第一章

季節が少しだけ秋を先取りしたような冷たい雨が降る六月。

俺は初めて詩亜と一緒に放課後の時間を過ごしている――。


詩亜と恋人になってから早一ヶ月。

普通のカップルだったら考えられないぐらい、俺たちが一緒にいる時間は短い。

放課後に一緒にどこかに遊びに行こうと考えて、三年生の教室に会いに行っても毎回詩亜はもう帰った後だった。もしかして避けられているのかと思ったけど、学校にいる間は詩亜の方から会いにきてくれる事が多くて、クラスとか一年の垣根を越えて学校中で『一年の奴が詩亜を落としたらしい』と噂になっているぐらいだった。

この現状を垣間見た基也からは「他に男がいて、未来は遊びなのかもな」と笑われた。

まさか詩亜がそんな酷いことをするわけがない……とも言い切れない節がある。

実は一緒にいないときの詩亜の姿を俺は知らない。あまり自分のことを話したがらない。

そして詩亜は今のご時世には珍しい、携帯電話やスマホを持たない人だ。だから気軽に連絡を取る当たり前の事が難しい。一応自分のスマホの番号とメールアドレスは教えてはいるが、彼女は電話自体が嫌いらしく、向こうから電話がかかってくることはまずなかった。

自分の恋人を疑いたくはなかった。だけど基也が言った事を否定することも出来ないまま、もやもやした日々を過ごしていたら少しずつ食欲が無くなっていった。

もちろん授業の合間の休み時間に会いにきた詩亜に顔色が悪いと心配されたけど、大丈夫だからと無理して笑って強がった。

でもその次の体育の授業中、グラウンドをランニングしていたら眩暈がして、足元がもつれて倒れそのまま意識を手放した。

目を覚ましたときは昼休みで、俺は保健室のベットで体操着のまま寝ていて、横を向くとパイプ椅子に座った詩亜が泣きそうな顔をこちらに向けていた。

「……寝起き顔を初めて見られた場所が学校の保健室か。ラブホじゃないところが学生カップルっぽいよな」

「馬鹿」

軽口を叩いたら、詩亜は泣きながら問診表を挟むバインダーの角で俺の頭を殴ってきた。

何度も何度も「馬鹿」と連呼して、バインダーで胸や肩を何度も叩かれた。

一通り詩亜が泣き止み、気が済むまで叩かれてから、思い切ってここ最近抱いている事を投げかけてみた。

何故放課後会えないのかって疑問と、他に彼氏がいるのではないかって憶測を。

すると詩亜は放課後については謝り、憶測には殴打で応えてくれた。

そして今日の放課後、俺に知ってもらいたいことがあると言って一緒に帰る約束をした。


――こうして俺達は恋人にしては遅すぎる進展で一緒に歩く行為をしている。でも学校を出てからしばらく経ち、通学路からベットタウンまで一言も会話はない。

それどころか手すら繋いでいないこの状況は、相手に触れることが恥ずかしいカップルを通り越して、少々冷えた人間関係の図になっていないだろうか……。

「なぁ、何処に行くんだ?」

ビニール傘にあたる雨音と、詩亜と手が繋げずにいる右手の寂しい感覚に耐えられなくなって、自分の方から声を掛けた。

だけど詩亜からの声は返ってこない。

無視された事が辛くて、俺は屈み気味に体を倒して詩亜の様子を伺う。

大人びたワインレッドの婦人傘を差す詩亜の横顔は神妙に俯き、何か考え事をしているようだった。

「詩亜!」

今度は声を大きくして呼んでみた。するとやっと気づいてくれて俺が変な体制で覗き込んでいるもんだから、目を丸くして首を傾げた。

「何よ大声出して」

「何処に行くのかなって思ってさ。学校出てから何も言ってくれないからさ」

「まだ秘密よ」

「とは言うけど、この辺は家しかないぞ」

この辺は市の再開発計画で作られたニュータウンだ。閉鎖された工場を潰し、広い敷地に一戸建てを次々と建てたがバブルが弾けて、買い手がほとんどつかなかった。

本当なら近所にスーパーや病院なども建つはずだったけど、計画が頓挫して、結局立地条件が悪い家が立ち並ぶ微妙な場所になってしまった。

町の人はここを夢があった場所として、夢追いタウンなんて皮肉たっぷりに呼んでいて、そのネーミングセンスは何となく洒落ていて気に入っている。

「ここよ」

着いたのは表札に榊原と書かれた詩亜の家だった。格子門の先の家は真新しく、大正時代に死んだジジが建てた俺の古い家とは大違いである。

詩亜は格子門を開き、突っ立って家を眺めている俺の方に振り向く。

「来ないの?」

「いや……あの、さ」

上手く返事が出来ずにいると、詩亜が察して言う。

「親ならいないわよ。あと、私は一人っ子だから」

安堵して息をつく。気がかりだったのは詩亜の両親にばったりと会ってしまった時に、自分をどう説明すればいいのかわからない。

普通に彼氏ですと言えばいいのはわかっているのだが、それを実際に口にするのはかなり勇気がいる。もちろん本当の事を今まで訊けずに悩んで貧血で倒れる俺にそんな勇気はない。

「未来ってわかりやすいわね」

意気地がない事を見抜かれて、ただただごまかすように苦笑いを浮かべるしかなかった。


家の中に入り、通されたのは二階にある詩亜の部屋だった。

雨降りで暗い部屋に明かりを点けて、鞄をベットの脇に置くと、詩亜は飲み物を取ってくると部屋を出て行ってしまう。

一人部屋に残されて手持ち無沙汰に周りを見回した。

詩亜は普段床に座って生活しているらしく、家具は全部背が低い。壁紙は白一色でポスターとかは貼っていない。高校生にしてはずいぶん殺風景で、余計なものがない彼女らしい部屋だと思った。

その中にある二つ並んだ三段ラックの本棚に目が留まった。中には有りと有らゆる種類の本が詰まっている。一つの作品タイトルで上中下巻に分かれた長編小説から英語の原語本まで、普段本を読まない俺としてはこれが本当に同じ人間が読むものなのかと眉を寄せた。

もしかして詩亜は自分が本の虫であることを俺に知って欲しかったのだろうか……でもそれは別に隠すことでもないような気がする。

そんなことを考えていたら、お盆にジュースを載せた詩亜が戻ってきた。目があった彼女は勝手に本棚を見ていたのがいけなかったのか、少しだけ目を細められた。

「ごめん、勝手に……」

「別にいいわよ。気にしてないわ」

表情とは逆に声はいつも通りの詩亜がクッションに腰を下ろしたので、倣って向かいのクッションに座った。

「本棚に知ってる本はあった?」

コップを手渡されながら訊かれたので首を振った。

「横文字ばかりでわからなかった」

ジュースを一口飲み、オレンジ色だからオレンジジュースだと思ったけど、この尾を引く甘さはマンゴージュースで思わず咽てしまった。

「未来は普段本を読んだりしないの?」

「あまり読まないな。あ、でも教科書は読むぞ。嫌々授業中に」

「それは読書と言わないわね」

苦笑いを浮かべながら詩亜は立ち上がって、本棚からカバーのかかった文庫本を取り出して俺に渡す。

「これは?」

「私が一番好きな本」

受け取ったコップをテーブルに置き、手についた水滴を制服で拭ってから表紙を捲った。

本のタイトルは不思議の国のアリス。本を読まない俺でもタイトルだけは知ってるイギリスの有名な児童小説の本だった。

何度も読み返しているのか、ページの端が擦れて丸くなっている。だけどこの本は大切に扱われているのがよくわかる。なぜなら数百冊はあろう乱雑にならんだ本棚の本の中でこの本だけが日焼けしないようにカバーが掛かっていた。

「よっぽど好きなんだろうな」

「うん、大好き」

今まで見たことのない子供っぽい笑顔で詩亜が頷く。

「どんな所が好きなんだ?」

「よくわからない所が好き」

言葉の意味がわからず、次の言葉を待つ。

「私はねアリスの物語はもちろん好きなんだけど、それよりも作者のルイス・キャロルの方が好きなの。彼の本は何度読み返しても物語の本当の内容が理解できない……何故かわかる?」

「何度も読み返している詩亜がわからないことを、一度も読んだことがない俺にわかると思うか?」

逆に訊き帰すと詩亜は小さく笑った。

「それもそうよね。えっとね、この不思議の国のアリスはアリスの為に書かれた本なのよ」

「アリスの為にって、アリスって実在するの?」

「えぇ、実在するわ。説明するとルイスの友人の娘がアリス・リデルって名前で、彼女の為に書かれたものが不思議の国のアリスなのよ。元は地下の国のアリスってタイトルだったんだけど、一八六二年の七月にアイシス川でボートを漕ぎながらリデル家の子供達の前で即興で作ったお話が始まりなんだけど――」

生き生きとアリスについて語る詩亜に俺はただ圧倒されて生返事しか出来なかった。

「――私ね、ルイスみたいな人になりたいの」

不意に俺の顔を見つめて、詩亜が微笑む。

「大切な人の為に、長い時間をかけてもいいからその人の為だけの物語を書いてみたい」

「それってすごく大変そうだな……ところでルイスみたいになりたいって事は、詩亜って小説が書けるのか?」

「まぁね」

先ほどから目に入っていたテーブルの上に置いてあったバインダーの上に手を置き、優しく撫でる。

「それが詩亜の書いている小説か、読んでみたいな」

「うーん、これはまだ完成してないから……でも、読んでみたい?」

俺は力強く頷く。

恋人の事をもっとよく知りたいと思うのは男の性。しかもそれが創作されたものならなおの事読んでみたい。

期待の目を詩亜に向けていると、彼女はバインダーから手を離し、再び本棚から本を取り出して俺に渡してくる。その表情は何処か得意げだ。

「いや、俺は本じゃなくて詩亜の小説が読みたいんだが」

「それよ。著者の所」

言われるまま本に目を落とし、思わず変な声が出てしまった。

ハードカバータイプの本。著者の部分には榊原詩亜とあった。

本のタイトルには見覚えがあって、テレビやネットでよく紹介されているベストセラー作品で、つい最近二百万部を突破したことが話題になっていた。

なんと詩亜は本を読まない俺でさえタイトルを知っている有名な小説家だったのだ。

「びっくりした?」

「うん。信じられない」

そうは言っても、表紙を捲りカバー袖に載っている作者の写真は紛れもなく詩亜が写っていた。

「小説ならこれを読めばいいわ。私の原稿は手書きだから読みにくいし」

詩亜に薦められた小説。これを読めば今以上に榊原詩亜という人物をする事が出来る。

それはとても興味があることだ。だけど、だからこそ俺は本を閉じて詩亜に本を返した。

「読んでくれないの?」

表情を曇らせて自分の本を抱きしめる詩亜に首を振る。

「読みたいよ」

「なら、早く読んでみて」

「違う……俺が読みたいのは小説家の榊原詩亜先生が書いた小説じゃなくて、目の前にいる恋人の榊原詩亜の小説なんだ。だから、その手書きの原稿が読んでみたい」

ふと一ヶ月前の告白をした時に詩亜が言っていた事を思い出した。

『君は、私を私として好きでいてくれる?』

あれは小説家としての榊原詩亜ではなく、十八歳の高校生、榊原詩亜を好きでいられるかを訊いていたんだって今気づいた。

本は正真正銘、詩亜が書いた本だ。でもこの本が形になるまでに様々な人が関わっている。

そういうのではなく、俺は誰の手も加わっていない詩亜の小説が読みたかった。

「そっか……」

詩亜が目を伏せて安心したような声で呟いた。

「未来は他の男の子と違って、本当に私を好きでいてくれるのね」

「うん? 他の奴と何が違うのかわからない」

「覚えている? 屋上で初めて会った日、お決まりの二言目がないって言ったこと。私に告白してきた男の子はみんな小説を読んで私を好きになったって言ってきた」

詩亜の自分の作品を抱く腕が震え、連動するように声も震える。

俺は帯に書かれた文字を見た。人気アイドルの写真と一緒に印刷されている言葉は一言『――泣けます』と目を惹くフォントで書かれている。

帯で本の売り上げが大きく変わる時代だ。有名人の一言は買い手が最初に抱いていた気持ちを変えてしまう。だからこの本は詩亜の作品だけど、アイドルの主観が入るだけでそれはもう詩亜だけの作品じゃない様な気がした。

「本を読んで私が好きになったなら、私じゃなくて本に告白すればいいのにっていつも思ったわ」

「俺の事もそんな風に本を読んで好きになった一人だと思ったのか?」

「最初はね。でも今は違うってわかってる。私の事を考え過ぎて、無理をして倒れちゃうぐらい優しい人だって思ってるわ」

昼間の失態を蒸し返されて、恥ずかしさから思わず俯いてしまう。

「嬉しかったのよ。未来は私の事をちゃんと見てくれているんだって――」

詩亜が本を本棚に戻して、両手で俺の右手を優しく握る。

「――だから、ごめんなさい」

搾り出すような声で謝られた。

「何で謝るんだ?」

顔を上げて目が合うと、詩亜は目を逸らした。

「私ね未来を試したの」

「何時だ?」

「今よ。もしも本を読み始めて帯にと同じ事を言ったら拒絶しようと思った。その本で満足して私の事を知ったのなら、結局未来も本を通して私を好きになった男の子と変わらないから……」

これまでのやり取りでそんな試され方をしていたとはわからなかった。

詩亜も俺と同じで何処か相手の事を信じられない部分があったんだ。互いに互いの事を一回ずつ疑った事に対して怒るつもりはない。こうやって正直に話してくれたのが嬉しくて、もうとやかく言うつもりは無く、だからこそ訊いた。

「これからも俺は詩亜の彼氏でいいか?」

「うん。未来じゃないと嫌よ」

「放課後も一緒にいてもいいか?」

「もちろん。今まではね次回作の追い込みで、学校が終わった後にすぐ家に帰って仕事をしていたの。でもそれも昨日で脱稿して終わったから……言い訳に聞こえるかもしれないけど、本当は私もずっと未来と一緒にいたいって思ってた」

それなら言ってくれればよかったのに。一緒にいたいって――とは言わない。

詩亜は詩亜でずっと悩んでいてくれたんだ。

一方通行の恋じゃなくて本当によかった。

俺は詩亜の握ってくれている手を取って、自分の方に体を引き寄せて抱きしめた。彼女の体は見た目で細いことはわかっていたけど、結構小柄で腕の中にすっぽりと納まった。

感触を確かめるように細い腰に腕を回すと、艶めく黒髪に手の甲が触れて、女の子とシャンプーの混じった匂いが鼻腔を擽った。

「心臓の音、速くなってるよ」

胸に耳を当てて詩亜がぽつりと呟く。

それは仕方の無いことだ。この一ヶ月間触れたくても触れられなかった存在が腕の中にあるのだから、鼓動ぐらい速くなる。

だけど面と向かって好きだと言うだけではきっと収まらなくて、俺唇を詩亜の顔に近づける。

唇に当たる柔らかい感触。ぎこちなく初めてしたキスは甘かった。マンゴージュースの味がした。

雨音が聞こえる部屋で十秒ぐらいのテレビで見た真似の子供っぽいキスを終えて、そっと唇を離してゆっくりと目を開くと、詩亜の桜色の唇が目に入った。

「目が泳いでる。もしかして、初めてだった?」

ほんのり頬を赤く染めた詩亜が恥ずかしそうに笑いながら訊いてくる。

不慣れなキスの仕方や動揺を手に取られて顔が熱くなる。その表情の変化を見られて、更に笑われる。

「そうなんだ。男の子だからファーストキスなんてとっくに経験しているんだと思ってたわ」

「そういう詩亜はどうなんだ?」

「あるわよ。だって一年長く生きてるんだから」

「え、したことあるの!?」

言ってから無粋な事を言ったと痛感した。過去を穿り返すなんて人として最低だ。だけど、俺はその詩亜のファーストキスを奪った奴に対して嫉妬していた。

そんな俺の表情がおもしろいのか、詩亜は笑った後に俺の唇に指で触れる。

「今。未来とファーストキスをしたわ」

つまり、またからかわれたのだ。

「何だよそれ」

言い捨てるように呟くが内心は凄く安心している。頬が緩み、同時に力が抜けて詩亜の体を離した。

「未来って表情がコロコロ変わって犬みたいね。よく言われない?」

自分のクッションに座りなおす未来に更にからかわれる。

「俺が犬なら、詩亜は猫だな。掴もうとしてもするりと抜けて掴み所がない所が猫にそっくりだ」

「あら、私猫が好きだから嬉しいわ。ありがとう」

皮肉を言ったつもりなのに、詩亜はそれをひらりとかわす。どうやら俺が言葉で勝つことは不可能らしい。

降参だと咳払いをして、話題を戻すことにした。

「なぁ、手書きの原稿読んでみたいんだけど」

マンゴージュースを飲んでいた詩亜にお願いすると、今度は彼女が咽た。

「うっ、それは……恥ずかしいわ。小説家にとって清書前の原稿を読まれることは裸を見られるのと同じぐらい恥ずかしいことなのよ?」

コップをテーブルに置いて、両手を正座している太ももで挟みもじもじしている詩亜を見つめ、さっきまで抱きしめていた体躯の一糸纏わぬ姿を想像して、

「裸、ぜひ見てみたい」

とごくごく自然に言葉が出てきた。

「……未来の馬鹿。えっち」

頬を朱に染めて、ポツリと呟いてそっぽを向く詩亜がかわいらしい。付き合い始めてやっと、少しだけ優位に立てたような気がする。しかし、その愉悦も長くは続かず、魅力的な表情に影が差す。

「私も未来には読んでもらいたい。でもそれは無理なの」

「何でだ?」

「……もう、この世には清書前の原稿が存在しないからよ。原稿はね担当と打ち合わせをして、修正と加筆をして印刷所に持っていった後、少ししてから処分するのよ」

「何でそんな酷い事をするんだ……」

「正確には原稿と修正加筆した決定稿ってものがあって、決定稿はあるんだけど、私が書いた原稿と決定稿の内容が違うからよ」

詩亜がテーブルに置いてある自分の本を恨めしそうに睨んだ。まるで汚いものを見るようにだ。

「本はね、作者が思い書いた話がそのまま本になることはまずないわ。小説を書いた後に担当に読んでもらって、悪い箇所の指摘を受けて修正をして、それを繰り返して決定稿を完成させて本になって本屋に並ぶの。本の帯に『――泣けます』って書いてあるでしょ? 本の内容は主人公の恋人が病気になって死んじゃうんだけど、本当は誰も死なない登場人物が笑って終わる話だった。でもそれでは本が売れないからって言われて担当にアイディアを貰って……無理矢理主人公の恋人が最後に死んでしまう結末になったのよ」

「それって、書きたくもない最後を書いて、最初からこうなるって世の中に出したのか」

「そうよ。求められたらそれを書くしかないのよ」

詩亜は膝に置いた手を強く握って「それがプロだから」と付け加える。

本当は泣きそうになるぐらい悔しいんだ。伝えたかった物語を処分されて、利益がある物語がこの作者が読み手に伝えたい物語だと置き換えられて誤解されるのは苦痛だろう。

それでも小説家を続ける詩亜はうな垂れて体を倒し、俺の胸に頭を預けてくる。

「現実ってさ、当事者全員が笑って終わることってないでしょ? 結婚式でも裏方で働いてる人は楽しくないし、他人の結婚式なんて早く終わればいいって思うみたいにね。だから、せめて物語の中ぐらいはそういう影の人をなくして、全員が笑って終わらせてあげたいって思うの……甘いよね、こんな考え」

葛藤を続ける詩亜の重みを感じながら、強く握られた手を取ってその力んだ拳を撫でてほぐし首を振った。

「そんなことない。担当や世間がその世知辛い物語を賞賛して甘い物語を否定しても、俺は詩亜の書いた本心の物語の方が好きだ。上手く言えないけど、俺も笑って終われる方が好きだし、何より赤の他人でも泣いてる姿を見るのが辛いから……だからさ、俺に詩亜の好きな物語を読ませてくれないか? ほら、ルイスみたいにさ」

「……私、ルイスになっていいの?」

「あぁ。差し詰め俺はアリスだな。男だけど」

俺が言うと詩亜は顔を上げる。その顔は目と鼻が少し赤くなっていて、泣いていたのかもしれない。肯定するように微笑むと詩亜も笑い返してくれた。

「ありがとう。とても嬉しいわ」

「頼んだぞ。俺のルイス」

「わかったわ、私のアリス。でも……学校と仕事があるから、すぐには無理かもしれない」

「詩亜のペースでいいよ。実際のルイスも長い時間をかけて本を作ったんだろ? 最初は口話でも本になるまでは大変だってさっきの話をきいてわかったし」

「うん。何年もかけて、地下の国のアリスは挿絵までルイス本人が描いたのよ」

詩亜が自分の憧れるルイスの事を嬉しそうに話す。

「なら俺も待つから。それまでは詩亜の好きな不思議の国のアリスを読むさ」

頷く詩亜に断ってから俺は改めて不思議の国のアリスの本を手に取った。

そんな俺を見つめていた詩亜はテーブルに向かい、テーブルに置いてある筆記用具から使い込まれた万年筆を取り出して、ルーズリーフに早速浮かんできたであろうアイディアを書き留めている。最初から処分されることのない、自分の書きたい物語を書き始めた彼女の姿は輝いて見え、これが本来の詩亜の姿なんだと思った。

その後、俺達は言葉を交わすことなく、それぞれの時間を過ごした。親が不在の家、恋人の部屋にいるシチュエーションにしてはあまりに不健康だけど、俺にとっては肌を触れ合うよりもより身近に本来の詩亜の姿を感じ取れる、この万年筆が紙の上を走る音がする空間が心地よかった。


卓上デジタル時計が鳴る。午後七時を知らせる短いアラームだ。

本から顔を上げて窓の外をみると、日は落ち相変わらず雨が降っていていつもよりも暗く感じる。

「そろそろ帰るよ」

腰を上げて手にしていた本を本棚に戻そうとしたら詩亜に止められた。

「その本、持って帰っていいわよ貸してあげる」

「でも、大切な本なんだろ?」

気を遣って俺の鞄を手渡してくれる詩亜に訊くと、彼女は唇を尖らせた。

「大切な本だからこそ、好きな人に読んでほしいんじゃない……わかってよそれぐらい」

自分の好きなものを共有してほしいという心情に気づき、俺は有難く思いながら本を鞄にしまった。

部屋をでて二人で玄関まで行く。

まだ詩亜の両親は帰宅していないらしく、廊下や他の部屋に明かりは点いていない。

靴を履き、式台に腰を下ろして靴紐を結ぶ俺の背中に、詩亜がぽつりと呟くような声で言う。

「別に何時でもいていいのよ」

「そっちはよくても、俺の方がよくない。気まずい」

いくら恋人であっても、遅くまでいていい理由にはならない。もしも詩亜の両親にこんな時間まで一人娘と一緒にいたことが知られたら、当然何かしら訊かれてもしかしたら怒られるかもしれない。

それよりも俺は健全な付き合いをしていると、詩亜の両親にアピールしておきたい――というのはただの建前で、本音は彼氏なのかと訊かれるのが怖いからだ。

だからばったり遭遇する前に、さっさと立ち去ろうと腰を上げた時だった。

「私は一人だから、ずっといても大丈夫なのよ。親は帰ってこない……」

詩亜の腕が俺の腰に回されて、抱きつかれた。まるで俺が行ってしまわないように、強く強く抱き寄せられた。

「帰ってこないって、旅行にでも行ってるのか?」

「……違う」

「なら出張、なわけがないか。両親が出張なんて――」

「死んだの。三年前に、交通事故で」

詩亜の口から出た言葉に、最初は理解が追いつかなくて人が死んだという意味を思い出すと全身が粟立つような嫌な悪寒が走り抜け、鼻先がツンとして、力だ緩んだ手から鞄が落ちた。

玄関を見回すと、靴は詩亜の履いていた雨に濡れたローファーが一足だけ。傘立てには俺の百円ショップで買ったボロのビニール傘と詩亜のワインレッドの婦人傘がまるで今の俺達のように、ビニール傘に婦人傘が寄りかかっていた。

呆然と立ち尽くしていると、背中に詩亜が頭を押し当ててきて、すぐにすすり泣く声が聞こえてきて、頭を何かで叩かれたような痛みが走り我に返る。

「部屋に戻ろう」

履いたばかりの靴を脱いで、家にあがり、震える詩亜の肩を抱き寄せて支えながら部屋に戻った。

詩亜をクッションに座らせて、隣に座り、今日まだ一度も使っていないハンカチを渡した。

受け取ったハンカチを目元に押し当て、少しの間静かに泣いた後、詩亜はゆっくりと口を開いた。

「三年前、珍しく雪が降った日の朝だった……」

目を赤く腫らした詩亜は両親の死と、それから誰にも頼らずに生きてきたことを話してくれた。



詩亜の両親は三年前、珍しく雪が積もり雪化粧をした山を見に行くためにドライブに出掛け、居眠り運転をしていた長距離トラックに追突されて亡くなった。

葬儀の後、独り身になってしまった詩亜は親戚に引き取られる事になったが、一体だれが引き取るかで親戚連中は詩亜の目の前で押し付けあいをして大モメを起こした。

ぞんざいに扱われ邪魔者扱いをされる自分の存在に心を傷つけられた詩亜は、両親と暮らしていたマンションで一人暮らして生きていくと言い出した。

当然だが周りの大人は反対をした。高校生になったばかりの子供が一人で生きていけるほど世の中は甘くないと、邪魔者扱いをするくせに、都合のいいときだけ子供扱いをした。

大人になろうとして詩亜が振り回していた腕を無理矢理捕まえて、子供の枠に押し込もうとした。

そんな時、詩亜は小説の新人賞を受賞する。

詩亜は捕まれた手を振り解き、逃げるように小説家になって書きたくない小説を書き続けた。その結果、発売された小説は瞬く間にベツトセラーになり、詩亜は社会的力を手に入れた大人になった。

だが周りの大人はたかだか小説ひとつかけるだけで何なのだと認めようとしなかったが、印税で夢追いタウンの一軒家をローン無しで購入してみせると、周りの大人はようやく黙り詩亜を大人として認めざるをえなかった。

家を買える財力があるとわかった途端、手のひらを返すように今まで避けていた周りの大人が、お金を求めて近づいてきた。

詩亜はそんな身勝手な大人を拒絶して、毎日のように金の催促をする電話が掛かってくるスマホを手放し、更に家の電話も電話線を抜いて、顔を見ないで会話をする手段を捨てた。


仕事の方はパソコンを使わず、手書きにこだわっている。紙に書く方が作品に温かみが出て、いい作品が書けるかららしい。

そのせいで執筆効率が悪く、加えて担当とは直接会って打ち合わせをするしかないせいもあって、詩亜は他の小説家よりも締め切り期間が短い。それでも自分が伝えたい物語を締め切りよりもずっと早く書き上げて、担当と泣ける話の設定をそこから考えて書き直す。

完成した作品が本になって、結末が違う詩亜の本当の物語は流出しないように処分される。

毎回辛い思いをするが、それよりも子供に戻らない為に今も大人を続けている榊原詩亜。



明かされた過去を聞いて、俺は喋り過ぎで頬が紅潮して、浅い呼吸を繰り返している詩亜の手を握った。

今までも、これからも大人である為に振り回すであろうその手は泣いて体温が上がったせいか、温かくて柔らかい。でも今までは気付かなかった力強さみたいなものを感じる。

「ごめんなさい。愚痴なんかこぼしちゃって、優しくされたら歯止めがきかなくなったの」

「気にするな。知らないまま陰で一人で泣いてほしくない」

「ありがとう。初めてなのよ、自分から誰かに身の上話をしたのって」

鼻をすすって、詩亜が首を傾けて微笑んだ。辛いことを思い出したのに、その表情は安心したように穏やかだ。

自分を頼ってくれて弱みをみせられる存在になれたことに安堵した時、ブレザーのポケットでスマホが鳴った。

「誰から?」

スマホを取り出して画面操作をしていると詩亜に訊かれた。

「母さん。普段は学校終わったらすぐ家に帰るから、たまに遅くなって連絡入れないとすぐに心配して連絡してくるんだよ」

着信を切って、スマホをしないながら言うと、詩亜がデジタル時計を見た。

「もう八時だし、親なら心配するわ。早く帰った方がいいわね」

「……今の詩亜を一人にしたくないな。もう少し一緒にいてもいいか?」

「それは駄目」

きっぱりといって首を横に振られた。

「引き止めちゃった私が言うのもおかしいけど、未来が思っているほど私は弱くないわ」

「でも……」

「大丈夫。強くなるから今よりももっと、私の心を支えてくれる大切な人みくがいるから……私はもう泣かない」

強い眼差しを向けられて頷くしかなかったけど、条件はつけされてもらうことにした。

「わかった。でも泣くのは我慢しないでくれ、嬉しいときも悲しいときも無理をされるのは嫌だから」

「無理をされるのは嫌ね、その言葉は今日倒れた人にそのまま返したいけどわかったわ。約束する」

差し出された白くて細い小指に俺は自分の小指を絡めて指きりをして、今日は帰ることにした。

玄関で再び靴を履いて落としたままの鞄を拾って扉を開けた。

雨脚は控えめになっていたけど、傘を差さなくてもいいほどは弱くなかった。

「はい、傘」

「さんきゅー」

詩亜から受け取ったビニール傘を開いて、彼女の方を見た。

「それじゃあ、また明日な」

「うん。今日はありがとう……私を知ってくれもそのままでいてくれて」

泣いた後が残る詩亜に見送られて、俺は榊原家を後にした。

夜道に雨水を靴のそこで踏むたびに水音がいやに耳に響き、別に靴が水分を吸って重くなったわけじゃないのに、足取りは気だるい。

気持ちがもやもやして、堪らず声を上げて全力で走った。

ただ好きだけと思うだけでは、詩亜の隣には立っていることはできない。彼女の過去を知った今の俺に何が出来るんだろうか。

――わからなくて、とても心が苦しかった。

そんな今の俺を嘲笑うように、雨脚は強さを取り戻してきた。

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