闇の中の光
「妹が生まれて」
ほどなく圭介は弱い声で喋り始めた。
「妹?」
唐突に質問とは無関係な単語が出てきたことに道哉が怪訝な声を向けている。
「最初は嬉しかったのに、ときどき、すごいイライラして、そんな自分に怖くなって、でも苦しくて、どうしたらいいか分からなくなって」
重力があるような圭介の声が心配になり、私の体は無意識に背もたれの方へ向いた。
「親父たちの結婚はスムーズだったわけじゃなかった。親父は何十回も振られてるのに懲りずに口説き続けて、あるとき本気で振られた。母さんは、結婚は子供のいない人としたい、と言った」
圭介がひどく緊張しているのが分かる。早口の、抑揚のない声が続いた。
「心菜のお父さんが、別れるときに言ったことをずっと考えていたって言ってた」
「おじさんが、なんて?」
「“きみの人生から子供を産む選択肢を奪うことにならなくてよかったと、今は思う”
“子供は無条件で可愛い。それが自分の子供と結婚相手の子供とでは違うのかどうかなんて――、できればきみには、そんな難しいことを考えなくてもいい相手と、幸せな結婚をしてほしい”
心菜のお母さんの遺言だったって。
“いつか再婚しても子供は作らないでほしい。ふたりの子供だけを自分の子供だと思って育ててくれる人と再婚してほしい”
心菜のお父さんと母さんは、それを守ると誓って暮らし始めたって」
「――!」
私はてのひらで口元を覆い、声が漏れないよう必死で耐えた。
……知らなかった。普通の精神状態ではなかっただろう母が残した願いを父は守って、若葉さんはそれを受け入れて私たち家族の元へ飛び込んできたのか。
「自分たちと家族になることを拒む理由を知って親父は心菜のお父さんに憤慨したし、それを母さんにも言ったと思う。俺は――どうだったかな、親父の味方をしていた記憶しかない。とにかく一生懸命、言った。『親父と母さんに子供ができることは大賛成だ』『妹や弟ができるんだったら賑やかで嬉しい』『幸せに決まってる』何度も。何度も。親父の情熱的なアプローチもあって、ふたりは結婚した。すぐに妹ができた。一点の曇りもなく祝福したのは俺だから、妹の後に弟も生まれて、ときどき自分の居場所がなくなったみたいに思えて疎外感に押し潰されそうになって、そう感じることが意外で、驚いた。俺は自分で自分がわからなくなっていった。俺を置いて出ていった母親に会いに行ったこともある。新しい家族と幸せに暮らしてる姿を見て意味もなく打ちのめされて傷ついて、行動を起こした自分に苛立って、怒ってるのか哀しいのか感情がぐちゃぐちゃで……。でも家に帰ったら妹たちが俺を取り合って騒いで、母さんは優しくて、親父も楽しそうで、家の中はいつもと同じに明るくて、俺は自由で。そうだった、俺には家族がいたんだってほっとした。なのにしばらくするとまた俺はおかしくなる。自分ではどうすることもできないんだ。そんなときに、心菜に会いたくなった」
圭介の告白に圧倒されているのか道哉の相槌も聞こえなくなった。
私も息を詰め耳を傾けている。
「心菜と俺じゃ立場が違う。だけど心菜が、学生時代の楽しいことを全部犠牲にして家のために奔走してるのを見てると、俺は甘えてんなって、思った。家には仲のいい両親がいて念願だった妹弟ができて賑やかで、俺は友達と遊んだり部活をやったり、なんだって好きなことをやらせてもらって自由に暮らしてる。これが幸せじゃなかったらなんだよって。だけど俺は弱いから、気がつくとまた不貞腐れて、いじけてくる。胸の中が黒い塊でいっぱいになったら心菜に会いにいった。母さんを選ばなかった心菜が迷ってないのに、母さんを選んだ俺が迷うなんておかしいから。頑張ってる心菜を遠くから見て俺もしっかりしなきゃって。……だからムカついたんです。心菜が学校から真っ直ぐ帰って家のことをしてる間にあんたが他の女とちゃらちゃらしてるのが」
ふいに、言葉が止まった。
「……いや、別にね、ちゃらついてたつもりはないんだよ」
宥めるような声だ。道哉は、私の存在を意識して言い訳をしているのかもしれない。
「心菜は男運がない。あんたの次はあんな男だ。あんたと同じだった。どいつもこいつも、心菜をその他大勢のひとりとして扱うなんて、ありえない」
……圭介、
唇の中でつい、語り掛けてしまう。
――心菜は特別なんだからな
圭介はいつも言ってくれた。そのたびに私は恥ずかしさを持て余して、窘めた。――あのね、圭介、恋は盲目って、圭介のような人に使うんじゃないかな
「つうかさ、ココに男運がないんだったら第三の男であるきみも、その可能性があるんじゃない?」
「一緒にしないでください。俺は心菜だけを大切にしてます」
「どうだか」
「どういう意味ですか」
道哉が軌道修正を始めたと気づく。予定通りの“台詞”が聞こえてくる。
「土壇場で婚姻届け出し渋ったって聞いてるよ。結婚を継母に反対されたとか」
「……それは誤解です」
「けどきみの母親はココのせいで傷ついてボロボロになったんだろ? 恨んでて当然だよな」
「俺は、母さんからそんな風には聞いてません」
「じゃあ、どんな風に聞いてる?」
「“父親似の心菜とはすごく気が合って一緒にいると居心地が良かった”って。“だから家族を守るために心菜が仕掛けてくるちょっぴり度が過ぎた悪戯の数々がいじらしかった”って。他にもいろいろ――、とにかく母さんは、俺たちのことそっと応援してくれてましたし」
「応援?」
「隠し撮りした写真を、母さんに見られたんです。俺の闇、みたいなものに気づいてた母さんは、俺が心菜になにかするつもりじゃないかって心配して、そうじゃないって説明したらそこから共犯関係みたいな感じになって、俺が心菜を見に行ったときはどんな様子だったかこっそり報告したりして」
「――っ」
弱く、震えるような吐息が漏れ出てしまう。
圭介が語ることのすべてに、驚きしかない。
「俺が心菜に恋をしてるんじゃないかって、気づいたのも母さんで。俺は自覚がなかったから、ちがうちがう、ただ見てるだけって。けど、じゃあなんで、あのビルのバイトを探したんだろうなって。自分の気持ちにようやく立ち止まってそれで」
「ってことは、だ」
道哉が急いで確認を始めた。
「圭介クンは母親の仕返しのためにココに近づいた、わけではないと」
「なんでそんなハナシになるんすか?」
「ふーん。なるほどね」
言いながら大きく伸びをしたのか、道哉の声が少し高い位置から聞こえてきた。
「圭介クン、幼なじみの俺からひとつ頼みたいことがある」
改まったそれに私も反応する。これは“台詞”にはないから。
「きみも十分知ってると思うけど、ココは意地っ張りで頑固で、素直さの欠片もない。きみとの結婚も障害を前にしたらあっさりやめようとしたように、物事に執着しない。そういうヤツ。――っていうのはそう見せてるだけで、めちゃくちゃ我慢してるよ。だから、それ、解放してやってくれないかな。時間掛かると思うけど、粘り強く。出来んだろ?」
「もちろんです」
「俺はココのそういうとこ見て見ぬふりっていうか、まあ、俺も似たような人間だから、踏み込んでほしくねえんだろうなーとか勝手に忖度して今日まできたんだけどさ、……違うよな。きみに教えられたよ。ガンガン踏み込んでやってよ。それココも望んでるはずだからさ」
「ありがとうございます」
「――あ。電話」
道哉が鳴りもしない携帯を尻のポケットから取り出して「どうしたココ」と話しかけた。
最後の段取りだった。
私が待ち合わせの場所へ向かう途中で怖気づいて家に戻ってきてしまった、と道哉に相談の電話をかけ、それを道哉が圭介に伝え、圭介を私の家へ向かわせる、という計画だ。
圭介は、道哉が「ココは家に戻っちまったらし――」と言ったあたりでがたっと音を立てて立ち上がり――
止める間もなく店を出て行った。
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