Ⅰ-2
真由美に会うのはずいぶん久しぶりだ。
幸也は機械的に足を動かしながら、内心とても動揺していた。きっと幸也の背を見送っているだろう真由美の視線から逃れるために、駆け出したくなる衝動を無理やり抑えつけていた。心臓がどくんどくんと妙に大きく打ち始める。
さりげなく角を曲がって真由美の視線から逃れると、幸也は一気に駆け出した。全力で走る幸也の脇を街の灯りがすごいスピードで流れてゆき、いつもより早く家についてしまった。幸也はそのままの勢いで玄関ドアを乱雑に開けると、二階へ駆け上がって自分のベッドの隅にどすんと座った。
荒い息を整えてごろんと横になると、ぐるりと視界が変わって天井が目に映る。本気で走って帰ってきたから、まだ胸が大きく上下している。
目を閉じるとさっきの真由美の心配そうな顔が瞼の裏にくっきりと浮かび上がってくる。
近いうちにきっとやってくるだろうな。
幸也は確信に近い思いでそれを感じ、同時にひどく当惑した。
真由美は来る。必ず。
幸也は自分が嬉しいのか嬉しくないのか、よくわからなかった。
真由美は自分を一番よくわかってくれるという安心感が幸也の中にあった。真由美だけは自分につらくあたらない。幸也は真由美が好きだったし、彼女が来るのをいつも待ち遠しく思っていたはずだった。
それが、この半年の間で少しずつ何かが変わってきていた。
幸也は真由美に会いたいと思っている反面、彼女が来なくなってほっとしている自分がいることに気がついたのだ。
真由美が来なくなったこの半年間、幸也はずっと自分の中に閉じ籠っていた。学校でも家に帰ってからも。本を読んでいるとき以外は、思考の中に入り込みぼーっとして過ごした。半ば眠っているように。そうしていれば、誰も彼を傷つけられない。彼は同じ場所にいても、違う世界にいるから。彼の周りはゼリーのような柔らかい何かで包まれていて、幸也はそれを通して外の世界を見ているから。
だけど真由美は違った。彼女だけはこの優しく温かい世界に彼をとどめおいてくれない。冷たい風の吹き荒れる厳寒の荒野へ引き摺り出そうとする。
硬い蓮の種は、周囲の状況が自分に適していると感じるまで、何百年も何千年も眠り続けるという。そうやって自分を守るそうだ。幸也もそうやって自分を守ろうと閉じ籠っているというのに。周りの人たちが彼を受け入れないから。
それなのに、身を守るためのその硬い殻を真由美は無理にこじあけて、安息のうちにいる幸也を冷たい外気に晒す。剥き出しにされた神経は鋭い刀に容赦なく傷つけられるだろうに。
僕は外に出たくはないんだ。ずっとこのままでいたいのに……。
「幸也? 食事の用意ができたわよ」
軽いノックの音とともに蚊の鳴くようなか細い声が幸也の耳に届いた。
いつにもまして怯えた小鳥のような声だ。僕が乱暴にドアを開けて階段を駆け上がったから、機嫌が悪いとでも思ったのだろうか。
幸也はのそりと立ち上がって斜めに部屋を横切りドアを開けた。開いたドアの隙間から、がちゃりという音に振り返った母親の恐怖に引きつった白い顔が見えた。それは一瞬にしてとってつけたような微笑に変わった。
けれど瞳は、獣の足元に捕らえられ致命傷を負った小動物のように怯えきっていて、弱々しい光を放っているに過ぎない。
見なければよかった。
幸也はそっと溜め息を吐いてドアを閉めた。
いつもなら、顔を合わさないためにすぐにドアを開けたりはしないのに。乱暴に帰宅した自分の行為への後ろめたさからか、つい開けてしまったのだ。
幸也がちょっと睨みつければ、すぐに崩れてしまう作り物の微笑。それを見る度に傷つけられるのに。
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