その日、別に訳もなく、私は『走ろう』って決心した
Side A
その一週間後の土曜日の朝。俺の携帯電話が鳴った。画面には『結城 鎧』の文字。
「もしもし?」
「ああ、どうも。実は今、君の家の前まで来てるんだ。ちょっと出てきてもらえないかな?」
「? いいけど、何なんですか?」
「外で話した方が良いと思う。すぐに車に乗り込めるだろうし」
「?」
俺は玄関から外に出た。結城さんが黒塗りの車の傍に立っている。
「やあ。実は今、うちの団長がフルマラソンの大会に出ていてな」
「なっ!!」
「彼女の許まで君を連れていくのがいいと思ったんだ。行くかい?」
「行く! 頼む!」
そう言って俺は車に乗り込んだ。
「………」
俺はずっと俯いていた。気を使ってくれたのか、隣に座っている結城さんが口を開いた。
「何か話していたければ、好きに喋ってくれ。聞くくらいならできるからさ」
「……これは、全部あいつから聞いた話なんだ。俺の頭じゃとても全部理解なんてできない。世間の知識とすり合わせることすらしてないしな。
あいつは、運動していると、どういうわけか右腕の力が抜けてきてしまうらしいんだ。
右腕の力が抜けると、体がバランスを取ろうとして、左の股関節からつま先にかけての力が抜ける。そうすると、右足に力が入って、左腕にも力が入る。そんな感じで体のあちこちがギクシャクしてしまうらしい。だから体を動かすことが苦手みたいだ。
人間はリラックスしている時、体がバランスをとるための最適な動きを、もっとも気持ちの良いものとして感じるようになってる。運動やトレーニングの後にそれを繰り返して、自分の望む動きをするための体に、ほぼ自動的に調整していくんだってな。
あいつは、自分の体の感覚にものすごく敏感なんだ。どこにどれくらいの力が入っているかを、ほとんどすべて感じ取ってしまう。そして意識的にバランスの悪さを直そうとする。頻繁にな。だから体がリラックスするってことがうまくできないみたいだ。
そしてあいつは言ったよ。
『それは、私が全然本気を出してないってことなのさ。本気で集中すればそんなことは考えることなんてない。私は何かを恐れてる。目の前にある何かを見落としてる。もっとやれるはずなんだ』
いったいどこまで――」
車が止まった。
「このあたりのはずだ。ああ、あのテントだな」
結城さんが指差したテントを見て、俺は車から駆け下り、走っていく。見慣れた顔がこちらを向いた。
「やあ、キョン」
平然とした笑顔で俺を見る佐々木。だが、くたくたになっているのが分かる。
「お前…… 何やってるんだ!?」
「見ての通り、フルマラソンに挑戦さ。でも10km付近でリタイアだったよ。私もまだまだ――」
「お前、5kmの持久走でもフラフラだったじゃないか!? なんで、いきなりこんなのに出てるんだよ!?」
「ハルヒさ」
「……なんだって?」
「彼女に負けたくないからだよ」
「お前たちが何を競っているっていうんだよ?」
「……それは、わからない。わかっていても言葉にできない。言葉にできても君にはきっと伝わらない。そんな感じかな」
俺は、こいつに、こいつらに及ばないのを心底悔しく思った。きっと今俺は酷い顔をしているだろう。歯に力が入っている。食いしばっているんだろうか…… 何だかもっとひどい事になりそうだ。こいつは、きっと諦めない。それが悪いんじゃない。でも、こいつの言葉は俺の心に突き刺さっていく。そんな笑顔で言わないでくれよ。頼む。
「この前の勝負の時に君が言ってくれた言葉で、私が恐れていたものをまた一つ見つけられた。だから、こうしようって思えた。とにかく動こうって。まだ私の中にも、知らないものはたくさん―――」
何かが切れた。
「真面目も、大概にしろっ!!」
思わず叫んでしまう。そのまま、俺たちは黙り込んだ。俺は足が震えるようだった。変だな。走っていたのはこいつのはずなのに。
俺は、佐々木を休ませてから、少し離れた場所で、結城さんと話していた。
「……あいつは、走るのが大嫌いだったんだ。俺にはそう見えていた。
走ることだけじゃない。スポーツ全体が嫌いみたいだった。他の奴を押しのけてでも何かを得るっていうのが、あいつには今一つ解らなかったみたいでな。
そんなあいつが、なんだか気にかかってしまって、時々姿を追うようになってた。それである時気付いたんだ。
教師や周りの生徒があいつに接するとき、挨拶とか掃除とか日常生活の色々、なにかの簡単な頼み事とかさ、そういうものが他の奴らに比べてレベルがすごく高いものを要求しているってことだった。
それに気づいたとき、俺は愕然とした。あいつに接している奴らはそのことに全然気づいていない。悪いとも思っていない。ただ、あいつなら何とかしてくれる、だからそれを求める。そんなことを無意識にやっているとしか思えなかった。これじゃ陰湿なイジメと何も変わらないじゃないかってな。
だから俺は、あいつに詰め寄った。こんなのダメだ。お前らひどいぞ、って言えって。お前一人で言えないなら俺も一緒に言ってやるってな。
そしたら、あいつは言ったよ。
『確かに君の言う通りだ。鋭い目を持っているね。でもこれはきっと、私がもっと前に進むために自ら望んで招いたものなんだよ。ちょっと行き過ぎているのは感じるけど、私は今、自分の体を動かせるのが楽しいんだ。疲れが来たら休むよ。今は自分でその判断ができると思うんだ』
ってな」
「……ふぅん」
「俺は自分がものすごく小さく思えた。そしてちょっとだけ解った気がした。走るのが嫌いなのは俺の方だったんだってな。
俺もそんなに足は速い方じゃない。あの時の俺に、走るのが好きか嫌いかって言われたら嫌いだって答えただろう。でも嫌いなのは走ること自体じゃなかった。何より嫌だったのは周りの連中さ。
持久走の時間とかに、明らかに力を抜いている奴ら、歩いたり、立ち止まっていたり、座り込んでサボってるやつらまでいる。そして教師たちはそいつらに注意もしない。そりゃ時々はするけどさ、度が過ぎてることがあったりする時とかな。でも、ある程度落ち着いてる時には、佐々木みたいに真面目にやってるやつらに声が飛んでいく。俺はもう聞きたくなかった。
だから俺は言ったんだ。もう頼み込んでいるようなものだった。この世にズルやインチキをしない人間なんていない。俺も少し力を抜くから。お前ももう少し楽になってみろ、いや、なってくれ。みたいな感じでな。それでもあいつは止めないんだ。
俺はもう訳が分からなくなっていた。ただあいつを一人にしたくない。そんな思いで、いつしか俺も真面目にやってた。……なんで俺はこんなことを話してるんだろうな」
佐々木の体調が落ち着いてからも、俺はしばらくその場に居た。そのままでいたかった。こいつが頑張るのを応援したいとは思う。無茶をしたら止める役目も、俺は好きなんだ。だけど、これ以上行ってしまったら、俺はもう追いつけないんじゃないか? こいつが元気になってくれるのは嬉しいはずなのに…… この気持ちは何なんだ?
何だかんだ言っても、戻らないといけない。三人で車に乗り、俺たちの街へ帰っていった。
Side B
数日後の昼休み。私は、SF研の部室で、キョンに向かい合って話していた。
「キョン。君もどこか感じているかもしれないけどさ。入学した時のハルヒの宣言にもう一人彼女が望んだ人がいたよね」
「ああ、異世界人だったな」
「私は、そのことについて、ちょっとだけ引っかかっていたんだ。まあ、宇宙人に未来人に超能力者が実在しているんだから、異世界人がいたっておかしくないと思うよ。でも、ここに来て一つひらめいたんだ」
「ふーん…… 何をだ?」
「私はね、少し前まで、この世界が大嫌いだった。どこか別の世界に行きたい、ってずっと思っていた。だけど行けなかった。当たり前ではあるんだけどね。でもこの数か月のうちに私たちに起こったことを考えると、私が本気で望んだならば行けない世界なんて無いはずなんだ。つまりさ、あの頃の私も、なんだかんだ言ってこの世界が好きだったんだよ。そして世界の方もそれを望んでいたのさ」
「……へぇ」
「だから、もしも異世界人なんてものが居るとしたら。自分が元々居た世界を心底憎んで、世界の方からも憎まれた者ってことになるだろうね。すごく悲しい話だよ」
「……そうだな」
「そして、私も異世界人との邂逅を望んでいる。私はずっと求めていた。お互いに呼び合っていた。きっとね」
「今度は異世界人を探すのか? ハルヒの側が異世界人なら、お前の方にはどんなのが来るんだ? ネクロマンサーか? それとも、もう人型じゃなくて、ドラゴンとかか?」
「私の側も異世界人だと思う。このままハルヒとは共闘関係になるかもしれないよ」
「共闘?」
「私が求めた、欠くべからざる重要なピース。それは『敵』さ」
「敵?」
「いくつかの道標をたどって、そのことに気付いた。
敵は探すものじゃない
ひしひしと僕らを取りかこんでいるもの
敵は待つものじゃない
日々に僕らを侵すもの
邂逅の瞬間がある
私の爪も歯も耳も手足も逆立って
そんな感じだったかな。他には……
敵がいなけりゃ 始まらない
手も足も出ない ミミズだよ
あてもなく 床をのろのろと
そんな平和じゃ 俺たちゃ飯の食い上げ
あとは、確か……
敵より他に師はいない
敵だけが、自分のどこに弱みがあるかを教えてくれる
敵だけが、自分のどこに強みがあるかを教えてくれる
おまえが敵になにができるか
敵がしようとするなにを阻止できるかを見出すこと
そんなところかな」
「それも、ずっとどこかにあったのか? 気付かなかっただけで」
「そうさ。きっとまだいろんなものが、私たちを待ち焦がれているだろうけどね」
「今のも、自分で探せって言うんだろうな。昔みたいに」
「そうだね。でも、最後のは『エンダーのゲーム』だったと思うよ。なんだかそこは記憶があいまいでね。間違ってるかもしれない。もし読んだなら、合っていたかどうか教えて欲しいな」
「ああ、読んでみるよ」
「うん。さて、それではまた放課後にね」
放課後、私はSAS団とSIS弾の合同ミーティングを呼びかけ、そこで話した。
「みんなで私について来てほしい。そして、私がすることを黙って見ていてほしい。時間にしたら10分くらいだから」
そしてみんなは、私について来てくれた。たどり着いたのは、時々待ち合わせ場所に使っている駅前。私は、立ち止まり目を閉じ深呼吸をして、そして目を開く。キョンが近寄り尋ねた。
「何する気なんだ?」
「宣戦布告さ」
「宣戦布告?」
私は持ってきたラウドスピーカーをカバンから取り出し、スイッチを入れる。起動時のキーンという音がする。口元にあて、そして叫んだ。
みんな!! 楽しく生きてるか!? 私は今、すごく楽しい!!
好きなものを好きだって思える!! ただそれだけで良かったんだ!!
私はやってみせる!! 手に入れてみせる!! 望んだものを全部!!
そして今こうやって叫んでいられるのは、全部あなたたちのおかげなんだ!!
だから、言わせてくれ!! ありがとう!!
―――――
俺は、呆然としながらも、心の何処かが震えるのを感じた。
そして、佐々木との距離が開いていくことが分かってしまった。
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