既視感の行きつく場所へ

 目の前に道哉が音を立てて腰を落とした。

 「で、どうする」と聞くその声は質問系ではなかった。

 圭介が見えなくなった窓の外から視線を戻し、俯いて瞼を落とす。 


 私は、想像している。

 走って帰った家路で、制服のまま飛び込むスーパーで、洗濯物や布団を干す日曜日のベランダで、圭介は私を見ていた。道哉と過ごした学生時代も、背伸びをして恋をしていたあの頃も、終わった恋を引きずって悶々と過ごした日々にも、なんの違和感もなく圭介の姿が紛れ込んでくる。ひとりだった時間のあちらこちらに、圭介はいつも私の傍にいたのだ。


 嫌悪感は湧かなかった。

 それどころか、じわじわと増す温かさで何年にも遡って私を包み込んだ。


 

「若葉さんと会ってくる。過去のことを謝って、区切りをつけたい。私たちの未来のために」

 自分が希望を胸に、“未来”という言葉を口にするなんて思いもしなかった。

 そのことが新鮮で、――でも怖かった。

 慌てて弱い自分を励ます。

 私だけ、いつまでも逃げるわけにはいかないから。





   ♰



 若葉さんは待ち合わせのカフェで、ひとり所在なさげにしていた。壁掛けの時計を見たり、周囲の客に何気なく視線をむけては俯いたり――

 ガラス張りの店内にそんな若葉さんの姿を認めた瞬間、やっぱり私の足はすくんでしまった。圭介の母親として対面したあの日の衝撃が忘れられない。それでも、進まなければならない。圭介との未来のために。


「……遅れて、ごめんなさい」

 私が言う前に、若葉さんは店の中へ足を踏み入れた私をみつけて高々と手をあげて迎えてくれた。浅黄色のサマーセーターとタイトな白いパンツ、肩の上ではねるヘアスタイルは、黒い服を着ている私とは対照的で、眩しい。

「いいのいいの、座って」

 まるで普段会っている友達みたいに、若葉さんはとてもラフに私を巻き込んだ。

「荷物、ここに置いて」

 座るのすら躊躇う私に四人掛けのひとつの椅子を引いて、遠い記憶の中の、くちゃっとした笑顔で私を見た。

「ねえ、なに飲む?」

 緊張しながらそっと座ると間髪入れずメニューが開かれた。

「えっと」

 若葉さんの空になったグラスを見た。溶けた氷と一緒にミントの葉が沈んでいる。

「それとも何か食べる?」

「だ、大丈夫です。アッサムティーに、します」

 咄嗟に、あの頃の若葉さんがよく頼んでいた紅茶を口にして、これが正解か不正解か頭の中が混乱する。

「私も二杯目それにしよう。――ここ、冷房強いよね」

 口元に手を添えた顔が近づいてきた。一瞬にして月日が巻き戻った錯覚が起きる。

「若葉さん、髪切ったんだね」

 自分の口から出た言葉が意外で、驚いた。謝罪も敬語も、唐突に私の辞書から消えてしまった。

「そうなの。ちょっとイメージチェンジしたくなったの。短すぎない?」

 若葉さんは会話を続けてくれた。

「ココちゃんは昔と同じ長さだね」

「私は、あんまり冒険できないの」

 だから私も若葉さんの返してくれたボールを拾って、投げる。久しぶりに呼ばれた愛称に、若葉さんを追い出すために画策した愚行の数々が、軋むような痛みを連れて溢れてくる。

 店員がアッサムティーを運んできて、テーブルの上で薔薇の絵柄のカップに最初の一杯を注いでくれる。残りの紅茶が入った大きめのポットには冷めないようにティーコジーを掛けてくれた。


「――私ね、若葉さんを圭介の家で見たときね、あのとき、」

 謝るはずが、言葉は喉の奥で勝手に止まった。息を吸おうとするだけで涙が出そうになり慌てて天井に視線を上げた。

「ココちゃん、ごめんね」

 若葉さんの手がテーブルの向こうから伸びてきて私の剥き出しの腕を撫でた。

 ……あ、

 優しい疾風と共に、圭介と初めて手を繋いだときのテクスチャーが呼び起こされた。現実に見ているはずの世界が入れ替わって一瞬で元に戻り――、私は確信的に、何度も頷く。だから私は圭介を受け入れたのかもしれないと。

「驚かせちゃったよね、やり方、間違えちゃった、ココちゃんに辛い想いさせちゃったよね」

「……」 

 涙を堪えて強く左右に首を振った。

 こんなに素敵な人を、あのときなぜ私は『お母さん』と認めなかったのだろうかと、どうしようもないことを、悔いた。

「圭ちゃんは、お父さんにココちゃんを紹介することとココちゃんに結婚を断られないことのふたつで悩んでいたから私も一緒にあれこれ知恵を絞ったんだけど、まず会わせちゃおう! 会っちゃおう! そしたら案外すべてうまくいくかも! って結論になったの。それがこんなことになっちゃって」

 ……。

 既視感に、言葉にならない。

 若葉さんはとてもストレートで画策とは無縁のところに生きていて、それは今も健在なんだ。

「……大丈夫、若葉さん、謝らないで。シチュエーションが違っても、きっと同じ」

 どんな風にセッティングされようとも、私の奥に居座っていた罪悪感が私を必ず、今回と同じ行動へ導いたはずだから。


「若葉さん、知っていたんでしょう。私がいろいろ、若葉さんにやってたこと」

 切り出した。

 謝るのは今だ、と思った。

 若葉さんはちょっと驚いた顔つきになって、そしてまた、くちゃっと笑った。

「いろいろあったよね。男友達が次々に会いに来たり、近所のおばさんたちにスカートが短いとか、マニキュアの色が派手とか、ヒールが“お母さん”らしくないって注意されたなあ、そうそう、ココちゃんたちの学校の先生にもよーくお説教されたなあ、懐かしいなあ」

「怒ってないの?」

「怒ってないよ」

 その言葉にも表情にも陰気なものは何もなかった。

「あの頃。ココちゃん、いろいろ考えてすごいなって思ってた。ただ、ココちゃん本人が痛い想いをしなきゃならない悪戯は、ちょっと苦しかったな」

「ごめんなさい」

 過去と今とを並べて言った。言葉にしてから、ようやく謝ることができたと気づいた。

「ごめんなさい」

 もう一度言った。今度は噛みしめるように。

 勢いで謝った一度目よりも二度目の「ごめんなさい」は意識的に言った。

 若葉さんは私の腕にまた触れた。

「もういいよね」

 ね? と強く念を押された。

「――うん」

 私は、こくっと首を落とした。

 傷ついた側の若葉さんが私を許してくれるなら……、私に異論があるはずがない。


「ふふ」

 急に若葉さんが思い出し笑いをした。

「笑っちゃうようなことがいっぱい起きたよね」

 店内の時間はゆったりと流れていた。私たちは――、いや、若葉さんは私の行為を思いつくままに口にしていった。それはたぶん私のためだったように思う。ひとつずつ検証し、それに残らず若葉さんが笑ってくれて、共有しているあの頃の記憶を広げるたびに私の罪は風船が割れるように消えていった。不思議な感覚だった。長い長い年月、自分のしたことの醜さに怯えて後悔し続けてきたのに、許されたあとは爽やかな風しか残っていないなんて。


「じゃあ、若葉さんが用意した弟の持ち物を、朝起きて私が抜き取ってたことも知っていた?」

「やられたーって思った」

 若葉さんは笑って、両手の拳を顎の前で振って悔しさを表現した。

「雑巾とバスタオル、一緒に洗濯機で回したり」

「あった、あった!」

「次の日に私の授業で必要な工作用品を買い忘れたり」

「そうそう! 慌てて買いに行ったけど店は閉まってて」

 私が買い物カゴからそっと抜き取って元の場所に戻したのだ。

「若葉さんが洗濯物干してるとき、私の塾用のバッグ、雨水入りのバケツにどぼん」

「あれはごめん。まさか落ちると思ってなかったの。参考書もノートも全部水浸しになっちゃったんだよね」

「落ちるのは時間の問題だったの、理科の授業でやった実験を試したんだ」

「知らなかった!」

「じゃあ、弟の運動着のゼッケンがすぐ取れちゃったことは?」

「えっ、それもココちゃんだったの? それは私のお裁縫がヘタだからだと思ってた」

 若葉さんは身振り手振りを交えて驚いたり悔しがったりしてくれた。私は同じリズムでその優しい計らいに応えることしかできない。だからせめて、心の中で何度も“ありがとう”と“ごめんなさい”を繰り返した。



 ふいに言葉が途切れ、私たちを柔らかく包んでいた空間に、必然の沈黙が出来た。



「ココちゃん、私の我儘を聞いてほしいの」



「うん、大丈夫……、私、それでいい」


 若葉さんの声色と表情と、夕刻を告げる街の音に若葉さんが居住まいを正したとき、――ああ、若葉さんは今日、私に会ってくれたのだと分かってしまった。数秒先に若葉さんが言うだろう言葉に、こう答える以外、私になにができるだろう。


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