埋もれる檻

1.


 黒い額縁の中で、夏の日を浴びた葉が檸檬のような色をしていた。

 ガラスのない窓枠に、僅かに残った破片も、不気味に変色して当初の輝きは見られない。

 両腕に頭をのせて、市ノ瀬修嗣は目を開けた。紺の詰め襟を着ている。今は、前を開けて楽にしていた。

 気候は安定し、暑くも寒くもない。時折、ゆるやかな風が頬をなでる。

 ふと、腰を上げたとき、足下で水の跳ねる音がした。見ると、藤色のタイルが粉々に割れている。このモザイク柄は、もともと何を描いていたのだろう。割れたタイルの隙間から、湿った土が窺えた。

 床に転がった学生鞄を掴む。それは、いつもより重かった。修嗣は、図書室で借りたぶ厚い本を思い出す。

「そうだ、帰ってから読もう」一人で呟いた。

 同時に、今頃、学校では何をしているのだろうと考える。

 腕時計は、二時を少し過ぎたところ。五時限目は、確か、化学だ。実験室で退屈そうな顔を並べた生徒らが、水を電気分解する様を想像する。H型試験管の中を漂う虹色の泡。修嗣は歩き出した。

灰色の壁に囲まれた室内は、体育館がすっぽり入る広さで、床には雑多な物が落ちている。背もたれのない椅子、腐食した角材、時代遅れの黒電話、汚れたぬいぐるみ、大量の瓦……、ひしゃげた雑誌、菓子の包装紙など……、これらは、最近持ち込まれた物。夜中に忍び込んだ不届き者の仕業だろう。

 たとえ見慣れた日用品であっても、どれも歪に思えた。

「非常口」の表示灯が地面に転がっている。修嗣はわざとまたいで行った。

 この場所は、戦後、上手く売れた小説書きや、俳優、政治家等がこぞって休暇を過ごすような高級ホテルだった。しかし、立地条件の悪さに加え、富裕層以外を寄せ付けない料金設定は、国全体の景気低迷で、あっという間に、高級志向から廃業の条件にすり替わった。一時、精神科病院として転用されたこともあったようだが、職員が暴力事件を起こし、評判は地に落ち、経営者や医師は姿を消した。以来、この建物は誰の手も加えられていない。

 かつては食堂だった、だだ広い空間を抜けて廊下に出る。右手に間口の大きな玄関、左手に階段があった。修嗣は、出口の光に目を細め、階段を上る。錆びた手すりに枯れた夏蔦が張り付いている。

 二階の廊下には、扉がずらりと並んでいた。簡単に開く部屋もあれば、頑丈な鍵のかかった部屋もある。通路のすみに黒い塊が落ちていた。強烈な異臭を感じ、それが犬の死骸だと気付いたときには遅かった。

 一、二階の暗さに比べ、四階はとても明るい。床にゴミはなく、代わりに、天井から剥がれ落ちた塗装が雪のように敷かれている。一列に並んだ窓ガラスは、どれも黄ばんでいた。

 かつて客がくつろぎ、患者が閉じこめられた部屋、料理人が腕をふるったキッチン、看護師が足を鳴らしたナースステーション。

 やけに静かな興奮が修嗣を取り巻いた。

 両開きの扉は、ベランダに通じているようだ。外に出ると、鋭い日差しに目が眩んだ。建物は、中庭を取り囲んだ正四角形をしている。施工主がアールデコ風のデザインを好んだらしく、外壁は装飾が多く、彩りも豊かだ。

 中庭には、放棄された木々が野放図に枝を伸ばしている。その隙間を雑草が埋める。後には暗闇だけが留まっている。ベランダの柵は、鉄棒のように簡素なもので、一部は壊れ、斜めにぶら下がっている。

 修嗣は、ゆっくりと穴へ近付く。

 鳥の鳴き声が聞こえた。

 今まで、どこで声を潜めていたのだろうと思う。

 まるで中心に強力な磁場でも存在するように。

 一歩、また一歩と。

 修嗣は、穴の中へ顔を傾ける。


2.


「修嗣さん」

 女に名前を呼ばれ、叔母、と出かけた言葉を修嗣は慌てて飲み込んだ。

「ああ、英子さん……」

「今日も随分、帰りが遅かったのねえ」

 今年、五十を迎える叔母は、襟にレースの付いた上品なブラウスを着ていた。白い顔に引かれた口紅は不気味に赤く、大きな鉤鼻は明らかに父系の血を継いでいた。顔は面長で、母似の修嗣とは、似ても似つかない。

「来年、受験でしょう。落ちたりしたら、また何を言われるか分かったものじゃないわよ」

 英子は、腕を組んで、上から下まで体を眺める。修嗣は、人を剪定するような視線が嫌いだった。

「遅くなって申し訳ありません。図書館へ寄っていました。部屋へ戻ったら、すぐに勉強をします」

 英子は、ふうんと言って口角を上げる。

「まあ、私はそう五月蝿いことを言いたくはないのだけどね。学生なんて、遊ぶための生き物だと思っているし」

「すみません。明日は早く帰ります」修嗣は曖昧に微笑んだ。

「その方が良いわ。御当主を心配させてはいけないわよ」

 叔母は肩をすくめると、庭の奥へと歩いていった。灌木の隙間に池が見える。大理石の橋が架かっていた。先日、植えられた初雪葛がまるで花のように葉を染めている。夕日が沈み、修嗣は自分の足下に落ちた濃い影を認めた。

 彼女が語気を強めた「御当主」というのは、修嗣の父だ。父と、本来の当主がその場にいない限り、自身の兄をそう呼んだ。英子は三年前に離婚した。原因は相手の不倫で、子供を置いて家を出た。彼女は、泣きながら「御当主」へ不幸な境遇を語り尽くすと、瞬く間に、市ノ瀬家へ棲み着いた。

 玄関へ向かう小径は、緩やかな曲線を描き、足下には小石が敷かれている。

 戸を開けて、まず目に入るのは正面の飾り棚だ。真っ赤な花が生けられている。こんな下品な原色を扱うのは叔母に違いない。修嗣は花に背を向けると、敷台に腰掛け、二週間前に新調した革靴を脱ぐ。

 すると、突然、やかましい足音がした。

「あなた、一体何をしていたの! もうとっくに日が暮れているわよ!」

 首だけを後ろに向けて、修嗣は固まった。両手は足下にある。

「今日が何の日かお忘れですか? どうせまた飲み屋で散在してきたのでしょう、ええ?」

 矢絣柄の袖を振り回しながら、老婆が大声でわめいていた。静脈の浮いた足を何度も床に打ち付ける。白粉をたっぷり塗った顔が、悪鬼のように歪んでいた。

 女は、十年以上前に亡くなった夫と、十五になったばかりの孫を混同している。

 修嗣は密かに舌を打つ。祖母が眠っている間に自室へ戻るつもりだった。

「聞いているんですか? 黙っていないでなんとか仰ったらどう!」

 一際大きな叫び声を出し、老女は飾り棚の花器を持ち上げた。桜湖焼の花器は、水も含めればかなり重いはずだ。一体、どこにそんな力を隠していたのか。

 赤い花びらが降ってきた。

 あの器を振り下ろされたら自分はどうなるだろう、と考える。

「お母様!」

 その時、二人の間に高い声が割り込んできた。後ろ手に髪を束ねた女が、老女を押さえ込む。同時に、花器の割れる音が盛大に響いた。血の代わりに、赤い花が散らばる。

「何をするんだ、馬鹿野郎! たかが女中の分際で!」

 老女は子供のように暴れている。女は必死でしがみついている。修嗣はそこでようやく自分の役割を思い出し、押さえ込むのを手伝った。ふと、老女が力をなくしたので、慌てて支えた。床には、鋭利な切っ先が転がっている。

 祖母は白目を剥いていた。

「大丈夫、修嗣さん……」

 修嗣は黙って母に頷いた。老女の白い頭を床へ下ろす。

「あら、まあ。また派手にやったわね」

 振り返ると、叔母が玄関の戸にもたれかかっていた。実の母親が白目を剥いて倒れているというのに、まるで他人事のようだった。

「そろそろ本気で、病院に入れることを考えた方が良いんじゃないの。眞由美さん」

「ええ、そうかもしれません。でも、私の一存ではとても……、曹嗣さんと念入りに相談しませんと……」

 母の眞由美が消え入りそうな声を出す。長い睫毛がうやうやしく揺れていた。鼻筋の高さは修嗣と似ているが、二人に血の繋がりはない。

「相談するなら、早くした方がいいわ。貴女がしっかりしないでどうするの?」

「申し訳ありません……」眞由美は、割れた欠片を拾いながら頭を下げた。

 はあ、と尊大なため息を吐くと、叔母はこちらへ近付いてきた。

「やっぱり、恵さんの方ができた人だったわ……、あなたときたら……」

「お祖母様が、いつ目を覚ますか分かりません」

 修嗣は、努めて静かに声を出した。

 二人の女を交互に眺める。

「寝室へ運びましょう」


3.


 修嗣は、母と協力して祖母を寝室へ運び入れた。叔母は、買い出しを理由に出かけていった。家を出るまでの数分間、文句を垂れ続ける叔母に、母は逐一頭を下げていた。

 年老いた祖母の体は、干からびたように軽く、簡単に折れそうだった。そのため、慎重に運ぶ必要があった。修嗣が胴体を持ち、母が足を持った。

 布団に入るとすぐに静かな寝息が聞こえた。

 母は、安堵と疲労をない交ぜにしたため息を吐く。

 前妻の息子を見上げると、「ありがとう」と囁いた。

「ごめんなさい。また、貴方を巻き込んでしまって……」

「いや」修嗣は膝を曲げて、隣に座った。「正直、叔母さんの言うことにも一理ありますよ。もう、限界なのでは?」

 八畳ほどの寝室に家具はなく、床の間に、錦木と黄色い小菊が生けられている。安全のためか、花器は陶器ではなく竹だった。

「ええ、そうかもしれません。修嗣さんにも迷惑をかけっぱなしですからね……」

「僕のことはどうでもいいでしょう」彼は、露骨に顔を歪めた。「問題は、祖母の体調です。あんな状態では、いつ倒れるか分かったものじゃない。いずれ死にますよ」

「ええ……」母はうつむいた。

 祖母は、今年に入ってから同じような発作を何度も起こしている。八十を過ぎた辺りから、徐々に言動がおかしくなっていたものの、元来、気性の激しいこともあり、面と向かって確かめる者はいなかった。しかし、ある朝、「秀樹さんに奪われる」と叫び、銀行通帳を戸棚に隠すと、同じ夜に、「奪われた!」と怒声を上げて、家中を引っかき回した挙げ句、警察へ通報した。その時、ようやく家族全員が祖母の異変を知った。

 祖母は、十五の孫を夫と思い込み、嫁を女中と錯覚している。

「分かりました。今晩、曹嗣さんとお話しします」

「あの人の答えはいつも同じですよ」

「どういうこと?」母は、首を傾げる。

「『恥ずかしいから、やめろ』」彼は、父親の口調を真似した。

 そこで、母が黙り込んだので、修嗣は部屋を出た。

 背後で障子の戸が閉まる。胸にわだかまった息を吐いた。頭がどんよりと重い。鞄を玄関に置いてきたことを思い出して、廊下を戻る。すると、前方から短髪の少女が駆けて来た。顎のラインで切り揃えられた髪が揺れている。

「兄さん、お帰りなさい」

 紺のセーラーには白ラインが二本通り、赤色のリボンは絹で、スカートの襞は綺麗に糊付けされていた。こんなところにも、母の性格が表れている。

「何、沙也加?」

 妹のまん丸い瞳を見つめながら、修嗣は尋ねた。頭のはしで、寝室にいる母を意識している。

「何、じゃないわよ。お祖母ちゃんが倒れたんでしょう。大丈夫なの?」

 妹は眉を寄せて訝しげな顔をする。恐らく、叔母が大袈裟に脚色した話を聞かせたのだろう。

「いつものことじゃないか。今はもう眠っている」

「いつものことってなによ。うちへ帰ったら玄関が滅茶苦茶で、てっきり強盗でも入ったかと思ったわ。あのお花は、叔母さんが自信作だって言っていたのに……」

「誰も怪我はしていない」

「それはそうだけど、そういうことじゃなくて……」

「心配なら顔を見てくるといい。僕はもう休みたいから、部屋へ行くよ」

 妹の言葉を遮って、修嗣は歩き出した。

「ちょっと……」

 その時、腕を引かれる。思わず、足が滑りそうになった。

「ねえ。今日も神谷さん、うちへいらっしゃるそうよ」耳元で囁かれる。

「え?」修嗣は露骨に立ち止まった。

 沙也加は微笑んでいる。化粧気のない顔なのに、唇だけがやけに紅い。血色のよい肌には、瑞々しい輝きがあった。祖母や叔母の皺だらけの肌とは比べものにならない。

「私は、数学を教えて貰おうと思うわ。今日出された宿題が、ぜんぜん分からないの」

「また数列?」

「今度は、微分」

「あんまり、神谷さんを困らせるなよ」

 顔を背けると、沙也加は寝室へ入っていった。体をひねる際、ほんの一瞬接吻をされた。口と口がかすめる程度のものだった。妹の悪巧みは、日増しに大胆になっている。

 修嗣は、しばらくその場に立ち止まり、右腕で口を拭った。


4.


 修嗣の部屋は二階にある。階段を上がると、両側に扉が並んでおり、奥から二番目、七畳の洋室だった。

 彼の実の母親は、物をあるべき場所に返さないのは罪悪だと子供に教え続けた。そのため修嗣の部屋は片付いている。もともと部屋の広さに対して、物の数は少ない。勉強机、折りたたみ式のパイプベッド、背の高い本棚。それで全てだ。もっと狭い部屋でも良い、と修嗣は常々思っていた。

 制服を脱いで部屋着に替える。ベッドに転がり、天井を眺めた。

 目を閉じると、木々の揺らめきが見える。草と埃の臭いが鼻をかすめ、奇妙な鳥がさざめく。

 手を伸ばして鞄を引き寄せた。図書室で借りた本を取り出す。子供向けの絵本のモデルになった実在した医者の逸話で、一八世紀のロンドンを舞台にしている。何週間も貸し出しされており、今日、ようやく見つけた。

 重い本を両手で支え、文字を追おうとする。しかし、額縁の中の黄色い葉、藤色のタイル、非常口、祖母の白目、赤い花びら。とりとめのない回想が、疲労した体を布団に沈めていく。

すると、何か物音がした。聞こえたのは、ベッドの反対側、壁の向こうだった。建物の配置でいうと、一番奥の部屋だ。

 壁に掛けられたまっさらなカレンダーが小刻みに揺れている。

 ドンドンドンドン。

 壁を叩く激しい音。

 ドンドンドン。

 修嗣は頭を抱える。

「修嗣君、入ってもいいかな?」

 音とは別に、男の声が聞こえた。

 修嗣は頭を抱えたまま、机の置き時計を確認する。午後7時16分。相変わらず時間に適当だ、と思いながら、「はい」と応答する。

 扉が開き、背の高い男が入ってきた。

 まだ、壁の音は続いている。

「遅れて悪いね。英子さんと話が長引いてしまって」

「いえ、構いません」修嗣はベッドの上で姿勢を正した。

 その時、ドンッ、と一際大きな音がした。

まるで、人の頭でもぶつかったような。

 鈍い音だった。

「おいおい、またか。困ったもんだね」

 神谷は、壁の方を忌々しそうにしながら、修嗣の隣へ座った。手には教科書を持っている。長い足を組んで、こちらを向く。首筋から柑橘系の匂いがした。

「部屋を変えてもらった方がいいんじゃないか?」

 修嗣は前を向く。飾り気のない真白い壁は、蛍光灯に照らされのっぺりしている。

「そう長い時間でもありませんから……」

 修嗣の言うとおり、音は止んでいた。騒音が消えると、普段の静けさがじれったく、人の存在が大きくなったように感じる。部屋のカーテンは閉じられている。

「沙也加ちゃんから聞いたよ。今日は、大変だったね。典子さんは、もう大丈夫かい?」神谷は丁寧に尋ねた。

「ええ、今はもう眠っています」

 修嗣は、女たちの口の軽さに辟易した。

「そうか、それなら良かった」神谷は微笑む。

「沙也加のやつがまた数学を教えて頂いたそうで、申し訳ありません。、僕が教えられれば良いのですが、あいにく、あいつは兄を信用していないので……」

「いや、あれくらいお安いご用だよ。修嗣君は分からないところはないの。例えば、化学とか」

 修嗣は動揺した。心臓が早鐘を打つ。

「今のところ、理数系は大丈夫です。国語や社会は苦手なんですが。教えて頂いても仕方のない暗記科目なので……」

「それでも、手伝うよ」

 そう言うと、神谷は、修嗣の手に自分の手を重ねた。浅黒い皮膚の下に、厚い筋肉が窺える。切れ長の目の上に引かれた太い眉。髪は修嗣よりも長い。神谷は、叔母が連れ込んだ男で、この家の誰とも血の繋がりはない。職業は安定しているものの、普段の挙動が怪しかった。本当に、叔母と結婚する気があるのだろうか。

「結構です」修嗣は慌てて男から離れる。

「そうか」神谷は笑う。

 二人の息遣いだけ、何の物音も聞こえなかった。

「なんですか?」

 神谷の笑い声があまりにも長く続くので、修嗣は苛立った。

 すまない、と謝罪される。

「化学の安井先生から聞いたよ」神谷は同僚の名前を出した。「今日は、どこへ行っていたんだい?」

 修嗣は背に汗が流れるのを感じた。

「どこへも行っていません」

 秒針は、忙しなく回る。

 壁の向こうは、沈黙している。


5.


 朝焼けが山の稜線を白く浮かび上がらせる。

 まるで舞台の張りぼてのようだ、と修嗣は思った。

 学校へ向かう途中、彼は水田の脇に続くあぜ道を歩いていた。稲は穂を実らせ、金粉のように輝いている。山頂の付近に、赤や黄の紅葉が色づいていた。制服の下をすり抜ける風は、秋の匂いを含んでいる。

「兄さん、待って」その時、後ろから沙也加が駆けてきた。「今日は、一緒に行こうって、約束したでしょう」

 彼女は息を切らせていた。横目で見ると、頬が赤く上気している。目の下に隈があった。

「ごめん、忘れていた」修嗣は平気で嘘を吐く。

 朝食の席で、沙也加は普段よりも饒舌だった。

「まあいいわ、ここからスタートすれば。ねえ、今日もどこかへ行くの?」

 揃いの制服を着た兄妹は、合わない歩調で歩き出す。真っ直ぐ伸びる道の先に、灰色の校舎があった。早朝の空は紫色で、雲は濃い青色をしている。

「行かないよ。叔母さんが五月蝿いから」

 修嗣は右手に鞄を握っていた。沙也加はリュックを背負っている。

「五月蠅いんじゃないわ。叔母さんは、ただ心配しているのよ」妹が困ったような顔をする。「最近、ここら辺も物騒だから。ねえ、聞いた? 隣町で起こった強盗事件……、こんな田舎でも、頭のおかしな人はいるのよ」

「そうだろうね」修嗣は適当な相づちを打つ。

「ねえ、そろそろ教えてよ。兄さん。一体、いつもどこへ行っているの」

 妹が、足を止めて振り返った。

「図書館だよ」

「嘘よ。私、昨日、図書館にいたもの」

「奥に座っていたから、本棚に隠れて見えなかったんだろう」

「そんなはずないわ。美術の資料を探して、図書館中を歩いていたの」

「入れ違いだったんじゃないか」

 修嗣は、相手に悟られない程度に、歩みを早めた。

「閉館時間までずっといたわ」

「ふうん」

「ねえ、教えてよ」

 妹は飛び跳ねるように尋ねる。その視線の先に、彼女が知りたがっている場所があることを、兄は黙っていた。

「微分はできたの?」修嗣は、話題を変えた。

「全然」沙也加は肩をすくめた。「取りあえず、教えてもらった分だけは復習しようと思ってる」

「へえ、真面目だね」

「まあね。長く続くかどうかは別だけど。兄さんこそ、受験でしょう。勉強すべきよ」

「高校受験くらい、どうにでもなる」

「そんなに上手くいくものかな。東京へ行けなくなるわよ」

「東京に行きたいのは沙也加の方だろう。僕は、何とも思っていない」

 修嗣は、生まれてから一度も土地を離れたことがない。都会に関する知識はほとんどなかった。しかし、外の世界が格別素晴らしいものとは思えなかった。どうせ、一日の大半は一つの場所に拘束され、たとえ大学を経て社会人になろうと、毎日、同じことが続くだけだ。それなら、住み慣れた地にいた方が良い。

「そういえば」

 妹は、何かを思いついたように人差し指を上げた。

「昨日、ずっと部屋に神谷さんがいたわよね。二人で何をしていたの?」

 田の間に見える瓦屋根は水に浮かんでいるようだ。人影は見当たらず、道の端に等間隔に電信柱が並んでいる。風が入り込み、口の中が乾く。

「化学を教えてもらっていたんだ」

「化学? 兄さん、理数系は得意のはずでしょう」

「そうでもないよ。一箇所、分からないところがあって……」

「ふうん」妹は、考え込むような顔をした。「叔母さんが怒っていたわ。神谷さんを独り占めしちゃ駄目よ」

「あの人はいつも怒っている」修嗣は吐き捨てるように言った。

「そんな言い方をしないで」妹は兄を非難した。

 山の斜線から、太陽が顔を出す。あの山の先に、また別の町があり、自分と同じような子供が生活している。そう思うと、修嗣は胸がむかついてきた。

 校門の前で、生活指導の体育教師が挨拶をしている。声を張り上げて、兄妹を追い立てた。軽く頭を下げて敷地へ入る。

「じゃあね、兄さん」昇降口の手前に至って、沙也加が手を振った。「私、今日、神谷さんの授業があるの!」

 修嗣は、妹の駆けていく後ろ姿を見ていた。

 セーラーの襟が軽やかに跳ねる。


6.


 六限の授業を終えると、修嗣は真っ先に教室を出た。鞄には、昨日借りたぶ厚い単行本が入っている。授業中に、半分くらいまで読み進めることができた。渡りを抜け、下駄箱で靴を替えると、校門で見慣れた二つの顔に会った。

「あ、兄さん」と、沙也加は朝と同じ笑顔を見せる。目の下の隈は消え、血色が良くなっていた。

 修嗣は立ち止まった。

「そんなに急いで、またどこかへ行くの」

鞄を両手に抱えて、沙也加が近付いてくる。

「早く家に帰りたいだけだよ。見たいテレビがあるから……」

 修嗣は、一刻も早くあの場所へ行きたいと考えていた。

「嘘よ、また秘密の場所へ行くんでしょう」

「行かない。すぐに帰る」

「どうしてそうも隠したがるの」沙也加は修嗣の顔を覗き込む。

「なにも隠していない」

 修嗣は首を振ったが、相手は食い下がらなかった。

「嘘よ、絶対」

「修嗣くん、送ろうか?」

 そばに立っていた神谷が言った。袖口までアイロンの掛かったシャツに身を包み、片手にノートの束を持っていた。

「いえ、結構です。心遣いありがとうございます」

「送ってもらえばいいじゃない。私も乗って行きたいし」

「お前は、図々し過ぎる」修嗣は妹をねめつけた。

「兄さんほど生意気じゃないわよ」

 神谷は微笑んで、「まあ、いいじゃないか」と兄妹を交互に見た。

「神谷さんは気にならないの、兄さんがどこへ行っているか。それとも、もう教えてもらったの?」

「いや、知らないよ。でも、いつか教えてもらえるんじゃないかな」神谷は修嗣を横目で見る。

「神谷さんまで……、からかわないでくださいよ」

 校舎のスピーカーから帰宅を促す音楽が流れ、夕日が三人の影を引き伸ばす。

「じゃあね、兄さん」と妹が手を上げた。「今日は早く帰ってくるのよ」

「気をつけて」神谷も手を振る。彼はもともと背が高いので、手を挙げると迫力があった。

 修嗣は、二人に軽く頭を下げ、校門を後にする。

 空は、赤いグラデーションを描き、山へ近付くほど濃い色になっていく。濁った水田の水が、日に照らされて上品に輝いた。通りに面した民家の軒下で、冬を越えられない夏桜が頼りなげに咲いていた。畑の畝に影が落ち、彼岸花が群生していた。収穫を始めた耕耘機が、低く唸りながら稲を刈っていく。

 学校を東へいくらか行くと、トタンで囲われた材木置き場がある。その横に細い公道があった。切り立った斜面に杉の木が群生している。山は、どこから山なのだろう。木々が密集し、土は影の奥にある。公道は、車一台がようやく通られる程度の幅しかなく、しばらく行くと、右手に細い坂がある。目を懲らさないと見逃してしまう。

 坂には、一応階段があるものの、土を寄せ集めて段差にしているだけなので登りにくかった。地中から飛び出した根に何度も足を取られる。度々、修嗣は木の表面に手を付いて、息を吸った。もともと、体が強い方ではなく、季節の変わり目にはいつも風邪を引く。ほんの数分動いただけでも、全身が怠くなった。重い鞄を投げ捨てたくなる。

 木漏れ日が、地面に点々と斑模様を作る。

 新調した革靴が、白く汚れていた。

 坂は幅を狭め、やがて、開けた場所に出た。

 そこで真っ赤なロープウェイを発見したとき、修嗣は息を切らせていた。

 初めは、電車の先頭車両かと思った。近付いてよく見ると、ガラスは曇り、扉は錆びている。雨風に晒されたケーブルがたゆんで、地面に着いていた。これでは、もう動くことはできないだろう。ケーブルに蔦が巻き付き、山の上までずっと続いている。空の下に、白っぽい煙突が見えた。

 ロープウェイは、ホテルの衰退と共に役目を果たし、ただの汚い箱になった。座席のシートはめくれ上がり、綿が飛び出している。木の葉が詰まっていた。

 修嗣はケーブルに沿って坂を登っていく。知らぬ間に、汗をかいていた。

 振り返ると、町の屋根が見える。家屋よりも水田の数が多い。四角形の水面が、モザイク画のようにキラキラとして綺麗だった。足下に、掃き溜め菊を見付ける。すると、坂は急に険しくなる。修嗣は地面に手を着いた。ひんやりとして気持ちが良かった。山の空気は乾いている。


7.


 ようやく洋館の壁が見えたとき、修嗣は肩で呼吸をしていた。

 目眩がして、倒れそうになる。

 ことごとく緑に覆われた地面。彼は、制服のズボンを穿いていたが、草の先が肌に触れてかゆかった。

 建物の黒い窓枠の下に、ヒビのように蔦が這っていた。見上げた非常階段は、足場が崩れて、侵入するには無理がある。外壁の鉄筋が露出していた。

 修嗣は、森を迂回して、玄関前に辿り着いた。足取りおぼつかないまま、かつて外壁だったであろう場所に腰を下ろす。時計を見ると、門限が近付いていた。叔母の小言を想像して、ため息を吐く。

 玄関ホールの入り口はまるで暗い洞窟のようだ。壁のふちに、百合の装飾が施され、天井にいくつかの穴が穿ってあった。室内に踏み込むと、中はしけった臭いが充満し、天井のシャンデリアには炭のようなものが堆積していた。右手に見える階段は、昨日昇ったものだ。修嗣はそちらを無視して、廊下を進む。

 「非常口」の看板を再びまたいで、扉のない枠の下をくぐり抜けた。食堂の壁にずらりと並んだ黒い窓枠。葉の集合体に一つとして同じものはない。昨日見た景色とも、違う。

 広間を大股で進み、部屋の中心に辿り着くと、鞄を投げ出し寝転んだ。硬いコンクリートが背中を冷やす。目をつむり、周りに意識を集中する。葉がこすれる。虫が飛び交う。その時、また、あの鳥が鳴いた。

「眠っているの」

 修嗣は、自分が夢を見ていると思った。

 声は、少年のものだ。自分よりも高い。

 頭を上げると、暗闇が人の形に切り取られていた。

 逆光で、顔は見えない。

「おはよう」と誰かが言った。

 暑くもないのに汗が吹き出した。影は、間違いなく生きた人間だ。こんな場所に、二人も人間がいることが奇妙に思える。

 再び鳥の鳴き声を聞いて、修嗣は視線を彷徨わせる。

「あれは、アオジだよ。恥ずかしがり屋で、たまにしか鳴かない」少年はにっこりと微笑んだ。

 彼の髪は光の色をしていた。肌は水面に泡立つ波のように白く、遠目にも分かるほどくっきりとした二重の目をしていた。

「アオジ……、聞いたことがない」

 修嗣は、両手で体を支えながら、首を傾げる。

「冬になると西へ行くんだ」

 少年は、背を向けて窓の方を見る。鳥の軌跡を辿るように。

「君はどこから来たんだ?」

 修嗣は、胸に湧いたものをそのまま口にした。少年の着ている制服は、修嗣の中学とは違う。紺色のブレザーだった。胸にワッペンが付いている。剱を重ね合わせたような形をしていた。

「隣町から」少年は、窓とは反対の方角を指さした。

「どうして、こんなところへ?」

 建物は山頂に近く、付近には、切り立った崖もある。足を踏み外せば命を落とすような高さだ。野生の動物も多く、伐採目的以外で住民は山へ近寄らない。こんな所へ好んで来るのは、修嗣と、悪事を働く人間くらいだ。

「山を探検するのが好きなんだ。ここを見つけたのは、昨日だよ。がむしゃらに登っていたら辿り着いた。途中で、蚊に刺された」

 少年は、細い足首にポツリと付いた赤い斑点を見せる。

「山を探検するなんて、危ない趣味だ」

「君もね」彼は笑った。

少年の歳は修嗣と同じで、住む家は、山の麓にあるという。

物腰柔らかい口調で、質問には全て答えるにも関わらず、修嗣は、どうもはぐらかされているような印象を受けた。第一、まだ、互いの名前も知らない。

「そうだ。君に手伝ってほしいことがあるんだ」少年は、空間に円を描くように両手を振った。

こっちへ来て、と相手の反応も見ずに、背筋をピンと伸ばしたまま、食堂の出入り口へ歩き出す。修嗣はあわてて立ち上がり、彼の後を追う。走り出してから、追う必要があるのか考えた。


8.


日が沈むにつれ、室内は暗さの密度を増していく。窓のない廊下は、洞窟だ。僅かな光源を頼りにして歩く。三歩先行く少年の背中は、まるで幽鬼のように上下に揺れ、足取りには迷いがない。

 ふと見上げると、薄桃色の壁紙が人の形に剥がれていた。

「ここだよ」

 彼がそう言って立ち止まったのは、客室の前だった。

 足下から異臭がして、修嗣は顔を歪める。つい先日発見した犬の死骸に、虫がたかっていた。できるだけ見ないようにする。少年は、臭いなど感じないとでもいうように優雅に微笑んでいた。扉に手を当てる。細い髪が絹のように輝いた。

「この扉は開かないはずだ」

 修嗣は、この建物を発見してすぐに、全ての客室のノブをひねったので、開く扉と、開かない扉を把握している。

「そうかな。二人なら開けられるかもしれない」少年は、奇妙なことを言う。

 修嗣は、自分の言葉がないがしろにされたようで顔をしかめた。ぐいと、前へ出る。扉の表面は、赤い布が張られている。真鍮のノブは、触ると錆びた箇所がザラザラした。

 ぐっと力を込める。しかし、びくともしなかった。右に回しても、左に回しても変わらない。溶接でもされたように、派手な音を立てるばかりだ。

 修嗣は、非難を込めた視線を少年へ向ける。

「開かないよ。鍵がかかっている」

 分かりきっていることを、改めて口にするのは馬鹿馬鹿しいと感じた。

「どうして?」と少年は言った。

「どうしてって、元の所有者が鍵をかけたんだろう」

「鍵をかけたまま、立ち退いたのかな」

 病院の所有者は、資金が足らずに、端から建物を解体する気などなかったのだろう。使用しない部屋に鍵をかけたまま立ち退いたとしても不思議はない。

「外から中を見られないかな」少年が提案をした。

「ここ、二階だよ」と修嗣は答える。「それに、この部屋は北側だから、どのみち入れない」

 北側には、中庭がある。あんな雑草だらけの場所へ足を踏み入れることを考えると、修嗣は体が震えた。どんな虫がいるか分かったものではない。虫だけではないだろう。

「鍵を壊せないかな」少年は、扉のノブをじっと見つめている。

「なんで……」

 修嗣は、油断した。鼻で息を吸い、強烈な腐敗臭にむせかえりそうになる。咳をした。吐き気に襲われる。

「大丈夫?」少年は平気そうだった。

「なんで、そこまで、この扉にこだわるんだ」ゲホゲホと、修嗣は咳き込む。「他にも、扉はあるのに……」

 彼を見る少年の瞳は泉のように澄んでいた。かすかに開いた唇に言葉が留まっている。

答えは何も返ってこなかった。

 薄暗い廊下に、青い埃がゆるりと舞い踊る。

「そろそろ、僕は帰るよ」修嗣の声が、沈黙を破った。

 時刻は五時をとうに過ぎている。門限を無視すれば、叔母だけでなく、父も口を出すだろう。厄介なのは、父が、母を通して意思を伝えることだ。母の申し訳なさそうな顔など見たくない。

「じゃあ」

 ロビーを経由して、階段を降りた。

 少年は、音も立てずに付いてくる。

 やがて、正面玄関に辿り着くと、外は完全な夜だった。

「またね」

 少年は、戸の縁にもたれて手を挙げた。にっこりと微笑んでいる。

 修嗣は、疑問に思う。少年は、いつ帰るつもりなのだろう。

「君は?」

「イリヤ」と彼は答えた。

 修嗣は、意味が理解できず「なんだって」と声を上げる。

「下の名前があまり好きじゃないんだ。イリヤでいい」

 森は暗い影に覆われていた。恐らく、「入谷」とでも書くのだろう。特に珍しくもない名字だ。少年の異国めいた容姿が邪魔をした。

「イリヤ……」修嗣は、その特別な響きを繰り返す。「僕は、修嗣だよ。上の名前が好きじゃない」

「じゃあね、修嗣」

 煤色の空に鳥のシルエットが飛び去るのを見た。

 風になびくケーブルが、錆びた鉄柱に当るたびにカンカンと音を立てる。

 修嗣は、足早に坂を下り始めた。


9.


 屋敷に着いたのは、午後七時ごろだった。敷地をぐるりと囲んだ竹塀の隙間から、薄明かりが滲み出す。竹塀は、街灯の下をずっと続いている。心配していた棟門は開いていた。冠木に添えられた表札は、暗くて今はよく見えない。

 裾灯りが点々と白い円を描いている。池は夜に同化し、水面に月の形を浮かべている。

 玄関の戸を開くときも、できるだけ物音を立てないようにした。靴を脱いで、素早く二階へ向かった。正面の飾り棚には、赤い花の代りに、紫色の秋桐が生けられていた。

 ようやく部屋のベッドに辿り着き、修嗣は倒れるように枕に顔を埋めた。

 肌の白い少年。紺色の制服。隣の町。開かない扉。

 なにもかもが、新しい異変だった。

 今頃、彼は何をしているのだろう。

 家へ帰ったのだろうか。

 断片的な会話。

 箇条書きの情報では、実体が掴めない。

 その時、また、壁を叩く音がした。

 ドンドンドンドンドンドン。

 いつもより間隔が短い。

 ドンドンドンドン。

 修嗣は、ぐっと目をつむった。

 ドンドンドン。

 両手で耳を押さえて、体を丸める。布団を頭から被っても、状況は変わらなかった。音は続き、むしろ大きくなっている。まるで、こちらを追い立てるように。

 修嗣は足で布団を引きはがし、部屋を出た。どこへ行こう、と思う。自分の部屋以外に身を隠せるような場所はない。階段を下りる。屋敷は静まっていた。台所の手前に母と妹の部屋がある。そこには近付きたくない。厠で息を潜めるのも苦しいだろう。修嗣はある思い付きに従って、座敷の襖をそっと開ける。

 そこには、空っぽの布団があった。

「兄さん、何をしていたの」

 修嗣は、思わず声を上げそうになる。

「沙也加……」

 廊下の角に妹が立っていた。

「お祖母様がどこかへ行ってしまったのよ……」

 彼女は明らかに疲弊していた。髪は乱れ、制服にも皺が寄っている。

「いつものように母さんと食事の支度をしていたら、布団がもぬけの空なんだもん。驚いたわ。父さんへ報告したら、急に怒り出しちゃって……、止めるのが大変だった。母さんも父さんも、手伝いの人と一緒にお祖母様を探しに行ったの。神谷さんも一緒よ。私だけが残されちゃった。兄さんはどこにもいないし……」

 一息に説明を終えると、妹は目の縁を潤ませた。

「そうか……、僕は、先生から連絡物を預かって、休んでいる子の家に届けていたんだ。まさか、そんなことになっているとは思わなかった」

「また嘘を吐く」

「嘘じゃないよ」

「もういいわ……、ねえ、兄さん。お祖母様は頭がおかしいの?」

「そうだよ」修嗣は即答した。「あの人は、呆けている」

 妹は頬に皺を寄せて、唇を噛む。

「兄さんは酷いね」

「何が?」

「酷い……」

 沙也加は当惑した顔を修嗣へ近づけた。唇が触れそうになったので、兄は妹から視線を外し、空っぽの布団を見た。盆にのった夕飯には手が付けられていない。

「放せ! 馬鹿野郎! どけ!」

 凄まじい怒声が響き渡る。兄妹は顔を見合わせて、玄関へ向かった。

「くたばれ! 畜生!」

 祖母が、白い髪を乱し、暴れていた。彼女は、神谷の背に負ぶされている。着物は乱れ、細い手足を無茶苦茶に振り回していた。手伝いの人間も、必死で抑えようとしている。その後ろから叔母が顔を出した。父と母の姿はない。

「修嗣君。典子さんを寝室へ運ぶのを、手伝ってくれないか」

 神谷はいつもと変わらない口調で微笑んでいた。

 修嗣は、恐る恐る、祖母へ近付く。

「ああ、あなた、帰っていたの! 一体、どこへ行っていたの!」

 祖母は、修嗣の顔を認識するなり、またおかしなことを言った。目を一杯に開き、救いを求めるように手を差し伸べる。彼女の干涸らびた肌に、粘った雫が垂れていた。

「すみません」と修嗣は言った。それしか言葉が浮かばなかった。

 彼が、祖父について知っているのは、遺影に残された顔だけだ。どんな性格だったのか、どんな地位に就いていたのか、祖父の人となりなどまるで知らない。祖母の目が見ている一切のものが、彼には理解できなかった。

 孫の声を聞いて、あるいは顔を見て、急に、祖母は静かになった。おもちゃのネジが止まったように。両手が落ちる。「ああ」と呟いた。何かを諦めたようだった。

「うん、もう大丈夫だろう。寝室へ運ぼう」神谷は声を落として言う。


10.


 布団の周りに、五人が正座をしている。まるで通夜か葬式のような光景だった。祖母の額に冷たいタオルをのせて、神谷は息を吐く。

「材木置き場の近くで見つかったよ。もう少しで山へ入るところだった。危ないね」

 彼は、そう言ってこちらを見る。視線を受けて、修嗣は反射的に頷く。妹はずっと下を向いており、手伝いの人間も黙っていた。叔母は、不機嫌そうな顔をしている。

「ありがとうございます」

 修嗣は頭を下げた。今の自分は、母親によく似ていると思った。

「眞由美さんたちは、まだかな」

「きっと、神社の方へ行かれたのよ。ほら、前に、その人が神社の床に蹲っていたことがあったでしょう」神谷の視線を受けて、叔母が答えた。顎で、母親を示す。

「ああ、そんなこともあったね。じゃあ、もう少し待とうか。神社の方へ行ったなら、一時間はかかるだろう」

「迎えに行ったらどう?」

「じゃあ、中西さんにお願いしようかな」神谷は、手伝いの人間を外へ出した。

 八畳ほどの座敷に、静けさが停滞する。唐紙がいくつも破れて穴が空いていた。祖母が暴れた跡だろう。何度張り替えても仕方がないので、いずれ襖は取り外されるだろう。

「それにしても……」神谷は、祖母の顔を見る。「一体、どこにあんな力を隠しているのかな。背負うのも、骨が折れる。髪を何本か抜かれてしまった」

「力が有り余っているのよ。いつも寝ているんだから」叔母が吐き捨てる。

「申し訳ありません。何度もご迷惑をお掛けして……」修嗣はまた、深く頭を下げた。

「いや」と神谷は大袈裟に手を振る。「僕はなにもしてないよ」

「兄さん、やっぱりお婆ちゃんを病院へ入れた方がいい」

 顔を上げた沙也加の表情には膿んだような疲れがあった。

「分かってる。既に、眞由美さんから父へ話は通じているはずだ。ただ、父が腰を上げないだけで……」

「ねえ、本当に分かっているの」叔母が修嗣を睨む。「そのうち、他人の家にも入るわよ。よそへ忍び込んで暴れるだなんて、たまったもんじゃないわ。いい恥さらしよ。修嗣さん、あなた遊び回ってないでもっと真剣に考えたらどうなの?」

「僕が考えても、どうにもなりません。叔母さんこそ、自分の母親をまるでゴミ扱いですね」

「なんですって?」

 叔母はまるで山姥のような顔で、机を叩く。

「まあまあ」

 父と母が帰ってきたのは、十時を過ぎたあたりだった。

 広い座敷へ移動し、父、母、叔母、神谷、修嗣、沙也加の順で並ぶ。手伝いの中西も一緒だった。

「このたびは……」母は、それぞれへ視線を向けると、頭を下げた。「私の不注意でお祖母様を危険な目に遭わせ、申し訳ありませんでした」

「よしなさいよ」

「曹嗣さんと相談しまして、やはり、お祖母様には入院して頂こうと考えております」

「知り合いに頼んでおいた」上座の父が、腕を組んで答える。「隣町の総合病院だ。まあ、大きな病院だから大丈夫だろう」

「知り合いというのは?」修嗣は尋ねる。

「大学時代の同級だよ。こんな田舎で、わざわざ心療内科を選んだような奇特な人間だが、信頼はできる」

 隣町という言葉を聞いてから、修嗣はあの少年の顔が浮かんでいた。彼は、山の麓に住んでいると言っていた。

「そうですか。費用も考えていらっしゃるんですよね」

「子供が生意気なことを言うんじゃない」父が太い眉をしかめて、息子を睨み付ける。修嗣は肩をすくめた。

「生意気ですか」

「修嗣さん……、今日は、帰りが遅いから心配しましたよ」息子と夫に挟まれた格好で、母が言った。

「心配してしていただかなくても結構です」修嗣は、母の方を見向きもせずに即答した。

「修嗣」父は拳を振り上げる。

 修嗣は黙って父を見据えていた。

「家のお荷物を処分できて良かったじゃないですか」

 パンと、鋭い音が鳴り、席に沈黙が落ちる。まるで、安劇団のようだと修嗣は思った。辛気くさい顔を並べて、息子を非難する大人たち。無垢材の卓は木目が美しく、頭上の灯りを跳ね返す。母が用意した煎茶から湯気が立ちのぼっていた。

「いつから、入院なさるんです」

 口を開いたのは神谷だった。彼は、膝を崩して片方の肘を付いている。

「手続が済んでからだ。怪我とは違う」父は座り直し、また腕を組む。

「できるだけ早い方がいいわ」叔母が大袈裟に言った。

「早くても年明けだろうな……」

「年明け? まあ、随分のんびり考えているのね。また逃げ出したらどうする気なの。私、もう探すのはいやよ」

「仕方ないだろう……、お前は何もしなくていい。世話をするのは眞由美だ」

 広間の鴨居に、先祖の遺影が並んでおり、その中に祖父がいた。修嗣の母もいる。どちらも場の雰囲気に合わない、やんわりした微笑みを浮かべていた。

「鍵をかければいい」

 殴られた頬を抑えながら、修嗣は言った。

「和室でも、鍵くらい付けられるでしょう」

「それはいいかもしれないね。典子さんの自由を制限することになるけど、その方がみなさんも安心できるでしょう」神谷が同意した。

「閉じこめればいいんですよ。おかしなものは」

「修嗣君、言葉が悪いよ」

 修嗣は、その場にいる全員の顔を見回した。

「兄さんと同じでしょう」

 あの場所のことを考える。

 緑に囲まれた灰色の建造物。

 明日も行こう。明後日も。

 父は一切何も言わずに室を出た。

 母は、困惑した顔でその後を追った。

 神谷は眉を僅かにあげて、ため息を漏らす。

 沙也加はずっと泣いていた。

 彼女の横にぽっかりと空いた席。

 その向こうに、暗い庭が見える。


11.


 密集した木々の合間から、祭囃子がかすかに聞こえる。ケーブルに釣り下げられた電飾が光を撒き散らし、客寄せの声に混じって子供の騒ぐ声が聞こえる。

 修嗣は、水底に留まる泡に見とれていた。

ポンプの運動に従って、膨れ上がる虹色の泡。

赤やオレンジ色の金魚が体を揺らして、長方形の箱の中を泳いでいる。

「お前は、眺めてるだけだな」

 修嗣は、半袖のシャツを着ていたので、少し肌寒かった。

 隣に兄が座っている。兄の隆嗣は、長袖のシャツを着ている。それは、寒さからではない。年中、同じだった。夏のどんなに暑い日でも、兄は必ず長袖を着ていた。理由は分からない。母の手によって、彼らの服には念入りにアイロンがかけられていた。

「金魚は、生まれたときはみんな黒なんだ」と兄が言った。

 修嗣は、金魚を見ていたわけではないので、別段、その話に興味を持てなかった。左手にポイを握って、右手で椀を抱えている。ポイに張られた和紙は、乾いたままだ。

「ふうん」と答える。

「育っていくにつれて、色が変わっていくんだ」

 兄は、口の端を片方だけ上げる。左手の椀に、金魚が三匹入っていた。

「じゃあ、この黒いのはなんなの」

「黒いのは、金色になることがある」

「金色なんているの」

 修嗣は、水面を覗き込む。自分の顔が、ゆらゆらと揺れていた。

「おい、取る気がないなら行くぞ」

 兄が店主に椀を差し出すと、三匹の金魚は透明な袋に入れられた。兄は黙って歩き出す。置いて行かれるのを恐れて、修嗣は後を追った。

 敷石を踏みしめるにつれ、小さな修嗣は何度もつまづきそうになった。台の上にのったかき氷機から、透明な雫が飛び散るのを見た。店主の毛むくじゃらの手が氷を成形する。足下に生えた白詰草が汚れていた。林檎飴の香りと、ソースの焼ける匂いが混ざり合って鼻を突いた。

兄は、酷い猫背だった。いつも首を屈めたようにして歩き、両手はズボンのポケットに入れている。修嗣は、人混みの中に漂う曲がった背中を追う。母に買ってもらったばかりの運動靴は、つま先が当たって痛い。喘息持ちだったので、すぐに息が切れた。

 やがて、屋台が並ぶ敷地からいくらか離れると、祭り囃子は聞こえなくなった。空には無数の星がある。乱雑に浮かぶ光の一つ一つに名前が付いていることを、彼は兄から聞いた。牡牛座の側で輝く昴。ペガスス座の四つの星を基準にすれば、見付けやすい。

 まるで弟のことなど忘れたように、兄は一度も振り返らなかった。緩やかな坂を下ると、森の切れ間に沿って、階段を登る。修嗣は、何度も人ごみに飲まれそうになりながら、走り続けた。

「にさん」

 決して立派とは言えないような鳥居をくぐる。階段の隅には、老人や、男女が座り込んでいた。酒の臭いを漂わせている。

「にさん」

 修嗣は汗をかいていた。一体、兄はどこへいこうとしているのだろう。神社でお参りでもするつもりだろうか。しかし、その神社もあっという間に通り過ぎた。境内を回り込んで、ほとんど明かりのない暗がりへ向かう。月明かりだけが頼りだった。

 そこに、犬がいた。

 首にビニール紐を巻いている。紐は、側の木にくくりつけられていた。

「どうしたの、それ……」

 修嗣は、ほとんど倒れそうになりながら、兄に尋ねた。

「山で見つけた」

 兄は、犬の側に座る。すると、右手に握っていた透明な袋を、なにげなく地面の上に置いた。水が溢れる。金魚の口が開閉する。土が黒く染みていく。

 犬は、遠目にも毛並みが汚れていることが分かった。目が片方、潰れている。

修嗣は、犬の口に入っていく金魚を黙って見ていた。

 海老みたいだと思った。

 すっかり三匹の金魚を平らげた犬は、兄の足に絡み付いて吠えた。涎を垂れ流しながら。兄は、その頭を容赦なく蹴り飛ばした。悲鳴のような声を出して、犬は、怯えて縮こまる。

 修嗣は、急に怖くなった。

「修嗣、いいところに連れて行ってやるよ」

「いいところ?」

 兄は、犬の首に付いた紐を無理矢理引っ張り、山の中へ歩き出す。暗くてほとんど何も見えない。まるで獣道だ。枝の先が顔に当たって痛かった。

「帰らないと、お父さんに怒られるよ」

「あいつらなんか、放っておけ」

 兄は、暴れる犬をほとんど引きずるようにしている。

「でも、怒られるのやだよ。お父さん怖いよ」

 修嗣が声を上げると、突然、兄が振り返った。心の底から驚いて、その場に腰を付いてしまう。兄は近付いて、弟の顔を斜めに覗き込む。犬は、右手で押さえつけられていた。

「何が怖いって?」

 唸るように低い声を聞いて、修嗣は泣きそうになった。もしかして、兄を怒らせてしまったのかもしれない。理由は分からない。焦りで、汗が噴き出した。

「お前、何が怖いって?」

 兄の目は、砂のように干涸らびていた。視線を丸ごと吸い込んでしまう。

 押さえ込まれた犬が、歯を剥き出しにして土を食っている。

「怖くないよ」と修嗣は言った。

 それは、生まれて初めて吐いた嘘だった。

「全然、怖くない」

 首を振るう弟を見下げて、兄は静かに立ち上がった。

 犬を引き連れ、再び坂を登り始める。


12.


 結局、壁の音は朝になるまで止まなかった。修嗣は、布団と毛布を被って、ずっと膝を抱えていた。音は周期的で、時々、休む。そうして、再開したときには、一層激しい音が繰り返された。

 修嗣は、少しだけ夢を見た。幼い頃の夢だった。

 額に汗が溢れ、口の中は乾いていた。

 学校へ向かう途中、また沙也加がついてくるかとも思ったが、家を出てから一度も会わなかった。

 彼は、数学の授業を抜け出して、曇り空の下を走る。材木置き場へ向かい、山を登り、そうして、またあの場所へ来た。いつもより寒かった。頭上を覆う雲が鈍い色をしていた。

「来たね」

 その声を聞くと、彼は安心した。

 少年は、別れたときと同じ姿勢で、玄関ホールの柱にもたれかかっている。相変わらず、紺のブレザーだった。

「学校に行ってないの?」修嗣は、腕時計を見る。始業式でもなければ、こんな日中に学校が終わることはない。

「学校なんて、時々で十分さ」イリヤは答えた。「君もそう思うだろう」

 彼らは歩き出す。自然と足は食堂へ向かった。

 壁に並んだ黒い額縁の中で、黄色い葉が揺れていた。

「家族との仲? 良い方だよ、多分」

 修嗣の質問に、少年は快活に答えた。彼は、背もたれのない椅子に座っている。

「父親は医者で、母親も看護師だから、ほとんど家にいない。仲が悪くなりようがないんだよ。会話しないから」

 湿気を含んだ生温い風が、吹き込んでくる。

「凄い家だね。君も、将来は医者になるの」修嗣は、地面に膝を付いていた。

「医者といっても、体を治す方じゃないからね。僕には無理だよ。気が滅入る」

「ふうん。でも、期待はされるだろう」

「さあね、どうだっていいさ。もともと家を出るつもりだから」

「家を出る?」

「そうだよ。別に、珍しくもないだろう」

「町から離れるの?」

「離れたいね、こんな所にいたら頭がおかしくなる」

「外に行っても、おかしい人間はおかしいさ」

 修嗣の言葉に、少年は声を上げて笑った。

 二人が目指す高校は同じだった。もっとも、この地方には、公立の高校が一つしかなく、学力に問題がなければ大方の生徒がそこへ通う。極端に成績が悪い場合、県外へ行くしかなかった。

「君の家の方が、よっぽど凄いと思うよ」少年は、しばらく宙を見つめると、そう言った。「犬神家みたいだ」

 ポツポツと細かい音が鳴り、ほんの数秒で、破裂するような音に変わった。外を見ると、白い錦糸が木々を霞ませていた。雨が降っていた。

 二人は並んで、白んでいく森の景色を見ていた。葉はお辞儀するように、不規則に揺れ動き、時々、跳ね返った雫がガラスのない窓から入ってきた。

「もう嫌だ、あんな家……、僕も出られたらいいのに……」

「出たければ、出ればいい」

 修嗣は、少年の顔を見る。二重の大きな瞳は、修嗣をつぶさに観察していた。森に潜む鳥を探すときと同じ目だった。彼は、右手で細い顎を支えている。

「そろそろ、行こうか」少年が腰を上げた。

「どこへ」と口にしてから、修嗣は検討を付ける。また、あの扉に違いない。

 微笑みに従って、階段を上り、扉の前に立った。湿気のせいか、足下から強い臭いがした。

「なんでここに執着するんだ」修嗣は尋ねる。

「さあね」少年は肩をすくめる。

「何度やっても同じだろ」

「いいや、これは開くよ」彼は、すぐに答えた。「大丈夫」

「どうやって開く? 壊すつもりなら、僕は賛成しない。夜中に忍び込んで壁に落書きするような馬鹿と同じだ」修嗣は苛立ちを露わにして言った。

「壊したりしない。ただ、君さえ頑張れば、これは開くんだよ」少年は口元に手を当ててくすくすと笑った。

「僕はそんな力はないし、鍵がかかっているのに、どうやって開けるんだ。わけが分からない」

「忘れてるんだね。仕方ないよ。こういうのは、時間がかかるから……」

「何を?」修嗣は、首を捻って少年を睨み付けた。「何が入っている?」

少年の笑い声が毬のように弾む。

「大丈夫だよ、修嗣」

 一体、何が大丈夫なのか。

 名前を呼ばれると、顎の下がむずがゆくなった。

 外の雨は、激しさを増している。


13.


 それからも、修嗣は一心に山を登り続けた。学校へ向かうその足を、直接、山へ向ける日も増えた。担任に呼び出されて何度か注意を受けた。沙也加にも、「最近、兄さんはおかしい」と散々言われた。叔母の嫌味は回数が減った。しかし、彼は、まるで気にしなかった。神谷は相変わらず家に現れては、叔母の部屋に入り浸り、時々、妹に数学を教えているようだった。母は、しきりに修嗣を心配するような言葉を口にし、父は、息子と一切会話をしなかった。食事の席で顔を合わせても、暗い目で睨むばかりだ。

 祖母の入院手続きは順調に進んだものの、彼女はまだ家にいた。ほとんど眠っているが、日に何度か、大声で叫びながら戸を叩く。寝室には頑丈な鍵がかけられ、出入りの自由は奪われた。汚れ物は、母が処理していた。祖母に接するのは主に母で、その次が、沙也加だ。修嗣は、あの騒ぎ以来、老女の顔を見ていない。

山は、日ごと微妙な変化を見せ、楓の葉は赤みを強くしていた。錆びたロープウェイの付近に、時たま、子猫が現れる。近付くとすぐに姿を隠したが、黒の毛並みは美しかった。

修嗣は、まるで何かに取り憑かれたように山を登り続けた。

 イリヤは、いつも同じ姿勢で待っていた。

 二人は、互いの将来について語り合い、半月以上過去のことは口にしなかった。たわいもない日常を語り合えればそれで良かった。

彼らは、かつて食堂だった場所の床に座り、変化し続ける山の姿を見ていた。時には雨が降り、霧に包まれた。風が寒さを含み始めると、枝の葉は、少しずつ落ちていった。

 それが済むと、彼らは二階の廊下へ行き、開かない扉の前に立つ。犬の死骸は、すっかり皮と骨だけになり果て、臭いも薄くなっていた。

飽きもせずに、毎日同じ事の繰り返し。

 それは、修嗣にとって心地よい時間だった。

 家にいるのも、学校にいるのも、不自然で。

 自分はここにいるのが自然ではないか。

 そんな気がした。

 しかし、長くは続かなかった。

 ある日、少年がいなくなった。

 上着がなければ、耐え難いような冬の始まり。修嗣は、いつものように、授業を昼の途中で抜け出し、山を登った。靴の中で足がかじかむのを感じる。鳥は姿を隠し、辺りは静けさに包まれていた。空は浅葱色に近く、雲の陰で太陽の光が拡散する。

 修嗣は、少年がいつも立っていたところに座って、膝を抱えた。そうして、見慣れた黄金色の髪を待った。しかし、彼は来なかった。

 少年が来なくなると、修嗣はますます山に執着した。山を登らない日はなくなり、欠席する頻度が倍に増えた。寒さが和らげば、家からくすねてきた寝袋で夜を明かした。

 彼が眠るのはいつも食堂の隅で、瓦が積まれている場所だった。夜の山は、全てのものの形を曖昧にし、驚くほど静かだった。時々、何か少しでも物の動く気配がすると、修嗣は体を震わせた。

「イリヤ」

 特別な響きを口にする。

 音を確かめるように。

 月が巡っても、少年は来なかった。

 少年以外の人間も、誰一人来なかった。

寒さに体が震えると、修嗣は両手を擦り合わせた。

 葉を失った木が、静脈のように伸びている。

生きものの気配はない。

 次第に、修嗣は意識を失い、頻繁に夢を見るようになっていた。

 たいてい、幼い頃の夢だ。

 いつも、彼の前には兄がいる。


14. 


「母さんに、お前が出てったって、伝えたよ」

 兄が、片方の口の端を上げてにやにやしているときは、大抵いつも、自分に嫌なことが降りかかると、六歳の修嗣は理解していた。

 兄は中学に上がったころから、まるで人が変わったように意地が悪くなり、何かにつけて弟を罠にはめるのを楽しむようになった。修嗣の部屋へ犬を放ったことがある。あの、山の中で見つけた犬だ。本棚が荒らされ、布団には糞が撒かれていた。また、ある時には、突然風呂場の明かりを消して、薪を焚いた。湯の温度は一気に上昇し、暗闇の中で、修嗣は転んでタイルに頭を打ち付けた。額を三針も縫った。同じ薪で鞄を燃やさた。池に落とされたこともある。

修嗣はひたすら兄に怯えていた。

 ただ一つ救いだったのは、母の存在だ。

 兄に泣かされるたびに、修嗣は母に告げ口をした。彼女だけは、兄を注意してくれた。父は、そんな修嗣を見るたびに情けないと罵った。彼は兄を買っていた。何故なら、圧倒的に成績が優秀で、委員などにも積極的に加わっていた兄は、父の前ではとても良い子を演じていた。また、母に注意されると、悲しそうな顔で反省の言葉を口にした。その後には、より一層酷い仕打ちが修嗣を待っていた。

「なんでそんなこと……」

 修嗣は、納屋の内側から声を上げた。ぶ厚い扉は、押しても引いてもビクともしない。

 今日は、母の誕生日だ。修嗣は、小さなプレゼントを用意していた。目が赤く、体が半透明な魚の形をしたブローチ。町の露店で買ったものだった。小学校から帰ってきた修嗣は、真っ先に自分の部屋へ向かった。しかし、机を開けても、タンスを開けてもブローチは見当たらなかった。どこかへ落としたのだろうか。確かに、机の上に置いたはずなのに。汗だくになりながら、床を這いつくばっていると、隣の部屋から兄がやってきた。

 修嗣は、兄の表情を見て、状況を悟った。

「兄さん、ブローチどこやったの……」

「何の話だよ」兄はせせら笑う。

「どこへやったの?」

「少しは自分の頭で考えろ」

 修嗣は、歯を食いしばって、兄の顔を睨み付けた。

「あれは、母さんに渡すつもりだったんだよ」

「へえ」

「母さんのために買ったのに……」

 奇妙に歪んだ顔で兄は修嗣を観察していた。鼻の隅を痙攣させて、片方の口の端だけを持ち上げる。見開かれていた目は、白目が赤く充血していた。

「納屋でも見てきたらどうだ」

 兄は床へ何かを放り投げる。それは、小さな鍵だった。その形に、修嗣は見覚えがあった。

「納屋?」修嗣は、ゾッとする。

「あそこは物を保管する場所だ」

「本当に、納屋に置いてきたの?」

「さあね」

「兄さん、いい加減に……」

「俺は、お前みたいに嘘を吐かないよ」

 彼の言葉は確かだった。兄は、嘘は吐かない。しかし、その事実は弟にとっては恐怖でしかなかった。修嗣が池に落ちたときも、兄の言った言葉は、「金色の鯉がいる」だった。ただ、山の奥の池へ弟を連れて行き、「金色の鯉がいる。よく見ろ」と言っただけだ。大量の雨が、地面を濡らした翌日に。

 修嗣は、急いで納屋へ走る。すると、扉にいつもかけられているはずの南京錠がない。ざわつく動悸を抑えて、子供には重い扉を押し開ける。中へ入ると、すえた臭いが充満していた。穀物と、糞の臭いが混じっている。修嗣は、以前、母と一緒に納屋へ入ったことがあった。

 一階には、農具が乱雑に置かれ、二階には、収穫された米や麦が保管されていた。

 この中から、あの小さな魚を見付け出すと考えると、吐き気に近いものを感じた。だだっ広い空間で、自分がとても小さく感じられた。

 しかし、目当ての物は、あっけなく見つかった。

 魚のブローチは、修嗣の靴の裏で、粉々になっていた。

 彼が泣き出すのと、背後で扉が閉じるのはほとんど同時だった。

「修嗣、ブローチは見つかったか?」

 扉の向こうで、兄が言った。

「兄さん、やめてよ……」

 修嗣は、ぶ厚い扉を両手で殴った。腕の骨が痛む。嗚咽を上げた。漆喰の扉は、叩くたびに、白い粉が飛んだ。

「何を?」

 兄の笑い声が、扉を通して怪物のように聞こえた。

 修嗣は泣きながら、扉を叩き続けた。

 頭が割れるように痛い。

「そうだ」修嗣は、あることを思いついて納屋の奥へ向かった。壁に立てかけられた農具。初めは、刃先が鋭い鍬を持とうとしたが、あまりにも重くて扱えなかった。そのため、小さな刃鎌を掴んで、扉を掻いた。しかし、そんなものでは扉を開けることはできなかった。兄はもう、扉の前にはいないようだった。

 何時間、そこにいただろう。

 修嗣は、とうとう叫ぶ気力を失った。

 両方の手の側面が、真っ赤に腫れている。

 ようやく、外へ出されたのは、翌朝の五時だった。

 手伝いの人間が、玄関に置きっ放しになった鍵を不審に思い、納屋へ様子を見に来たのだ。

 修嗣だけが父に怒鳴られた。

 兄は部屋に籠もって出てこなかった。

「母が崖から落ちた」と知らされたのは、その三日後だった。


15.


 ドンドン。

 ドンドンドン。

 ドンドンドンドン。

 誰かが、壁を叩いている。

 いや、あれは、太鼓の音だ。ばちが、牛革を打ち付ける、鈍い音。

 竹笛の演奏に混じって、ドンと鳴るたび、場を絞める。

 きっと、祭りが始まったのだろう。

 修嗣は、目が覚めて、まず自分の背中が痛くないことに驚いた。寝返りを打っても、全く平気だった。手の平を床に当てて、思い出す。ここは、コンクリートの地面ではない。自分の体にかかっているものは、寝袋ではなく、柔らかい毛布だ。部屋で眠るのは三日ぶりのことだった。修嗣は、痩せ細った腕で、頬を掻く。藪蚊に刺されて大きく腫れ上がっていた。

 視線の先には、コンクリートの代わりに、木目の天井がある。不気味な模様は、人間の目が重なったようだ。彼は、何度か瞬きをして、左腕で目をこすった。霞でも掛かったように、すっきりしない。ものを考えるのが億劫だった。

ひとつ、くしゃみをする。

 すると、また、壁を叩く音が聞こえ始めた。

これは、祭りではない。激しい連続音。何か、硬い物がぶつけられる。 

 ドンドンドンドン。

 ドンドンドン。

 ドンドン。

 音は止まず、勢いを増すばかりだった。

「五月蠅い」

 修嗣は壁を睨み付けて、呟いた。それは、これまでずっと、胸にわだかまっていた言葉だった。口にした瞬間、何か得体の知れないものを取り込むような悪寒がした。

 毛布を放り投げ、机に置かれていた時計を掴むと、彼はそれを壁に叩き付けた。ガシャンと、文字盤の裏側の蓋が開き、電池が飛び出す。枕元の、返却期限を過ぎた分厚い単行本も投げつけた。大した音は鳴らなかった。ページがめくれ、鳥のように背表紙が開いた。

 そのまま、修嗣は、部屋のありとあらゆるものを壁に叩き付けた。花瓶は、音を立てて、細い部分がへし折れた。筆記用具も投げつけた。布団も、枕も、全て。

 そうして、すっかり投げるものがなくなると、彼は再び、「五月蠅い」と叫んだ。屋敷中に聞こえるような、今まで出したことのない声だった。

 ドンドンドンドン。

 ドンドンドン。

 ドンドン。 

 しかし、どれだけ物を投げつけても、音は止まなかった。一層、激しくなっているような気さえする。

 修嗣は、壁の向こう側を想像した。暗く、臭いの籠もった部屋の床には、中身の残ったペットボトルが並べられ、汚らしい布団が転がっているだろう。そこに、脂肪だらけの塊が横たわっている。そいつの小指の側面は、豆だらけだ。

 また、壁が叩かれる。

 強烈な吐き気が修嗣を襲った。

 頭が割れるように痛い。

「もうやめてくれ!」

 両手で耳を覆って目をつむった。しかし、それでも音は聞こえてくる。

 ひょっとして、自分の頭の中で鳴っているのかしれない。そう思い、頭を壁に叩き付けた。しかし、音は止まない。彼は、犬のような唸り声を上げて、何度も頭を壁にぶつけた。

「やめろ、やめろ、やめろ」

 どうして今日に限って家で眠ってしまったのだろう。山で眠れば、こんなことにはならなかったはずだ。深い後悔の念が彼に襲いかかる。

すると、「修嗣君、大丈夫か」という男の声がして扉がノックされる。修嗣は、まるで救いを求めるように扉にすがりついた。

 その時、「兄さん、何をしているの?」という少女の声が聞こえた。修嗣は、ノブに伸ばした手を止める。「修嗣さん、お願いだから出てきて頂戴」女の声。

「来るな……、来るな……」修嗣は、その場に倒れるように腰を付いた。「お願いだから、近寄るな……」

 ドンドンドン。

「一体どうしたんだ、修嗣君」

 ドンドンドン。

「兄さん、どうしちゃったの? ねえ、さっきからなんの音なのこれは?」

 ドンドンドン。

「修嗣さん、話をしましょう。私が悪いのなら、いくらでも謝るわ。曹嗣さんも心配しているのよ。お願いだから出てきて……」

 ドンドンドン。

「お前なんて、母さんじゃない! 母さんなら、兄さんを止めてくれるはずだ!」

「修嗣さん、一体、何の話をしているの?」

「とぼけるな!」

 彼は、飛びつくようにして部屋の窓を開け放ち、裸足のまま外に出る。

 両手を広げて瓦の上を慎重に渡った。隣の部屋へ向かう。きっと、カーテンが閉まっているだろうと予想していたが、その予想は外れた。閉まっているどころか、カーテン自体がなかった。部屋には、誰もいない。ただ、本棚と、パイプベッドと、机があるだけだ。それは、修嗣の部屋と、丁度反対向きの配置になっていた。人間の生活している痕跡はなかった。

「逃げたんだ」と呟くと、修嗣は瓦伝いに東へ向かい、屋根が一段低い風呂場の上に飛び移った。地面に着地する際に、足をひねり、膝を擦り剥いた。

 庭の奥の納屋へ向かった。そこは、彼にとって恐ろしい場所だったので、普段は一切近付かないようにしていた。

 扉には、南京錠がかかっている。修嗣は納屋の裏手へ回り、二、三並べられた植木鉢の一つをどかす。鍵の位置だけは、家族に聞いていた。拳にすっぽり収まるような小さな鍵を握り絞め、納屋の中へ入った。

 すえた臭いが鼻を突く。たくさんの農具が立てかけられており、その中に、鍬があった。

彼は自分の背丈とほとんど同じ長さになった鍬を手に持ち、走り出す。

 今はもう、重いとは感じなかった。


16.


 修嗣は、山を登った。

 前のように息が切れることはなかった。

 ただ、吐く息は白かった。冬の寒さが容赦なく体力を奪う。部屋から飛び出したまま、彼は寝間着姿だった。足だけは、納屋で見つけた長靴を履いている。

 体を奮い立たせ、前へ進むことだけを考えた。草を踏みしめ、枝の隙間を縫うように登っていく。空は光を失い、ただ、ぶ厚い雲に覆われている。

 頭は割れるように痛かった。鼓膜の内側で、壁を叩く音がずっと続いている。ひねった足をかばうために、鍬を杖代わりにした。吐いた空気を取り戻すように、乱暴な呼吸を繰り返す。

ようやく、建物の外観が見えてきたとき、目の前に白いものがちらついた。雪だ。見上げると、無数の白い線が降ってきた。刺すような寒さに震え、地面は白く霞んでいく。草花は綿のような雪に覆われ、形だけが残る。

 玄関ホールを抜け、食堂の方は見向きもせず、這うように階段を駆け上った。 

「兄さん出てこいよ! 聞こえてるんだろ?」

 修嗣は、手すりに巻きつく夏蔦を、鍬で引き剥がし、階下に投げ捨てた。

 そうして、あの扉の前に辿り着くと、腹の底から怒鳴った。

「出てこい!」

 犬の死骸は、既に、原型を失った黒い塊になっている。骨と、皮と剥がれた床の塗装の判別が付かない。臭いはなかった。

 廊下はシンと静まり、彼の怒声だけが響き渡る。

「畜生、出てこいよ! クソッ!」

 修嗣は、持っていた鍬を扉に叩き付けた。鍬の刃が、キンと音を鳴らして跳ね返る。振り上げた勢いで、反対側の扉にぶつかった。黒い塊を踏みつける。おかしな感触がした。背中を強かに打ち、顔を歪める。

「そのままそこに居座るつもりか、安全な場所に逃げ続けて……」

 彼は、何度も何度も、鍬を振りかざした。しかし、扉はびくともしない。まるで鉄のように硬く、表面に付いた埃が落ちるだけだった。

「いい加減にしろ! 家族のお荷物だ!」

 卑怯者、と修嗣は叫んだ。老人のように声がかすれていた。

「お前のせいで母さんは死んだ」

 その時、妙な既視感がよぎった。ほんの一瞬。前にも、同じ事を言ったような。いつだろう。確か、あれは……、思い出そうとすると、彼の頭は軋んだ。片目をつむって、掻きむしる。息ができなかった。

 ドンドンドンドン。

 ドンドンドン。

 ドンドン。

「出てこないつもりなら、こっちにも考えがある……」

 彼は、体勢を整えると階段へ戻り、迷わず上っていった。

 やがて、四階へ辿り着くと、意味不明な叫び声を上げながら、天井の塗装が剥がれ落ちた廊下を走り出す。時々、気が向くと、鍬で窓を叩き割った。窓は跳ね返って抵抗するものもあったが、そういった場合は、二度、三度と衝撃を加えてかち割った。ガラスの破片が飛び散る様がキラキラとして綺麗だった。頬に破片が当たり、微かに血が出た。ひねった方の足は、不思議と痛みが引いている。

 両開きの扉を開けて、修嗣はベランダへ飛び出した。

 頭上から、とめどなく雪が降ってくる。

 風が吹くたびに、強烈な寒さが身を凍らせる。

 修嗣は、ベランダを横断し、斜めにぶら下がった柵の前に立つ。

「兄さん!」

 山の中へ、叫び声がこだまする。

 眼下には、暗い中庭が口を広げていた。

 野放図に伸びた枝木は、蔦と葉が複雑に絡み合い、巨大な緑色の塊になっている。そこへ、雪が降り込む。見上げた空は、灰を敷き詰めたような色をしており、太陽のある場所だけが、真っ黒に歪んで見える。

「そこにいるのは分かっているんだ!」

 彼は、頭上に鍬を掲げたまま。

 吸い込まれるように、穴へ落ちていった。


 ドンドンドンドン。

 ドンドンドン。


 ドンドン。


 ドン。


17.


「入谷君」

「はい、なんです。神谷先生」

「四番よろしく頼むよ」

「またですか」

「ああ、錯乱して暴れている」

「困ったなぁ」

「すまない。僕はこの後、学会に行かなければならないから」

「はあ、たまには別の言い訳を考えてくださいよ。たとえ嘘でも」

「お礼はするよ、蟹でも食べに行こう」

「蟹、いいですね」

「ああ」

「新米には定期的にエサをやらないといけませんね」

「なんだ、それ」

「また噛みつかれたら、どうしましょう」

「仕方ないさ。ロドピンでも入れておけばいい」

「はいはい」

 背の高い男は、手を振って廊下を曲がって行った。

 若い方の男は、階段を上り、二〇四と書かれた扉の前に立つ。

「市ノ瀬さん、市ノ瀬さん……」


(扉を叩く音)


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