現在
♰
重い足取りで家路へ向かう途中、コンビニの店内に元カレの姿をみつけた。
慌てて踵を返し、手前の曲がり角まで戻り時をやり過ごした。今は誰とも話したくなかった。
大学生になった最初の夏だった。もうやめようか、というニュアンスの言葉を彼が使い、それもそうだね、と私が頷いた。そもそも正式につき合い始めた境目が私たちにはわからない。
“恋人”の肩書を取り払った喪失感は不思議となかった。それどころか体の中を青嵐が通り抜けたような、自分でも戸惑うほどの清々しさを感じた。休みの日を別々に過ごしても罪悪感がなかったことも、誕生日やクリスマスのプレゼントを『おあいこ』だからと廃止したことも、甘ったるい言葉をかけ合わないまま月日を重ねたことも、私たちにとってはノンストレスだったこと。私たちは最初から親友だったのかもしれない。そうじゃなければ寄ってくる女たちとしょっちゅう遊びに行く彼を放っておけるはずがない。
少し時間を置き、足を踏み出した。
コンビニの店内を横目で覗き元カレの姿がないことを確認して肩の力を抜いた。そうしたまた、俯いて歩く。けれどふたつめの角を曲がったところで見慣れたハイヒールの足元に顔を上げることになった。膝丈の白いスカートがふわりと揺れて近づいてきた。
「おかえり」
ハスキーな声の主は幼なじみの元カレ、道哉みちやだ。
横に並ぶ肩のラインはほぼ変わらない。男としては小柄な体型が女の格好をすると活きるのをいつも複雑な気持ちで眺めてきた。
道哉は、会社には内緒でモデルのアルバイトをしている。
道哉が女装をするようになったのは私と別れた数カ月後だ。街を歩いていてテレビ局のスタッフから声を掛けられた。女性の中に女装させた男性を紛れこませて出演者に正解を当てさせる、というバラエティ番組だった。番組内で道哉は最後まで男だと気づかれなかった。それがきっかけとなり芸能事務所に籍を置くことになった。
最初の仕事が入ったとき、道哉は女装した姿で私の前に立った。
「その辺の女より可愛いだろ」
当然「その辺の女」には私のことも含まれている。
+
「俺のこと避けたよな、さっき」
付け睫毛の大きな目が私を見る。
「……避けてないけど」
「なんかあったのか」
いつも私の精神状態を見抜く幼なじみが忌々しい。
「今のココ、すげえブス顔になってるぜ」
私より数倍可愛い元カレに言われると、赤の他人に言われるより救われない気持ちになる。
「また振られたとか?」
「!」
古傷を抉るのは親しみの裏返しだ。分かってはいても今このタイミングでは残酷だった。
無言のまま歩幅を広げた。なのにヒールの足でもぴたりと付いてくる。
「マジで振られたの? 好きな男いたの? 俺、聞いてないけど」
私たちは外灯の少ない住宅街を歩いている。
「なあってば」
「うるさいなあ」
「俺様に話してみろって」
ウィッグの髪をかき上げ、片目をつぶって言う。
「恋愛相談ならまかせろよ。どんな男だ、タイプを教えろよ」
「……いいって」
「ココのことだ、どうせ我慢ばっかりしてんだろ。自分の気持ち素直に出せてんのか?」
「……」
「遠慮すんなよ、俺たちの仲だろ。ほら、言ってみろ。なんなら俺、間に入ってやるぜ」
「だから、もういいの。結婚がだめになった。それだけ」
面倒になって言い捨てた。この調子で絡まり続けるだろう元カレを黙らせる方法は、真実を伝える以外にない。長いつきあいは意外と厄介だ。
「は」
よっぽど驚いたのか、道哉は足を止めた。
「俺、なにも聞いてないけど? どういうこと?」
仕方なく私も立ち止まる。「終わった話なんだからもういいでしょ」
「いやいやいや、違うだろ。付き合ってる男がいたことも知らなかったし」
両手を腰に当て膝をだらしなく開いて片足を投げ出す。こんなときは素の男に戻るのだ。再び歩きだしたがガサツな足元は戻らない。可愛い洋服とメイクが台無しだが、触れないことにした。
「つうか結婚まで話が進んでたってこと、今までよく隠してたな」
「……」
「どんくらいつきあってたの? どういう男?」
「……言ってもしょうがないじゃん、もう終わったんだよ」
「そういう問題じゃねえじゃん」
「……そうかなあ」
道哉の声色にだんだんと溜息が混じってきた。
私たちは少し、黙って歩く。
「――なあ、まさかまたダメになったときに俺に同情されたくないとか、そういうことか?」
「!」
口に出されて、一瞬で私自身が納得した。
――そうか、そういうことか……
「それで隠してたって……、ばかだなあ、おまえ」
「……」
私の体内には突き刺さったままの剣がある。引き抜くことは許されず、忘れることもできない。この剣がある限り、幸せは、私を絶対に選ばない。そんなことずっと前から知っていたのに。
「飲むか」
正直、気は進まなかった。アルコールぐらいで、圭介を失った喪失感を埋められるとは思えなかった。けれど道哉は自宅マンションを素通りし私の家へ歩いていく。私はただ、付いていくしかなかった。
+
家に灯りはなかった。
門扉から二段上がったアプローチで外灯を頼りにバッグの中から家の鍵を探す。
昔、この辺り一帯には地元では有名な家具屋が建っていたらしい。多額の負債を抱えて倒産したあと住宅用に区画整理され売り出された。今は亡き祖父母はその一角をひとり娘の母のために購入した。父との結婚の条件がこの土地に家を建てて住むことだったと聞いている。父は母の実家が結婚生活に関わってくることに寛容だった。というよりも父は物事に固執しない。現状を受け入れる。葛藤はあるのかもしれないけれどそれを家族に見せることはなかった。だから想像がつく。若葉さんと別れたときも、父は目の前にやってきた結論に逆らわなかったはずだ。家に入れるとき、一緒に暮らしちゃえばなんとかなる、と楽天的な若葉さんのひとことをそのまま実践したように。父は、開けっ放しのドアを静かに閉めるくらいの何気ない感じで決定権を委ねる。そのDNAは間違いなく娘の私にも受け継がれている。
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