記憶の断片(1)



 ――――「ただいま!」


 勢いよく飛び込んだ玄関に見慣れない靴があった。留め金に蝶がついた華奢なヒールだ。リビングに知らない女の人がいた。同級生のお母さんや近所に住むおばさんたちとは違う、けれど高校生や大学生のおねえさんとも重ならない。『女の人』という別次元の大人、そんな印象だった。


「ココ、こっちに来て座りなさい」

「……」

 父のそばでにこにこしている女の人を前に、私の身体は固まったまま動けなかった。まだなにも聞かされないうちから拒絶反応が出た。正方形のテーブルには父と弟と私の定位置がある。いつもひとつ空いている場所に、見知らぬその人が座っていることに胸騒ぎが止まらなかった。

南田若葉みなみだわかばさんだ。ご挨拶しなさい」

 黙っていると、よろしくねココちゃん、と先に言われた。初対面なのに馴れ馴れしく呼びかけられて気分が悪くなった。無言でくるりと踵を返す。背中に、こらココ、行儀が悪いぞ、といつもより気取った父の声が追いかけてきた。そのときに思った。もしかしたらこの女の人はこれからも家に来るかもしれない、と。嫌な予感は当たることが多い。三泊四日の修学旅行から戻ると家にはあたりまえのように若葉さんがいた。


「お父さんとどういう関係?」

 ふたりになったのを見計らい聞いた。若葉さんは身を屈め目線を私と同じ高さにし「お友達です」と笑った。ほんとうに? 念を押したかったけれど父が戻ってきた。

「ココ、お腹空いただろう、すぐ出来るからな」

 若葉さんと一緒にご馳走を作ると張り切る父は、終始浮かれていた。

 若葉さんは雑貨店で働いていて、父は取引先への贈答品を買うためにその店へ立ち寄ったらしい。とにかくふたりは出会ってしまい、娘と息子がいるだとか、年齢が十才以上離れていて、家の近くには亡き母の親が住んでいるとか、そういう諸々を吹っ飛ばす情熱で恋を始めた。いつしか父はなんでもない場面でもよく笑うようになった。片付けの最中でも、弟が絨毯にプリンをぶちまけても。私は父の変化が面白くなかった。親子三人での生活がつまらなかったと言われているみたいで不愉快だった。三日に上げず家にやってくる若葉さんにも、当たり前に招き入れる父にも私は苛々しっぱなしだった。それから少しして、夕食のテーブルで父が耳を疑うようなことを口にした。

「近いうちに若葉さんが引っ越してくることになった」

「ほんとう? ワカちゃん、ずっとこのいえにいてくれるの」

 若葉さんにすっかり懐いてしまった弟は手を叩いて喜んだ。

「家族になる、その練習だよ」

 父の言葉に若葉さんがはにかんで頷く。じゃれつく弟を撫でながら私に笑顔を向ける。

「ココちゃん、これからもよろしくね」

 能天気にウインクまでして。

「仲良くしようね」

 それ以外の答えなど世の中に存在しないみたいに。

「ココちゃんとは年が近いしいろんなこと相談できたらいいなって思ってるんだ。ココちゃんも私になんでも言ってね。学校のこと友達のこと、好きな男の子のこともね。お父さんには絶対内緒にするから」

 悪戯っぽい目を父に向ける。

「内緒はずるいぞ」

 父が少年のような笑い声を立てた。

 ずっと続いている不協和音。頭の中を五月蝿く飛び回って私を苛立たせているその雑音の正体がなんだったのかようやく気づいた。家族。なんて卑しい単語だろう。家族。不潔な響き。家族。安っぽい。家族。家族。家族。なにそれ。

「……友達って言ったじゃない」

 声も身体も怒りで震えた。小声が聞き取れなかったのか、それとも意外だったのか若葉さんは、えっ? と耳を傾けた。

「嘘つき!」

 噛み付くように叫んだ。立ち上がった拍子にグラスが倒れて液体が床に滴り私の靴下とスリッパを濡らした。弟が泣き出して、呆然とする若葉さんと父が引き寄せられるように目と目を合わせた。落胆と失望が入り混じったふたりの目配せにカッとなった。部屋を飛び出したとき呼び止められたかどうか、後になって考えても思い出せない。

 それから数日後、若葉さんは引っ越してきた。私は相変わらず不貞腐れていたけれど、そんなことはふたりにとっては取るに足りない些細なことだったのだろう。私がいれば重苦しくなる空間は三人だと和気藹々、楽しげになる。みんなが私の顔色を窺うような素振りをするから疎外感はますます強まって、心はどんどん黒くなっていった。流し込まれた黒が重なって重なって身体の中を占拠していく。深い洞窟を覗き込んだみたいに自分も真っ黒になっていくことが怖いのに、止める術がなかった。


「ココちゃん、なんでずっとおこってるの?」

 ある日、小さな弟が責めるような目を私に向けたとき、私はとうとうこの家でひとりぼっちになってしまったと感じた。

 八才違いの弟は初めから母を知らない。母は弟が生まれた数日後に死んだ。新学期がはじまる少し前、春休み中のことだ。最期のとき、病院のはからいで母の枕元に寝かせてもらった弟は小さな口を魚のように開けたり閉じたりしながら眠っていた。私と父には分かっていた。自分たちは今、七色に輝くしゃぼん玉の中にいて、この穏やかで目映い光の中の幸福は突けばあっという間に割れて消えてしまう儚いもので、その瞬間はもうすぐやってくることを。四人で過ごす最初で最後のひとときがとても短い時間であることを。だからすごく愛しかった。生涯忘れないだろう濃縮したひとときだった。いよいよ自分の命が尽きることを悟ったとき、母は渾身の力で私に腕を伸ばした。上半身を起こそうと思ったのだろうけれど力は残っていなかった。私は母の腕の中に小さな身体を滑り込ませ抱かれるように擦り寄った。

「お母さんは、ココをずっと見守ってる、大好きよ」

 吐く息も声もとても弱くて、こうやって喋ることも辛いんだと子供ながらに分かって、私は泣きながらも何度も何度も頷いた。

「あなたの弟を守ってね、お父さんの世話もお願いするわよ」

「わかった。わかったよ、お母さん」

「あなた、ふたりの子供たちを……」

 父に手を伸ばす。父が母を抱きしめてその耳元になにか囁いた。自分の嗚咽のせいでふたりの会話を聞き取ることはできなかった。けれど、父と母が互いを深く深く焼きつけるようにみつめていたことは私の胸の奥底に刻み込まれた。その数時間後に母は逝き、私たちは三人家族になった。


「ココちゃんはわがままだ」

 子供のくせに眉間をぐっと寄せて弟が言った。

「ココちゃんがぶすっとしてるからおうちのなかがくらいって、おとうさんがいってた」

 そうか、悪者は私か。

「みんなでなかよくしたらいいじゃん」

 生意気に、弟は顎をぐんとあげて私を見た。

「ワカちゃんとおとうさんがかわいそうだ」

「わかったよ」

 私は立ち上がり自分の部屋へと駆け上がった。もうこの家に居場所はないと思った。祖父母の家で暮らそう、こんな家……、ニセモノのこんな家族、私だって大嫌いだ。

 一番大きなバッグを乱暴に開け学校の道具、制服、下着や洋服、小物、大切なもの、次々に放り込んだ。けれど掴んだアルバムの隙間から家族写真がこぼれ落ちたとき、心臓が締めあげられた。母との約束が蘇る。母の最期の声――。

 私は茶の間へと戻り、絵を描いている弟の小さな肩を揺すった。

「お母さんは世界中でたったひとりよ。誰も代わりにはなれないの。なっちゃいけないの。そんなことしたらお母さんはどう思う?」

 仏壇の遺影を真っ直ぐに指す。

「お母さんはね、あんたを産んでくれたあのお母さんだけ、たったひとりだけなんだから」

 弟は私の剣幕に目を白黒させたがすぐに、ふうん、と鼻先で言って目の前の画用紙に興味を戻してしまった。物心がついた頃から絵を描くことが大好きで、暇があればこうして色ペンを握っている。こんなところも母の血なのに、目も鼻も口も、弟は私よりもずっと母に似ているのに、なのにどうして母を裏切るのだろう。

 唇を噛んだ。悔しさが悲しみを飛び越えた。そんなのぜったい許せない、お母さんが可哀想だ。


 私は意識の転換を図った。同時に覚悟も持った。若葉さんを家から追い出してやる。そのためにはどうしたらいいのか、私は人生で一番考えて考えて、ひとつの計画に行き着いた。

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