記憶の断片(2)
†
帰宅すると、納戸として使っている二階の和室で父が箪笥を開け探し物をしていた。手には黒いネクタイが握られている。
「お葬式?」
ところどころに白いものが混じった髪を眺めつつ聞いた。
「ああ、ココお帰り。香典袋ってどこだったかと思って」
「冠婚葬祭用のあれこれは、そこに入ってるよ」引き出しを指した。
「ついでにこれもみつかった」
父は袱紗を掴み、深い皺のできた目元で笑った。丸めた肩、緩やかな動作に胸がしめつけられた。私の自慢だったあの父は、いつからこんなにも年相応の中年男性になってしまったのだろう。
「今日は楽しかったか?」
毎週土日のどちらかは圭介と会っている。今日が特別だったことを知らない父にとっては普段と変わらないデートでしかない。
「どうかしたのか」
「え? ああ、えっと、うん、楽しかったけど」
絡まる過去と現在のせいで感情が右往左往している。愛想笑いでやり過ごし、聞いた。
「お父さん、その、好きな人とかいないの?」
さりげなく聞いたつもりだった。なのに言葉にしたら湿った問いかけになった。父は片手を振りながら笑った。
「いない、いない。――そうだ。ココに手紙が届いていたから、リビングに置いたよ」
「ありがと」
「先に下に行ってるぞ」
歩き出した一瞬、父の目が部屋の隅にある収納ケースに注がれた気がした。そこには若葉さんがいた頃、彼女の趣味で買ったカーテンやシーツの類がしまってある。他の段には私や弟のいらなくなったものが入っている。いわゆる、過去のものが。
階段を降りていく遅い足音にまた胸が軋んだ。若葉さんがあのまま父の傍にいたら今頃父はどんな風貌になっていたのかと想像した。寄り添う妻がいれば父だって、圭介の父親のように溌剌としていたのかもしれない。私が父と若葉さんの恋を許していれば……。
若葉さんがこの家を出て行ってから、私たち家族は一度も若葉さんの名前を口に出していない。でもほんとうはどうなのだろう。父は今でも若葉さんを思い出すのだろうか。
――――中学二年生、冬。
私は生徒指導室に呼ばれた。
「谷口、なにか悩みでもあるのか」
教室のない北側校舎の三階はひっそりとしていた。若い女性担任に背中を支えられて生活指導室に入ると、去年の担任だった中年の男性教師と学年主任が私を待っていた。
「どうした、困ったことがあるなら先生たちに相談してみろ」
「クラスのみんなも心配しているのよ」
登校してからずっと机に突っ伏していれば目立つのは当たり前だった。私はこのチャンスを逃すまいと、切々と訴えた。父が若い女を家に住まわせたことで家庭は崩壊寸前だということ、そのせいで私には居場所がないこと、ずっと世話をしてくれていた祖父母とも疎遠になってしまったこと、心休まるはずの我が家が世界で一番辛い場所になっていること。演技などしなくとも日常的な孤独感を思い起こせば涙は勝手に溢れてくる。
「そんなことがあったのか、谷口、辛かったな」
教師たちは口々に私を労り励ました。
「よく相談してくれたわね。もう心配ないわ」
硬直した膝の上の拳に担任が手を重ねてきた。思わず縋るように見上げた。――もう心配ない。
私は震えながら、教師の言葉を唇の中で反芻した。
数日後、父は学校に呼び出された。約束通り教師たちが父を叱ってくれるのだ。私はひさしぶりに晴れやかな気持ちを味わった。これで父も改心するだろう。娘の悩みの深さを知って猛省し、若葉さんを家から追い出してくれるだろう。
この日から毎日、一分一秒待った。けれど父は行動を起こさなかった。日曜日も、若葉さんの仕事が休みの木曜日にも引っ越し屋のトラックは来ない。再び日曜日がやってきて木曜日が終わってもなにも起きない。時間は穏やかに静かに過ぎていく。おかしい。遅すぎる。どうして。
注意して眺めるとふたりは妙によそよそしかった。私や弟にばかり話しかけ、自分たちは目と目を合わせない。笑い合うときも互いの肩先だとか顎のあたりに視線をやる程度でなんだかとてもわざとらしい。釈然としないまま、担任の女教師に聞いた。
「この前、父を学校に呼んで何を話したのですか」
担任は正義感たっぷりの表情を見せた。
「谷口さんの気持ちを優先してもらうようにお願いしたわよ。思春期の娘は潔癖なのに男親はそういうことには疎いから。谷口さんもね、男の子を好きになる年齢になったらお父さんのことは気にならなくなると思うのよ。でも今は辛いわよね、分かるわよ。――その後どう? お父さんたち、谷口さんの前でべたべたしなくなった?」
まさかと思い、休み時間の廊下で中年教師を呼び止めて同じことを聞いた。
「お父さんなあ、おまえに元気がないことを気にしておられたよ。いろいろと行き違いがあったのかもしれないな。焦らず、ゆっくり家族になるようにすると仰られていたよ」
学年主任にも聞いてみた。
「谷口はお父さんのことが大好きなんだよな。娘にここまでやきもちを焼かれて、お父さんは幸せだ。先生は羨ましいくらいだ」
気安く肩を叩き、呑気に笑う。まるでなにもかも解決したというように。
私の味方だと励ました舌の根の乾かぬ内によくもそんなことを言えたものだ。そのうちあきらめるからなんて、それまでは我慢して娘のご機嫌取りをすればいいなんて、そんな風に思っていたのか。
失意の中で知った。大人は大人の味方をする。子供を丸め込めると本気で思っている。
私は誓った。二度と大人を頼らない。今度はうまくやる。ひとりでやる、と。
【第一章おわり】
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