢をしても相手の幸せを願う、それは自分で思うほど格好良くはない。


「ねえ、私たち、より戻そうか」

 おもいつきで言った。奇しくも同じ境遇の元恋人同士。幼なじみで親友。互いの性格も過去も知っている。道哉が女装していようと私なら親に反対される心配はない。だいいち、

「楽だからな」

「え?」

 早口の小声はさらりと流れていった。

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