婚姻届

 

  †

 

「ごめんなあ、気使っただろ?」


 歌舞伎門を抜けてすぐ、圭介は両手を擦り合わせ私を労った。失態を演じた恋人にもいつもと変わらず優しい言葉をかけてくれる。

「なんで圭介が謝るの。謝るとしたら私の方」

 圭父がバス停まで送ってくれるというのを固辞したせいで、圭介も私につきあって炎天下の昼下がりを歩く羽目になった。

「私、気に入られなかったと思うから」

 滲んでくる汗をハンカチで押さえながら予防線を張った。

「そんなことないよ」

 高台にあった圭介の家からバス停までは緩やかな坂道だ。途中、近道の階段や日陰の脇道も使い住宅街を抜けて大通りへ出た。

「心配することないって」

 私を不安にさせないためか圭介の口元はずっと引き上げられたままだ。すれ違う自転車や散歩中の犬から私を守るようにして歩きながら、意味なく笑顔を向けてくる。

「大丈夫、大丈夫。心菜は俺にはもったいない彼女なんだから」

「……」

 普段はくすぐったい台詞の数々も、閉じた心では受け取れなかった。

 アスファルトを睨みながら黙々と歩いた。圭介が哀しげに言った。

「心菜、俺だけ見てて」

 顔を上げると、圭介は覗き込むようして私を見ていた。懐かしく甘い記憶が戻ってくる。



 圭介は私が勤めるオフィスビルで清掃のアルバイトをしていた。


 出会いの日、圭介は私の前でバケツを倒した。通路は水浸しになって離れたところで作業をしていた先輩が血相を変えて飛んできて圭介を怒鳴りつけた。圭介は大きな体躯をしゅんとさせ、私に向かって両手を上下させた。

「すいません。滑ったら危ないんでゆっくり、ゆっくり」

 『広瀬ひろせ』と印字されたネームプレートを揺らし、私の足元の心配をするジェスチャーが子供っぽくて、弟が小さかった頃を思い出した。


 それから数ヶ月が過ぎたある日、勤務後のビルの外に清掃作業員の制服を脱いだ圭介がいた。

「どうしても今日中に伝えたくて」

 控えめな二重瞼も厚めの唇も、やや角ばった輪郭もこの頃には見慣れた顔になっていた。

「俺、実は今日でバイト終わりなんです。本当はずっとここに来たいんですけど、明日からは就職する会社の研修が入ってて」

 空気は冷たいのに圭介は汗を拭っていた。

「今日までほんと、楽しかったです。会えることがすっげえ励みでした。えっと、それで」

 圭介は言葉を止め、酸素を取り込むみたいに空を仰いで夜を吸った。私はただぽかんとして圭介がなにを言い出すのか、その口元を見ていたように思う。私たちの関係は、挨拶のような会釈を交わしほんの時々天気の話しをするくらいの、知り合いに毛が生えた程度だったから。

「また会ってもらえませんか、職場の外でも」

 強張った表情で迫られた。

「だめ、ですか」

 似たような商業ビルが並ぶオフィス街のこの時間帯はスーツを着たサラリーマンが多い。すれ違う人たちが興味本位に私たちを眺めて過ぎて行く。けれど圭介の目には私以外なにも映り込んでいないようだった。

 えーと、と私は返事に窮した。――恋をするなら大人びた、気難しいくらいの男、自信満々な男、やたらには笑わない、無口な男……、と挙げればきりがないくらい、私は前の男に囚われていた。

「お願いします」

 ごめんなさい、と一言残してこの場を去ることは簡単だった。だけど返事を待つ間も足を踏ん張って汗を拭い続けている圭介に心が揺れた。絆されたという方が近いかもしれない。

「メール交換でいい?」

 私の曖昧なイエスの返事に、圭介は弾かれたように笑った。



   

 大通り沿いのバス停に着いた。

 時刻表で確認すると次の発車まで二十分ちょっとあった。私たちは照りつける太陽を避けて日陰に移動した。すぐ横の自動販売機で冷たい健康茶を買う。私の好きな銘柄をあたりまえに選ぶ圭介と半分ずつ飲み、それからぼんやり、通りを走る車を眺めた。


「俺さ、結婚したら心菜んちの近くに住むよ」

 ゆるりと向き直るとアスファルトの照り返しに顔を赤くした圭介が私を窺っていた。玉の汗を流しているのに涼しそうな感じがするのは、学生時代に水泳をしていたと聞いているせいかもしれない。

「お父さんのことが心配なら同居したっていいし」

「そんなこと圭介のご両親が許さないよ」

「俺はいつでも心菜を優先するよ」

 ナーバスになった私に対して自分なりの解釈をしたようだった。

 汗ばんだ私の腕をそっと引く。

「心菜の言う通りにする。だから俺とのこと、やめるとか言わないでくれよ」

「……言わないよ」

「じゃあ俺とずっと一緒にいてくれる?」

「……」

 即答できないのは私自身の問題だ。

「俺は心菜じゃなきゃだめだから」

 おもちゃを取り上げられる直前の子供のような顔で、圭介は私の肩を揺らす。「ぜったいだめだから」

 目を逸らし、聞いた。

「両親に、反対されたらどうするの?」

「されないって」

「だからもしものはなし」


 同じやりとりを、数日前にもした。両親に結婚を認めてもらえなかったらどうする? 私が尋ねると圭介は今と同じように「ありえないって」と一笑した。それでもしつこく聞くと圭介は私との距離を詰めて言った。

「なら先手必勝。先に籍を入れよう」

 大胆なことを簡単に言う圭介に頬が緩んだ。

「嘘じゃない。あとで婚姻届もらってくるよ。だからどんな結果が出ても月曜日にふたりで出そう」

 わかったわかった。冗談で済ませようとして、圭介の目が真剣なことに気づく。

「心菜。俺と結婚してください」

「……」

 今までも圭介は、結婚したらどうしたい、こうしたい、という仮定の話題を日常的に口にしてきた。そのせいか、そうか、いずれ私は圭介と結婚するのか、と洗脳に近い状態で意識してきた。

「また黙る」

「黙ってないよ。結婚しますよ、します。はい」

「軽くあしらわれた」

「あしらってないから」

「嘘だ。笑ってる」

 笑わずにはいられなかった。こんなにも望まれて結婚を急かされる女が笑顔にならないわけがない。

「じゃあマジで月曜日に籍入れるよ。気が変わったって言ってもダメだからね」

 念を押す声が脅迫的でまた可笑しくなる。私たちはどちらともなく近づいて優しいキスを交わした。

 


「この前約束しただろ。月曜日に婚姻届を出すって」

 私を覗き込んだままの圭介に私はおずおずと聞き返す。

「……ほんと?」

 不安と祈りはいつの間にか逆転していた。

「明日?」

「当然」

 疑いようのない真っ直ぐな声色が、あきらめかけていた気持ちを奮い立たせた。

 私はそっと息を吐いた。――――なかったことにすればいい。今日のことは忘れてしまおう。私はただ圭介と結婚する。それ以外のことはなにも考えない。考えない。


 圭介の手が伸びてきた。すぐに繋ぐ。強い力で未来へと導かれるのを感じながら、明日から圭介と同じ苗字になる自分をイメージした。真夏の強い陽射しが照りつける中、繋がった手を離そうとしない圭介を、何度も見上げた。大丈夫よね? 心で問いかける。明日私は『広瀬心菜』になるのよね? なっていいのよね?

 声に出していないそれに圭介が頷く。あたりまえだろ、と言うように、顎をぐっと前に出して雲間を見る。

「心菜、ずっと一緒にいよう」


「……うん」

 つられて空を見上げて、頷いた。

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