最終章
圭介と、弟と、鮨屋
私は恐る恐る瞼を開けた。
一度は、この気持ちを封印すると覚悟した。なのにそのことさえ、向き合った瞬間に消えてしまった。
「ひさしぶり」
迷いを振り捨てた顔が近づいてくる。
開け放ったままのドアから強い風が入ってきて私の火照った頬を撫でた。
「俺、ちゃんと謝ってなかった」
空はまだ夜を迎える準備を始めたばかりで白っぽい色彩を広げている。圭介に待ち伏せされた春の夕方と同じだ。今、圭介はあの日のように不思議な威圧感を放って私の前にいる。気持ちが届くかどうか不安で、私の表情を必死に探っているのに態度は堂々として見える。既視感に胸が締めつけられて、抑えていた愛しさが込みあげてきた。
「俺の
あの日、圭介も若葉さんもずっと笑顔だった。ふたりは私を和ませようと心を砕いてくれていた。なのに私は頑なに気を逸らし続けた。過去が暴かれるのが怖くて、勝手に自分を追いつめた。
「ほんとうにごめん」
「もう謝らなくていい」
元はといえば私に原因がある。若葉さんに対して後ろめたい想いがなければ、ひさしぶりの再会にもちょっぴり照れくさい気持ちで向き合えたのだ。すごいね、こんな偶然があるんだね、とか言い合って、思い出話に花が咲いたかもしれない。
「もっと早く、全部打ち明けておけばよかったんだ。けど引かれるよなって計算が働いた。心菜の俺に対するイメージ裏切りたくなくてちょっと、イイ格好した」
「圭介……」
思わず圭介の腕に触れた。だって、そうさせたのは私だ。
「ココ」
父と弟が出てきた。圭介が、あ、どうも、と慌てて頭を下げた。
「これからお寿司を食べに行くんだが圭介くんもどうかな」
勝負に勝ったのは弟のようだ。
「いいんですか?」
父の唐突な誘いにも圭介は嬉しそうに頬を綻ばせ遠慮はしない。その素直な表情に私の方が照れてしまうほどだ。
「アネキ、荷物」
弟がぶっきらぼうに左手に持ったバッグを突き出した。
「ありがと」
お礼を言うが当然のように返事はない。
四人で歩き出した。父と圭介は並んで喋りはじめ、その少し後ろを私が歩く。弟はかなり遅れて携帯をいじりながらついてくる。
「カノジョ?」
振り返って話しかけるが、うざっ、とひと言返ってきた。
夜の営業を開始したばかりの鮨屋には、まだ客は一組もいなかった。六、七人座れるカウンター席と小ぶりの座敷が三つ。私たちは一番奥の座敷に通された。長方形の座卓に父と弟がひとりずつ、私と圭介が並んで座った。なんとなく自然にそうなった。
「圭介くん、ビールでいいかい?」
「はい」
「俺、グレープフルーツサワー」
弟は聞かれる前に自分の分を注文した。
「そうか、息子も二十才になったかあ」
注文を聞いた大将がカウンターの中から感慨深い声を上げた。
「そうするとココちゃんも……」
指を折り始めた大将に、「計算しなくて大丈夫です!」と声を張ったら圭介に笑われた。
「で、そっちのお兄さんは?」
「広瀬圭介です。以後、よろしくお願いします」
圭介が大真面目に自己紹介をしたせいか、大将と奥さんは圭介と私たちがどういう関係なのかということを聞くタイミングを失ったようで、その微妙な間が可笑しかった。
酒と数品の一品料理で小腹を満たしながら語らうこと数十分後、特上寿司が運ばれてきた。漆塗りの寿司桶ではなくこの店独自の大皿に盛られて目の前にやってきたそれに、圭介は子供のように大きな身体をわくわくさせた。食べ始めるとリアクションはより強くなった。新鮮で鮮やかなネタを頬張りながら、ひとつずつに感動を伝えていく。料理番組の名物レポーターもびっくりするような巧い表現を口にするから、しまいには気を良くした大将から出し巻き卵と抹茶アイスがサービスされた。
「この人連れてくると俺ら得するかも」
弟がぼそりと言って、父が空咳をしながら、私は口元を押さえながら笑った。圭介だけがぽかんとしていたけれど、和やかな空気にまた口は滑らかに動きだす。そう。圭介はとてもよく喋るのだ。
食事を終えて店を出ると、空はすっかり暗くなっていた。
会計のあとで大将と世間話を始めた父を残し、酔った頬を夜風に晒した。
「風がだんだん気持ちよくなるね」
「そうだね」
「……」
私と圭介の近くで弟は当たり前のように知らんふりをして会話に入ってこない。笑いかけると、いつものようにあっさりと無視された。
「夏も終わりか」
「ようやく、って感じ」
「……」
あと半月ほどで季節は変わる。穏やかな秋のあとには引き締まった冬もやってくる。寒さを越えれば芽吹きの春に、そうしてまた同じ季節を迎える。いつかすべてが笑い話になることが今の私の願いだ。
「! あ、カーディガン忘れた。ちょっと待ってて」
鮨屋の門を抜けたあたりで、ふたりに断り店の中に取って返した。
再び暖簾をくぐると父はまだ会話を続けていた。忘れ物を手に奥さんと小さく目配せの会釈をし、ひとり店を出た。砂利の上に敷かれた枕木の歩道を進む。心地の良い幸せな夜だなあ、としみじみ思う。笑ってばかりいた。圭介がそうさせてくれた。
門の手前でぼそぼそとした低い声が聞こえてきた。近寄る分だけ会話は大きくなった。
「――――アネキと結婚すんの?」
弟の声だ。いつものなげやりな口調を圭介にも向けている。
「そのつもりだけど」
「ふーん」
真摯に答える圭介とは対照的に、弟の声には緊張のかけらもない。
「反対?」
「……」
ちょっとした間。なぜだかどぎまぎして、私の足が勝手に止まった。一方通行の小道は静かで、高いブロック塀の向こうの会話がクリアに聞こえてくる。
「はっきり言ってくれていいよ」
「別に」
心配声で問う圭介にも等閑な反応を返している。
「どうでもいい」
弟がよく使う言葉だ。別に。どうでもいい。これまでも返事をしてくれるだけマシとあきらめて放っておいたけれど、こんな場面でも使うのかとちょっと笑えた。
「好きにしたら」
しかも適当極まりない結論を出す。自分で質問したくせに。
「わかった。好きにする」
「あっそ」
友好的な圭介に、にべも無い。
「きみは俺の弟ってことになるから」
圭介も負けてはいない。
「ふーん」
「これからよろしく」
「どうでもいいけど、アネキ泣かしたら殺すから」
そのときだけ弟の口調は少し鋭くなった。
「覚えといて」
間延びしたようなぬるい風がはっとするくらいひきしまって、一瞬世界が音を止めたみたいに無になった。少なくとも、私にはそのくらいの衝撃があった。咄嗟に口元を手で覆った。
「うん。しっかり覚えとく」
圭介の声が強く答えている。
「分かればいーよ、もう」
弟の口調はいつもの無関心なそれに戻っていた。フラッシュバックが起きる。反抗期が終わったあとも弟は家の中で無駄なことを言わなくなった。笑わなくなった。その弟が今、子供の頃の、私にしがみついてばかりいた泣き虫の弟と霞んだ視界の中で重なった。
「ありがとうございました」
カラカラカラ、とドアが開き賑やかな見送りの声が聞こえてきた。私は咄嗟に父に駆け寄った。不思議そうにする父の腕を取り、一緒に出てきたようにしてふたりの元へ戻っていった。そうして、酔っ払ってしまったとでも言うように、目元を擦って滲んだ涙を誤魔化した。
私と父と圭介は縦になったり横になったりしながら固まって歩いた。弟は少し離れてついてきた。前を歩くこの三人とはなんら関係ありません、という澄ました顔をして。
+
その夜、
ふたりきりになってから、私は用意していた結論を圭介に伝えた。
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