家族


   ♰


「やっと来たよ」

 玄関の引き戸がからからからと軽やかに開いて、圭介が苦笑交じりにほっとした声を上げた。私は細い息を吐く。

「いやあどうもどうも、お待たせしてすみませんね」

 広縁の先から声が向かってきた。

「ちょっと隣の家に行ったら帰してくれなくてね。まあいつものことなんだけどね。わはは」

 足音が止まった後、開け放った障子の竪桟から目だけが、次に足、両手の指、そして最後に体が飛び出してきた。圭介から聞いていた通りのユーモラスな父親だった。

「親父、遅いよ」

「罰金が必要か、百円でいいな?」

「冗談。特上寿司なら手を打つよ」

「まいった!」

 両手を空へ投げる仕草で一連の流れが終わった。

「――はじめまして、谷口心菜です」

 私を気遣い父親を明るく責める圭介の横で深く頭を下げた。ほんとうは、「せっかくの日曜日にお時間を作っていただきましてありがとうございます」と続けたかったが自己紹介をするのが精一杯だった。

「はじめまして、私が圭介の父です。圭父けいちちと呼んでください」

 表情と口調が親近感を連れてくる。他人の懐に気負いなく入ってくる感じに馴染みがあった。圭介の遺伝子は間違いなくこの人と同じだと思った。

「今日という日を首を長くして待ってましたよ。うちの息子と結婚してくれる奇特な方がどんな人か、珍しいもの見たさが」

「ちょ、親父、そりゃないぜ」

「あっはっは」

 正面に座った圭父は聞いていた年齢よりも若々しさに溢れていた。数秒凝視してしまい慌てて視線を外した。


 少し前、切羽詰った表情で「家に遊びに来てほしい」と圭介に乞われたとき、ふたりの間の口約束が未来へ向かって動き出すことを確信した。両親への挨拶は最初の関門だ。初対面の印象で嫌われないように適齢期の女性が購買層であろう雑誌の、結婚に関する特集記事を熟読した。笑顔を絶やさず、淑やかに、はきはきと受け答えをし、落ち着いて、それからなんだっけ。そう、母親の前では特に、恋人を立てて慎ましく、だ。頭に叩き込んだはずなのに、今何ひとつまともに実行できていない。



 蝉の声が聞こえる。

 仲間を求めているのか天敵が近くにいるのか、広い庭のどこかに止まった蝉たちが呼応するように存在を主張し始める。強く真っ直ぐな鳴き声に胸が苦しくなる。一緒になって声をあげたかった。ほんとうに心細くて、かなわない。


「心菜さんは感心なお嬢さんだと息子から聞いていますよ」

 目尻を下げたまま圭父が言う。自分がどんな風に家族に紹介されているのか不安になった。勝手に強張っていく頬を指先で触って誤魔化した。

「そうなんだよ、親父。心菜は子供の頃に亡くなったお母さんの代わりに家事をやってお父さんと弟の面倒をみてきたんだ。なんでも出来るんだぜ。料理も裁縫も。ほんとプロだから」

「それはありがたい」

「だろ?」

 二人の視線が母親へと向かう。

「うちの母さん、料理が苦手でさ」

 圭介がわざと大きな声で耳打ちしてくる。

「母さんの料理で一番食えないのがカレーなんだ、信じられないだろ」

 悪口には愛がこもっていた。圭介がよく口にする私への気持ちと同じ響きだ。――人間は完璧じゃなくていいと思うんだよね。自分がダメだと思う部分って他人から見たら案外愛しいところだったりするだろ。だって俺は心菜が自分で嫌いだっていう頑固なとこ? そこもすごく好きだし。

 にいっと笑って、言った本人より恥ずかしい気持ちになるこっちの立場もお構いなしにより深くみつめてくる。

「おかげでうちのカレーには必ずとんかつやハンバーグが入れられているわけです」

 圭父が付け加えたそれに圭介が口元で手のスピーカーを作る。

「ないときは、卵の黄身や納豆で代用だよ」

「調味料も大活躍」

 圭父のスピーカーも向かってくる。

「心菜さんもそのうち食べることになるぞ。覚悟しておいてくださいよ」

「大丈夫、俺がコツを教えるから」

 息の合った親子の会話が続く。すべては私をリラックスさせようとする優しさからだ。分かっているのに、笑顔が消えていく。頬が引きつってしまう。

「心菜さんのお父さんは再婚されないのかな」

 何気ない質問に鼓動が早くなった。一番出されたくなかった話題がこんなにも早くやってきてしまった。

「なかなか、出会いが、なくて」

 自分の声がどこから出ているのか分からなくなった。

「まだまだこれからでしょう」

「どうで、しょうか」

 頭を下げ、曖昧に答えた。

 五十才を過ぎてから父には年相応という表現が似合うようになった。子供の頃は、心菜ちゃんのお父さんは若くてかっこいいと、友達やその親によく言われた。話題にされるほど父は若年ではなかったが、くすぐったい気持ちでそれらの言葉を浴びていた。――あの頃に、父も年を取っていくのだと想像することができたなら、いつまでも小さな私を肩にひょいっと担いで遠くの風景を見せてくれるわけじゃないと気づくことができたなら、私の「今」はどう変わっただろうか。


「実はお父さんにもお相手がいたりして、ということはないのかな」

「……そんなことは、ないと思います」

 話題はまだ戻らない。

「心菜さんには内緒にしているのかも」

「……だと、いいんですけど」

「親父、どうでもいいから、それは」

 圭介が割って入ってきた。

「いや、心菜さんを嫁に出したらお父さんだって寂しいだろう」

「……」

 私は頭を垂れ、返事の代わりにした。知らぬ間に強く握りしめていたのか、ワンピースの裾にはシワが出来ていた。汗ばんで痺れた指を手の甲に擦りつけた。

「俺が息子になるんだから、心菜のお父さんは寂しくないんだよ」

 圭介が自分の胸を親指で突く。

「おまえが息子になるから心配なんだ」

「ひっでえ!」

「向こうのご家族におまえの『あんなこと』や『こんなこと』を受け入れてもらえるのか、父さんはビクビクだ」 

「その言い方は誤解を与えるだろ。ったく。心菜、俺には妙な趣味や癖はないからな」

「なんだ、まだ隠してるのか」

「ふざけんなよ、親父!」

「はははは」

 賑やかなやりとりと笑い声に耳を塞ぎたくなった。体内を巡る血液がどんどん温度を下げていく。意識が切れそうになる。過去が猛スピードで迫ってきて、私は倒れないように奥歯を噛みしめて、耐える。


 巻き戻せるなら時間を少し前に戻してほしい。ここへ来る前に。違う、圭介と出会う前に。――いや、そうじゃない。やり直すならあの日からだ。中学二年生の秋、修学旅行を明日に控え弾むような心持ちで家に帰った夕方の、あの日から。

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