第一章

過去から


   †




「足をくずしてくださいね」


 座卓の向かい側からコットンを思わせるふわりとした声が言った。不格好に、儀礼的なおじぎをするだけの私に隣から恋人の 圭介けいすけが耳打ちしてくる。


心菜ここな、暑くない?」

 私は唇を横に引いたままわずかに首を振った。柱と梁で組まれた日本家屋の奥座敷は、障子と襖を開け放つとエアコンなどなくても涼しい風が通り抜ける。


「水ようかん食べる?」

 圭介の気遣いはいつも行動を伴う。出されたまま口を付けずにいるアイスコーヒーにガムシロップを入れて掻き回してくれ、扇風機の角度を私のために調節してくれ、私に向けられる話題のすべてを拾って、母親との会話を繋げてくれている。今は目の前に置かれた水ようかんをひと口大に切りわけている最中だ。ちりん、といい音で釣りしのぶの風鈴が鳴って、気を取られたふりで外を眺めた。


「この辺は静かだろ」

 私の視線を追って圭介が言った。涼しげな簾の向こうの風景は濡れ縁に置かれた鉢物と濃い縁取りの窓枠がフレームの役目をして、まるで切り取った絵のように映る。高台にあり奥に雑木林があるせいかほんとうに静かだ。さわさわと風に揺れる庭の木々がどこまでも続いている錯角を起こさせた。


「心菜、リラックス、リラックス」

 耳打ちのあと、圭介の大きなてのひらが膝に置いた私の手をぎゅっと握って揺すった。途端に現実が近くなる。誰か、誰でもいいから誰か、私をここから逃がしてください。時間を巻き戻してください。

 ――どこまで? 

 現実逃避を願ったそばから、自分はどこへ逃がしてもらおうとしているのか、いったい過去のどの地点まで遡ればいいのか分からなくて、途方に暮れた。


「もうすぐお父さんが来ますからね」

 向かいから声がして私は再び身を固くする。

「楽にしていてね」

 ぎこちなく礼を返し、膝を隠している小花柄のワンピースに意識を落とした。私には似合わない淡い色の服が他人行儀に身を包んでいる。脇に置いたレースのボレロと小振りなバッグも今日のこの日のために揃えた。愛想のない表情を少しでも和らげようと用意したのに、味方になってくれる気はないみたいだ。心細くて、溜息が出た。


「いつもの心菜でいいんだよ」

「……」

 誠実な声色に、心がほんの少し解れる。

 圭介と出会った一年前のことを思い出したせいだ。


 


 

 あの頃の私は、人生で二度目の恋が終わった現実に漫然と傷ついている最中だった。心が冷えていて、ちょっとやそっとのぬくもりじゃなんの足しにもならない、そんな日々の中にいた。だから、前の男とは外見も性格も対極にあった五つ年下の大学生に特別な何か、衝撃や欲求や、たとえば救いのような感情でさえ抱く余裕はなかった。



 前の男は強面で無口で、冷たい雰囲気を持っていた。

 すれ違いざまに腕を取られ、聞かれるがままに連絡先を教えた、それが始まりだ。

 最初から男のペースだった。男が硬派な外見を裏切る不誠実な人間だったことを突きつけられたのは、約三年半の交際が終わる直前だった。


 初時雨の頃だった。

 私の職場に男の恋人だと名乗る女が乗り込んできた。浮気相手を片っ端から呼び出していると喚き、七人目の女が私だと、耳を疑うようなことを口にした。突き出された携帯で男と話した。


「いったいどういうこと?」

 私の質問に男は面倒そうに言った。

「その女ちょっと頭がおかしいんだ。気にすることないから」

 私は女に背を向けながら、早口の小声を落とした。

「でもあなたの恋人だって言ってる」

「いや、そういう関係じゃない。単なる女ともだちだ」

「女ともだち?」

「たまに食事してセックスをする、それだけの関係」

 その言葉を反芻していると回り込んできた女に肩を揺さぶられた。これで分かったでしょう、別れるって言いなさいよ。あなたから言いなさいよ。早く言いなさいよ。別れるって!

 私はぎょっとした。狂気の形相、なのに目は怯えている。……彼は私のもの。私だけの。私のよ。呪文のように繰り返す声は歪みながら鈍く深く、私を刺した。追い詰められた人間がこんなにも無様で憐れなことに悲鳴をあげそうになる。直視できず視線を外した瞬間、頭の中で何かがカチッと重なる音が鳴った。まさか、信じたくないと動揺しながらも、ほんとうはどこかで疑っていたことが唇から漏れた。

「私はあなたにとってなに、恋人……、それとも今あなたが言った……」

 “女ともだち”?

 この人と同じ?

 心の中で問いかけた。男は少しも躊躇わず不機嫌に落とした声のまま、これ以上ないというくらいの決定的な答えを口にした。

「そのどっちかで括らなきゃいけないのか? だとしたらおまえはまだ恋人じゃないけど」

 恋人じゃない? 私は『まだ』恋人じゃなかった、って?

 絶望は限界までは振り子のように激しく騒ぐ。けれど振りきれてしまったら無になるだけだ。

「そう、なの」

 そんな言葉をくらったのに私は怒ることも詰ることもできなかった。唯、彼は希望を残した。私は『まだ』という言葉に傷つき、縋ったのだ。

「とにかくこの件は後で。今仕事中だから」

 詫びもせず男は自分の日常へと戻っていった。目の前の、こんな風に狂ってしまわなければほんとうはとても美しいはずの女性を私にあずけたまま。



 十日が過ぎても男からの連絡はなかった。関係を続けるも止めるも私次第だと言われているようなものだった。悶々とする私に残酷なアドバイスをくれたのは、幼なじみの元カレだった。


「三年以上もつきあって今更恋人じゃないって言われて、それ以上のなにを期待するんだよ。現実を見ろよ」

 元カレは私に反論の隙を与えなかった。

「ココは、いつか恋人になれるって思いたいのかもしんないけど、そいつに本命がいないと言い切れんの?」

 家族以外で唯一私を『ココ』と呼び捨てで呼ぶ元カレの言葉は重かった。

「それからカレシの仕事。輸入関係で月の半分は海外ってやつ、今だから言うけどあやしくないか? 会えない口実に使ってるとしか思えないね」

 私が目を逸らし続けた現実に元カレはとっくに辿り着いていた。

「つうかさ、相手が忙しいって聞いて内心ほっとしてただろ。ココにとっても都合のいい相手だった。それがこの結果なんじゃねえの?」

「……」

 元カレの言うとおりだった。

 父子家庭で、家事をこなしながら八才下の弟の面倒をみていた私には男の多忙がちょうどよかった。

 男は私の事情に寛大だった。――思春期の弟を夜ひとりにしたらろくなことにならないからな。

 そういって労ってくれた。

 けれど皮肉にも、それが私の負い目にもなった。

 父の帰宅を待って待ち合わせ場所へ急ぐと男は車の中でいつも誰かと電話中だった。けれど、誰と話していたのかを聞くことはできなかったし、毎回同じホテルへ行き、数時間後に元の場所へ戻る途中、「ドライブでもしない?」と言いたい気持ちを、私を送り届けることしか考えていない男の横顔に伝えることはできなかった。我慢していたことはもっとある。結局足を踏み入れることがなかった男のマンションや、紹介されなかった友達、家族、行きつけの店。年末や盆、大型連休で実家へ帰省する男に、今度こそ「一緒に行かないか」と誘われると期待しては、裏切られたこと。



 元カレは同情のような溜息を混ぜて私を諭した。

「男と女がつきあうってことは束縛しあうってことだ。俺がそれを教えてやってないから責任感じるけど、でもな、これだけは言える。ビクビクしていることをドキドキしているとは言わない」

「私が、ビクビクしているだけだって言いたいの?」

「違うか?」

 元カレは唇を噛む私を見て、潮時だな、と言った。揺るぎのない声。私は肩を震わせる。

「おじさんも心配してたぜ。ココはどんな男とつきあってるんだろうって」

 父は子供の恋愛に口を挟まない。それはたぶん、私のせいだ。

「俺はいつかこうなると思ってたよ」

 元カレは続けた。こうなること、おまえも知ってただろ、と。私は頷いた。そうだ、私は知っていた。きっかけさえあればいつでも終わることをほんとうはずっと前から知っていた。

「別れた方がいい」

「……わかった」


 簡単に決心したわけじゃない。でもそう見えたとしたらこの仏頂面のせいだ。哀しくても平然として映る薄く真っ直ぐな、この唇のせいだ。

 私の決意に元カレは得意気に顎を上げた。悪気はなかったのかもしれない。けれどこの一件で私は強烈な敗北感を抱えることになった。


 あのときの痛みはしつこく残って、今も消えない。

 考えてみれば、私と別れる前も後も変わらずに自由気ままな元カレに恋愛相談をした私が愚かだったのだ。そうか、私が悪いのか。だったらもう二度としない。ぜったい。


 あの日の誓いは続いている。

 今日圭介の家に招かれたことも、もっといえば恋人がいることも#元カレ__幼なじみ__#には打ち明けてはいなかった。

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