沼のほとり
第一章 わたしたち
1.Nyssa sylvatica
ねえさんは綺麗だ。
まるで水面に浮かぶ白波が午後の光を浴びて輝くように、不確かさと規則正しさをあわせ持ち、沼のほとりをはずむ足取りは軽やかで、着地はふわりと音もなく、やわらかな風だけが吹き抜ける。
わたしは、そんなねえさんの歌声を聞きながら育った。
森のなかで風の匂いを嗅ぎ、暮れ行く天候の予想をしながら。
日が長くなるころ、草木が伸び、花は色を濃くする。湿った土には無数の虫が這いまわり、腐った切り株で菌類が目を覚ます。小川は精錬な流れを繰り返し、波の隙間で顔を覗かせる岩にこびりついたコケが淡く輝く。風が吹くたび、先のとがった葉が揺れ、太陽が一番高い位置にあるとき、そこには、おだやかさだけが君臨していた。
わたしは、葉の隙間から降りそそぐ光から逃げるように、水の精の名が付いたニッサ・シルバチカの下で、沼に浮かぶ花を見ていた。空よりも濃い青色の筒のなかには、たっぷりと蜜が蓄えられ、ハチの命を長らえさせる。
沼の真ん中で落ち葉が折り重なって灰色の島になっていた。小鳥の巣に見える。動くものはなにもないのに、なぜか、ふっと波が立ち現れる。沼のふちには、背の高い雑草が茂り、沼の形を覆い隠していた。
わたしは、息を吐いて力を抜く。目をつむればすぐに眠れそうだ。暖かくて気持ちがいい。
それでも、こんなに水のある場所なのに、どうして生きものの気配がないんだろう。風がふけば木々がざわつき、花も虫もいるが、沼だけはじっとしている。さっきまでずっと鳴いていた鳥たちも、どこかへ行ってしまった。沼の水を飲むウサギも、今日は姿を見せない。
森の奥から聞こえてくるねえさんの歌声は、子守唄ではないし、童謡とも違う。そもそもわたしたちが使う言葉ではないから、意味がわからない。発音も奇妙で、聞きなれない音は、ただただまぶたを重くさせる。
日が落ちると、わたしの座る場所からちょうど沼をはさんだ先の、木の葉が作る青い壁に、人の形をした影が踊り出る。影は、両手を広げ、飛んで、跳ねて、ほんの一瞬姿を隠しても、再び現れたときにはもうずっと遠くにいる。すばやく、軽やかなその動きを追うのはつらかった。ねえさんの歩き方は力強いが、描く線は弱々しく、細すぎて今にも折れそうだ。空は猛烈な赤に染まり、ぬるい風が冷たくなる。
その時、わたしはあることを思いついて、膝立ちになって沼に近づく。そして、両手をそっと水面に浸す。冷たくなかった。それはちょうどわたしの体温と同じくらい。指にまとわりつく気味の悪さに声をあげそうになる。ヘドロのようだ。それでも手の平をすべり落ちる水はとらえどころがなく、動きが生ぬるい。そんな水も、すべり落ちれば元へ戻る。
沼は動かない。音も立てない。わたしの手が与えた振動で、ほんの一部が震えるだけだ。現れた波が、倍々に増えいくつも円を描き、終いにふくれあがり、中心から離れるほど薄く、最後には消える。
怖くても、体を乗り出し沼を覗きこむと、わたしの顔のあるべき場所はぼやけていた。
灰色の影がにじむ。
急に眠くなる。
昨日、夜遅くまで父の部屋で本を読んでいたからだ。暗い部屋で細かな字を追って目が疲れた。父の部屋にはたくさんの本が並んでいて、図鑑も多く、難しいタイトルばかりだった。わたしはそのなかでも、植物の図鑑を見ていた。膝の上に置いても、腕が痺れるほど重い。ニッサ・シルバチカもそこに載っていた。冬になれば葉が真っ赤に染まるのが特徴だ。
ねえさんの歌声がだんだん近付いてくる。
沼のふちに座って足をつけていたので、生ぬるい水が肌を覆い、ズブズブと引きずるように飲み込んでいく。足の裏にむずがゆさが起こる。爪の隙間に小さな魚が入り込んでくるようだ。姿が見えないだけで、魚もいるんだろうか。
わたしの体は今、たぶん、雑草の影に隠れている。
ねえさんには見えないだろう。
歌が近づいてくる。
踊る足下がぬかるみを踏む。
高い声が伸びる。
そのとき、わたしはあることを思いついた。
そうだ、ねえさんを驚かせよう。
突然、草の間から顔を出せばきっとびっくりするだろう。
おもしろそうだと思う。
ねえさんの驚いた顔が見たい。
でも、それより眠たくて仕方がなかった。
目を開くのがこれほど大変かと思う。
2.Benthamidia japonica
できれば、ずっと夢を見ていたかった。
父が亡くなるまで、わたしたちは、ねえさんとわたしと父との三人で生活をしていて、あのころは、毎日わけもわからず笑っていたし、とりわけ不都合もなく、目の前に差し出された幸福を蜜のように吸って、体だけがぶくぶくと成長していた。わたしは背が伸びたけれど、ねえさんはそんなに変わらなかった。父は白髪が増え、背中が丸まっていった。
ずっと暮らしていると、家のすみずみに小さなほつれが出てきて、そんなときの修理は、もっぱら父がしていた。家具もぜんぶ父が一人で作っていた。工房は自分の部屋で、昼夜の別なく木槌の立てる音が家中に響いていた。ひょっとして、父は昔、なにかものを作る職業に就いていたのかもしれない。職業というものをわたしはよく知らないけれど、自分でしたくないことをお金を払って他人にしてもらうことみたいだ。
ノミで削り玄能でカンナの刃を打つ。細かな模様まで彫って、机くらいならあっという間に作ってしまう。大きいものから小さいものまで、父はいろいろなものを作った。靴べらを作ったことがあったけれど、家族の誰も靴べらを使わないので、玄関の飾りになっていた。父の作業を、わたしたちも時々手伝うことがあったけれど、せいぜい組み立てられたものに色を塗るくらいで、基礎の部分に手を出すことは許されなかった。わたしが知る限り、父に作れないものはなかった。少なくとも生活に必要なものはなんでも作った。その代わりというと変だけど、料理は下手だった。食事自体にあまり興味がないみたいで、作業に没頭しているときは、なにも食べないことも多かった。父を心配したねえさんが食事を持ってきても全然手を付けずに、水だけ飲んでいた。今まで、父が台所に立っている姿を見たことは一度もない。父の部屋からは、いつも道具の立てる音以外になんの音もしなかった。
生まれたときから、わたしたちはこの青い森に住んでいて、すぐそばにあの暗い沼があった。季節によって、木や花が見せる大きな変化を追いかけながら、毎日のように沼のそばへ行って、木の実を採ったり、食べられる草を摘んで、持ち帰って食べた。森のなかでとれるものに頼り、冷えた空気を吸って暮らしてきた。
わたしにとって、生活というのは、ねえさんと父とわたしが行うこと、森の色と空気がすべてで、森の外のことはなにも知らない。
ずいぶん前に、父から森の外には町があると聞いたことがある。それがどんなものなのか、想像するのは難しい。なんでも、高い家が建ち並び、たくさんの人が生活しているらしい。わたしにとって、いちばん背が高いのは、沼の近くに生えている針葉樹で、それよりも高い位置にあるものは空しか知らない。だから、人のことなんてもっとわからない。わたしの周りには、ねえさんと父以外にだれもいないし、あとは、本のなかに登場する人物くらいだ。だから、町にいる人たちのことを想像できない。わたしたちのように家族なんだろうか。どんな人たちで、なにをして生活しているんだろう。そもそも、そんなにたくさんの人たちが食べるものがあるんだろうか。それに、どんなに広い場所があっても、みんなで生活したら窮屈そうだと思う。
わたしには、ねえさんの考えていることがわからない。わからないものにこわさを感じる。だから、自分以外にものを考える人がたくさんいるのはとてもこわい。知らない人たちが、いつもなにか考えながら行動しているのはこわい。
ある日、ねえさんがわたしに言った。
父が亡くなってから三日後の朝だった。
「さあ、わたしたちの生活をしましょう」
死んだ父が横たわるベッドのふちで顔をふせたまま動かなかったねえさんは、突然、ネジを回されたように顔を上げると、にっこり笑った。わたしはドアの前に座って、ずっとねえさんのことを見ていた。
ねえさんは、死んだ父をどうするかをずいぶん悩んでいたようだ。小さなわたしにとって、父が亡くなったという意味がうまく飲み込めず、ベッドで大人しく眠り続ける父の顔は生きていたころとたいして違いがないように思えた。目を閉じて動かないだけ。だから、そのままベッドに置いておけばいいんじゃないかと思ったけれど、ねえさんは自分の考えを行動に移した。いつも、ねえさんは考えたことをすぐさま行動に移す。
嵐のような北風が吹きすさぶ冬の日に、カマキリの巣みたいに実を枯らせるヤマボウシは、春には花を咲かせ、夏には実が赤く熟す。鳥がついばんでいる横で、わたしもヤマボウシの実を口にする。やわらかく、甘い味が口の中をめぐって、おいしかった。沼のそばには、食べられる植物が少しある。
結局、ねえさんの言った通り、わたしたちはふたりの生活をはじめた。といっても、ほとんど今までとなにも変わらない。ただ、テーブルを囲む人数が減って、家が静かになったくらいだ。もう、父の立てる木槌の音はしない。わたしの部屋へ行くには父の部屋の前を通らないといけないので、毎晩思い出す。
その代わり、ねえさんが料理を作るときの音が、二階にあるわたしの部屋にもはっきりと届くようになった。
わたしはねえさんの邪魔になるので、なるべく台所には近づかないようにしていた。部屋で膝を抱えたまま小さくなって、耳へ神経を傾けている。
今日の夕飯はなんだろう。
おなかがすいた。
3.Lilium maculatum Thunb
毎月火曜日に、男はやってくる。
それは、ずっと前から続いていることで、わたしが生まれるよりも前からの習慣だった。わたしは、毎日カレンダーの日付に丸を打っている。男はいつも同じ間隔でやってくる。
家には、わたしとねえさんの部屋がそれぞれあって、土間から続く台所と、風呂場と、あと二部屋は空いている。一つは父が使っていた書斎で、本棚一面に父が集めた専門書がぎっしり詰まっている。わたしたちの使う文字ではないタイトルもたくさんあり、部屋のすみには、手作りの板机がホコリをかぶっている。月に一度そうじをしているけれど、気がつくとすぐに汚れている。本棚の隙間からは庭が見えた。
部屋へ入ると、まず、湿気った臭いが鼻の奥を刺激して、けむたくてせきが出る。カーテンを開くと、外から入ってくる光の筋に沿って空中に浮かぶホコリが輝いてきれいだった。光は、床の上を走り、本たちを照らす。なぜか、板机の上に椅子のおもちゃが置かれていた。たぶん、家具を作るときに余った材料で作ったんだと思う。手の平に収まるほど小さく、背もたれのある椅子だ。父はこういう椅子を作るつもりだったんだろうか。完成した形を考えるために、試しに作ったのかもしれない。こんなおもちゃでも、父は本物を作るときと同じように、丁寧に作っていたみたいだ。脚のカーブも揃っていて、そのまま大きくしたら、きちんと使えそうだった。
わたしは、そうじを休憩してときどきその小さな家具を手の平にのせて眺める。かわいいなと思う。こんな細かい部品をくっつけている父の姿を想像すると、特にそう思う。
男は、緑色の車に乗ってやってくる。大きな車は、ものすごい音を立てながら白い煙を吐いて、ごうんごうんと車体を揺らして森のなかを走ってくる。そして、ようやく家の前で停まると、飛び上がるほど、いっそう激しく揺れる。
わたしは自分の部屋からそれを眺めている。
家の前は開けていて、その周りに姉さんが育てている花が囲う。今の時期は、ヒメユリだ。花びらが真っ赤で、先が曲がって、虫がとまると揺れ、空に顔を背けて首を垂れている。葉は互い違いで、先がとがっていて、きれいな花びらを包み込むような形をしている。ヒメユリの側には、三種類くらいの花が植えられていたけれど、どれもヒメユリよりは地味で、同じ量の光を浴びてもひっそり咲いていた。
わたしたちの住む家の周りには、大きさも形も異なる木が無数に生えていて、家だってもちろん木でできているから、わたしたちの周りはみんな木だ。木に囲まれている。それが当たり前で、ずっとそうだったから、男の乗ってくる車はなんだか不気味だ。木ではなく、もっと硬い素材でできている。男が来るまで、わたしは車というものを物語のなかでしか知らなかった。はじめて見たとき、変な形をしているなと思った。どうやって走っているんだろう。
男は、家には入ってこない。いつも黙って車にもたれてわたしたちの家をじっと見ている。太い腕にはさまれた丸々とした腹のなかには、いったいなにが詰まっているんだろう。浅黒い顔には、硬そうなヒゲが草のように生えていた。口が見えないので、目が鋭く見える。
やがて、男が来たことをトラックの音で気がついたねえさんが玄関から出ていく。決まって急いで。
男は、いかにも待ちくたびれたようにねえさんを迎える。二人は二、三、言葉を交わすとすぐに離れる。あまり近づかない。ねえさんは何度もうなずいていた。
すると、男は車から箱を取り出す。重そうに荷物を地面に降ろすと、足みたいな腕で、箱を家のなかへ運びはじめる。箱は全部で五つあった。
男の顔はヒゲに覆われているので見えにくいけれど、とても面倒そうだった。ゴミのように箱を放り投げている。動きが乱暴だ。そして、箱をぜんぶ運び終えても車にはもどらなかった。家の陰に隠れてしまう。いったい、どこへ行くんだろう。
男が箱を運ぶ間、姉さんはずっと祈るように手を合わせている。
4.Lycium chinense
男が来た日の夕飯はとても豪華だ。
男は、朝にやってきて夕方にはどこかへ帰る。男が持ってくるもののなかには、本の表紙のような灰色の紙で包まれた食べものがたくさんある。色も形もばらばらで、森のなかでは見かけないものばかりだ。名前もわからない。そういうところから考えても、男が森のなかに住んでいるとは考えにくい。たぶん、父が言っていた町からきたんだろう。それに、車みたいな、あんなに大きいものが走るためには、町にある何かを使わないといけないと思う。どういう仕組みで動いているのかはわからないけれど、森のなかにあるものでは絶対に作れない。そうでなければ父が使っていたはずだ。
わたしは、町というものが森の外にあって、父がそこからやってきたことを知っている。でも、見たことはない。聞いた話ばかりだ。だから、想像することしかできない。父は、町には人がたくさんいるという。その人たちはみんな知り合いなんだろうか。それとも、わたしたちみたいな家族がたくさん集まって暮らしているんだろうか。人がたくさんいるとケンカしたときがこわいと思う。三人でも、ケンカをするとねえさんがつらそうな顔をする。わたしは話せないので、ケンカをするのは父とねえさんだ。
ある日、わたしが眠ったあとに、下の階から怒鳴り声が聞こえてきた。すごくこわかったけれど、音を立てないように注意しながら階段を下りて、父の部屋を覗いた。廊下は真っ暗で、部屋の光が目に痛い。ふたりは部屋の真ん中に立っていた。父はふだんと全然違う、とてもこわい顔をしていた。ねえさんもずっと眉をひそめていた。
そして、ぽつりとなにか言った。聞き取れない小さな声だった。
すると次の瞬間、父はねえさんの顔をぶった。乾いた音が夜に響いた。ねえさんの体が床に落ちる。わたしは目をつむる。すぐに自分の部屋へ逃げ帰った。ねえさんは泣いていた。
朝になってから、またいつものように三人でごはんを食べた。わたしは、その日、ねえさんの腫れた目を見ないようにした。
町でも、殴ったり、叩いたり、みんながそういうことをはじめたときにだれか止める人はいるんだろうか。町のことを考えると震えそうだ。まるで、石の下にたくさん虫がいたときのような気持ち悪さ。こちらへなにかしてくるわけでもないけれど、たくさんいるということはそれだけで不安になる。
男が、車から箱を運んだあとどこにいるのかも、実際よくわからない。朝から夕方までの長い時間なにをしているんだろう。その間、男の車は庭に置かれたままなので、きっと遠くへは行けないだろう。手ぶらで歩いて進めるほど森は優しくない。同じような景色がどこまでも続き、慣れていなければ目安になるものはなにもない。足場も悪く、歩いているだけでどんどん体力が奪われてしまう。
そして、それよりももっと気にかかるのは、男がいない間にねえさんもいなくなってしまうことだ。
男がきてからしばらく経った昼過ぎに、ねえさんが台所へ肉の仕込みに帰ってくる。かなり疲れた様子で、片手で髪をまとめながら勝手口から入ってくる。材料はもちろん男が持ってきたものだ。そうでなければ、わたしたちが肉を食べることはない。父が生きていたころは、時々、ウサギや鳥をさばいてくれた。でも、二人になってからは誰もできない。
切った肉を沸かした鍋に入れると、ねえさんはまた勝手口から外へ出て行く。火は付けたままだ。そのときも男は姿を見せない。
夕方ごろになると、またねえさんは帰ってくる。いつもの何倍も豪華な食材を使って、夕飯の準備をはじめる。男がくる日は、テーブルに必ず肉が並ぶ。台所からこうばしい香りがただよい、私は眠気を振り払って起き上がる。すると、外からまたあのものすごい音が聞こえる。鍋の湯が煮えるよりも大きな音。おそるおそる窓の外を見ると、森の奥へ走り去る車が見えた。勢いをつけて上下に揺れながら、木々のすきまを通ってどんどん遠くなる。
台所のテーブルに、色とりどりの料理が並び、それぞれの食器から湯気が立ち上っている。匂いを嗅ぐだけでお腹がいっぱいになりそうだ。そうして、それらのちょうど真ん中に、いつも真っ赤なクコの実が添えられていた。小さな籐のカゴに入れられて、どれほど鮮やかな料理のなかに紛れても、一際目立った。
ランプの明かりが、ものの輪郭を揺れ動かす。
わたしとねえさんは、向かい合って座り、まず神さまへ祈ってから食事をはじめる。このとき祈る神さまのことを、わたしは全然知らない。どうして、いちいち食事するたびにお祈りなんてしないといけないのか。食事を作ってくれたのはねえさんで、神さまではない。神さまがどんなもので、どうして偉いのかもわからない。神さまがいる場所が、空のどの部分をさしているのかもわからない。町のことよりもずっと想像しにくい。
まだ子どものころ、ねえさんに神さまの話をしてもらったことがある。
確か、いつものように沼のほとりで涼んでいたときだった。
ねえさんは森のなかで一通り歌をうたうと、わたしのそばへやってきた。
わたしたちはそろって沼に足をつけて座った。すると、ねえさんがわたしの頭をそっと自分の方へ引き寄せたので、勢いに任せてわたしはねえさんの膝に頭をのせた。やわらかい。目を閉じると頭の上から声が降ってくる。すぐに眠くなった。
ねえさんによると、神さまというのは、わたしたちよりも上にいるらしい。このときの上というのは、別に、空のことではなく、もっと近いところ。父の部屋の本のすきまや、普段開けない戸棚の影に隠れて、そして、ふとんをかぶり目をつむるとき、ようやくそばまできてくれるとねえさんは言う。神さまのいる場所をさししめす言葉でいちばん近いのは、目の上だとねえさんは言う。
「わたしたちの生活のそこかしこで神さまは目のない顔を出す」そう言ったとき、ねえさんはなにかをひどく悩んでいた。うなり声をあげて、頭を抱える。すると、突然、自分の顔を爪で何度もかきむしりながら、「こんな口はいらない」と叫んだ。胃のなかのものをぜんぶ吐き出しそうな顔で。わたしはなにも言っていないのに、違う、と言って首を振る。当然、その声はわたしにしか聞こえない。わたしはねえさんの膝の上で横になりながら、おびえていた。どうしてそんなに苦しそうなのかも、「こんな口はいらない」という言葉の意味もまるで分からない。怖かった。だって、ねえさんがこんなに険しい顔をすることなんて今までなかったし、叫ぶなんて。なんというか、ねえさんはまるで自分だけの言葉を話しているように見えた。はなから自分以外の人に伝えようとしていない。自分だけに分かる言葉で、魔法を唱えるように叫んでいた。
神さまがいるなら見せて、と幼いわたしは紙に書いて伝えた。
胸がどきどきして、神さまという聞き慣れないものへの好奇心が沸いた。神さまは、いったいどんな顔をしているんだろう。紙に書いても、輪郭で手は止まってしまう。そうだ、手はあるんだろうか。人間ならきっとある。飢えた人たちのために石をパンに変えたときも、手を使ったとねえさんは言っていた。その他にもたくさん、神さまがわたしたちにしたということをねえさんは教えてくれた。なかには、意味のわからないものもたくさんあったけれど、どれもわたしにはできないことなのですごいと思った。
でも、それは、神さまをおとしめることだとも聞いた。すごいなんて思ってはいけない。そんなことをすると、引きずり落としてしまう。わたしたちのもとへ。
そんなの、全然だめだなと思った。
もっと、強いものを想像していたからだ。
なににも揺るがすことができない。
動かないもの。
わたしがすごいと思ったくらいで、動くなんてだめだ。
神さまがいるなら見せて、と幼いわたしは言った。
よく晴れた午後だった。
水鳥が水面に羽ばたき青空のむこうに消えた。
「ちょっと手を貸して」とねえさんはこわい顔で言った。
5.Nymphaea
男が去ってから、カレンダーに付ける丸もそれほど増えないある日、長い雨が降った。はげしくも、強くもない、ほほをなでるように生ぬるい、暗く不気味な雨だ。まとわりつくように、ねっとりしている。
そんな日でも、ねえさんは散歩しに行くと言って家を出た。あぶないと伝えたけれど、大丈夫と答えて行ってしまった。なにが大丈夫なんだろうと思ったけれど、わたしは結局、自分の部屋にこもってベッドの上から外を見ていた。雲が覆いかぶさる、薄暗く青い森の奥で、ねえさんの白いワンピースがはためくような気がした。雨は、弱々しく降り続く。降り止む気配はなかった。
きっと今ごろ、沼のほとりではスイレンが久しぶりの雨に打たれている。花の上からカタツムリが沼へ落ちるのを想像する。白い波が立ち上がり、水面にたくさん円を描く。普段、静かな水面は、雨が降れば星みたいな模様をたくさん作っているだろうなと想像する。見に行きたい。沼の上にだけ雲が現れ、雨が降ればいいのに。そうすれば、濡れなくて済む。雨が降ると外へ出られないので、そんなバカみたいなことを考える。
あの泥と雑草に埋もれた沼からは、生きものの気配はしない。魚もいない。雨でも降らなければあの沼の水面があんなに動くことはない。生きものがいれば、もっと賑やかだろう。魚を狙う鳥もいなかった。
沼の水は、動くことなく静かにそこにあり続ける。一度足をつければ肌を包みこみ、ものを投げれば、しばらく波が立ち、でも、またなにもなかったかように同じ顔をする。はじめからなにもなかったように。
例えあそこへ落ちても、きっとあの水は、わたしに音を立てることを許さないだろう。体のふちから水に取り込まれ、ズブズブと沈んでいくのを想像する。
背筋が冷える。カタツムリが落ちても、わたしが落ちても、水面に現れる白い波の大きさはきっと変わらない。枝が落ちたって、現れる波はいっしょだ。音はしない。すぐに消える。
だから、あの沼へ足をつけるときは緊張する。少しでも手をすべらせたら引きずりこまれそうだから。
わたしたちは、そんな不気味な水をバケツに汲んで家に持ち帰っていろいろなことに使っている。掃除をしたり、料理をしたり、風呂釜へ湯を張ったり。ずっとそうしている。あの沼がなければわたしたちは生活を送ることができない。
とても大切なもののはずなのに、わたしはあの沼を好きになれない。頭では、尊いものだと思っても、いざ沼の側へ行って、膝を抱えてなかを覗き込むと、寒気がした。息もしにくくなる。苦しい。足を踏ん張るように意識しないとすぐに飲み込まれそうになる。静かで、どんな花よりも濃い色をした水の奥へ引きずりこまれる。
この沼に底はあるんだろうか。今まで、雨や、木の枝や、虫や動物、他にもたくさんのものが沈んだに違いない。でも、浮かんできたのはひとつも見たことがない。一体、この沼の底にはなにが沈んでいるのか。ものが消えるなんてあり得ないから、沼のなかへものを投げ続けたら、いつかいっぱいになってしまう。そんなのは当たり前なのに、この沼を見ていると不安になる。わたしが当たり前だと思っていることが根底から覆されるような気がする。
この沼に限界なんてあるんだろうか。いつか、沈めたものが浮かび上がったりするんだろうか。それより、わたしがものを沈めることができなくなる方がずっと早いんじゃないかと思う。
それに、こんなに広い場所に水がたまっているのに、どこにも浅いところがないのも不思議だ。前に、わたしはまんべんなく沼の周りを探ったことがある。手をひたしてみたり、長い枝を水に沈めてみたり、石を投げ入れてみたり、思いつく限りのことをしたけれど、他と違う場所はまったくなかった。
毎年、沼にはスイレンが咲く。
葉は丸く、花は薄い桃色で、花弁がいくつも重なっている。
沼に咲く花は好きだけど、沼は嫌いだ。得体が知れない。動かないものがずっとそこにある。動かないものはこわい。どんなに大きな木だって、花だって、風が吹けば揺れる。わたしたちは夜に眠って朝に起きるし、いつも動いている。空だって、同じ顔を見せ続けることはない。
ここは、どうしてこんなに静かなんだろう。
雨は降り止まない。
すっぽりと森を包み込む。
このまま、もし雨が降り続けたら。
沼の水が溢れてくれるだろうか。
もしそうなったら。
わたしたちの家はあっという間に飲みこまれてしまう。
6.Marchantia polymorpha
毎週日曜日になると、必ずねえさんがわたしの部屋へやってきて、出かける準備をさせる。神さまへ祈るためだと言う。わたしは眠たいのであまり気乗りしないのだけど、そんなことを言うとまた怒られるので渋々その手に付いていく。服を着替え、顔を洗い、用意された朝食を食べる。
家を出て、車一台分空いた庭を横切り、しばらく道なりに進むと、沼のほとりに暗い小径がある。左側は小川の水面で、右側には広葉樹が枝を広げている。二人で進むには少しせまい道をねえさんの後を追うように歩く。地面は水気が多く泥のようにぬかるんでいる。道の先には、木立が朝の光に当たって青く輝いている。その影を受けた水面も吸い込まれるくらいきれいだった。しばらく歩いて、肌に汗がにじむと、木と木の間に青い屋根の小屋を見つける。
外観は、いかにもみすぼらしくて、壁はところどころはがれて基礎がむきだしになっている。四つの柱も薄緑色に腐っているし、虫に喰われて汚れている。壁に窓はひとつもなく、板と板を組み合わせただけで作ってるように見える。小屋の周りに転がる石にはコケがむして、すぐにすべって足をとられそうになる。コケは石の表面をほとんどすべておおっている。空気がじっとりと湿って、その場に立っているだけで疲れてきた。すべらないよう慎重に小屋の入り口へ向かう。扉も、今にも外れそうだった。
小屋の扉には、なぜか立派な南京錠がぶら下がっている。壊れかけの扉に似合わない。カギはかかっていない。たぶん、父がどこかへ隠したんだろう。在り処を教える前に死んでしまったんだ。わたしたちは立て付けの悪い扉を押して開き、叫び声のようなきしむ音を聞く。
中へ入ると、真っ先に動物のフンの臭いがする。きっとネズミだろう。わたしはこの臭いがわりと好きだ。香ばしくていい匂いだなと思う。でも、ねえさんは苦しいと言う。ここにずっといると息苦しいと。実際、ねえさんは口元をずっと手で抑えていた。
足元に床はなく、そこにはむき出しの地面があり、天井から外の光が漏れている。壁の隙間からも細い光が入りこんでくる。灯りはない。小屋にはなにもなかった。ひとつ机があるだけた。なんのへんてつもない机で、わずかに地面を盛り上げて高くなったところに置かれていた。これも廃材で作ったようで、木の表面は変色して、ツヤがなく、切り口は雑だった。机の上にはなにも置かれていない。
「さあ」というねえさんの声を合図に、わたしたちは机の前の地面にひざをつけて祈りはじめる。
ねえさんなんて、ほとんどはいつくばるようにして祈っている。わたしは格好だけだ。膝を曲げて、両手を胸の前で重ねる。そして、なにを祈ればいいのだろうと悩む。なんせ、ほしいものなんてないし、行きたい場所もない。会いたいと思える誰かもわたしは知らなかった。できれば、父に生きていてほしかったなとは思う。父がいてくれれば、ねえさんの笑顔が増える。よく三人で祈っていたころは、わたしは父の背におぶらされたまま眠っていた。
父のこと以外に、わたしには祈ることはない。
父とねえさんさえいればいい。
神さまとかいうものへ伝えることがなにもない。
ねえさんはなにをそんなに必死で祈っているのだろう。
今の生活に気に食わないことでもあるんだろうか。
もし、その原因がわたしにあったら悲しいなと思う。
かといって、なにを祈っているのかなんて、怖くてとても聞けない。
「もっと集中しなさい」とねえさんが怒る。
わたしは謝って、一生懸命頭を下げる。しっかりと目をつむって。
祈るふりばかりうまくなっていく。
ねえさんはなにを祈っているんだろう。
7.Juglans
父は、あまり話さない人だった。
自分のことはもちろん、必要なこと以外なにも言わない。いつもむずかしそうな本を読みながら眉間にシワを寄せているか、部屋に引きこもって家具を作っていた。たくさんの工具を使って、板を切り、杭を打ち込み、形を整え、わたしたちの生活に必要なあらゆるものを組み立ててくれた。作業をしているときの父はことさら無口で、時々遊んでうるさくすると、怒られた。二日くらい部屋から出てこないこともあって、釘を打つ音だけが、昼となく夜となく響き続ける。
ねえさんは、そんな父の様子に敏感になっていたようで、いつもそわそわして、夜食を作る手もぎこちなかった。ただ、父の部屋へ夜食を運び終えると、いつも決まってうれしそうだった。なにか父に言われたのかもしれない。とにかく、ねえさんは父になにかするときは笑顔だ。わたしは、父とは話さないので、ねえさんがどうしてそんなに機嫌がよくなるのかわからない。父はたくさん話す方ではないので、楽しそうではない。
そんな父が、唯一わたしにくれたものがある。
それは小さな机だ。
今も部屋のすみに置いてある。ひざを曲げて座るとちょうどいい高さで、幅は手先から肘までしかない。引き出しも付いていない。廃材を組み合わせただけみたいで、表面はすすけて灰色だった。
机をもらったのは、ちょうど今ぐらいの時期だった。いつものように部屋にこもってなにかを作り続けていた父が、突然わたしの部屋へやってきて、この机を置いた。さっきまでの音はこれを作っていたのかなと思う。そして、なにも言わずに部屋を出て行こうとしたので、わたしは父の服を引っ張った。急いで、手近にあった紙に「これはなに?」と書く。
「机だ」と父はすぐに答えた。
いくら子どもでも、そんなわかりきったことを真面目な顔で答えられて腹が立った。
「もう、わたしは机を持ってるよ」と紙に書いた。わたしはすでに大きな机を持っていた。それは、ねえさんのおさがりだったけれど、材質もいいし、木目も美しい、椅子も付いている立派なものだ。わたしはよくそこで日記を書いたり、父から勝手に借りた本を読んでいる。
それを聞くと、父は、「そうだ」と言った。「いらなければ捨てろ」と言って部屋を出ていった。そして、もう顔を出すことはなかった。
本当によくわからない。
別にほしいと言った覚えもないのに、どうして突然こんなものを作ったんだろう。もしかして、本当はなにか別のことに使うつもりだったけれど、失敗してわたしに押し付けたんだろうか。そもそも、ねえさんにはあんなきれいな机を作ってあげて、わたしには、こんな廃材で作ったものを渡すのは、なんだかいやだ。嫌われているんだろうか。
その机は、今もわたしの部屋のすみでほこりをかぶっている。
花を置いたこともあったけれど、ベッドの影に隠れてしまうし、高さが微妙なので役に立たなかった。あの机でずっと文字を書いていると疲れてしまう。
その机は、クルミの木でできていた。
8.Trifolium repens
わたしは夏が嫌いだ。
汗をかいた体にへばりつく服も、無神経に熱を発する太陽も。森のなかでは、葉が日差しをさえぎってはくれるものの、その代わり湿度が高く、長い時間外にいるとめまいがする。
部屋の窓をあけて、なるべく外の空気を入れるようにしても、風はいつもふいているわけではないので、薄いふとんを体から引きはがして、けだるい気分のまま台所で顔を洗う。山から引いている水は冷たく、皮膚に触れたとたんに刺すような痛みがある。
身支度を整えて外へ出ると、案の定じっとりとした暑さに迎えられた。まるでぬるま湯のなかを泳ぐように、逃げ場のない気分の悪さが続く。わたしはいつも通り沼へ行く。足元の草は、暑さにも負けずにぐんぐん伸びている。そこに小さな花もちらちら咲いている。そのなかにシロツメクサがあった。
そういえば、昔、ねえさんに花の冠を作ってもらったことがある。ねえさんは細かい作業が好きなので、料理はもちろん、その他にも、刺繍や、編みものなど、手先を使うものがうまい。器用で、どんなことでもそつなくこなす。花の冠を作るときも、ほとんど手先も見ずに、慣れた手つきだった。
「さあ、できた」と言って、ねえさんはわたしの頭に白い冠をのせる。編みこんだ部分も頑丈で、形も整っている。とてもきれいな円だった。
わたしは少し困りながら、自分の頭にのったものを触ろうとする。
「この世界でいちばんそれが似合うのはあなたよ」ねえさんは晴れやかな笑顔で言う。
わたしは照れ臭くなって、どんな表情をすればいいのかわからない。第一、わたしはこの世界のことを、ねえさんと父と、そして、沼とその周りの木々や草花のことしか知らない。いちばん似合うなんて言われても、目の前には少なくとも自分より美しい人がいるのだから、からかわれているような気持ちになる。
わたしは笑って礼をした。でも、似合っていることを認めたように思われただろう。そんなことを気にしていた。
刺すような日の下で、木漏れ日がたくさんの円を描いていた。沼の水面は暑さと関係ないように、暗い色をして今日もまったく動かない。暑さにほだされて、水に足をつけたいと思う。気持ちがよさそうだ。
森の奥からはねえさんの歌声が聞こえる。
わたしは、木の影に座って、沼に足をつける。両手を地面につけて体を支える。上を向けば、太陽の光が空を照らしていた。雲はゆっくりと動いている。形はどれも異なり、大きなものはとにかく大きいし、細かい雲の切れ端が、他の雲に吸い込まれ、光に消える。空は青々としているが、その色が水面に映ることはない。
せわしなく蝉が鳴き、鳥の羽ばたきが遠く聞こえる。
だんだん頭が熱くなってきた。片方の肩に手を添えると、汗をかいてベタベタしていた。
わたしは、摘んだばかりのシロツメクサを膝の上に載せ、自分で編みはじめる。茎を爪で引っかくと青い汁が出てきた。シロツメクサの茎は扱いづらい。
作り上げた冠は、不格好でほとんど花も落ちていた。
ねえさんのようにはうまくいかないと思う。
そうして 、わたしは自分で作った花の冠を頭の上にかかげ、沼へ放り投げた。
なんの音もしなかった。
9.Iris laevigata
夏は深まり、日に日に暑さは増していた。寝苦しい夜が続く。何度も寝返りをうち、夜中に目を覚ました。
すると、知らない間に、右手の指先に発疹ができていた。起きがけにあまりにかゆくてたまらないのでなんだろうと思ったら、指先が赤茶けて腫れていた。ついかきむしってしまい、中指から血が出た。水に手をつけて、冷えるのを待つ。タイルの上を赤く濁った水が流れ排水溝に吸い込まれていく。冷やすと少しだけかゆみはおさまった。目を閉じて、ため息をつく。できればこのままずっと水につけていたいと思う。
すると、土間の方からねえさんがこちらへ顔を出した。どうしたのと聞かれたので、ううんなんでもないという意味で首を振る。この程度の痛みをねえさんに伝えて心配させてはいけないと思う。わたしは血の止まらない指を引っ込めて、たまたま手近にあった皿を洗うふりをする。ねえさんは首を傾げながら、わたしの後ろで朝食の準備をはじめる。こちらをうかがう目を気にしながら、しばらく皿を洗うふりを続け、ウサギみたいにすばやく、わたしは土間の方へ逃げた。外へ出て、朝になりきらない暗闇を走る。ねえさんに声をかけられたけれど、怪我をしていない方の手を振った。
外へ出て、さあ、どこへ行こうと思う。沼へ行ったら、ねえさんが来るかもしれない。
かといって、あの青い小屋へ行くのも気が引けた。外にいるよりも暑いだろう。
指先のかゆみはおさまらず、むしろ激しくなっている。わたしはふらふらと、森の中を歩き出した。そういえば、まだこっちの方へは行ったことがない、と思いながら。
木の表面はささくれだち、灰色に濁った色をして、頭上から降り注ぐ光は進路を照らす。足元はことごとく草におおわれている。ときどき丈のあるものに足をすくわれそうになる。つまづかないように、慎重に一歩一歩進む。虫も多く、いつの間にか足を食われていた。膝の下に赤い斑点がポツリとできた。
やがて少しひらけたところに出た。そこは、一際光の注ぐ場所で、太い樹木が枝を広げている。葉は黄みがかった緑で、風が吹くたび揺れる。
光のあふれるちょうど真ん中に、切り株があった。
雑草に包まれ木目のはじにはキノコが生えている。
切り口は新しく、せいぜい二、三年前だろう。こんな森の奥へ人が来るとも思えないので、たぶん、父が切ったのだと思う。それにしても、こんな太い木を一人で切れるんだろうか。どのくらい時間がかかったんだろう。それに、父はその木で何を作ったんだろう。今まで作った家具のなかのどれかに使われているんだろうか。切り株の模様ではわからなかったが、色が濃く、年輪が密で硬そうだ。
わたしは、そんな切り株に触ろうとして、自分の指が怪我をしていることを思い出す。血は止まっていなかった。
切り株のそばには、花が咲いている。
カキツバタだ。
紫色で、細い花びらを垂れている。
わたしはその場に腰をおろす。
あたりは朝に向けて動き出している。
東の空がぼんやりと明るい。
10.Mimollet
夏が過ぎると、秋がきて、すぐまた冬になった。その間も、毎月男がやってくるたびに豪勢な食事が作られ、毎週日曜日には森の陰の小屋で祈った。幸い指先の湿疹はなくなったが、今度は偏頭痛がした。頭を後ろから殴られるような痛みだ。特に雨の日は酷くて、起き上がるのも億劫なので、ベッドにぐったりと体を沈め、ふとんの中で目をつむる。
わたしは子どもで、まだなんの仕事も請け負っていない。ただ、寝て起きて、ねえさんの作ったごはんを食べる。ときどき散歩へ出かけて、花を見て、大きな木の下で涼み、沼の水に足をつけて少しだけ眠る。雨が降ればなにもしない。
この毎日は永遠に続くものだとわたしは考えていた。わたしの体は小さく、骨ばかりで肉がない。風呂に入って体を洗うとき、骨の浮き上がったところをこすると痛い。だから垢がたまって汚くなる。それを丁寧に落とそうとすると時間がかかる。週に一度ならできても、毎日は面倒だった。そうして、その毎日はいつまでも続くと、わたしは思っていた。
窓のすきまから入ってくる風が冷たい。あのすきまになにか詰めることを考える。あのすきまさえなければ寒さなんてなくなって、ぐっすりと眠れるのに。ハンカチを詰めようか。いや、ハンカチでは分厚すぎる。じゃあ、紙にしよう。でも、雨が降ったら濡れてしまうだろう。たくさん考えているうちに面倒になって、すこし寒くてもいいかと思いはじめる。眠るのに支障はないのだから。
こうやってなにかを諦めるのは、いけないことだと思う。どうしていけないのか。きっと、ねえさんなら説明できると思うけれど、わたしにはわからない。でも、なんとなく、面倒だといって色々なことをやらないでいると、だんだん体が腐っていくような気がした。別に、やらなくても済むことだけど、やらないと、どんどん黒ずんで汚れていく。汚れたからといって死ぬわけではない。でも、死なないだけだ。
ふだんの生活のなかで、家具の上に積もったホコリを無視することもできるけれど、それがずっと積もって、やがて天井へたどり着いたらどうしようと考える。行き場を失ったホコリが、床へ落ちて今度はそこに積み上がり、部屋中ホコリだらけになったらこわい。昔読んだおとぎ話のように、部屋がふくれあがって、家ごと破裂してしまう。
たとえば、わたしのくるまるこのふとんも、ずっと使っているとだんだん黄ばんでくる。この黄ばみも、無視することはできるけれど、汚くなっていって、ひどい臭いがするに違いない。
わたしは、きれいなふとんの中で体をまるめて死ぬことを考えてみる。死ぬ、というのは、いったいどんな感じなんだろう。死んだことのある父さんに聞いてみたいけれど、死んでしまったので聞くことはできない。わたしが想像する死ぬというのは、すごく寒くて静かな場所へ行くこと。腹の立つことも、悲しいことも、ぜんぶ光のなかへ消えて、なんだかかわいく思えるのと同時に憎くなって、その両方が矛盾せずになかよく手をつなぐ。こうやってものを考えていること自体が、ふわふわぐるぐるまわって消えてしまう。ものがふっと消えてなくなるなんてことは起こらないので、それは頭のなかのできごとだ。
でも、たとえばきれいに咲いていた庭の花たちだって、冬になったら枯れて、みすぼらしく土の上に落ちている。決して消えたりしない。おまけに、草花はいつの間にか土にタネを植えている。わたしたちが感傷にひたる前に枯れる。
そういえば、ねえさんが窓際に飾ったバラもすっかり枯れてしまった。葉も花も区別がつかないほど茶色になって、触れば形が崩れてしまいそうだ。
窓の外に見える木々も葉を落とし、種種の見分けがつかないほど痩せている。
庭の花たちも、すっかり首を落としてどれがどの花なのかわからない。
あれは死んでいるのかな。
でも、春になれば同じ花が咲く。
もしかして、死ぬというのはふつうのことなんだろうか。
父さんが死んだのも、ふつうのことなんだろうか。
春になっても同じものが生まれないというだけで。
11.Favismo
ねえさんが風邪をひいた。外は雪が降っている。
わたしはねえさんのおでこを、ぬらしたタオルで冷やそうとしたけれどすぐにぬるくなってしまうので、雪を集めてこようと思った。外は、綿のような雪が降り続け、白一色でものの輪郭を鈍らせる。今やすっかり木々は雪のなかへ沈んでいる。まるでぜんぶ一緒くたにして、毛布にくるまれてしまったみたいだ。
ぶ厚い毛布をかぶって玄関から出ると、冷たい風が胸のあたりへ吹きこんできた。髪の毛に真っ白な粒がくっつく。身をちぢめて、せまい歩幅で前進する。ざくざくと雪を踏む音だけが鳴る。すこし家から離れると、わたしは持ってきたバケツで雪をかき集める。生身の手は、雪に触れると冷たいし、爪の間が痛い。雪は上の方はやわらかくても下の方は氷のように固くなっていた。すぐ土の地面に到達して黒い粒が見える。真っ白な雪のなかにある土は際立って見える。
バケツの半分くらいまで雪をつめて家へ運ぶ。重たくてふらふらしてしまう。玄関の前でいったんバケツを置いて、体で扉を支えながら中へ入る。風が吹き込むのを遮って、扉の内側で息をついた。
ストーブが音を立てる部屋で、ベッドに横たわるねえさんのおでこにハンカチでくるんだ雪を置く。マキは秋のうちに用意していた。ねえさんが、ううんとうなって頭を動かすので、落ちないようにおさえる。ねえさんの顔は真っ赤になって、閉じたまぶたにくっきりと刻まれた二重のシワ、紫がかった唇がかすかに動くたび、わたしは心配になった。
もしも、このままねえさんが死んでしまったらどうしよう。わたしはひとりぼっちになってしまう。こんな深い森の奥でいったいどうやって生きていけばいいのだろう。ごはんなんて作れないし、家具も作れない、裁縫もできないし、こうやって、人が病気になったときにもどうすればいいのかわからない。こんな状態で生きていくなんてきっと無理だ。今までわたしが生きてこられたのはねえさんの力だとあらためて思う。わたしはなにもできない子どもで、ひとりでは死ぬことしかできない。
すこしだけいやな気持ちがよぎった。浮かんだ瞬間にかき消すように胸をかきむしった。手首が変な風に曲がる。そんなことを考えてはいけない、と強く思う。そんなことを考えてどうする。
ふいにわたしはあることを思い出した。急いで台所へ行って鍋に水を張り火にかけた。背の届く範囲の戸棚をひっかき回して、手当り次第に袋をあさる。なかには白い粉や、パン粉が入っていた。そのなかでようやく見つけたのは緑色の豆だった。わたしはそれを手でつかみ入れると、がさっと鍋にぶちこむ。湯がはねて顔に当たった。ぐつぐつと煮えたぎる湯のなかで、豆は踊るように跳ねていた。
ずいぶん前、父がひどい熱を出した時、ねえさんがこうやって豆を煮たものを食べさせていた記憶があった。わたしもねえさんに同じことをしよう。ねえさんは、父が死ぬ間際にもよくこうしていた。父のために料理をしているときのねえさんは、こわくて近づけなかった。
煮えたぎる湯のなかで、豆はずっと動き続けていた。顔に蒸気が当たる。体の他の部分は寒いけれど、顔だけは熱かった。
わたしはその時はじめて、神さまへ祈ることを思いついた。
ああ、神さま。
早くねえさんをよくしてください。
そのためならわたしはどうなってもいいです。
12.Phragmites australis
ねえさんはいっこうによくならなかった。むしろ、悪くなっているようだ。わたしは毎日、おでこのタオルをかえ、緑色の豆を煮て、それをねえさんへ食べさせた。手際がよくなると、豆は確実に減っていく。なくなってしまうのがこわかった。
寒さは深まり、沼は雪に埋れて足場が悪く、うかつに近づけない。木々は雪を突き刺す刃物のように黒く立っている。その隙間に見える空もずっと灰色だった。鳥はいなくなり、ことごとく静かだ。
それから、わたしは日曜日以外もあの青色の小屋へ行くようになった。毛布を頭からかぶって、雪を踏みしめ、家のふちをなぞって裏へむかう。一度、足をすべらせて転んだことがあった。幸い、雪のおかげで大きな怪我はせずに済んだけれど、地面から飛び出していたアシの茎に足首をひっかかれて、まっすぐな傷ができた。血が雪の上に落ちてきれいな染みをつくる。それを靴で踏みしめて小屋へ入ったが、けがのせいでひざを折るのが痛かった。何時間も頭を地面につけて同じ姿勢で祈っていた。
神さま早くねえさんをよくしてください。
祈ることはそれだけ。今までの生活を返してほしい。雪が降り積もって、廃材でできた小屋の屋根はきしんでいる。
外が真っ暗になったころ、ズキズキと痛む足を引きずるようにして家へ帰った。肌が青色になっていた。祈っている間はぜんぜん感じなかったのに、急に悪寒を感じて歯が音を立てた。指が震えてまともに毛布のはじがつかめない。呼吸するたびに冷たい空気が肺に穴を開けるようだ。めまいと頭痛が交互に押し寄せ、体がだるくなる。
ねえさんの部屋へたどり着いたときにはすっかり疲れきっていた。ねえさんは細い体をベッドに横たえて、薄く口を開けて呼吸をしている。目は半分しか閉じていないし、まるっきり父が死んでいるときと同じ顔だった。わたしは、だるさに負けないように体を起こし、ねえさんの肩へ慎重に毛布をかけた。
咳をするたびに、ベッドが叫び声を出す。そのベッドももちろん父が作ったものだ。寝転がるねえさんの身長をはかって、このくらいは伸びてほしいと言って父が作った。父の予想は当たらなかった。ねえさんは予想以上に背が高くなって、このベッドで眠るときはひざをすこし曲げなければいけない。
赤ん坊のような格好でねえさんは眠っている。吐息がときどきつまって苦しそうになる。わたしはひざを抱えて、そばで座っていた。ストーブの火が揺れるのをぼうっと眺めていた。冷え切った家の中で、この部屋だけがあたたかい。外は寒いし、肌を刺すように痛い。今日は、私もこの部屋で眠ろうかなと考える。自分の部屋からもう一枚毛布を持ってきて、床に敷いて眠ろう。
ふと、ねえさんが目を覚ます。薄く目を開いて、こちらを見た。わたしは祈りが通じたと思い、跳びはねるほど嬉しくなった。声をかけ、そばへ駆け寄る。足の痛みもおかまいなしに。
すると、ねえさんは頭を前後に揺らし、荒い呼吸を繰り返し、とろけるような目でわたしの全身をくまなく眺めおろて言った。
「けがしてるわ」
13.Cattleya
まったく神さまなんて信用ならない。
わたしは怒りのままむちゃくちゃに家のものを壊した。父の作った家具を引き倒し、毛布を投げ捨てた。
ねえさんはいっこうによくならなかった。悪くなる一方だ。この前、とうとう血を吐いた。いつも以上に激しい咳をして、口のはしから血がたれていた。わたしはどうしたらいいのかわからずぐちゃぐちゃの髪で小屋へ急いだ。神さま神さま神さま。どうかどうかどうか。口が裂けるほど開いて祈った。ひざを折って、両手をつなぎ合わせ、頭を地面にすりつけて、何度も何度も祈った。神さま神さま神さま。どうかどうかどうか。祈り続ける。
そのとき、開かないはずの小屋の扉が開いた。風のせいかな、と思ったけれど、それなら壁を叩く音がするだろうと不信がる。振りかえると、男がひとり立っていた。太った大きな男が、足のような腕を胸の前で組んでいる。殺した動物をそのまま羽織っているような毛むくじゃらの上着を着ていた。
「家のなかはむちゃくちゃ、ボロ布みたいな女は倒れて、おまえはこんなところでなにをしてるんだ」
男の声は野太く、土の底から響くようだった。わたしは口を開き目を見開いて男をしっかりと見た。口のなかが乾く。男の大きな腹を見ながら、何を食べたらこんなにふくれるんだろうと思う。
「約束のものは持ってきた。ところが女は死にかけている。はるばるやってきたおれはいったいどうすればいい」
男は眉をひそめて腕で扉を叩きつけた。腐りかけた扉をあんな風にあつかったら壊れてしまう。わたしはひざを折ったまま首をかしげる。わたしは、病気になったねえさんをどうしたらいいのかもわからないのに、男のことなんてわからない。なんだか腹が立ってきて、男が邪魔者に思えた。
「汚いボロ小屋だ」
男はわたしに近づいて片方の眉だけをつり上げた。顎は毛むくじゃらで熊みたいだ。ねえさんは病気だと、わたしは男に右手を引っ張りあげられながら伝える。腕がちぎれそう。すごい力だ。抵抗できなかった。
その時、男はニヤリと笑った。こわいと思った。
「病気だって、そいつぁ気の毒だ。こんな森の奥で、病気なんかになっちまったら進む道はひとつ。決まりきった順序がある。せっかく約束のものを持ってきてやったのに残念だが、もうおしまいだ」
男はおおげさに両手を振りあげてニコニコと声を張り上げた。まるで地獄の番人のように笑いながら、体を大きく揺らす。わたしは男に放り投げられるかたちで地面に体を倒す。おしまいだ、という言葉が何度も頭のなかをよぎった。怒りは足を伝って地面に逃げてしまったように、どうしようもなくむなしい。悲しくはなかった。
「小さなおまえ、おい、いいことをひとつ教えてやろう。大事なことだからしっかり聞け。病気は治る。ぜんぶじゃないが、治る病気がある。決まりきった順序を壊すんだ。教えてやろうか。知りたいだろう」
男は心の底から楽しそうだった。わたしは地面に顔をつけながら男の歯茎を下から眺めていた。男はわたしに顔を近づけてきた。息に熱がある。上の歯と下の歯との間に唾液が糸を引く。
「薬がある」と男は言った。
わたしは聞こえてくる声を遮ることができなかった。
「薬があれば、死にかけの女もすっかりよくなる。そうすりゃおれも肉を運んできたかいがある。女がよくなり、小さなおまえは大喜び。肉でも焼いてお祝いでもするといい。みんなしやわせになれる」
男の口にした「しやわせ」という言葉がおかしかった。知らない間にわたしは笑っていて、それを男は承諾だととったようで、楽しそうに笑った。
「おれは心が広い。大きくなくてもかまいやしない」
そういうと、男は服を脱ぎはじめた。
こんなに寒いのにおかしいなと思う。
どうして服を脱ぐんだろう。
14.Circumcision
ねえさんはよく歌をうたっていた。その歌は、本当はもっとたくさんの人間で歌うもののようで、ひとりだと音が足らない部分が多くあった。それでも、小さな口からつむぎ出される歌声は遠く響きわたり、光のなかであざやかにきらめいていた。わたしはそれをよく沼のそばで聞いていた。ナラの木の下で膝を抱えて、木陰は涼しく、風がそよぐたびに安心できた。いろいろな不安が姿を隠して、ねえさんの歌声で眠くなる。眠ってもいいと、認められるような気持ちになる。
ねえさんの歌声はきれいだ。
わたしは歌うことができない。
小さいころ、わたしはねえさんにひとつ尋ねたことがある。紙とペンを使って。わたしはそれらをいつも持ち歩いていた。
「神さまは笑うの」わたしの質問をねえさんが声に出す。
白いワンピースに身を包んだうつくしいねえさんは、わたしのそばへ腰を下ろすと、まるで妖精のように首をかしげた。身長が高く、手足がすらりと長くしなやかで、肌は透き通り、とても同じものでできた体とは思えない。ねえさんはいつも微笑んでいた。その表情のまま生まれてきたようだった。だけど、無防備な表情も一瞬で、すぐ険しい顔になった。眉を寄せて、口角を下げる。
「どうしてそんなことを思うの?」ねえさんは低い声で、わたしの顔をのぞきこむ。わたしは自分の顔にめやにがついていないか心配になって、首をすごめる。前に、顔を洗っていないことをからかわれたことがある。今日は大丈夫なはずだ、と自分に言い聞かせる。
「だって、神さまは、目が、ないん、でしょう」とねえさんはわたしの書いた言葉を、とぎれとぎれに読み上げる。なんだかとても苦しそうだった。肺がつまったように、顔中の皮膚を引き寄せるようにして顔を歪ませる。そうして、ねえさんはまたこわいねえさんになってしまった。
「神さまが笑うか、ですって!」声が張り上げられる。その声量は甚大で、森中に響き渡るようだった。「困った子! まるで悪魔のようなことをきくのね。神さまが笑うかですって。ああ、こわい。父さんが聞いたらなんて言うかしら。きっと悲しむに違いないわ!」
ねえさんはとてつもなく残念そうな顔で眉をしかめて何度も首を振った。目はかたく閉じられ、口は苦いものでも吐き出すように変形している。わたしは申し訳ない気持ちがあふれて、すぐにでも謝りたいと思った。でも、一体なにを謝ればいいのか検討もつかず、困って下を向いた。
足元の沼はどす黒く、生き物の気配はない。水面は静まり返り、時折、なにかの拍子で波が立つ。木々を行きかう鳥たちは、自分が飛べることを主張する。
「あなたに教えなければいけないことがあるわ。とても大事なことよ」
ねえさんの迫力はすさまじく、逃げ出したくなるほどこわかった。わたしはもしかしてとんでもないことを言ったのかもしれない。わたしにはそういう無神経なところがある。無礼で、人のことを思いやらないところがある。ねえさんがそう言ったのだから、間違いない。
「ああ、きっと、わたしがきちんと教えなかったからいけないのね。わたしも罰せられるべきだわ。このままでは父さんに申し訳が立たない」
ねえさんはあせっているようだった。感情の昂りに急き立てられるように首を振る。長い髪がそのたびに揺れ動き、絹のようにうやうやしく揺れていた。
「さあ、ちょっと、こっちへ来てちょうだい。あなたに大事な仕事があるわ。さあ、早く!」
ねえさんは細い腕のどこにそんな力を隠していたのか、わたしを引きずりあげるように歩き出す。
その足は、あの青い屋根の小屋へ向かっていた。
途中、ねえさんは家からちいさなナイフを持ってきた。
わたしはなにかいやなことが起こるような気がして、胸がどきどきしていた。
15.Planting a cutting
男が帰ってから、また体が痛くなった。涙が出る。
でも、こんなものはねえさんの痛みにくらべればたいしたことはない。もちろん、わたしにはねえさんの痛みがわからない。でも、布団のなかで、血を吐いて苦しむねえさんの横顔は青白く、つらそうだ。寝返りもうてないようなのでときどき手助けをする。これから先も、ずっとこのつらそうな顔を見なければならないかと思うと悲しくなった。
台所にあった緑色の豆はとうとう切れてしまった。からっぽになった紙袋を手であさる。がさがさと音だけが鳴る。他の戸棚もくまなく探したが、なにも出てこなかった。
そうして、わたしがすがることができるのは男が残していった薬だけになった。それは、透明なビンに入った青色に近い紫色の液体で、かたむけるとハチミツみたいにゆっくり動く。はじめはこんなものをねえさんに飲ませるのは気がひけたけれど、緑色の豆をなくしたわたしにできることは、おでこのタオルをかえることと、それだけだった。
透明なビンに入った紫色の液体をねえさんの口にそっとたらす。それはクモのように糸を引く。液体はしばらく口のなかにわだかまる。ねえさんは顔をしかめてのどを動かす。ゲホゲホとむせるので、背中をなでた。口づけをしたらねえさんの苦しみがわたしへ移ればいいのにとまるで夢のようなことを思う。なんとか、わたしへ痛みをわけてほしいと思う。どうかよくなりますように。
そうだまたあそこへ行こう。
祈るんだ。
そうすれば、神さまが きっとよくしてくれる。
でも、と思う。
父は?
ねえさんがあんなに祈ったのに、父がよくなることはついになかった。おかしいじゃないか。神さまがいるのであれば、どうして顔を出さない。目のない顔。ねえさんの言葉を思い出す。どうして神さまには目がないんだろう。だれかにとられてしまったのか、それとも神さまにはもともと目がないのか。それでは世界を作ることなんてできないじゃないか。目のない顔に見つめられることを考えるとこわい。ないものがある、というのは、理屈が通らないしだまされているみたいで薄気味悪い。ねえさんはどうしてあんな風に言ったんだろう。もし、神さまを描いたらそれはどんな顔なのか。
一瞬、父の顔が頭によぎる。わたしが生まれてから会ったことのある男の人はふたりしかいないので、想像の範囲が狭い。ひとりは父、そしてもう一人は車でやってくるあの毛むくじゃらの男だ。あとは、本で読んだ想像上の人間ばかり。神さまについてのいろいろな疑問が湧いてはすぐに消えた。暗闇のなかで目のない顔がこちらをにらんでいる。
神さまはどんな顔をしているんだろう。
人間のように怒ったり、泣いたり、笑ったりはしないのかな。
もしそうなら、楽しくないだろうなと思う。
きっと、こんなことをねえさんに言ったら、また怒られてしまうだろう。わたしは、わたしがまだ小さかったころにねえさんにしてもらったことを思い出しかけて、急いでやめた。
お腹をおさえて、顔をふせる。
ちっとも眠くならなかった。
16.Flour
やがて、ねえさんは毎日うめき声をあげるようになった。それは決まって夜で、昼は静かに眠っていても、夜になると声をあげる。うう、という細切れの音と、短く息を吸う音が交互に聞こえてくる。長い間ベッドに横になっているので、床ずれもするようになった。背中をさすろうにも、ひどく赤切れていて、触るに触れない。黒ずんだ顔をあたたかいタオルで拭いても、やせ細った体までは拭くことができない。
ねえさんがうめき声をあげるときは、なるべくそばにいるようにした。でも、ずっと耳元で声を聞いているのはつらいと感じることがある。あんなにきれいだった髪も抜け落ちて、薄くなった頭をそっとなぜる。ごめんなさい、と口を動かす。
なにもできなくてごめんなさい。
神さま、ねえさんが元気になることを望めないのであれば、せめて今日だけはいい夢を。父とねえさんとわたしで暮らしていた春のようなあのころの。
でも、わたしの神さまへの不信感は日増しに強くなるばかりだった。神さまは本当にいるんだろうか。いや、いてもいなくてもどうでもいい。わたしにとって、神さまは願いを叶えてくれるとても都合のよい存在であって、実際に人間のように生きていようが、化け物であろうが、どうだっていい。ねえさんを救ってさえくれればそれでいい。
わたしはいつものように小屋でひざまずいて必死で祈りながら、もう目のない顔におびえることはないと強く思った。
次の日に、また男は来るだろう。薬を持ってきてやるとは言っていたけれど、持ってくるとは思えない。なんだって男の気分次第だ。
地面は冷たく、体重をかけるとひざに小石が当たって痛い。かまうものかとわたしは祈り続けた。両手を握りしめて。
知らない間に、わたしの腕もねえさんのようにやせ細り、枝のようになっていた。手の甲にすり傷があるけれど、どこで付けたのか記憶にない。かさぶたが剥がれて血がにじんでいた。肌はガサガサで、木の皮みたいだった。
急に自分の体が不気味に思えたので、目を固く閉じて、ねえさんの元気な姿を思い描く。華やかな笑顔で沼のまわりを飛び跳ね、聞こえてくる歌。わたしはもう一度あの声を聞きたい。あの時のねえさんは、花や空、その他わたしたちを取り囲むどんなものと比較しても、なによりきれいだった。
今、ねえさんは、髪が抜け、肌はガサガサで、手足は枝のようにやせ細り、瞳は濁っている。これが病気の力だ。
それでも、頭のかたすみで声がする。
何度眠ったかもうわからない夜を過ごして、わたしは下を向いたまま家路をたどった。台所に、前に男が置いていった食べもののカスがほんの少しだけ残っている。それは固くなったパンで、そのままでは食べられないほど乾燥していた。わたしは鍋でお湯を沸かし、立ちのぼる蒸気にパンをかざした。骨に皮が張り付いたような指が熱で赤くなっていく。こんなに筋肉がなくなっても、きちんと血が通っているのだな、と思う。
ねえさんの部屋へ行き、蒸気で少しだけやわらかくなったパンのかけらをねえさんの口へ運んだ。ねえさんはなかなかパンを食べようとはしなかった。薄く開いた口からよだれが垂れ、かすれるような息がもれる。
わたしは、パンを自分の口へふくんだ。わたしの口は渇いている。しかし、口にふくんでしばらくするとパンの形は崩れて、やわらくなった。わたしはそれをねえさんの口へ運び入れる。木の皮のようになった唇の隙間へパンを差し込む。少しだけ隙間が開くと、ようやく、ねえさんののどが上下するのを見届けた。
そのあと、沸かしたお湯が人肌になるまで待って、ねえさんの口へ流し入れた。こののどからあのうつくしい声が再び放たれることはあるんだろうか、そんなことを思うとなんだかさみしくなった。
夜はふけて、窓は黒く染みいる。冬の夜はなんの音も聞こえない。生きものはみんな死んだようでいて、息をひそめて月から隠れている。
長かった冬も過ぎ、やがて春がくる。
ねえさんのいない春が。
17.Miscanthus tinctorius
わたしはあることを思いついて、車の音を待った。ねえさんの部屋のすみで丸くなり、窓から入る光に目を細めながらじっと庭を見ていた。
雪が降り、枯れた枝木に春の予兆が現れる。庭の花たちもそのうちつぼみを付けるだろう。
その時、待ちかまえていた音がした。耳をつんざくように激しい、普段の生活のなかで決して聞くことのない、どんな動物の鳴き声よりも一方的な音。
男が車のドアを開けて出てきた。すこしだけ、こちらを見上げたような気がした。熊のように大きな体はよりいっそう大きくなっているように錯覚する。一体、あのお腹の中にはなにがおさまっているんだろう。子どもなら、簡単にひとりくらい入ることができそうだ。毛むくじゃらの顔に隠れた鋭い目が、わたしたちの家をにらんでいた。そこにいるのはわかっている、とうったえるように。
わたしはねえさんの体をなめるようになぜて、部屋を出る。ねえさんは静かだった。前のようにうめき声をあげることもなくなった。ただ、寝返りもうたずに浅い息を繰り返している。閉じられたままのまぶたのはしに、たくさん目やにがついていた。
「遅いぞ」と男が低い声を出す。
わたしは毛布をかぶって玄関の前に立った。ぼうっと男を見つめる。なんだか、頭が痛いし目の前の景色がみんなかすんで見える。体の中心から芯がひっこぬかれたようでフラフラしてしまう。今まで、どうやって頭を支えていたんだっけ。
背中を丸めたまま男へ近づく。男は汚いものを見るように顔をゆがめていた。その通り、わたしの体は臭いを発していた。毛布は黒く汚れてボロボロになっていた。
すがりつくようにわたしは男の体へ飛びこむ。声の出ないのどをふるわせて、薬と繰り返した。男の革のベストを両手でつかみ、口を大きく開けはなって息を吐き出す。男はひるむようにあとずさりしたが、わたしは逃さなかった。
「えっちらおっちら森の奥まできたのに、くたびれもうけだ。あっちへいけ汚らしい。いい加減にしろ。勘弁してくれ。早く死んじまえ。おい、おまえ、やせっぽっちのおまえ。おまえのねえさんは日を置かずに死ぬだろう。必ず死ぬ。おれが渡したのは、ただの水だ。薬なんかじゃない」
男の言葉を聞いたとき、わたしはむしろほっとした。あれは薬じゃなかった。どうりでねえさんはいっこうによくならなかったのだ。わたしの祈りが足らなかったわけではなかった。神さまにそっぽをむかれたわけでもなさそうだ。きっと、神さまはあの液体が薬ではないことを示すために、ねえさんをよくしなかったのだろう。わたしが、そのことに気がつかなかっただけなのだ。
安心すると同時に、とてつもない怒りが体中をめぐった。目が回るほどの強い怒りで、わたしが声を出せたら、きっと森中に聞こえるような叫び声をあげていただろう。わたしは、男の体に噛みつき、長い爪でひっかいた。男は動物のような声をあげて後ろに飛びのく。車のドアがほんのすこしだけへこんだ。わたしは、勢いにまかせて、目と鼻から水を垂れ流しながら、獣のように攻撃をくり返した。男が車に乗って逃げようとするだろうとは考えていたので、車のドアからはなれるように引き寄せた。男は荷台へ倒れこみ、尻もちをつく。
「いいかげんにしろ。おれは荷物を運んでやっただけだ。感謝されても、どうしてこんな仕打ちを受けなければならない。おれは
なんにも悪くない。なんにも得しない。なんにもなしだ。まったくなしだ。いったい、どういうことだよ、なあ、神さま」
そのとき、わたしは耳の内側でキンという高い音が鳴るのを聞いた。
息をするのも忘れてしまう。
ああ、そうか。
男にも神さまがいるんだ。
神さまはわたしたちだけのものではない。
そうか。
そうしてわたしは、目を見開いて男の体にむかって倒れこんだ。男は身を縮めてよけた。リスみたいにすばやく動くと、わたしの体をはね飛ばして、車に飛び乗った。間髪いれずにエンジンをかけると、音を立てて走り去った。わたしの足を踏んで。
痛くてわたしは体を反らせて声を上げようとした。でも、声は出ない。火のような息だけが漏れる。足からも火が出ているようだった。痛み、というのはすべての意識を引き寄せるようだ。体が痙攣し、なんとかこの痛みから逃げようともがいた。
けれど、二本の腕で地面をかきまわしても、進む距離はたかが知れていて。カリヤスの葉をかき回し、虫のように土の上を這いずることしかできない。口のなかに小石が入る。両手をバタつかせる。
家の扉が、空に浮かぶ月に思えた。
18.Risotto
わたしはたぶん死ぬんだろうな、と思った。
男が去ってから、いつものように夜はやってきて、森を暗くかすませ、見慣れたものの実態をつかめないものに変化させる。
わたしは、這いずったまま両腕で進むのも疲れて、じんじんと響くように痛む足から他のものへ気をそらせようと必死だった。はじめは目に見えるものに集中しようとしたけれど、暗くなるとそれも叶わなかった。
まだ小さかったころ、なにも知らなかったころ、ねえさんといっしょに森のなかへ散歩に出かけたことがある。父は工房にこもってずっとなにか作っていた。わたしたちはふたりで手をつなぎ、花を摘んでうちへ帰った。なんのことはない日常だった。花は、テーブルの上に飾られ、翌日にはみすぼらしく枯れていた。枯れてしまった花を、ねえさんは表情ひとつ変えずに捨てていた。摘んでしまった花の寿命は驚くほど短い。地面に生えている間は、あんなに色鮮やかで生き生きとしているのに。土から離れれば死ぬだけだ。人間にしてみれば、頭を切り落とされたようなものだから当然だ。翌日も、わたしたちはふたりで花を摘みに出かけた。そして、その日に摘んだ花も朝を迎えるとすぐ枯れた。
どれくらいの時間が過ぎただろう。足の痛みはまったく引かず、むしろ鋭くなっていて、わたしは息をするだけで精一杯だった。思い出せる記憶の数も限られている。考える力が弱っている。頭がぼうっとする。
そういえば、こんな気持ちになったのは、はじめてじゃない。それは、そう。わたしがねえさんの神さまをおとしめた日だ。
神さまは笑うのか。そう問いかけたあの日、わたしはねえさんを怒らせて、引きずられるように小屋へ連れていかれた。そこであったことを思い出すのはいやだ。海に叩き落とされるような薄気味悪さがある。わたしは海を知らない。わたしの知っている海は、ただ、物語のなかにたたずむ巨大な沼だ。水量が増すこともなければ、波が起こったり、揺れることもない。そこにあり続ける水の塊。
あのとてもこわかった日から、わたしはじっと痛みに耐えて、何日も眠れなかった。でも、あのときはよかった。すぐそばでねえさんが看病をしてくれたから。温かいおかゆを炊いて、息を吹きかけ口に運んでくれた。そう、今、わたしがねえさんへしているようなことをねえさんがしてくれた。あのときは緑色の豆はなかったけれど。たぶん、あれは病気にだけ効くものなんだ。怪我の痛みには通じない。看病してくれるねえさんの顔はやさしかった。何度も何度も頭をなでて、やんわりと微笑んでくれた。
「この痛みを忘れないでね」とねえさんは言った。
どうして? と尋ねることはできなかった。疑問が浮かんだ。いったい、なんのためにこんな痛い思いをしなければならないのか。その説明をまるでせずに、忘れないでなんて身勝手だと思えた。
「ほら」
ねえさんはおだやかな口調で言う。わたしは、何が?
と思う。こののどが使い物になれば、きっとすぐにでも口にしていた。もしかしたら、感情のままにひどいことを言ったかもしれない。何が? どうして?
なんのために? ねえさんの言っていることはまるで分からない!
結局、わたしはあんな痛みを負ったのに、今、またそれよりも大きな痛みに耐えなければならない。
だったら、あの最初の痛みなんてなければよかったじゃないか。神さまとやらがいるのであれば、説明してほしい。わたしがいったいなにをしたというんだ。ただ、与えられたように生きて、一生懸命祈ったのに。
足が痛くてたまらない。このままずっと痛いのであれば、いっそ切り落としてやろうか。でも、切り落としたって、痛みが消えるわけではない。それは、あのこわかった日に学んでいる。
痛みは、痛みのまま体に留まり続け、時間と比例して、疲労をうながす。痛みを切り離せばもっとすさまじい痛みが待っているだけだ。涙ばかり出て、嫌でも思い知らされる。
痛い。
19.See
わたしはねえさんのベッドの下で、うずくまって床のにおいをかいでいた。自分の吐き出した息がすぐにはね返ってくるけれど、わたしはそれをよけることもできず、呼吸をすることだけが許されているようだった。足の痛みは、わずかにひいたけれど、体を震わせるだけでもすさまじい痛みに襲われた。そのため、わたしは動くことをやめて、ようやくたどりついたねえさんのベッドの下で息をひそめることにした。ねえさんの身の回りのこともなにひとつできない。
お腹が減ったとか、そういった感覚は、ぜんぶ痛みに持っていかれたようで、ジンジンと迫り、寄り添い続ける痛みに、慣れることはなく、まるで痛みに遠慮するように呼吸していた。ねえさんからは、驚くほどなんの音もしなかった。ひょっとして、ねえさんはもう死んでしまったのかもしれない。けれど、わたしにはそれを確かめられない。腕の力だけで起き上がろうとしても、すぐに激痛を感じてその場に倒れこんでしまう。あごをしたたかに打って、 なにもかもあきらめる。
自分の呼吸だけが響く部屋で、差し込む昼の日を受けて家具がそびえたつ。夜がくるのを待っても、男はもうこないだろう。神さまだって降りてきやしない。
わたしの声の出ない口は、それでもずっと動いていた。
「どうか」
その先に、どんな言葉をつむぐか考えず、ひたすら、どうか、と唱え続けた。それは、自分の足から痛みが消えることを祈っていたんだろうか。今までは、痛みがないのが当たり前だった。今では痛みのなかったときがどんな風なのか思い出せない。
もう礼拝所へ行くこともできない。沼のふちに座ることも。できないことが山のように増えて、はじめて、今までどれほどたくさんのことができていたのかと気づく。わたしの願いは、すっかり痛みが消えること。果たして本当にそうだろうか。もし痛みが消えて、再び歩き回ることができても、いったいなにをすればいいんだろう。わからない。ねえさんを治すことだろうか。でも、一番大きな願いはそうだ。帰りたい。父が生きていたころに。三人で囲う夕食。三人の生活。当たり前だったころに帰りたい。
ひとつ、ひとつ、なんでもなかったことが、今では遠い光のなかにかすんで見える。自分の周りに当たり前のように存在したもの。わたしの幸せは、日に日に目減りしていくように思えた。だって、こんなにも足が痛く、ものを食べることさえできず、臭くなっていく体に鼻をゆがめて、息をするのも苦しい。ねえさんの顔を見ることもできない。時間が経ったら、そういった不満のうちのひとつでもなくなるだろうか。足の痛みは和らぐかもしれない。どれくらいかわからないけれど、耐え続ければ、そのうち立ち上がることもできるかもしれない。
さて、そうだとして、いったいわたしは、どこへいけばいいんだろう。お腹が減ってどうしようもないので、まずは台所へ行くだろう。食べものを探すんだ。でも、男がこなくなって、森へ植物を採りにいくこともなかったので、台所は間違いなくからっぽだ。礼拝所へ行こうか。泥だらけになって、気の遠くなるほど長い日々の果てに、礼拝所へ向かい、ずるむけになった腕で、さて、なにを祈ろう。
わたしはなにを祈ればいいんだろう。
歩けるようにしてください。昔のように、沼のふちを歩けるように、雨をよけるための足がほしい。でも、歩けるようになったとして、どこへ行けばいいのだろう。森の奥で木の実でも探そうか。わたしはそれまでどうやって過ごしていたんだろう。あの輝かしい日々のなかに、とりわけおもしろいことはなかったはずだ。ねえさんの歌声のない沼のほとりで、ひとりぼっちで座っても仕方がない。
「求めてはいけない」とねえさんは言った。
神さまに求めてはいけない、という意味だ。
では、神さまとやらは、なにをしているんだろう。
見ているのかな。わたしたちを。
口にしてもいけないって?
歌だってうたってはくれない。
20.The dirtiest spring
かすんでいく記憶のなかで、まるで春のような日を夢見ていた。
それまでは、当たり前だったもろもろのことがら。抱きしめて、頬をすりつけてももう決して戻ることはない。
悲しいとか、苦しいとか、痛いとか、そういった気持ちはなかった。むしろ落ち着いていて、目を開くのが億劫なくらいだった。やせ細った体が、床にこすりつけられて腐っていく。このまま床の下の地面まで、液体のようにとろけ落ちることを考える。わたしは地面に落ち、時間をかけてあの沼へそそぎこまれる。なんだか汚い話だ。
「おいおまえ。死んでしまった小さなおまえ。腐った臭いを放ちながら、腹の液で床の色が変わっているぞ。抜けた髪が壁のすきまにつまっているぞ。汚らしい。なんて薄汚いんだ。おいおまえ、ちっぽけなおまえ、おいおまえ、その哀れみを乞う目をやめろ。どれほど飢えようと、足がちぎれたって、おれには一切関係がないんだ。苦しいのなら誰にも知られないようにひとりで苦しんでくれ。おれは約束のものをいただきにきただけ。約束は果たされるべきだからな。どうだ、なんにも間違っちゃいない。間違いがあるなら、どうか教えておくれ。おいおまえ、死んだら神さまに会えるぞ。おい、おまえ……」
男は、わたしが死んだと思ったようだけれど、わたしはまだ生きていた。骨と皮の怪物みたいに、床にべったりくっついて、こんなに生きられるとは思っていなかったので驚きだ。また、見捨てられたと思った毛むくじゃらの男が、帰ってくるとも思わなかった。どうやら、男は何かを取りにきたようだったけれど、それがなにかはわからない。わたし自身がこんな状態になって、今さら惜しいものなんてなにもない。なんだって持っていけばいい。動けないわたしが持っていても仕方がないのだから。
「おい、おまえ。約束のものはもらったぞ。おれはここを去る。二度と戻ることはないだろう。おれはもらえるものをもらっただけだ。なんにも間違っちゃいない。間違っているならどこが間違っているかを教えておくれ。おれはおまえの父親に頼まれて今までせっせとおまえらに食べ物を運んだだけだ。約束は果たした。しかし、おまえたちの方で、ひとつ約束をやぶられた。それはおまえ自身が一番よくわかっているはずだ。だから、おれは、おまえらからおれに役立つものをもらう。まったくなにもおかしくないだろう。おかしかったら教えておくれ。じゃあな、ちいさなおまえ。死んでしまったちっぽけなおまえ。死んでも、なにもならないおまえ」
床にはいつくばりながら、男の口から言葉が落ちてくるのをじっと聞いていた。カマキリのような忍耐強さで、わたしは男から吐き出されるありとあらゆる言葉に感情を持たないようにしていた。このままじっとしていよう。そうすれば、男は諦めて帰るだろう。このまま、この臭い部屋にいたって、男には一銭の得もない。案の定、バタンと扉が閉じて、家の外からあの大きな音が聞こえてくる。しばらくすると、部屋はまた静かになった。
男が持って行ったものは、ねえさんの体だった。
なんだか大きな布を開いてねえさんをすっぽり包むと、脇に抱えて出て行ってしまった。
わたしはキツネにつままれたような気持ちになった。
男が欲しがっていたものは、ねえさんの体だったのか。焦って、男を追いかけようとも思った。でも、もちろん体は動かないし、男がいったいあんな風になったねえさんの体を持っていってどうするつもりなのだろうという疑問が動きを止めた。さっきの男の動きから、ねえさんが生きていることは万に一つもなかっただろう。伐採した木を運ぶのと同じような手つきだったからだ。生きた人間ではありえないほど体も曲がっていた。
ねえさんは死んでしまったのだ、と思う。
今まで、ベッドのふちでうずくまっていただけで確認できなかったけれど、今日、ねえさんが死んでしまったことを納得した。意外とすんなり受け入れられることができたのは、時間が経ったからだと思う。もう、ねえさんが話すことはないし、微笑むことも、歌うこともない。二度と動かなくなってしまった。父さんと同じように。それをわたしは納得している。
そのとき、はじめてわたしは焦りを感じた。
そうだ、ねえさんを父さんと同じようにしないと。
あんな毛むくじゃらの男に連れていかれるのはかわいそうだ。たとえ死んでいても。
ねえさんのいなくなった床は、冷たく静かで、自分以外のだれがいなくなっても、窓から入る光だけは信じられる、そう思えた。
なんだか、急にねむくなってきた。
ねえさんを取り返そう。
第二章 ほかのひと
1.Camellia japonica
「大きくなったらなにになりたい?」
ある日、ねえさんが不思議なことを言った。
ちょうど父が亡くなってから半年経ったころだった。
父のいない生活にも慣れてきて、夜に泣くことも少なくなった。わたしが困って首をかしげると、目の前の顔はふわりと微笑み、もともと大きな瞳をもっと大きく丸くして、もう一度微笑んだ。
大きくなったらなにになりたい?
どういう意味だろう。どうしてその質問をわたしにするのだろう。どうして笑ったんだろう。たくさん疑問が浮かんだ。ねえさんは口元の笑みを壊すことなく、まばたきを二回する。空は青く、森は春の訪れを喜ぶようににぎやかで、鳥の鳴き声が遠くから聞こえた。沼の水面に赤いものが落ちているのでなんだろうと覗いたら、ツバキだった。真っ赤な花弁が水に写って揺れている。
わたしは、大きくなったって、この森のこの家に住んでいるだけで、森から出ることは、たぶんないだろう。ねえさん以外の誰とも会うことはないのだ。わたしにとって、ねえさんは唯一の人間で、わたしを知るのもねえさんだけ。だから、質問の意味がわからなかった。大きくなったって、わたしはねえさんの家族でしかない。少しだけ先のことを想像してみると、やがてわたしは子どもではなくなりねえさんの手伝いをはじめる。そうしたら、料理も洗濯も掃除もしないといけない。はじめはすこしずつでもいいかもしれないけれど、ずっとそれではいけないと思うので、なんだってひとりでできるようにならなければいけない。いけない、とたくさん思うけど、どうしていけないのかというとぜんぜんわからない。昔、ねえさんにいわれたからだろうか。でも、そんな記憶はない。わたしがものごころついたころにはねえさんは台所でスープを作っていた。好きなように作るのではなく、きちんとわたしの好みも聞いてくれるので、なるべくたくさん野菜を使ってと言った。ねえさんはその通り、料理を器に盛る時は、必ず自分よりも多くの野菜を入れるようにしてくれた。
思い出す限り、ねえさんが家のことをしていない姿なんて浮かばない。雨の日でも、雪の日でも、ねえさんはいつだって台所に立っていた。
一度だけ、ねえさんがナイフで指を切ったことがある。夜中にふと目が覚めて水をとりにいったとき、ねえさんが水場で自分の左指を右手でおおって下を向いていた。声をかけると、左手の指の隙間から赤い血が出ていた。真っ赤な血は右手を伝い、水場のタイルに落ちる。わたしは入口に突っ立ってその様子を見ていたのだけど、力が抜けて持っていたコップを床に落としてしまった。
高い音が響く。ねえさんはびくりと顔を上げると、こっちを見て表情を固めた。両手はそのままだ。
「なにをしているの」ときかれた。わたしは声が出せないので、落ちたコップを指さす。その瞬間、コップを割ってしまったことを思い出して、コップを拾えと言っているようにとられたらどうしようと不安になった。すぐにしゃがんで割れた破片をつまんで拾いはじめる。その瞬間、ねえさんがすごい勢いで「やめなさい」と大声をあげた。わたしは怖くてネズミみたいに固まる。指に痛みがあったので見ると、破片のひとつが刺さっていた。ねえさんは自分の怪我を差し置いて、こちらへやってくると、わたしの指をつかんで自分の口に付けた。
「あとは私がやるからもう寝なさい」
すっと立ち上がるとねえさんは水場へ戻った。そして、新しいコップに水をくむとわたしに渡してくれた。すぐにでも部屋へ帰らなければいけない。その場にい続けることはねえさんに失礼だと思った。もらった水はガラスを伝って、怪我の部分を冷やしてくれた。ねえさんは、自分の傷ついた手には見向きもせずに、後片付けをしていた。
真っ暗な部屋へもどったわたしは、立ったままコップの水を飲みほした。
「大きくなったらなにになりたい?」
そのとき、ねえさんの質問を思い出した。
そうだ、大きくなったらお医者さんになろう。そうしたら、ねえさんの怪我を治すことができる。もしも、父のように病気になってしまっても、わたしがお医者さんであればたちまち治すことができるだろう。
でも、と不安が浮かぶ
いったい、どうやったらお医者さんになれるんだろう。
まったく検討もつかない。
2.Dianthus caryophyllus
週に一度、祈りを終えるとわたしたちはそろって裏庭へ向かう。先のとがった葉がいろいろな方向へ茂っていて、当たると痛い。ねえさんが少し前を歩き、わたしはその長い黒髪が揺れるのを追いかける。一歩進むたびに、わたしたちの距離は開く。それがわたしたちの足の長さの違いだ。
葉のすきまに見える空を、たっぷりの水で溶かしたような薄い雲が覆っている。風はなく、沼から上がるぬるい風が頬をなぜた。
やがて、森に切れ目が見える。足元はことごとく緑、おまけにひとつひとつ色の違う緑、白や薄い桃色の細かな花がポツポツと咲き、虫が飛び交っている。太い木肌に手を付けて呼吸を整える。そんなにたくさん歩いたわけでもないのに、疲れてしまった。ねえさんが私に合わせて歩いてくれても、体力がないからか、すぐ足が鉛のように重くなる。ねえさんは、何度も後ろを振り返って私の方を確認していた。
突然、足元の草がなくなり土の地面が現れる。黒にほど近い濁り方をしていて、押せば水がにじみ出そうなくらい湿っていた。その開けた土地に、草はほとんどなく、目の荒い石が転がっている。岩もある。ひとつだけではなく、いくつも積み重なって、お互いを支え合っている。
木と、土と、石しかなかった。
まっさらな場所に、他に目立ったものはない。
けれど、ひとつだけおかしなものがあった。そのもの自体は見慣れている。それはちょうど、倒れた木の上に置いてあった。切り倒されて巨大な年輪をさらしている。そこに、椅子がある。鮮やかさをこすぎおとした赤銅色で、雨風にさらされ背もたれがはげている。脚も安定せず、斜めに傾いている。腰かけにもたくさん葉がへばりついていた。
「汚れてる」
ねえさんはそう言いながら椅子へ近づいて葉を落とす。丁寧な動きだった。なでるように払い落とす。葉は椅子の周りに放射状に広がる。ねえさんは持ってきた白い花を載せる。そっと。カーネーションだ。花弁がレースのようなひだを作っている。
わたしたちはしばらくその場に立って、時間が経つのを待った。ねえさんは嬉しさと悲しさを合わせたような表情で、ぼろぼろの椅子を見つめていた。その椅子は、父が死ぬ前に作ったものだ。工房へ引きこもり、わたしたちとの会話を取りやめ、一人で作り続けた最後の椅子だ。父は、きっと最後になるなんて思っていなかった。椅子は、三本の脚で支えられている。脚のない部分は、椅子の重さに従って傾いていた。座ったら壊れてしまうだろう。父は、ずっとなにも言わずに椅子を作っていた。本当は、どこで使いたかったんだろう。
椅子の下に、椅子を作るために切られた木がある。切ったのはもちろん父だ。
「見て、こんなに大きい」とねえさんは木の前に立って言った。「こんなの切れないわ」
その通りだと思う。わたしたちの非力な腕ではとても無理だ。父の使っていた道具が残っていても、たぶん無理だろう。わたしはまだ子どもで、そのうち大きくなるけれど、大人のねえさんと力を合わせても、やっぱり、二人しかいない限り無理なのだと思う。新しい木を切ることはできない。
木の周りに雑草が生えている。わたしたちが雑草と呼ぶ植物にも名前があることを教えてくれたのは父だ。
まだ小さかったころ、父とねえさんと三人で沼のふもとを散歩したことがあった。父は両手を腰の後ろにすえて、ゆっくりと歩く。ときどき沼を覗いていた。わたしがもっぱら興味を持つのは、花やツタなど形のはっきりしたもので、見た目がきれいなものが多い。ねえさんは、キノコや薬草など食べられるものが気になるようで、たびたび持ってきたカゴに摘んでいた。そして、父が好むのはいつも雑草だった。葉の尖ったギョウギシバや、黄色い種をつけるオオバコ。どちらもちっともきれいではない。それでも、父は、そういった雑草を抜いたり切ったりするわけでもなく、慈しむように触っていた。
「こういったやつらは、どこまでがひとつなのかわからない」
父は、沼のふちで成長するセイタカアワダチソウを振り仰ぎながら笑った。
「おれたちが一本だと思っているのを切っても、土の下には根がはびこり隣と繋がっている。その隣も、別のものと繋がり、時間をかけても一本を見極めることはできないだろう。火をつけても、こいつらの方が早い。5キロ先で花を付けるだろう。そうなると、一本、二本、なんていう、おれたちの使うみじめな数は役に立たない」珍しく父はたくさん話した。
ずっと草を見ながら口だけを動かす父を、わたしはねえさんといっしょに黙って見つめる。父の声は低く、ゆっくりと、落ち着いている。息つぎもせず、まるで物語を読み聞かされているような気分になる。父が何を言いたいのかはよくわからなかった。雑草は数えられない、と言っているのかなと思う。確かに、バカみたいにたくさんあるのだから、数えられないのは当たり前だ。緑ばかりの中に、ときどきシロツメクサなんかが咲いているとほっとする。
「父さんは、花が好きじゃないんです?」
しばらく沼のほとりを三人で歩きながらねえさんが尋ねた。空は徐々に暮れはじめ、夕焼けが遠く見えた。
父は、前を向いたまま答えた。
「大嫌いだね」
躊躇のない返事だった。父は笑っていた。腰にすえた指には、いくつも切り傷がついている。古いものから、最近ついたものまで。指先は、深爪が過ぎて白く粉を吹いていた。黒く焼けた肌に濃い毛が生え、筋肉が盛り上がっている。
「どうして?」ねえさんは父に追いつこうとするように小走りをする。
「下品だ」
答える父は沼の方を見ていた。私たちへ顔を向けようとしない。話を聞かせる気がないんじゃないかと思う。
そんな父の剣幕に押されたのか、ねえさんはそれ以上質問することなく、下を向いてついていく。
わたしはというと、二人の背中を見ながら、シロツメクサで冠を作っていた。前に、ねえさんに作ってもらったものを真似した。結ぼうとするときに、力を込め過ぎて緑色の汁が出た。上手にできない。不恰好になってしまう。汚い。
それにしても、下品ってなんだろうと思う。どうして花が下品なのか。わたしは気になった。紙もペンもないのでわたしが人にものを尋ねる術はないので、できるだけ早く冠を作ろうと思った。上手に作れたら、父の気も変わるかもしれない。
花はきれいだ。
それを知ってほしい。
3.Smooth dead
父が亡くなる数週間前に、ねえさんも部屋に閉じこもることがいくらかあった。朝に顔を見せたと思ったら、そのあとはずっと部屋に閉じこもって一度も姿を見せてくれない。ただ、料理も洗濯も掃除も、すべて完璧にされている。朝食用と、昼食や夕食がそれぞれ用意されている。洗濯は、干したものが、いつの間にか取り込まれ、丁寧にたたんであった。だから、わたしはお風呂を沸かすくらいしかしなくてもよかった。父が散々切ってきた薪が、台所からすぐ出たところに積んであったのでそれを焼べればよかった。
父はずっと眠っていたので、ねえさんがいないときは、わたしはひとりぼっちで一日を過ごした。沼の近くへ遊びに行ったりしたけれど、外は寒く、あまり長い時間はいられなかった。家に帰って、部屋のベッドで膝を抱えても、さみしくなる一方だった。わたしは、仕方がないので家のなかをうろついた。わけもなく扉を開けたり閉めて、廊下を飛びはねてみたり、子どものように遊んだ。楽しくはない。動物でも飼っていれば、その世話をすればいい。でも、あいにくねえさんは動物が好きではなかった。とりわけ猫が嫌いなようで、いつも生ゴミをあさりにくる猫をすごい声で追い払っていた。そういうときのねえさんは、人が変わったようでこわい。
家の中をうろつくのに飽きてしまったわたしは、ねえさんの部屋の前に近寄って、扉に耳をつけた。
聞こえてきたのは泣き声だ。息を激しく吸 っては、何度も吐き出す音が聞こえる。部屋中が振動して、その震えが届くようだった。
その時、わたしはなんだかとても申し訳なくなって、その場を去った。盗み聞きをしてしまったという罪悪感が湧く。部屋へ帰って、ベッドで膝を抱える。できるだけ小さくなりたかった。窓の外は暗く光は見えなかった。
ねえさんは、今どんな気持ちなんだろう。わたしは、悲しいとは思わない。父が眠り続けていることにも、だんだん慣れてきていた。もちろん、三人で散歩をしたり、食事をしたころのことをときどき思い出すけれど、悲しい気持ちは特にない。父がこのまま死んでしまっても、たぶん変わらない。ねえさんと二人だけの生活が続くだけだ。毎日、これから死ぬ父の服を洗濯するのは、死ぬ準備をしているようでもある。もちろん、これからも三人で暮らしていけたら素敵だけど、それはむずかしい。そういう風に、すんなりと納得できることが怖い。わたしは、もう諦めている。それに比べると、ねえさんは納得できないんだろう。納得することと、受け入れることは別物だ。でも、諦めることをねえさんへ提案する気にはなれなかった。人が死ぬのは当たり前のこと。だから悲しまないでなんて、ナイフで口を切られても言えない。それに、わたしは人が死ぬのを本のなかでしか読んだことがない。経験をしたことがない人間の言葉に説得力なんて、はなからない。
わたしは子どもだ。
ねえさんは、大人。
そして父が好きだ。
そう考えると、口のなかに山のような綿を詰め込まれる苦しさが湧く。
ねえさんは父のことが好きなんだ。
わたしがねえさんのことを好きなように。いや、もっと。もっとだ。
どんどん苦しくなる。呼吸がしづらい。
どうしてこんなに苦しいんだろう。
わたしには、ねえさんを悲しませる父が憎いと思えた。正確には、父をあんな状態にさせる病気のことが。あれさえなければ、ねえさんは今日も台所で野菜を切っているだろう。二人で夕食を食べられたはずだ。
ねえさんの笑顔が見たい。
父には、できれば、早くはっきりしてほしい。
4.Hot water
ある日、父が死んだ。
苦しむ声をあげることもなく、ベッドの上で目をつむったまま、とうとうもう一度開くことはなかった。わたしは、ねえさんに言われて父が死んだことを知った。いつものように部屋で膝を抱えていたわたしを、ねえさんが呼んだので付いて行くと、父の口元に耳をつけて、顔をほとんど床と平行になるくらい傾けて、なにか確かめ、そして、はじめは大きく目を開け、磁石にくっつく砂鉄のように、硬く目を閉じた。眉を寄せて、頬にはシワが寄り、体がふらついたので心配になったけれど、なんとか持ちこたえて、ねえさんはそのままその場に座り込んだ。両手で顔を覆って下を向き、父の頭がある場所にうずくまるようにして声を上げた。これまでに聞いたことのない声だった。叫び声だった。
わたしは、扉に背中を預けて突っ立っていた。なにをすればいいかわからなかった。ただ、ねえさんを慰めたかった。でも、あんなに泣いているのに、「泣かないで」と言うのはバカみたいだし、「元気を出して」なんて乱暴だ。全然思いつかないので、わたしはずっと床の木目を数えていた。
そういえば、「いつもあなたは下を向いている」とねえさんに笑われたことがある。意識したことがなかったので、ねえさんに指摘されて気づいた。わたしは、よく言葉に詰まると下を向く。そうすると、たくさん余計なことを考えて、意識が体から離れていく。他人事のように自分のことを考えられて、少しだけ楽になれる。嫌なことは考えたくないし、見たくないし、考えても仕方がない。本当にそう思う。嫌なことなんて考えてもしょうがない。悩んでも物事は解決しない。子どものわたしが悩んで解決するような問題なら初めから起こったりはしない。そんなわたしの様子がねえさんは随分気になったようで、何度も注意された。「下を向くと気持ちが暗くなる」と言っていたけれど、どうして暗くなるかは教えてくれなかった。楽しくないのだとしたら、そんなものは、上を向いていようと下を向いていようと変わらない。むしろ、上を向いた方が見たくないものを必ず見なければならず、一層つらくなってしまう。見たくなければ見なければいいのにと思う。そうすれば、少なくともそのものについて考える必要がなくなる。考えても仕方のないことであれば、いっそないことのようにしてしまえば。たとえ、そうしたことでさらに事態が悪化しても。いいじゃないか。
明るいことは思い浮かばない。
ねえさんはずっと泣いていた。空気を小分けに吸うようにして、苦しそうに体を小刻みに震わせていた。
父が死んだのは、朝方。知らない間に空は暗くなり、冷えた風が窓の隙間から入ってきた。月明かりもなにもない。ただ、窓は黒い穴のようで、光を吸い尽くすように控えている。父の部屋にはたくさん本がある、そのどれもが素知らぬ顔で上品に棚に収まっている。
結局、ねえさんは一度も顔をあげなかった。わたしもその場から動けなかった。足が疲れたので膝を折って座りこむ。前にも後ろにも進めなかった。体に鉛をすり込まれたように、重たくて仕方がない。ああ、ああ、とねえさんは顔をふせて泣いていた。きっと、シーツはびしょ濡れだろうなとどうでもいいことを考える。
ふと、ねえさんの体から水がなくなってしまうと思ったわたしは立ち上がった。なるべく音を立てないように。恐る恐る台所から水をくんできて、ねえさんに差し出す。しかし、ねえさんは顔をあげなかった。声も出さない。たぶん、こちらに気づいていても、力なくベッドに張り付いていた。
わたしはずっと水を持ったまま立っていた。
いつかねえさんは顔をあげてくれるはずだ。
水をこぼさないようにすることが、わたしの目標だった。
5.Dove
父が亡くなった三日後に、父の体をねえさんと二人で運んだ。二日間、まるでねえさんまで死んでしまったように動かなかったので、部屋のすみで膝を抱えていた。なんとなく動くことが悪いことのように思えた。かといって、体を動かさなくてもお腹は減ってしまう。わたしとねえさんのお腹が鳴るたびに、わたしたちは生きているんだと当たり前のことを思う。そして、父のお腹が鳴ることが二度とないことも。父の立てる木槌の音も、父の歩く姿も、父がごはんを食べる姿も、愛おしそうに雑草を眺める目も、父の言葉も、どこにもない。なくなってしまった。目をつむると立ち姿が浮かぶ。ほんの一瞬。薄い。消えてなくなる。降り終わった雨みたいに。何事もなく。
わたしは、ねえさんの黒髪が背中にそって流れ落ちるさまを、じっくりと眺めた。窓から入る光が、髪の艶を浮かび上がらせる様は、あの沼に立つ白い波に似ていた。水面に折り重なった無数の円は、ほどなくして消える。
三日目の朝。目を覚ますとわたしの前にねえさんが立っていた。幽霊のように表情のない顔で、首をかしげてこちらを見ていた。口元が少しだけ開いている。目は真っ黒な玉みたいだった。
「さあ、わたしたちの生活をしましょう」
ようやく動いたねえさんの口から、そんな言葉が落ちてきた。ねえさんは微笑んでいる。わたしは膝を抱えたまま、顔を上げて、ねえさんが差し伸べる手を見つめた。
その時、またお腹が鳴った。すると、引き金を引いたように、ねえさんは急に元のねえさんになった。表情が変わる。目には力が戻り、顔色も明るくなった。体に光が注ぎ込まれたようだった。
「なにが食べたい?」
絶対に自分もお腹が減っているはずなのにねえさんはわたしに尋ねる。わたしはめいいっぱい考えたあと、立ち上がって父の机から紙とペンを持ってきた。そこに、自分の望みを書きつける。
「ねえさんの、たべたいもの?」
紙に書かれた文を読み上げたねえさんは、まぶしいように目を細めた。そして、なにも言わずに部屋を出た。やがて台所から包丁がまな板を叩く音が聞こえてくる。死んだ父と二人きりになった部屋で、わたしはまたお腹を鳴らした。その場にいるだけで妙に緊張した。
ねえさんの作ってくれたごはんを食べたあと、部屋へ戻ろうとしたところを止められる。
「父さんを運びましょう」とねえさんは笑った。
なにを言っているんだろう、と思う。人が死ぬのを見るのははじめてだったので、人が死んだあとのことがわからない。わたしの読んだ物語のなかでは、人が死ぬと周りの人たちは悲しみ、葬式というものをしていた。死んだ人を棺に入れて、土に埋めるのだ。ジャガイモみたいに。人を埋めるという発想がすごいと感じた覚えがある。
わたしは父さんに理科を教えてもらっていたので、焼いたりしない限り、ものがきれいさっぱり消えてなくなるなんて起こらないことを知っている。焼いたって、灰は残るし、消えることはない。人の体だってそうだろう。埋めたからといって、土に溶けるわけじゃない。じゃあ、どうなるんだろう。死んだ人間をこのまま部屋へ置いておくとどうなってしまうのか、ねえさんには聞けなかった。残酷なことだと思えたからだ。
理科を教えてくれた父さんが死んだので、教えてもらうことはできない。
わたしは想像する。たとえば、森の動物ならどうだろう。そういえば、前に、沼のほとりでハトの死骸を見つけたことがある。羽を怪我していて、白い体には泥がこびりつき灰色に汚れていた。いつものように沼のそばを散歩していたら、気づかずに踏んでしまいそうだった。ハトの白かった頭には、ビー玉のような目があった。鏡のようにこちらを写す。ずっと見ていると吸い込まれそうだ。
その日は、手を出さず、父さんやねえさんにも知らせずに眠った。自分だけの秘密にしておきたかった。翌日、ハトは変わらずそこにあった。その次の日も、ハトの体に目に見える変化はなかった。ただ、周りに小さな黒い虫が大量に飛んでいた。台所のゴミ置きにたかっているのと同じものだ。
そのあとも、わたしは毎日ハトを見に行った。一月くらいだろうか。ときどき、ねえさんの歌も聞こえてきた。小さいころのように体を丸めて、じっとハトを見続けていた。ハトは、そのままの形ではなかった。日が経つごとに黒ずんで、飛び交う虫の量も増えて、臭いはきつくなった。もとの形を失って行く。花みたいに色を失くして枯れるわけではなく、汚れていく。アリが行列を作っていた。
そうか。
たぶん父もそうなるんだ。
徐々に汚くなって、虫が飛び交い、臭いを発する。
もとの形を失くしてしまう。
そうなると、もうわたしたちの生活がおぼつかない。きっと、ハトよりも体の大きな父は、より一層臭いを発するだろう。怖い。つい数日前まで、必死で息をしていたのに、冷たくなった身体から臭いが放たれる。
父は、今のところ変化がない。眠っているように見える。でも、もうまるっきり違うものなのだ。
「さあ、わたしたちの生活をしましょう」
父の肩に手を差し入れたねえさんは、もう一度力を込めてそう言った。
わたしはねえさんとは反対側へ行って、父の足を持つ。
それは今まで持ったどんなものよりも重かった。
6.Solidago canadensis
床の色が変わりはじめていると男は言った。
実際、わたしの体はもう骨のようになっていて、皮が床に張り付いていた。眠気がなくても、体がだるくなる。足が痛い。腰が痛い。肩が痛い。腕が痛い。痛い。痛い。痛い。お腹は減るし、めまいがする。つらい。苦しい。そういった不満が、怒りのように押し寄せては、すごすごと引いていった。眠っているときだけは気持ちがいい。
わたしは毎晩、夢の中で父とねえさんと沼のほとりを散歩した。わたしは元気で、体のどこも痛くなく、快適だ。そして、なにが楽しいかもわからないくらいずっと笑っていた。
ある日見た夢では、わたしは小さな子どもになっていて、父の背中におぶされていた。父が歩くたびに、わたしの体は大きく揺れる。父の背中は硬く、首はわたしの足くらい太かった。この背中に抱きついていれば、なにも怖くないと思えた。ねえさんが微笑みながら父の横を歩いている。わたしたちの足元にはたくさんの花が咲き乱れ、春のように心地よい光に照らされる。わたしは力を込めて父さんの背中にしがみつく。きっと痛いのに、父はなにも言わなかった。ただ、少しだけ後ろを向いて、笑った。
できればこのままずっとこの背中の上にいたいと思った。沼には、太陽の姿が克明に映り、木々は風にさざめく。やがてわたしたちは歌をうたう。夢の中のわたしは声が出せた。ねえさんよりも高い声が。食事以外でのどを動かすのはこんな風なんだ。でも、自分で歌いながらなにを言っているのかはわからない。ねえさんは美しい声でわたしたち二人の歌を導きながら、ずっと笑っていた。夢は続く。わたしたちは沼のふちまでやってきた。セイタカアワダチソウが背丈を伸ばし、足元にはコケが生えている。
わたしは背中にしがみつく力を強くして、硬く目を閉じた。不安になる。そのうち、父は歌いながら、沼の水へ足をつけはじめる。足は、水面へついた途端にズブリと沈む。まるで泥に食べられたようだ。背中の上のわたしも大きく揺れる。父はまるで気にしないようにもう一本の足を沼へ差し入れる。わたしはこわくなって、震えていた。体はすぐに沈まなかったけれど、父は膝まで黒い水へ入った。ズブズブと沈み込んでいく。
ずっと二人は笑っていた。
夢のなかでもわたしはどうして笑っているのかわからなか った。
膝が沈み、体の半分まで水に隠れた父はそれでも笑っている。
わたしは自分の足についた水を払うのに精一杯だ。
隣でねえさんが顔だけを水面から出して笑っていた。
その表情になんの影もなかった。
気がつくと、わたしはやっぱり床の上にいる。それは父の背中よりも硬く冷たい。しがみつくこともできない。
わたしは這うようにして、ねえさんのベッドを目指した。吐いた息を二倍取り込むように口も閉じられない。足が痛いので腕の力で自分の体を引きずった。
そして、ようやくわたしは見た。ねえさんの顔を。
それは夢のなかとは比べものにならないほど青白く、暗かった。
黒ずんだ頬とシワだらけのおでこに挟まれた目がこちらを見ている。
ハトと同じ色をしていた。
7.Solanum tuberosum
わたしは這って台所へ向かった。とりあえず、なにかお腹に入れるものを探した。戸棚を開け、箱をあさり、血走った目でかきまわす。でも、なにもなかった。考えてみれば当たり前だ。男が来なくなってからずいぶん長い時間が過ぎた。芽を出したジャガイモが、黒い塊になって落ちていた。
わたしはもうどうしようもなくなって、目に入ったものを口に入れた。真っ黒いジャガイモは、口に入れた途端に潰れて唾液があふれる。とても苦かったので、思い切り吐き出す。吐き出しても、舌触りも味も残る。気持ちが悪い。呼吸をするだけでも苦味がした。
わたしは水を求めた。腕の力だけで、水場のタイルにすがりついて、なんとか蛇口をひねろうとする。でも、まるで溶接したように蛇口は回らなかった。何度試しても、動かない。水はわずかも出なかった。わたしは思い切り水場の下の戸を開けて、そこに通る細い管を握る。びくともしなかったので、わたしはすぐ近くにあった包丁を管に突き立てた。もう水場を使うことはできないと、あとになって気がついた。そんなことばかりだ。染み出るように管から透明な液体が丸く現れる。わたしはそこに吸い付く。そのとき、喉を通った水をわたしは死ぬまで忘れないだろう。ほこりと錆びの混じった水の味は、なによりもおいしかった。
そのまましばらく管にしがみついていた。
ようやく離れたときには夜になっていた。管から水が出なくなった。飲み干してしまったわけではなく、水を汲み出すところが壊れてしまったんだろう。わたしは、力が抜けて寝転んだ。あんなに水を飲んだのに、すこしもお腹が満たされることはなかった。
ふと、ねえさんが作ってくれた料理を思い出す。なかでも、食べる前日から煮込んだスープはおいしかった。インゲンが甘みを出し、ジャガイモがとろける。香辛料が鼻を突いて食欲が出た。男が肉を運んできたときは、それを丸焼きにして食べた。やわらかい肉は、噛むごとに肉汁を出してとても香ばしかった。ねえさんの作ってくれたごはんでお腹がいっぱいになった夜は、眠るのも楽しみだった。
わたしは自分の足を引きずって一日がかりで玄関へ向かった。土間へ降りると、口の中にたくさん土が入ってきた。足にも砂利が当たって痛い。ようやくたどりついた扉の前で、さてどうしようと思う。今まで何も考えずにくぐってきた扉がはるかに大きく見える。ノブはあんなに遠い場所にあったんだ。息が苦しくなる。耳鳴りがする。扉は動かない。
わたしはその場に倒れる。お腹が減っても、眠気だけは変わらなかった。まぶたが重く、気持ち良さが手招きしている。このままだとずっと眠ってしまいそうだ。それでもいいかなと少し思う。夢ばかり見ていたい。
そうだ、歌をうたおう。明るい歌を。ねえさんが聞かせてくれた歌を。でも、わたしには声がない。皮一枚の喉からもれるのは空気の音だけ。笛のように喉が鳴る。いくら息を吐いても声は出ない。口を開けても声は出ない。
ああ、わたしは歌うことができない。そう思うと、扉はもっと大きく高くなるようだった。
夢のようにはうまくいかない。
第三章 わたし
1.llex pedunculosa
わたしがはじめて目を開けたとき、ねえさんがすぐそばにいた。少し顔を傾けると、父もいた。
わたしの体は布にくるまれ暖かかった。安心して、目を閉じればすぐにでも眠ることができそうだった。
「こんにちは」とねえさんが言う。
真っ白な肌の上で、唇がきれいな形をしていた。ねえさんの手がわたしの体に載せられる。雲を叩くようにやさしい力が加えられた。ねえさんの隣にいた父は、向こう見ずな感じで天井の方へ視線を向けている。
ねえさんはやんわりと微笑むと、やがて歌をうたいはじめる。考えてみると、それがねえさんの歌をはじめて聞いたときだった。まだ言葉のわからないわたしにとって、疑いもなく心地よかった。
鼻をひくつかせて 、呼吸をする。洗いたてのタオルのいい香りがした。ねえさんからせっけんの香りがする。
「わたし」
ねえさんは細長い指を一本立てると、わたしの鼻の頭につけた。わたしは短い手足をばたつかせて息を吐く。声を出そうとしても、むずかしかった。かすれるばかりだ。
「わたし」
ねえさんは、何度も同じことを繰り返した。「わたし」と言って、わたしを指差す。今思えば、あれはなにを示していたのかなと思う。おだやかな日が入る部屋のなかは、暖かくも寒くもなかった。
「あなたはわたし」
ねえさんはいっそう笑みを濃くすると、言葉を追加した。
でも、私は声が出せない。口を開けても、 声は出ず、やっぱり息がもれるだけだった。
隣にいる父は相変わらず天井を見ている。そこになにかあるわけでもないのに。
すると、突然大きな手がわたしの視界をすべておおった。怖くて顔をそむけようとしたけれど、大人の力にはかなわなかった。顔をおさえられ、口を覆われる。息をしようと鼻をひくつかせたら、すぐに鼻も抑えられた。顔に血が登るのを感じた。熱くなる。苦しい。まだ言葉を知らなかったわたしは、ただひたすらその状態から逃げようとすることで精一杯だった。目から涙が出る。もがくほどに、こちらを抑える腕の力は強くなるようで、頭がぼうっとしてくる。
そんなわたしを見るふたつの顔は、おだやかだった。
ねえさんは相変わらず微笑んでいるし、父は遠くを見ている。
気が遠くなる。
その時、手が離された。
わたしはめいいっぱい息を吸う。
「あいさつもできないなんて悪魔ね」とねえさんが言った。
私は一生懸命声を出そうとする。
すると、右の頬をはたかれた。
「家族の前で泣くのも悪魔の子に違いない」
私は泣くのをやめて、今度は笑う。
「薄気味悪いわ!」
目をつむる。まったくわけもわからずに嵐が過ぎるのを待つ。すると、頭をつかまれた。
「家族を無視して眠ろうとするの」
私はもうどうすればよいかわからず、父の方を見た。
父は、首をかしげる。
再び、ねえさんの顔を見ると、そこにはこれ以上ないほど深いシワが刻まれていた。
「ああ、神さま! どうかこの子を救ってください」
やがて、ねえさんはわたしの体を両手で抱えて天へのばすようにして叫んだ。
「この子を決して見捨てないでください」
わたしはその手が離されませんようにと願っていた。
2.Gardenia jasminoides
周りをことごとくおおう緑が、鳴きわめく鳥の声に反応するように、諸手をひろげて空をかき混ぜる。光は拡散し、地面に届くころには粉々に散る。そのかけらはガラスと違ってやわらかい。角はそぎ落とされ、焦点を失った円がうすぼんやりといくつも重なる。
日の出ている間に森が静かになることはほとんどなく、生きているものはみんな動き回り、巣を固め子どもを守っている。夜になるまでそれは続く。
庭に寝転がったわたしは、大の字になって両手をのばして息を吸っていた。お腹の上になにか載っているわけでもないのに、なぜか体が重たくて、背中が痛くなっていく。背骨が土に食い込むようだ。肌は燃えるように熱く、その内側は冷えている。見上げた先に広がるものを見て、空はこんなに近かったかなと思う。青色に水を足してすうっと澄み渡り、高いところで冷え切った空気がのどを通るたび肺が震える。手先が震える。耳の奥の膜の内側で、悲鳴のような高い音がずっと鳴っていた。
頭上に展開する木々に色ずく葉の一枚一枚が、片時も留まることなく幾何学模様を描き、葉陰の隙間から日差しが落ちてくる。強い風に揺さぶられると、光は大きくなったり、小さくなったりする。葉同士のこすれあう音が、鳥の鳴き声と混ざり、増幅し、枝はまるで黒い静脈のように、無数に分かれて空へ空へと伸びている。わたしの体にもあんな血管が通っていることを思う。そこを休むことなく血が流れ続けている。
生きているというのは、動いていることなんだろうか。死んだものは、動かなくなる。息をしないし、まばたきもしない。動かなくなる。でも、風に吹かれて舞い飛ぶ葉は、もう生きていない。アリに運ばれるセミの死骸も生きていない。私たちに運ばれる父も生きていなかった。自分で動けることが生きていることだとすれば、植物は生きていないことになる。
父は、病気になってからはずっと眠っていて、知らない間に死んでいた。痛みを訴える声もあげず、とても静かに。眠っているときと死んだあとで、実際のところ、見た目に大きな変化はない。突然、黒焦げになるわけでも、青色や、紫色にもならない。肌は肌の色のまま、髪は黒いままだ。父は目を閉じている。眠っているときと同じように。死んでいるとわかるのは、呼吸をしないことと、体が冷たくなっていること。そして、お腹がもう鳴らないことだ。死んでしまうと、音を立てなくなる。静かになる。ねえさんもそうだった。
たとえば生きものがみんな死んでしまった世界のことを考える。鳥の鳴き声は枯れ果て、花はしおれ、干からびた大地の上で、木々は次々と倒れていく。そんななかを強い風が吹きすさぶ様を考えると、なんだかさみしい。空の色だけがやけに青々として。目をつむっても、耳鳴りだけが続く。音は追放され、風は踊り、倒れたものたちが運ばれる。運ばれた先に、生きもののいなくなった海がある。
そんな想像をすると、なんだかこわい。でも、木々が枯れ果て、地面の草がみんな腐っても、たとえ二度と花を見ることができなくなっても、きれいだと思う。静かで、目をつむればすぐにでも眠れそうだし、なんだかそれを許してくれそうだ。たとえどんなに寒くても、眠れるような気がする。いつもは、なにに許されていないんだろう。
わたしは今、これっぽっちの力もなくなった体で地面に寝転がっているけれど、もう全然動けないし、はなから声は出せない。これは、死んでいるのと何が違うんだろう。生きていると言えるんだろうか。たしかにものを考えることはできる。くだらない想像を巡らせて、起こりもしないことを願うことができる。でも、それはわたしにしかわからない。周りからは見えないのだ。周りから見える私は、まるで枯れ枝のように唇は乾き切って、ボロボロの肌は骨にくっつき、指先の爪は浮き上がっている。目ヤニに埋もれた目玉はきっともうあの空を映していないだろう。沼のように濁って、隙間風よりも弱い呼吸をして、ずっとクチナシのような音を鳴らしている。
だんだん眠くなってくる。
空は、湿気って、薄暗い。
もうすぐ雨が降るだろう。
3.Null
目をつむる。なにか見える。
吹きすさぶ風のなか、一本の真っ白い枝が立っていた。フラフラと左右に振れながら、重心を失って今にも倒れそうだ。
そこは、砂漠のように輝くわけでもなく、地面はどこか鈍い色をしていて、足元に灰を敷き詰めたような場所だった。たぶん、これは砂だろうと手を差し入れてみても、持ち上げたとたん、まるでお湯が蒸発するように消えてしまった。空気に溶けたようだ。砂なら、手の平でもすくえるのに、この灰色はそれを許してくれない。重みもまるでなく、ただ、さらりとした感触だけがかすかに残る。雪なら、触れたとたんに肌を芯から冷やすのに、なんの情緒もなく消えてしまう。
わたしは、感覚もなにもなくなった指を、舌で少しだけなめてみた。当然、味はしない。口のなかに入れた瞬間に、もう消えてなくなってしまう。
いったい、この灰色の大地はなんだろう。地平のかなたはほんのりと白く輝いてはいるが、どこにも太陽は見当たらなかった。平坦な地面が見渡す限り続き、山もなく、谷もなく、ひたすらまっすぐに伸びていた。膨大な広さを誇る土の上を、風だけが自由に行き来している。吹いては戻り、吹いては戻り。通り抜けて行く。
そして、わたしは、よく見ると裸だった。なにも身につけないまま、体をみんな外へさらけ出して、風に当たっている。体と髪の毛が抵抗して、時々、バランスを崩して倒れそうになる。あの真っ白い枝と同じように、風に勝つことはできず、なんとか二本の足で立っている。
ふと、うつむくと、足が沈み始めていた。重さも、温度も、感触もほとんどない灰色の粒子は、わたしの小さな足を包みこみ、内側へ引きずりこんでいく。あわてて右足を引き抜く。すると、勢いをつけたせいで、左足に重心が偏り、さっきの二倍くらいの早さで沈み続ける。わたしはしばらく、右足と左足を交互に抜き差ししていた。繰り返し足をバタつかせ、やがて、はめ込んだように動かなくなる。埋れた足のおかげで、風に倒れることはないし、裸の体でも寒くはなかった。肌にこれだけ強い風が当たっているはずなのに。冬の寒さと違って肌が張り詰めるような痛みもなかった。風は肌をなぜ、髪を遊ばせる。
足はどんどん沈んでいく。ついに、わたしは腰まで灰色に浸かってしまった。もう、体を動かすことは全然できないので、腕を伸ばしたり、首を回してみる。周りを埋め尽くす灰色が、体を渦の中心へどんどん引き寄せて行く。小さいころに見た、宇宙の星のようだ。
灰色は渦を巻きながら、わたしの体を取り込んでいく。やがて、灰の表面が胸の高さまできたとき、もう腕を動かすことはできなくなった。なんだか、生ぬるい塊に塗り込まれたようだ。硬いふとんにはさまれたみたい。息が苦しい。沈んでいく。このままだと首まで埋れてしまう。そうしたら、死んでしまう。ようやく、わたしは危機感を持った。このままではいけない。
体はどんどん沈んでいく。さらさらとした質感に包み込まれながら、身動きをとれないようにする。体の内側で、肺が縮むのを感じた。
手足を動かそうとする。腰にへばりついた腕を引き剥がそうと。肩をひねってみても、まるで動かない。口を大きく開けても、かすれた喉から声は出なかった。この灰色の大地と同じくらい乾いている。
その時。はるか先の地面に立つまっ白い棒が、左右に大きくしなった。まるで、神さまがくしゃみでもしたように、猛烈な風がふく。灰色の粒を舞いあげ、霧のように視界がかすむ。倒れた木々が灰に埋れていく。空は雲に覆われて光は見えない。嵐のような風のなか、揺れる白い棒は、一度大きく右へ傾き、次の瞬間、パタリと倒れた。
そうして、外に出ていたわたしの体の最後の部分も、灰に覆い尽くされてしまった。
4.Polygonum tinctorium
鳥は冬の間に巣作りにはげみ春には二、三個卵を産む。それが孵化して鳴き声をあげるころにはチューリップが色をつけはじめ、女王へ届ける蜜を集めるミツバチが飛び交う。空気はあたたかさを取り戻し、冬のころにはカラカラに乾いていた空気に生きものの生ぬるい湿気が混ざりはじめ、呼吸をすることが楽になる。日差しが花々の形を浮かび上がらせ、木々の影には虫の大群がうごめいている。土の下ならなおさら活発だ。二、三日、晴天が続き、風が強く吹くと、まとまった雨が降り、生きものを喜ばせる。犬は木々の影に隠れ、うさぎは我が子のために餌を探して飛び回る。眠りは覚めた。生きものの季節だ。死は遠ざかり、呼吸が森を覆いつくす。
空は晴れ上がり、雲の形もはっきりとわかる。
白と青をない交ぜにしたような鮮やかな光。
もう、あの灰色の大地はどこにもなかった。緑が生い茂り、空は清廉に青色を誇っている。木々が倒れることはない。死んだ海はどこにもない。
私は、自分に問いかける。
あの灰色の大地はきれいだったか。
なにもなく、ただ、まっさらで、無邪気でもなく、邪悪さのかけらもない。
風と音だけが吹きすさぶ。
暴力も、嘘も、死体もなにもない。
でも、そんなことを考えたって、なににもならないのだ。
ここにあるのは動きを失った沼だけ。
沼はいつでも、波を立てることもなくただ黙ってそこにあり続ける。色はどす黒く、泥を何度も煮詰めたようなすさまじい色をしている。降り続ける葉が沼を覆っても、変わらない。変わらない。
私はまた考える。
これは、きれいかな。
5.Happy life
森の木々が風に揺さぶられ羽を休めた鳥が飛び立つと同時に、周りで風がまき起こるのを予感する。
空は銀に瞬き、ところどころ太った雲が立ちのぼる。どこかで水の流れる音がする。こみ上げる高音と低音の連なりは止むことなく続き、また、同じ音が二度と鳴ることもない。このままずっと、音は続き閉じたまぶたに住み着く白い泡にほだされ、体の下の寒気に気持ちを委ねている。力はみんな押し流されてしまったようだ。いっしょに疲れもなくなってしまった。起き上がる気力はなくとも、浮き上がることはできる、なんというか、ゆるやかだった。暑くも寒くもない、ふわりと風のある午後。体が軽い。すぐにでも眠れるけれど、眠気はない。ポカンと口を開けてひょっとしたらこのままでいいかもしれないと思う。
それは幸せだ。
でも、と思う。遠い銀河の果てに脈々と受け継がれる星の色、指をさして名前を呼ぶ、その声、目に見えるものを同じくしてあの人が、名前を呼ぶ。花にも植物にもおおよそわたしたちの周りにあるものには名前がある。膨大な種類のひとつひとつを区別するために、赤い花には赤くても花弁の尖ったものと、黄色の蕾でも葉の丸いものと鋭いものがある。それらは赤いという名前の上にすっくと立っている。ものには似たものがいくらでもある。赤い花、赤い果実、赤い光、赤い頬、赤い唇、赤い血。しかし、ひとつとして同じ色はない。赤と聞いて浮かぶその四角い残像は、間近で見たものによってすり替わる。昨日の赤と今日の赤は違うもの。ああ、なんて力強いんだろう。
雑草は、そのしぶとさと、見た目の醜さから、ひとくくりに呼ばれている。顔の違う同じ塊が、一人の人間では到底知り得ない範疇を埋め尽くしていく。猛烈な勢いで。
父は雑草が好きだと言った。花は下品だと言った。では、花をよりどころにしている虫も下品なんだろうか! その虫を食べる鳥も! 鳥が羽を休める木の枝は! 枝の先の葉は! 葉が落ちた地面は! どうだろう。自分が散々作った家具だって、下品な花の成る木から作られたんじゃないか。あの人は、どうして何にも使えない机をくれたんだ。礼拝堂に置かれた机は何を置くためのものなんだ。せっかくゆるやかだった気分もむずがゆさに、硬く目をつむる。下品なのは一体誰だ。生きていることそのものが下品なら、まるごと死ねというのか。
その時、もう一度私はあの灰色の大地を見た。
ああ、わたしに声があれば。それはいったいどんな風なのだろう。高いんだろうか、低いんだろうか。どちらにしても、ねえさんのように歌をうたえただろう。
上手でも下手でも。
ねえさんはどうして歌っていたのだろう。誰もいない森の奥で、意味をはねのけた異国の言葉を。わたしに聞かせたいとか、そんな小さな理由ではなかったように思える。もし、わたしに聞かせたいのであれば、ずっと耳元で、それこそ、私の頭を膝に載せてでも聞かせればいい。でも、そうしなかったのは、きっとねえさんには別に歌う理由があったから。
それはわたしの知らないねえさんの話?
父のため?
意味がわからない。
目のない顔はどんな風に笑うんだろう。
6.Open and Close
気がつくとわたしは光のなかにいた。
暑くも寒くもなく、目をつむればすぐにでも眠れるほど穏やかな光のなかにいた。
わたしは、もう苦しくなかった。上を向いて寝転がっている。はるか先には、青い空がある。吸い込まれそうなくらい、鮮やかな。
そして、起き上がるとそこに沼があった。
どうやらわたしは、いつのまにか沼のほとりへ来たようだ。這ってきたのか足の膝が痛い。見ると、土がへばりついていた。
沼は今日も静かで、動きを見せない。じっとしている。
変化のない水面が、鏡のように停止している。
今日は一段と光が差し込み、なんだか、少しくらい沼の底が見えるような気がした。
心なしか沼の水も普段の泥だらけの濁った色ではなく、井戸の水のように澄んでいる。
森に漂う空気はひんやりとして、沈みこむようにおだやかだ。
音はなく、鳥もその他の動物もいなくなってしまった。
父もねえさんもすっかり死んでしまった。
わたしも、どうやら死ぬみたいだ。もう体に力は残っていないので、空を見るか、地面を見るかしか選べない。
なんて無様なんだろう。
でも、もう大丈夫。
その思いつきは、わたしの胸をざわつかせた。
ずっとそうしたかったような気がする。
なんだかうれしい。
わたしはそっと、沼のほとりへ顔をかたむける。
体が転がる。
あとは、そのまま。
わたしたち yuurika @katokato
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