Ⅶ-3
真由美はそっと手を伸ばし、幸也を抱き寄せた。小さな幸也は真由美の腕の中にすっぽり入ってしまう。
「本当にごめん」
腕にきゅっと力を入れてもう一度口にすると、幸也は微かに首を振った。柔らかい髪が、首筋をくすぐる。腕に胸に、幸也の体温が伝ってきて、母親になった気分。懐に飛び込んできた子供を抱きしめる母親の気持ちって、きっとこんな感じだろうと思う。
人肌の温もりは好きだ。何故だかとても安心できる。じかに伝わってくるその温もりに、愛おしさが増す。
腕の中の幸也は、完全に力を抜いて安心して真由美に身を委ねてはいない。昔は、無防備すぎるといっていいほど弥生や真由美の前ではリラックスしていたのに。今はまだ、少し警戒心が残っている感じ。それでも真由美に黙って身を預けてくれる──完全に真由美を信用していないわけではないみたいだけど。
まだ幼かった頃の幸也は、無性に人肌を恋しがった。
母親に抱かれた記憶がないからだろうか。無意識に安心できる場所を求めていたのかもしれない。いつも弥生の後ろをついて歩いて、服の裾を引っ張ってはすぐに両手を伸ばした。抱き上げてくれる腕の暖かさを知っていて、本能でそれを求めていたのだろうか。
けれど幸也が自分から腕を伸ばして抱き上げてもらおうとするのは、弥生と八重子の二人に対してだけだった。来客が多かった銀洋館のリビングには、いつも誰かが訪れていた。
幸也を初めて見る来客は、色白で顔立ちの整った幸也をかわいらしく思い、すぐに両手をさしだすが、幸也は固まってしまったように動かない。抱き上げられても身を固くしたままで、弥生たちに抱かれているときのように安らいではいない。大泣きこそしないものの、全くの無表情になってしまう。
彼らのほとんどはそんな幸也を見て、
「ずいぶん人見知りするのね」
と言って、すぐに興味を失ったようにやよいに返す。弥生の腕に戻ってきた幸也は、そこでやっと安心して肩の力を抜くのだ。
それは下宿に住んでいる青年たちや、毎週のように訪れる常連のおばあさん方にも同じだった。
今、真由美の腕の中にいる幸也は、その中間。
固くなっていることもないが、完全に力を抜ききってもいない。そう、あの頃の幸也が孝行に抱き上げられたときが、ちょうどそんな感じだったように思う。来客たちのように興味本位なだけでなく、弥生たちと同じように自分を愛してくれていることは感じていながらも、普段会うことがほとんどないだけに、どこかしっくりこない。警戒ているわけではないのだが、自分を全部委ねてしまうほどには信用ができていない。
真由美はそっと幸也の髪を撫ぜてやる。ゆっくりと。
繰り返し、繰り返し。肩に入った力を抜いて、幸也が安心して眠れるように。
「幸也。寝ちゃった?」
小声で訊いてみるが、返事はない。眠っているのかいないのかはわからないが、息遣いはとても穏やかだ。
真由美は片手を動かし続けながら、小さな声で話し始めた。子守唄でも歌うように優しい声で。
「幸也はね、卵なの。──あたしは、守ったり温めたりしてあげることはできるけど、殻を突き破ることはできないの。硬い殻を破ることができるのは、内側からの力だけ。幸也が自分で出てこようと思わなければ、いつまでたっても卵のままなのよ。
卵を外から見ているあたしは、幸也が中から出てくるのを待つことしかできない。……幸也がいつ飛び出してきてもいいように、用意万端整えて待っているだけ。ずっと待ってるよ。──みんなで待ってる。だから、早く出ておいでよ」
幸也が完全に寝ついたと思われるまで、真由美は話し続けていた。
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