記憶の断片3
その日の午後をどう乗り切ったのか思い出せなかった。
いつも通りに仕事はした。定時で退社し、今は駅までの慣れた道を歩いている。歩いているはずだった。なのに気が付けば私は灰色のシートに座って電車に揺られていた。バッグからいつ定期券を取り出したか、どうやってホームへの階段を上がったのか、まるで実感が伴わない。
無意識に喉元を摩った。鼠色のワイヤー球がそこにあるみたいだった。ふいに、瞼の裏に十四才の私が現れて消え、また現れた。電車の振動と走行音に紛れて呟く。なんて最悪な結末……。
「――ほらね、やっぱり」
!
私はびくっと肩をあげ、周囲を見回した。今、はっきりと聞こえた。けれど私に関心を向けている乗客はいなかった。
――ほらね、やっぱり
これが空耳だとしたらそれは、私の体の奥深い場所から這い出てきた声なのかもしれない、と思った。十四才の私が振りかざした狡く、醜い正義感が招いた結末を#みんな__・・・__#覚えている。私だってそうだ。忘れることなんて、永久にできない。
♰
大人に絶望した十四才の私は、目的のために心を偽ることを選んだ。
「若葉さん、いろいろごめんね、今まで」
したくもない謝罪をし、言いたくもないお世辞を言い、笑顔を作った。
「これからは若葉さんと仲良くなれるように私も頑張るから」
嘘だらけの言葉を伝えると、若葉さんは泣いて喜んだ。私の手を取って揺すり、しまいには抱きしめて言った。ありがとう、私もいっぱい頑張るからね。ぜったいココちゃんを幸せにする。細く長い髪から薔薇のようないい匂いがした。
その日から私たちは表面上、母娘というよりも仲の良い姉妹のような関係を築いた。敵を知るため、若葉さんに接近して様々なことを聞き出してはバレないように少しずつ足を引っ張った。
「――わ。お父さんと私のシャツが……」
大袈裟にならないように注意して嘆いた。
「ん?」
キッチンから父が顔を覗かせた。
「これ」
私はシャツを掲げて見せた。
若葉さんの仕事には遅番と早番があって、時間のない日は洗濯物を乾燥機にかけて出掛ける。衣類を畳むのは私の役目になっていた。
「若葉さん、よく見ないで全部一緒にして洗っちゃったんだね」
溜息をつきながら言う。色移りして緑に染まった元は白いシャツに父は確かに、またか、という顔をした。色落ち注意と手洗い表示の衣服を私が洗濯機の中に入れたのが原因だったけれど、もちろんほんとうのことは言わない。
家事が苦手な若葉さんはたくさんのミスをした。そのほとんどは私がちょっと手を加えたものだったけれど誰もそのことに気づかなかった。
「あ、ゼッケンも取れてる」
弟の運動着を洗濯物の中から選んで取り父に見せた。数日前、弟の連絡帳にこんなことが書かれてあった。
『最近、持ち物のほころびが目立つようです。お忙しいでしょうが取れていれば縫い直してあげてください。それから忘れ物も多いので注意してください』
裁縫は祖母の担当だった。名前入りのバッグや巾着やエプロンを孫のためにたくさん作ってくれた。当然、ゼッケンもだ。真っ直ぐに均一によれることなく付けてくれるから新品の運動着をおろすまで一度も緩まない。若葉さんが縫うゼッケンは曲がっていて縫い目が粗い。だからどこか一箇所にハサミを入れるだけで動いている間にどんどんほつれてくれる。
「私もなんか手伝う」
畳んだ洗濯物を所定の引き出しにしまい、作業をする父の隣に立った。
「ココは宿題やっちゃいなさい」
「ご飯作りの当番、若葉さんと変わるよ。だって若葉さん、お料理ダメだし」
私はわざと遠慮気味に言った。
必要に迫られて覚えたとはいえ、父は案外料理が上手でイタリアンや中華を中心に子供が好きなメニューをどんどん覚えていった。それを手伝っていた私もそこそこ作れるのだった。
「若葉さんは後片付けの係でいいんじゃないかな、私と交代で」
若葉さんは料理が苦手だ。それなのに自分が作ると言ってきかない。料理本を睨みながら鍋をふるい、時々叫んだり情けない声を出したりしてなんとか仕上げる。そうやって食卓に並んだものは見本の写真とは似ても似つかない。しかも作り終えたあとのキッチンは洗い物や調味料、冷蔵庫から出した食材でいっぱいになって後片付けの方が大変なのだ。
数週間前のこと。
私は放課後を前に保健室に担ぎ込まれた。若葉さんが作った弁当に腐ったおかずが混じっていたせいだ。自分で仕込んだそれを口の中に放り込むときはさすがに勇気がいったけれど、家族を取り戻すためには仕方がなかった。私は脂汗と腹痛で苦しみもがき、迎えを呼んだ祖父と病院へ行った。祖父に連絡をしたのは計算だった。私たちの新しい生活を静観してきた祖父母は今までの不満も手伝い若葉さんを激しく詰った。孫を殺す気ですか、あなたは。その言葉に若葉さんはさすがに青褪めた。父も一緒に叱られた。父はもう一度だけチャンスをください、と頭を下げた。若葉さんは数日しゅんとしていた。
「若葉さん、一緒にカレー作ろうよ」
私は励まし役に回った。
「お母さんのレシピを教えてあげる」
「ありがとう、ココちゃん」
肩を落としてソファに座り込んでいた若菜さんは涙を拭って立ち上がった。若葉さんが買ってきたお揃いのエプロンをしてキッチンに並ぶ。笑いかけると、若葉さん特有のくちゃっとした笑顔を向けてくる。美人なのに親しみやすいのはこの笑顔とドジな性格のせいだ。失敗ばかりして慌てたり謝ったり。だけど人を疑ったりしないから十四才の私より数千倍無邪気で可愛げがあった。
「せめてお料理は上手になりたい!」
「料理は慣れだってお父さんも言ってたよ」
若葉さんを元気づけながら手際よく野菜を切った。鍋で炒めて水を加え丁寧に灰汁を取る。若葉さんは私の手つきを食い入るように見ていた。
「え、そんなものも入れるの?」
目についた調味料を鍋の中に混ぜ入れると案の定、若葉さんは目を丸くした。味噌と酢も混ぜる。それからお菓子を作るときに入れるエッセンスも数滴。
「ちょっと個性的な味になるけどこれがお母さんの味なの」
「そうなんだ」
若葉さんは大真面目な顔で鍋の中を覗き込んだ。
「クセになる味だよ。でね、ここからが大事。仕上げにこの調味料を入れるの。そうしたら味がまとまるから」
中華料理に使う、なんと読むのか分からない漢字の瓶を指す。
「でね、冷めたら火を止めて冷蔵庫で一晩冷ますの。だからうちのカレーは作ったその日は食べれらないの」
「うわあ。焦らしプレイだね」
「……」
若葉さんは、待っててね、と言って手帳を持ってきた。私が適当に混入した調味料と作業工程を一生懸命にメモしている。
「ココちゃん、これからもいっぱい教えてね、ココちゃんのお母さんの味に近づけるように頑張るから」
またくちゃっと笑って若葉さんはカレー作りに専念する。このレシピが後々の自分の評価を下げるなんて少しも疑わずに。
「――若葉さんのカレーは正直、ひどいよね」
私は肩をすくめてみせた。
嘘のレシピを教えたあと、あのカレーは若葉さんが仕事に行っている間に作り直した。
「私たちが無理して食べてること、ほんとに気づかないのかなあ」
誰が作ったものでも食卓に並んだ料理は「美味しい」と言うことに決めているせいだが、それにしたって、と思う。
「若葉さんって天然だよね。味音痴だし、空気読めないし」
父は、まあまあ、と私を宥めた。
「そのうち料理も上手になるさ」
それは絶対にない。心の中でだけ言う。
「彼女も彼女なりに一生懸命なんだ。黙って見守ってやろう。時間が掛かっても気づいてくれるって、お父さんは信じてるよ。四人はいつかきっと素敵な家族になれるって」
父が懇願するように私を見た。
「……にんじん私が切る。乱切りでいいよね」
頷くもんか。笑顔を向けながら心の中で激しく反発した。素敵な家族になるなんて、よくそんなことが言えたものだ。お母さんのことは? お母さんと私たちの四人が素敵な家族じゃなかったの?
それからも私は若葉さんの評価を下げることに全力を尽くした。若葉さんが風呂に入っている間に、携帯から男の名前の番号に片っ端から電話を掛けてワンコールで切る。若葉さんの携帯は夜中まで鳴りやまない。それがきっかけで若葉さんに好意を持っている男たちが家に押しかけてきて、私は近所のおばさんたちを巻き込んで派手に騒いだ。警察も来た。この界隈で若葉さんの評判はどんどん悪くなっていった。それでも若葉さんはめげなかった。だから私は若葉さんの職場に誹謗中傷の手紙を出した。何通も出した。
そうしてあの日、事件は起きた。
前の日に若葉さんがこぼした油の拭き残しで弟が足を滑らせて怪我をした。もちろん床の油は次の日に私が塗ったものだ。だけど誓って言う。弟の怪我は望まなかった。誰かが転んで尻をついたら成功だった。転んだ弾みで棚にぶつかった弟の額から真っ赤な血がどんどん流れるのを見たとき、私は狂ったように泣き叫んでうろたえた。ごめんねごめんねごめんねごめんね。救急病院に運ばれて手当てを受けている間も身体の震えは止められなかった。遅番のためいつものように二十一時を過ぎて帰って来た若葉さんに、父の目が曇ったのを視界の端で見た。父と若葉さんが別れたのはそれから間もなくのことだった。
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