Ⅴ-3

 川面を見つめていた幸也は、背後に忍び寄ってきた人物にまるで気づいていなかった。


「ぼうず」


 少ししわがれた低い声とともに肩に置かれた手に驚いて身を震わせ、幸也はおっかなびっくり振り返り、相手を見てさらに驚いて思わず立ち上がって身をかたくした。


 その男は、街の片隅に転がっているホームレスといった風体だ。ぼさぼさの髪には艶がなく、伸び放題の髭とともに薄汚れて縮れている。顔は日に焼けて黒いのか汚れて黒いのかわからないような色をしている。身にまとっている服も、いつから着ているのか破れかぶれで目の粗いつぎはぎがあちこちにあり、全体に黒く汚れが染みついているのに表面は埃で白っぽくなっている。


「そんなに警戒せんでもいいぞ。わしはお前さんに何も悪さをしにきたわけじゃない。ただ、お前さんが……今にも川に吸い込まれそうに見えたんで、声をかけずにいられなかったんじゃ」


 そう言って人のよさそうな笑顔を浮かべた老人はその場に座り込み、幸也にも隣に座るように手でしめした。

 幸也は怖くて逃げ出したくなったが、老人の瞳がとても優しい色をしていることに気づいて思い直し、少し離れてではあるが腰を下ろした。彼の瞳は、他人に危害を加えるというよりは、傷つけられることの方が多かった者の悲哀の色を湛えている。幸也はその瞳に何か惹かれるものがあるのを感じた。自分に通じる何か同じようなもの。


「なぁ、ぼうず。お前さんはわしのことを知らんじゃろうが、わしの方はもうずーっと前からお前さんのことを知っとるんじゃよ」


 老人は幸也が少し距離をとって座ったのをみると苦笑いを浮かべ、それからひどくゆっくりした口調で話し始めた。


「わしが初めてお前さんを見たのは……あれはもう何年前になるかなぁ」


 思い出そうとしているのか、遠くを見つめたまま止まってしまう。幸也が眠ってしまったのかと顔を窺うほど黙りこんで。それからまたゆっくりと話し出す。


「まだまだお前さんは小さくて、弥生ばあさんと嬢ちゃんと三人で手を繋いでいたよ。三人ともいい笑顔で見ているこっちがほんわかといい気分になったもんじゃ。それから時おり見かけるようになって──」


 懐かしそうに眼を細め、ぽつりぽつりと話を続けた。


 

 老人が三人を見かけたのは散歩の途中だったり、公園の中でボールを追いかけている姿だった。彼女たちを見かけると彼はいつも幸せな気持ちになった。

 

 そんな老人が初めて真由美と話をしたのは、真由美がまだ幼稚園にも上がっていない頃だった。


 ある日、老人が土手に座っているときに急に雨が降ってきた。

 やみそうにない雨に橋の下へ避難しようかとのんびりと立ち上がったとき、いきなり目の前に真っ赤な小さい傘が現れて老人は面食らった。

 するとすぐ側で舌ったらずな可愛らしい声がする。


「かしゃ、どうじょ」


 見ると、いつも遠くから見ていた女の子が、一人っきりで立っている。見回しても近くにやよいの気配はない。


「一人かい? それは、嬢ちゃんの傘だろう?」

「いえからもってきたの。さっきすわってるのみえたから。まいみはね、らいじょぶよ。はしってかえりゅから」


 そう言ってにっこり笑うとたーっと走って行ってしまった。



「わしの脚が悪くて動きが遅いのを見てたんだろうなぁ」


 水面を眺めたまましみじみと言う。



 次に会ったときはあめ玉をもらった。ポケットから三つ出してきて、

「ひとおつあげる。もひとつはゆきちゃんの。それともひとつまいみの」


 そうやって女の子はいろんなものを老人に持ってくるようになった。



 話を聞いた幸也も小さいころのことを思い出す。


 そう、真由美はいつだって幸也にわけあたえてくれていた。なんでも『はい、半分こ』と言って幸也に渡すのだ。大好きな父親の膝も『幸也のお膝、こっちね』と並んで一緒に座らせていた。


「それから何年かして、やよいばあさんが亡くなって。お前さんを見かけることはあんまりなくなった。嬢ちゃんは相変わらずいい笑顔であちこちに見かけたがね。たいてい誰か友達と一緒におった。──わしの所へ来るのは、早朝とか夕方とか一人っきりだったがね」


 真由美がそんなことをしていたのを幸也は全く知らなかった。


 当然か。僕は周りを全く見ようとはしなかったから。


「そんなお前さんを久しぶりに見かけたのはこの春くらいかなぁ。お前さんは今みたいな表情で街をふらふらと歩いておった。それからはちょくちょく見かけるようになってな」


 真由美が中学校にあがったからだ。放課後、僕は一人っきりになったから……。


「お前さんの表情が気にはなっていたんじゃが、わしにはなんもできんしなぁ。そう思うとったら近頃急にまた見かけんようになったんで、どうしたんじゃろうと心配しとったんじゃよ」


 言葉を切って幸也を優しく見つめる。


「そしたらこの間、久しぶりに嬢ちゃんと歩いとるのを見つけたんじゃ。

嬢ちゃんとおるときは、お前さんの表情はどことのう、ちごうとった。お前さん自身は意識しとらんようじゃったし、どこが違うかと訊かれても困るんじゃが……こう、消え入りそうな様子じゃなかったなぁ」


 老人は一人で頷きながら話している。


「あの嬢ちゃんに側にいてもらえるお前さんは幸せじゃよ」

「でも、真由美にとってはそうじゃなかったんだ」


 幸也は泣き出しそうな思いで、自分自身に言い聞かせるようにか細い小さな声で呟いた。

 救いを求めるように顔をあげると、幸也を包み込むような優しさに満ちた老人の眼に出会い、幸也は今日あったことと自分の気持ちを──矛盾したたくさんの思いを少しずつ吐き出していった。


 初対面の人間に対してそんなにも話をしてしまう自分に彼自身驚いていたが、この老人には本心を喋らせてしまうような安心できる雰囲気があった。それは真由美に対する安心感とはまた少し違ったものだった。


 幸也が全部吐き出してしまい口を噤むと、老人はおもむろにポケットからハーモニカを取り出して、静かに吹き始めた。

 心に沁みいるような何とも言えない音色は、どこか懐かしい曲調で、聴いているうちに幸也は心が凪いでくるのを感じて眼を閉じた。


「わしは今ではこんなじゃが、こうなった初めの頃は人も社会も、わしをこういう境遇に追いやった全てのものを憎んどった。恨めしい気持ちで日々を過ごしとった」


 曲が終わりしばらく静寂が辺りを包んだ後、おもむろに老人は話し始めた。凪いでいた幸也の心を荒らさない穏やかな口調。

 幸也は膝の上に頬を乗せて話に耳を傾けた。

 

「じゃが、今ではこの境遇が気に入っておるよ。ここからはいろんな人生を目にすることができるんじゃ。他人の人生をはたから見ているだけと決めて、もう誰にも干渉されず干渉もしない。そして傷つけることも傷つけれらることもしないことにした」


 老人自らが語ったように彼が人生の傍観者だから、心安くなんでも話せるのかもしれなかった。


「わしは臆病になっていたからなぁ。人間から、人の交わりから逃げようとしていたんじゃ。そのわしに、近づいてきてくれたのはあの嬢ちゃんだけじゃった。嬢ちゃんがまたわしを動かしたんじゃ。こうやってお前さんに話しかけようと思ったのも、あの嬢ちゃんの影響じゃな。……こんなわしにも近づいてきてくれた嬢ちゃんじゃよ?」


 軽く語尾をあげて幸也を見、また言葉を継いだ。


「その嬢ちゃんが、どうしてお前さんを迷惑に思うというんじゃ。……嬢ちゃんがそう言ったわけじゃあるまいに」

「でも、実際に僕は真由美に迷惑ばっかりかけてるんだ」


 父よりも母よりも身近に感じ始めてきたこの老人に、縋りつくような気持ちで訴えた。


「じゃが、嬢ちゃんのほうが迷惑と思うとらなんだら、それは迷惑とは言わんよ」


 幸也はまだ不安そうな目で、老人の口から紡ぎ出される次の言葉を待った。老人が何か答えを持っているような気がしたのだ。

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