大切なもののために
「ココちゃんたちの結婚には賛成。本当だよ。だけど……、家族づきあいはできない」
私たちの結婚を祝福してくれないのは圭介のお父さん――、
あの、おおらかで愉快で若々しい、圭父だった。
「……このこと、圭介には?」
「言ってない」
……私は、聞く前からすべてを理解した。
私は頑なで、礼儀知らずで、不機嫌な息子の嫁でいい。
あの日の私そのままを、これから先も続ければいいんだね?
「圭介だけだったら、今まで通りに家への行き来はできる?」
若葉さんは唇を強く結んで深く頷いた。
「良かった」
私は心の底から言った。
それだけ約束してもらえるなら十分だ。
「圭ちゃんをよろしくお願いします」
深々と頭を下げた若葉さんは、私がよく知っている顔だった。父に愛されているときの、父のそばにいたいと願っていたときの、一生懸命な、貪欲な、愛の顔だ。
私にも愛する人が出来てようやく分かった。
愛は残酷で、恐ろしくて、美しい。
その愛以外は取るに足らない。
+
店を出て、若葉さんは駅方面へ私は自宅へゆっくりと向きを変える。
外はまだ明るい。
「あ、そうだ。若葉さん、あのね、カレーのこと!」
私は努めて、陽気な声を投げた。
「カレー?」
若葉さんが首を捻った。
「今も私が教えたレシピで作ってる?」
「もちろん」
「あれね、嘘っぱちなの」
「えっ」
若葉さんが仰け反った。
「だからもうあのレシピ、忘れて!」
「もーっ!」
お互い笑って少しずつ、また足を進める。
――今度本物のレシピ、教えるから許して!
そう言えたかもしれない未来をあきらめて、私は手を振った。「さよなら!」
「幸せにね!」
「若葉さんもね!」
少しずつ離れながら、大きく手を振った。子供みたいに、――あの頃できなかった――、無邪気な私になって両手を振って、別れた。
♰
家に帰ると珍しく弟がいた。
高校生の頃はアッシュ系に染めていた髪を今は黒に染め直して、彼女とお揃いだというペンダントをシャツの下からのぞかせて、携帯を触っていない方の手を軽く上げる。
「どうしたの今日は。日曜日なのに」
「オヤジからさっき呼び出しのメールが来た」
「そのお父さんはどこへ行ったの?」
帰りがけにスーパーで買ってきた食品を冷蔵庫に移しながら父の気配を探した。
「さっきまでその辺にいたけど」
弟が答えたタイミングで父がリビングに戻ってきた。
「おう、揃ったな。今日はみんなで外食だぞ」
両手にはゴミ袋を抱えている。透明なビニールの中には古くなって着なくなったパジャマや服、それから若葉さんと揃えたカーテンや寝具類が入っていた。
「どうしたの、それ」
「明日は燃えるゴミの日だろ。いらないものはどんどん処分しとこうと思って」
父は事も無げに言った。
「さあ、終わった終わった。夕ご飯はどこがいい? リクエストあるか?」
「寿司かステーキかすき焼き」
弟は普段自分の財布では食べられないものをリクエストしている。
「ココは?」
「私はなんでも。ふたりで決めていいよ」
行先をふたりに任せてエプロンを腰に巻いた。キッチンへ歩きながら髪をひとつに結び、シンクにひたしてあるコップを洗う。父は蕎麦がいいらしく、寿司か蕎麦の二択で揉めている。
「それじゃジャンケンで決めるか」
「いいぜ。何回勝負?」
こういうとき弟は張り切る。いつもは、めんどくせぇ、が口癖なのにおかしな子だ。そんなことを頭の隅で思いながら、弟が飲んだ炭酸飲料の缶を濯ぎ、出窓に設置したトレイに立て掛ける。プランターの中で育っているハーブと野菜の成長を確認しつつ、台布巾をじゃぶじゃぶと洗った。小窓から外を見る。隣の家の庭と、近隣の外壁と、その隙間からは奇跡のように陸橋の一部が臨める。――まるで妖精の通り道だね。
いつかの夕暮れ時に若葉さんが言ったそれを、私は今も無意識に反芻している。静謐な空気が満ちる朝も、激しい雷が鳴る雨の日も、なにげないありふれた日にも。ここから見た風景を若葉さんが思い出すことはあるのだろうか。
「アネキ、誰か来た」
弟の呼びかけに我に返った。インターホンが鳴っているのだ。
慌てて返事をする。
水に濡れた手をタオルで拭きながらモニターを覗いて、目を見開いた。玄関に立っているのは圭介だった。
「誰だ?」
固まった私の背後から父がモニターを覗き込んだ。
「圭介くんか。せっかくだから彼も誘おう」
父の提案を背中で聞きながら、玄関へと飛んでいく。無意識に髪の先を整えた。
ドアを開けた。その瞬間、後ろにある風景のすべてが圭介だけを残してさあっと離れていった。強すぎる幻覚にとっさに目を瞑った。
「心菜……」
圭介の声。懐かしくて愛しい声が私の名を呼ぶ。
【第四章おわり】
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