Ⅸ-3
「私はやっぱり駄目な母親ね」
幸也がいなくなると、大きく溜息をついて佳代は言った。ソファに横たわったまま、天井を見ていた顔を両手で覆う。目尻から涙が伝い落ちる。
真由美は佳代のすぐそばに跪いて話しかけた。
「過呼吸、今日が初めてじゃないんですか?」
顔を覆ったまま微かに頷き、
「でも、もうずいぶん長いことなかったの。自分でも忘れていたぐらい。幸也がまだ赤ん坊の頃に何回か……」
「それって幸也を抱っこする度ってことじゃないですよね?」
佳代は力なくかぶりを振る。
「幸也を寝かせて、夜に一人で寝るときに」
長い間出ていなかったのに、どうして急に?
「さっき。幸也を抱きしめようとした瞬間に、あの時の情景が頭の中にぱっと浮かんでしまったの。思い出そうとしたわけでもないのに。そしたら急に胸が苦しくなって……」
ずっと近づかなかった、気持ち的に近づけなかった幸也。やっと気持ちの整理がついて、抱きしめたいと思えるようになった今になって。
フラッシュバック。
簡単にはいかないかもしれない。
「話をするのは、大丈夫でしたよね?」
返事はない。
が、大丈夫のはずだ。幸也を笑顔で迎え入れ、普通に話していたのだから。
「とりあえず、そこから始めましょう? 触れられなくても、気持ちを確認することはできますよ」
できるだけ明るい口調で励ますように言う。
「幸也の様子、見てきますね」
佳代にそう言い残してキッチンに行くと、幸也は湯気の上がるやかんをじっと見つめていたが、真由美の気配に火を止めて振り向いた。
「……そんなにうまくいくわけないか」
力なく微笑む。その表情に真由美は胸をつかれた。
「泣いてもいいんだよ」
「でも、……お母さん、笑ってくれたから」
その言葉に真由美の方がぼろぼろと涙を零してしまい、幸也を思いっきり抱きしめた。
「なんで、こんなにうまくいかないんだろう」
何もできない自分がもどかしくて、歯痒くて。
「真由美」
腕の中の幸也が顔をあげる。
「僕は、大丈夫だよ」
さっきよりも、しっかりとした微笑み。
「真由美が、代わりに泣いてくれたし。お母さんが、あんなになってももう一回僕を抱きしめようとしてくれたから」
「うん、……うん」
幸也が微笑んでるのが嬉しくて、また涙が溢れる。
「泣きすぎだよ」
呆れたように幸也が言ったそのとき、けたたましくチャイムが鳴り響く。と同時に玄関の開く音と八重子の声。
「真由美! 幸ちゃん!? ……佳代さん? 入るわよ?」
声とともに足音。
二人顔を見合わせてリビングに戻ると、ちょうど八重子が入ってきた。
「何があったの!?」
勢い込んで訊く八重子の後ろには孝行の姿。
佳代はまだ少し蒼い顔をしているが、躰を起こして。
「お母さんたちこそどうしたの?」
八重子の話によると、今日は二人の再出発のお祝いをしようと腕を揮うつもりで孝行と買い物に出かけた。その帰りに家の近所で立ち話をしている主婦たちにつかまって。ここに救急車が来たこと、真由美が隊員を見送っていたことなどを教えてくれたそうだ。
真由美は通り向こうにいた数人の主婦を思い浮かべ、苦笑する。おしゃべり好きなおばさんたちだ。
「それで、もう大丈夫なのね?」
だいぶ顔色もよくなった佳代を見て、安堵したようだ。
「それなら、今晩はうちでお祝いしましょう」
「お祝いなんて……私は結局幸也を傷つけてばかりなのに」
佳代が俯いて哀し気に言う。
「何言ってるの。まずは初めの一歩を踏み出したんでしょ。障害なんて順番に乗り越えていけばいいの。まずは第一歩よ」
八重子の言葉は力強く佳代の心に響く。
「佳代ちゃん、すまなさそうな顔をするんじゃなくて、笑ってやれよ。幸也くん、その方が嬉しいだろうから」
それを聞いて佳代は幸也の顔を見る。幸也はにこっと笑い頷く。
「幸也が、その方がいいなら。……幸也が笑ってくれたの、初めて見たわ」
嬉し涙が頬を伝う。
「僕も。僕もお母さんが笑ってくれるの、初めて見た」
みんなで笑いあう。
その夜、銀曜館は笑い声が遅くまで響いていた。
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