わたしたち
yuurika
おにさん、どうぞこちらへ
一
奥座敷への廊下を歩く際に、春子は棺桶の中を歩いている様な気分になる。草臥れた床が歩くたびにキュルキュルと鳴った。
彼女は両手で盆を持つ。そこには、桃が二つ載っている。
廊下は、厠の手前で坪庭に出る。小さな池があり、水は何時も緑色に濁っていた。時折、水面に鯉が顔を出すものの、二、三度、口を開けると、泡だけを残して消えた。鯉は何を食べて生活しているのだろう。藻や、小さな生き物だろうか。春子は、そんな事も知ら無い。
池の向こうには、薄暗い林が続いており、木々の隙間に日は入らず、木陰に何か居るような気がする。 夜はもっと不気味だ。そのため春子は、なるべくここを通りたく無いと思っている。
仏間が有る座敷の向こうに、黒い戸がある。閂に手を添えて、そっと引き抜く。ギギ、と嫌な音がした。ここは、屋敷の最も奥深い場所で、左手には腰付障子が並び、右手には日に焼けた襖が並んでいる。
春子は襖の前に座すると、二本の腕を行儀良く揃えた。
「姉さん」
声をかけ、返事を待つ。この時に、いつも緊張をする。
部屋の中で、何かの動く気配がした。
「どうぞ」
春子は、ほっと息をつき、襖を開けた。
八畳の座敷は、家具が少なく、背の低い箪笥と書き物机が有るだけだった。しかし、部屋の中で真っ先に目が行くのは、座敷の中央に敷かれた布団の膨らみだった。
「調子はどうですか」
春子は尋ねた。
「悪くは無いわ」
膨らみが答える。
「それは良かった」
春子は膨らみの側で、机の上へ盆を載せた。
桃を手に取る。表面は、子供の産毛のようにふんわりとしている。人肌に朱を混ぜた様な色をしている。
「桃を切りましょうか」
「ええ、お願い」
銀のナイフで桃を剥き始める。力を込めると、果実から透明な液が溢れ、甘い香りがたちこめた。玉子色の果肉が現れる。
「できました」
春子は、手の平に桃を載せたまま言った。
桃を、皿に移しかえようとした時、布団の膨らみが動き、黒い影が春子の上へ覆い被さった。赤い舌が伸び、果肉はするりと吸い込まれる。
「あら、今年の物は甘いのね、去年はあんなに酸っぱかったのに」
布団からはみ出した影は、人の形をしていた。少女の頬は、黄みがかって溶岩のように爛れており、ところどころ青紫色に変色していた。右の瞼が腫れて眼球が隠れている。両方の眉毛が無かった。
彼女の名前は、桜子という。
二
障子から庭が見える。暗い座敷から覗く庭は、まるで全てのものに祝福されたかの様に明るく、ちょうど真ん中に桃の木があった。周りには花壇が有り、撫子や紫陽花が植えられていた。木の下に、一人の老婆がいた。曲がった背をぐんと伸ばして、果実を取っている。枝を切って、桃を籠に放り投げている。
「学校は今日で終わりなのかしら、春子」
「はい」
春子が笑うと、桜子も目を細めた。
「もう、夏休みなのね。ここに居ると、季節の感覚がなくなってしまうわ」
「ええ、確かに。ここに居ると、夏を忘れてしまいそうです」
麓の学校に居る時は、口癖の様に暑い暑いと呟いてしまう。春子たちの住む屋敷は、麓から離れた山の中にあり、春子は毎日二時間かけて登校していた。通学路は狭く、車一台がようやく通ることが出来る程度。
先日、制服が夏服に変わった。彼女は、腰まで届く長い黒髪を持っているが、今は三つに編んでいた。学校の規程でその様にしている。
「暑くなったら、また、川原へ出てみたいわ」
春子の方を見て、桜子は言った。
毎年、夏になると姉妹は川原へ足を運んだ。桜子は、いつも車椅子に乗っている。姉は、どこへ行くにも、自分の足では歩けなかった。
「ええ。筑紫さんを誘って、釣りでもしましょう。きっと、鮎や石斑魚が取れる事でしょう」
筑紫という者は、春子たちの隣人だ。隣人とはいっても、家同士は幾らか離れている。元々、この村は住民の数が少なく、子供は春子たちの他に筑紫家の兄弟しか居なかった。そのため、物心付く前から彼らはお互いの家を行き来していた。筑紫は、今年大学四年生になる。 昨年まで、就職活動のために街へ行っていたそうだが、今年になって帰って来た。
「魚は嫌い」
桜子が眉を顰めて言った。
「どうしてですか」
「気味の悪い顔をしている」
洋服の選り好みを伝える少女のような口調。
我が儘な言葉。
春子はしばらく考えて、「でも、美味しいですよ」と答えた。姉の顔を、じいっと見る。
「ねえ、川遊びがしたいわ。川面に飛び込んで、水をかけ合うのよ」
夢を見るように呟いた。
桜子の足は、指先が潰れて居る。今も厳重に包帯が巻かれていた。
「川面に飛び込むなんて、危ないですよ」
「春子は、いじわるなのね」
彼女は、惚けてそんな事を言う。
庭に目を向けると、いつの間にか桃の木の下には誰もいなかった。脚立と籠だけが置かれている。
「じゃあ、鳥でも見ましょう」
静けさが停滞し、耳を澄ますと圧倒されそうだ。
「詰まらないわ」
「そうですか」
車椅子に乗った姉も楽しめる遊びは一体何だろう。
障子を白く照らす日差しは、暴力的な程に明るい。
三
壊れた目覚まし時計の洋に、蝉の鳴き声が聞こえる。日差しが強い。地面を見ると、蟻の行列が蟷螂の残骸を運んでいるところだった。
九つになったばかりの春子は、岩の上に座って、川を見つめていた。白い波が綿菓子の様に泡立っている。底には色とりどりの小石が見えた。持ち帰ろうと思ったが、母親に見つかったら、即座に捨てろと言われるに違い無い。春子は、小石を水面に投げ入れた。
浴衣の帯が腰を絞め付けて苦しい。春子は、いつも和装を着ていたが、これは母親の趣味だ。今日は、赤色の生地に桃の刺繍が入った物で、帯は白と薄緑の合わせ柄だった。
座っているだけでも暑く、汗が頬を伝うのを感じた。
「春子、そこに魚は居るの?」
振り返ると、桜子が車椅子に座ってこちらを見ていた。顔に包帯を巻いており、目と口以外の部分が殆ど見え無い。真っ白なワンピースを着ていて、頭には、大きな麦わら帽子を被っていた。
「魚なんて大嫌いだわ」
桜子が呟いた。
「昨日、食べていたじゃないですか」
「嫌だわ。見るのも嫌い。大嫌い。だって、気持ちが悪いもの」
桜子は、ぶるぶると首を振る。
「好き嫌いは良く無いですよ」
「魚を食べ無くても死なないわ」
「それじゃあ、健康になれませんよ」
「健康になんて、なりたくないわ」
春子は川を眺めていた。水は透明に澄んでいる。小石は、どれも角が取れて丸くなっており、表面の荒れた巨大な岩とは対照的だ。
その時、春子の頭上をふわりと何かが飛んでいった。春子はてっきり鳥だろうと思ったが、水の上に着いた時、それが麦わら帽子だと気が付いた。赤いリボンが巻いてある。
「春子」
振り返ると、桜子が右手を掲げていた。包帯の巻かれた頭が、卵のようだった。
「帽子を取ってきて。早くしないと、流されてしまうわよ」
麦わら帽子は、波にさらわれ、川下へ流されていく。春子は、帽子と桜子とを交互に見つめ、そうして着物の裾をまくった。端を結んで、恐る恐る、爪先を水面に浸ける。川底に立つと、キン、と冷たかった。石の表面に藻が生えており、ナメクジの背のようにヌルヌルとしている。気を付けないと、すぐに転んでしまうだろう。
麦わら帽子はどんどん流されていく。手を伸ばしても届かない。
冷たい水の中を春子は慎重に歩いていく。一歩ずつ、前へ前へ、石が足の裏に刺さって痛い。もう、膝まで水に浸かっていた。流れがきつく、気を抜くと、足を取られそうになる。
見上げると、麦わら帽子が岩に引っかかって、止まっている。
足を着いた場所が他よりも深く、ずぼりと埋まる様だった。
目の前に大きな岩がある。
春子はそれを見た。
四
「桜子さん」
男の声が聞こえたので、姉妹は顔を上げた。ガタガタと障子が動き、鋭い日差しが畳の上を走る。若い男が顔を見せた。浅黒い肌をした、端正な顔立ちの青年だ。
筑紫は春子に笑いかけると、すみませんと言った。
どうして笑ったのだろう。
「実は、お二人に見せたい物があるんです」
えっ、と言って春子は首を傾げる。
「見せたいもの?」
「これです」
すると、筑紫の後ろから少年が現れた。詰め襟の学生服を着ており、背が低く華奢だった。
少年は、両手で黒い塊を持っていた。猫のようだった。四本の足をだらりと垂らして、硝子玉のような目をしている。
「どこで拾ってきたの?」
先程まで眉を顰めていた桜子が、猫に興味を示したようだった。
「学校の裏に捨てられていたそうです」
筑紫は流暢に説明をする。
「飼い猫では?」
「首輪も無くゴミ捨て場に居たので、違うと思います」
恐らく、桜子は猫を持つ少年に尋ねたが、返事は全て筑紫の方がした。
「お隣に座ってもよろしいでしょうか」
桜子が許可をすると、筑紫は縁側に腰を下ろす。少年も兄と同じ様にした。
「親猫が子を産んで、困った飼い主が捨てたんじゃ無いでしょうか。何匹も育てられないから、人の多い学校の裏に捨てたのかな、と思います」
子猫は、ミーミーと悲鳴の様な声を出して暴れている。親猫を探す声だろうか。
「飼うつもりなの」
「熊に食べられたら気の毒ですから」
筑紫が言うように、裏山には熊が出る。猪も頻繁に下りて来るため、道路標識でも野生動物の飛び出しを注意喚起する物があった。毎年、春子の屋敷でも、育てた作物を荒らされている。
桜子は熱心に何かを考えている様子だった。親指の爪を噛んでいる。
書き物机の上に置かれた桃の断片に、庭から登って来た蟻が黒い列を作っていた。
「ねえ、筑紫さん」
しばらくすると、桜子は急に声を出した。
筑紫はやんわりと微笑む。
「何ですか」
「この子、私に下さらない」
「えっ」
「あんまり可愛らしいから、私、欲しくなっちゃったの」
桜子は、手を伸ばして子猫の頭を触る。ずっと、ミーミーと鳴いている。
「別に、構いませんけれど」
筑紫は少年の方を見る。
「いいよな、涼」
少年は、子猫を見つめたまま、何も答えない。
「いいよな」
筑紫が念を押すと、少年は渋々といった感じで頷いた。
「まあ、本当。随分優しいのね。有難う」
五
「鬼が出る」
それは、古くからこの地方に根付いた伝説の様な話だった。酒飲みの鬼が、村の子供を喰い物にする、という内容だ。 子供たちは、親から、「夜、口笛を吹くと鬼が出る」と教えられていて、裏山に近付く事さえ禁じられていた。熊や猪に子供を襲われることを危惧した作り話だと春子は考えていた。
彼女は、鬼の話を曾祖母から聞いた。
五歳の時だ。
「婆ちゃんは鬼を見た事があるの」
春子は、曾祖母のベッドの縁で言う。
「ああ、ある……」
曾祖母は、喉に痰が絡まったような、かすれた声をしていた。口の端に泡が付いている。稼働式のベッドの上で小さな体を横たえている。顔中の肌が引き攣って、目が左右とも眼窩に陥没している。眉毛も髪もほとんど無く、体は枝のように細かった。彼女は立ち上がることが出来無い。
「鬼は、やっぱり角が生えとるのかな」
「生えとらん」
「変なの」
薄暗い室内には、曾祖母の体を維持する機械類の音と、雨の音しかなかった。窓から桃の木が見える。あれが、桃の木だと教えてくれた人は、曾祖母だった。
「春子は、鬼って何か本当に知っとるのか」
「知っとるよ」
春子は得意気に言う。
「頭に角が生えて、皮膚が赤いか青いかで、棍棒を持って人間を襲ってくるんでしょう」
絵本で見た鬼の姿を思い出しながら言った。鬼は怖い顔をしていて、人間に向かって棍棒を振り回している。三匹の動物を仲間にした桃太郎が鬼を退治するのだ。桃太郎が鬼ヶ島へ行ったのは、財宝を手に入れるためなので、随分勝手な話だと、彼女は憤りを感じた。鬼の持ち物を、桃太郎は暴力で手に入れる。
「それは、子供らにも分かり易い様に、そういう形をしている」
曾祖母は、一度大きな咳払いをすると、苦しそうな声を出した。枕元に水差しがあったので、春子はそれを彼女の口に付ける。曾祖母の喉が動く。口の端から水が垂れたのでタオルで拭いた。
「鬼の中には、わしらと同じ格好をしとるのがおる」
「私たちと同じだったら何も怖くないじゃない」
春子は笑ってしまった。母親が棍棒を持っている姿を想像したからだ。
「怖いもんが、怖い形をしとったら仕様が無い。本当に怖い物は、美しい形をして居る」
ふうん、と春子は頷いた。何を言っているのか、よく分から無かった。
曾祖母は、桜子と同じ様に、子供の頃から病気の症状が現れ、学校には殆ど行かせて貰え無かったという。病気の症状が深刻になると、二つ山を越えた先の病院へ入院させられ、そこで十年ほど過ごした。病院での生活を彼女は話したがら無い。
確かに、曾祖母は怖い顔をしている。目も鼻も潰れているし、声だってかすれている。でも、怖くは無かった。春子は曾祖母と話すのが楽しかった。
「ここになぁ」
曾祖母は布団から腕を引き出すと、胸に手を当てた。そこには、指が一本もなかった。
「よくないもんが溜まると、鬼になる」
「鬼になるって」
「どろどろして、薄汚いもんや。まだ、春子は小さいで、大きいなったら気ぃつけや」
「鬼にならんようにか」
「そうや。溜まっていく。どんなに遮っても。どんなに嫌でも。辛い、辛い、と毎日思って居ると、鬼は近付いて来る」
「ああ、気持ちが悪い」
曾祖母は、それ以上は何も答えなかった。眉毛も目もない彼女の表情から、感情を読み取るのは難しい。春子は意味を考えていた。 「鬼になる」というのは一体どういう事なのだろう。春子の中で、鬼は生まれた時から鬼で、まるで花屋か何かの様に、「鬼になる」というのは分から無い。
「ねえ、婆ちゃん」
春子が顔を上げると、いつの間にか、曾祖母は眠っていた。
六
山の夜は早い。午後四時を過ぎれば辺りは暗くなり、やがて完全な夜になる。肌寒く、羽織りがないと耐え難い。春子は、昼間に毛布を仕舞った事を後悔した。昼はあんなに暑いのに。
春子は、真っ暗な廊下を一人で歩いていた。部屋の明かりはことごとく消され、シンと静まり返って居る。昼頃は雲が見られ無かったにも関わらず、夕方になると曇り、激しい雨が降った。地面や瓦を叩き付ける雨粒の音が聞こえ、窓から見える景色は地獄の様に暗かった。
もうすぐ、春子の嫌いな場所に出る。昼間も通った池のある坪庭だ。祖母の居る部屋を通り過ぎると、目の前にある引き戸を開けた。冷たい風が顔に当たる。春子は羽織っていたカーディガンに袖を通した。
縦横に障子が並び、右手に池がある。その向こうには、鬱蒼と茂る森だ。木々の隙間に暗黒が沈殿し、重苦しい沈黙を湛えている。昼間は、あそこから蝉の声が聞こえてきた。今は、全ての生き物が死んだ様に静かでいる。
夜の雨は姿が見えず、音だけ聞こえて来て不気味だ。
春子は、池の方へ目をやらないようにして渡り廊下を歩く。しかし、どうしても気になった。嫌なものほど、見たくなってしまう。自分は、小さい頃から怖い話を聞きたがる子供だった、と彼女は苦笑する。怖い、怖いと思いながら、聞かなければ気になって眠れない。
緑色の池は、まるで地面に開いた底無しの穴だった。あらゆる物を飲み込んでしまうような圧迫感。池の周りに巡らされた柵が、ひとつ残らず吸い込まれていき、圧縮されて、木っ端微塵になるのを想像した。
雨が、水面に当たって音を立てる。幾つもの波紋が合わさって、複雑な模様を描いている。魚の気配はしなかった。鯉たちも眠っているのだろうか。
渡り廊下を進むと、板張りの継ぎ目から何かが出てくる様な錯覚を覚えた。音が鳴るたびに、春子の心臓は高鳴る。
怖くない、怖くない。
もう少しで、目的の厠にたどり着く。
その時、どこかで声がした。
間延びした高音だ。
山にこだまして。
人間の叫び声にも似た。
姿の見えぬ雨音に混じって。
えんえんと。
えんえんと。
声がする。
七
ある日、子猫が死んだ。
子猫が来てから、すぐのことだった。
喉に何かを詰まらせて窒息した様だ。
午前十一時頃。
いつものように春子が桜子の部屋へ朝食を持っていくと、子猫が白目を剥いて畳の上に転がっていた。近付いてよく見ると、口から泡を吹いている。畳の上に、手足がだらんと伸びていた。まるで、くたびれた黒い布のようだった。餌の器に肌色の吐瀉物が入っていた。
「子猫が死んでしまったわ」
部屋の中央にある布団の膨らみが言った。
春子は、布団の膨らみを避けて、朝食を書き物机の上に置いた。
障子が照らされ、逆光で節が黒くなっている。十字の影がいくつも並んでいた。
いつだって、この部屋は、光から見放されている。
檻の様に薄暗く、池の様に湿っている。
「どうして」
「また新しい物を貰いたいわ」
布団の膨らみは笑っていた。
「どうして死んでしまったのでしょう」
「知ら無いわ」
桜子が、急に怒鳴り声をあげた。
「ご飯を食べていたら、突然暴れ出して、遂に動か無くなったわ」
桜子の声は、くぐもって聞こえる。
布団の側へ寄って、春子は静かに尋ねた。
「子猫に何をあげたのですか」
耳元でブンと不愉快な音がしたので、手を振ると、一匹の蠅が天井へ昇っていくところだった。
旋回を続けて、何度も電灯にぶつかっている。その度に高度を落とし、また昇っていった。
「鯉よ」
桜子が答えた。
「うちの池の」
「そう」
「鯉を子猫にあげたのですか」
「そうよ」
春子は、桜子の食事を運ぶ時に、必ず、子猫に水と魚肉ソーセージ与えていた。子猫は小さな口をいっぱいに広げてよく食べていた。 抱いてみると、ミーミーと声をあげて逃げようとした。指を口の前に出すと、赤い舌で舐めた。しかし、桜子は、そんな春子の様子を遠目に、あまり猫を触ろうとはしなかった。
「一体、どうやって鯉を捕まえたのですか?」
桜子は歩くことさえできないのだ。鯉を捕まえるなんて出来るとは思え無い。車椅子に乗ったまま、釣りでもしたのだろうか。馬鹿馬鹿しい。どう考えても、誰かに頼んだのは明らかだ。もしくは、鯉を食べさせた、と言うこと自体が、桜子の嘘かもしれ無い。
布団の膨らみがもぞもぞと動く。
「姉さん」
春子は布団の膨らみに手を置いた。生暖かかった。
「頼んだのよ」
布団の膨らみは消え入りそうな声で言った。
「筑紫さんでしょうか」
「違うわ」
春子は、嫌な予感がした。
桜子は、大きな声で「さあね」と言った。
その時、春子の頭に少年が浮かんだ。
いつも兄の後ろに隠れている、小さな少年。
八
春子の額には傷がある。
子供の頃に、川で転んだ時に付いた傷だ。
頭から眉毛の上まで、十針以上も縫っているため、普段は前髪で隠すようにしている。
しかし、傷跡を触るとぼこぼこして嫌だった。百足が入っているようだ。
川で転んだ時にも、誰かがずっと自分の名前を呼んでいた。正直なところ、頭を打った瞬間から記憶が定かではなく、目を覚ましたら布団の中にいた。
祖母が、心配そうに顔を覗き込んでいた。母親が喚くように怒りの言葉を発していた。筑紫は、謝罪を繰り返し、自分のせいだと頭を下げていた。
桜子は。桜子は、あの時はどこに居たのだろう。麦わら帽子を放り投げた桜子。
傲慢で、我が儘で、強くか弱い、可哀想な姉。
どこにいたのだろうか。
「春子さん、それ、僕がやりますよ」
心臓が跳び上がるような気がした。春子は、手に持ったスコップを落としかける。
彼女の前には、土を掻き出した穴があり、そうして、穴の底に黒い塊が収まっていた。
「涼君」
振り返ると、背の低い少年が立っていた。少年は、半袖のシャツを着ていた。
「すんません」
声変わり前の声は、訛りの激しいこの土地らしい言葉使いだった。
少年は、春子の隣に座ると、黒い塊に土をかけ始める。
「はじめは、あほらしいと思ったんです」
ぽつりと少年は呟く。
少年の細長い指が土を払うたびに、塊は見え無くなって行く。
森の中は、湿気った空気が滞留していた。木々が生い茂り、黒い虫が地面の上を走り回っている。
草や花が野放図に生えて、それらを踏まない様にするのは、もはや不可能だ。食べられる草もあるらしいが、春子にはどれも同じ緑色の葉にしか見え無い。
「いつもとおんなじように、お宅に野菜を持っていったら、帰る時に桜子さんの声がして、なんやろうと部屋を覗いたんです。そしたら、鯉が欲しいなんて言うから。なんでですか、と訊いたら、食べるって。変だと思ったんですけれど、『どうしても』と言うからあげました。まさか、それを猫のやるなんて」
春子は、野菜の届いた日のことを思い出していた。一昨日の夕方、台所に人参が箱に収まって置かれていたのを見た。母がそれらを選別して、虫食いがどうのと愚痴をこぼしていたのを覚えている。
「櫤で捕まえたの?」
池の近くに鯉を掬う櫤が置かれていたはずだ。
「そうです」
黒い塊は、土に埋もれて、もうほとんど姿が見えなくなっていた。少年は、黒い塊を完全に埋めてしまうと、最後にスコップで土をならしていった。
「可哀想になぁ。まだ小さいのに」
春子は、猫を運んできた布を丁寧にたたんで、スカートのポケットの中へ納める。
「悪いことしたかな」
蝉の鳴き声が、止む事無く続いている。振り返ると、自分の住む屋敷の屋根瓦が見えた。風呂場の煙突から白い煙が出ている。木々の隙間に見える空から光が漏れる。
春子は少年に礼を言った。昼食を一緒に食べないかと提案したが、彼は首を振った。
「すんません。畑の様子を見なかんもんで。もう行きます」
「有難う、涼君」
山を下りていく少年の曲がった背中を見つめながら、春子は一人溜息を付いた。
九
昼食を食べ終わると、春子は桜子の部屋へ向かった。廊下を進む時に見やった坪庭の池はいつもより静かな気がした。黒い水を湛えて、動きもせずじっとしている。鯉は死んでしまったのだろうか。
そんな心配をして覗くと、白と赤の鯉が優雅に泳いでいた。
「姉さん」
襖の前に座って、声を待つ。
揃えた指先は、爪の隙間に土が入って、黒くなっていた。
なかなか返事がなかった。どうしたのだろう、と思って、襖に耳を当てると、笑い声が聞こえてきた。男と女の笑い声だった。
春子は、嫌な予感がして、襖をそっと開ける。隙間を覗くと、筑紫の姿が見えた。縁側に座っている。光が眩しので、春子は目を細めた。
「アハハ、それはまた変な会社ねえ」
桜子の声だ。
「そうなんです。社長が変わり者で」
とうに声変わりを済ませた男の声。筑紫だ。
「その方が貴方の性格には合っているんじゃないの」
「そうでしょうか」
「そうよ、絶対にそうよ」
アハハと、桜子の高い笑い声が聞こえた。あんなにも笑って、一体、何の話をしているのだろう。春子は襖を少し開けて、隙間を作る。顔を近付けて、目をいっぱいに開いた。
「誰」
鋭い声に驚いて、春子は尻餅を付きかける。
「きっと、春子さんでしょう」
「何をしているの、春子」
春子は、恐る恐る部屋へ入る。部屋の中には、布団に収まった桜子と、縁側に座る筑紫がいた。彼は足を外へ投げ出して、腰を捻ってこちらを見ていた。
何の話をしていたのか訊いても、桜子は絶対に教えてくれないだろう。姉は、いつだってそうなのだ。いつも先回りをする。春子は自分の中で、苛立ちが沸くのを感じた。それは、長い年月を経て、懇々と沸く泉のような苛立ちだった。
「猫を埋めてきました」
部屋のできるだけ隅の方に座って、二人を見つめる。そこは、猫の死んでいた場所だと気がついた。
「有難う、春子」
桜子は笑う。口の端が引き攣っていた。
「貴方もお菓子を戴いたらどうかしら。筑紫さんが、街へ下りたお土産に持ってきて下さったのよ」
「大した物ではありません」
「あら、とても美味しいわよ」
春子は桜子の手から、鳥の形をした饅頭を受け取った。黄色いふんわりとした生地で、口に入れたとたん甘みが広がった。
それを見届けると、桜子はにんまりと笑い、やがて筑紫の方を見た。
「ねえ、筑紫さん」
また、桜子は甘えた声を出す。
春子は、桜子の甘えた声が反吐が出る程大嫌いだ。
「また、何か捕まえてきて下さらない?」
筑紫が顔を上げる。
「今度は兎が良いわ」
「兎ですか?」
「ねえ、筑紫さん。お願い」
暑さが肌の上を滑り行く。
首を回す扇風機は、こちらを見向きもしない。
渾々と泉が沸いていく。
怒りが煮えたぎる音がする。
十
鬼は何処からやって来るのだろうと、五歳の春子は考えた。
先日、曾祖母から聞いた話がまだ頭の中に残っていた。
「鬼になる」という言葉が不自然で、いくら口に出してもしっくりこない。母や、父に訊いてみようか。しかし、曾祖母の部屋へ行ったと話すと叱られるので、黙っている事にした。
特に、母は猛烈に怒るだろう。
彼女は、曾祖母をとても嫌っている。曾祖母と同 じ食器を使うのも嫌って、別々に洗っている程だ。そのため、春子に二階へ行くことさえもやめろと言う。春子が曾祖母の部屋へ行く事が出来るのは、母が街へ買い出しに行く間だけだった。
そうだ、と彼女は顔を上げる。
桜子に訊いてみようと思った。
桜子は、自分よりも多くの本を読むし、頭も良い。きっと、鬼のことも知っているに違い無い。
小学校から帰ると、春子は鞄を床に放り投げ、靴を揃えることも忘れて桜子の部屋へ向かった。
「姉さん、鬼は何処から来るの?」
春子がそう言うと、桜子はクスクスと笑い出した。自分がおかしなことを言ったような気がして、恥ずかしかった。
部屋の中は、ストーブの熱で生温かく、空気が淀んでいた。桜子は、相変わらず白い包帯で顔の大部分を覆っており、まるで、映画の透明人間の様だった。上品なブラウスから見える手首は、枝の様に細い。彼女が、顔を包帯で被っているのは、病気による物では無い。母からの言いつけだ。
「あら、春子は鬼なんて信じているの」
桜子の声は、くぐもって聞き取りにくかった。
「ああ、馬鹿みたい。鬼なんていやし無いわ」
閉め切った部屋の中は薄暗く、夕焼けで障子が赤くなっていた。
「でも、婆ちゃんは鬼を見たことがあるって」
「作り話よ。あの人には、少し虚言癖があるわ。まともに聞いてはいけないわ」
「虚言ってなに?」
「嘘吐きの事よ」
「婆ちゃんは嘘吐きなの?」
「そうよ。もう惚けているの」
「惚けると、嘘吐きになるの?」
「嘘吐きは、早く惚けるのよ」
ふうん、と言って、春子は何気なく部屋の中を見回した。家具が少なく、本棚には厚い本が幾つも並んで居る。殆ど父親が姉に買い与えた物だ。父親は、本に払う金に糸目を付け無い。
「鬼なんて無いわ。もし居たら、私たちなんてみんな喰われているでしょう」
それもそうだ、と春子は納得した。
しかし、曾祖母の語る鬼は、人間のような形をしている様だった。
鬼は人間を食べないのかもしれない。
人間の子供をつまみにして、酒を飲む事などしないのかもしれない。でも、もしそうだとすると、鬼は一体何を食べているのだろうか。
何のために生きているのだろうか。
「鬼なんて、いないんだ」
春子は何故か少し寂しくなった。
「馬鹿な事を言って無いで、ねえ、今日の宿題は出来たの」
桜子は、黒目を春子の方へやると、鉛筆を握って書き物机の前へ足を引きずりながら移動する。春子は鞄を玄関に置いてきたことを思い出して、姉の許可を待って部屋を出た。
「本当に怖い物は美しい」
廊下を歩く時、曾祖母の言葉が頭の中をグルグルと回った。
十一
子猫が死んでから、筑紫は何度も、種類の異なる生き物を桜子の元へ持ってきた。
最初は、メダカや亀などの小さな生き物。
しかし、桜子はそういった小さな生き物には興味が無いらしく、「可愛くないわ」と言ってはねのけた。栗鼠を持って来た事もあったが、彼女は見向きもし無かった。鼠と一緒で汚らしい、と言う。
それらの動物が、その後どうなったのかを春子は知らない。筑紫家で育てられているのか。山に放され、川に流されたのか。春子には分からなかった。
そんなある日、筑紫は一羽の兎を持ってきた。
いかにも夏らしい、よく晴れた午後だった。
日差しが強く、遠い山の先に建てられた電波塔もよく見える。雲が肥満して、青い空で巨大な入道雲が立ち上っていた。
「まあ、兎」
桜子は、筑紫が段ボールの箱を開けると、すぐに声をあげた。
春子は、筑紫たちに出す緑茶を用意して、書き物机の上へ置く。そっと箱の中を覗くと、薄茶色の兎が草を歯んでいる。体を覆う毛がフワフワしていて、まるで縁日で見かける綿菓子の様だった。小刻みに震えて、時々、こちらを見上げる。真っ黒な目が釦の様だ。
「この兎、私にくださるの?」
桜子は、また甘えた声を出した。顔の前で両手を合わせて、目を輝かせる。
「もちろんそのつもりですよ。差し上げます」
筑紫は快活に答えた。笑った口から見える歯は、漂白したような色だった。筑紫は、今日は一人で遊びに来たようだ。あの、気の弱そうな少年はどこにも居ない。
「前の猫は、きっと身体が弱かったのでしょう」
筑紫は困った顔で、慰めるように言った。
「そうね、身体が弱かったのね」
桜子は、兎に意識を向けたまま、声だけで答えていた。段ボールの中へ指を入れて、何度も可愛いと呟いている。
猫の顔を覚えているのだろうか?
「とても可愛いわ、ねえ、春子」
そう言って、こちらを向くので、春子はどんな顔をすれば良いのか分からなかった。桜子は、滅多に見せ無い強烈な笑顔をしている。上機嫌で声もうわずっていた。
春子は、動物を埋めるのはもう嫌だと思った。
「籠は外に置いてあります。餌も、毎週、僕が仕入れてきましょう」
筑紫は、姉妹の顔を交互に眺めると、拳を胸の前に置いた。「兎の飼い方」と書かれた紙を渡してきたので読んでみると、絵と手書きの文字がびっしりと書かれていた。きっと、図書館等で調べてきたのであろう。兎の性質が詳細に、等間隔で、やや斜めにかすれた美しい字で記されている。
「有難う、筑紫」
桜子は、筑紫から書類を渡されると、これ以上ないほど嬉しそうな声で言った。
そんな二人の様子を春子はじいっと見ていた。
十二
夏が終わりに近づく八月末。
蝉の声は静かになってきた。
春子は、学校の宿題を片付けている。ある程度は計画的に実行してきたため、数は多く無いが、科目が数学なので、苦戦していた。彼女は、国語や社会が得意で、図画等も好きだった。しかし、数学はよく分からない。筋道を立てて考えることができない。逆に、姉の桜子は、 数学が大の得意で、春子が思い悩む問題にこともなげに解を出してみせる。
そんな時だった。
涼がいなくなったのは。
春子はいつもと同じように、桜子の部屋で勉強を教わっていた。午後三時頃、障子が乱暴に開けられ、桜子が怒りだす前に、筑紫の青ざめた顔が見えた。
「こちらへ、涼が来ていませんか」
目の下の深い隈が、筑紫がろくに眠っていないことを示していた。日頃は、念入りにアイロンのかけられたシャツを着ているが、今日は汗に濡れて皺の寄った服をそのまま着ていた。ぜえぜえと、荒い息使いをしている。血色の良い顔は青ざめていた。
「こちらへは来ていませんが」
「そうですか。昨日の夕方から、家に帰っていないんです」
「どこかへ遊びにいっているのではありませんか」
春子は首を傾げた。
「街へ降りているとか……」
「そんなことはありません。あいつは、俺なんかよりもっとしっかりしていて、外出する時は必ず事付をしていくんです」
筑紫は右手で頭をかき回しながら、喚くように言った。
彼の話によると、涼は昨日の夕方に農具を持って出かけていった。涼の姿を最後に見たのは祖父だと言う。毎日のことなので、特に気にしなかったが、少年は夜になっても帰らなかった。心配して畑を見に行ったところ、明らかに鍬を入れた様子はあるものの、涼の姿はなかった。おかしいと思い、涼と同じクラスの子供たちに電話をかけたが、芳しい返事はなかったそうだ。街へ下りたとしても、頼りになる人間がいるとは思えない。涼もまた、この山の中でずっと暮らしてきたのだ。
「山へ入ったのかもしれない……」
「どうして」
「分かりません、でも……」
筑紫は眉を寄せて目をぐっと閉じた。目を開くと、桜子の方を見た。桜子は、その視線をすっかり全て受け入れるように、寛容に首を傾げた。小鳥のように可愛らしい動きだった。何かしら、と言う。
「もし山へ入ったとしたら……、きっとそれは……」
そのあとに続く言葉は、恐らく春子の考えと同じものだった。
山へ入ったとしたら、それは桜子のためであろう。
動物を捕りに行ったのだ。
それは、春子の中で、ほとんど確信に近いものだった。
「でも、まだ山へ入ったとは決まっていないのでしょう?」
桜子は口を微笑みの形にして言う。穏やかな口調だった。何かを思いついた時、彼女はそういう顔をした。また、それは、春子にとってあまり良くないことが起こる予兆でもあった。
「そうだわ、春子! 筑紫さんと一緒に涼を探しに行ったらどうかしら?」
春子は桜子の顔を見つめ、畳の上を渡り、視線を彷徨わせて座敷を見回すと、最後に筑紫の顔に目をやった。
ああ、また姉さんが笑っている。
楽しそう。
まるで夢の中にいるよう。
その時、春子の頭に、あの青い小屋が浮かんだ。
あの青い小屋の存在は、他の人には、特に兄には教えないというのが、涼との約束だった。
「私は……」
「駄目よ春子。そんな言い訳は通用しないわ」
「まだ何も言っていないでしょう」
「貴方の考えることくらい、分かるわ」
春子は、自分の中で懇々と沸き続ける水の音を聞いた。
「早く涼を探しに行きなさい」
桜子が自分を見ている。筑紫は縁側で頭を抱えている。
春子は世界がぐらつくような感じがした。
十三
空は日増しに熱を帯び、照らされた庭には大輪の向日葵が咲いていた。
夏休みはあと二十日あまり。
桃の木には青々とした葉が茂り、小川の流れは白く清廉だった。水が岩に当たって泡立つ様子を、春子は通学路を歩きながら眺めていた。
夏休みも中盤に入った。休みの残り日数を数えると気怠い気分になる。春子は拾った小石を川へ投げ入れ、水面に当たる音を聞こうとしたが、轟々と流れゆく水音にかき消されて音は聞こえなかった。
くの字に曲がった道の先に屋敷の塀が見える。桃の木の枝降りも少し見えた。足が疲れて、足下に視線を落とすと、紫蘇の葉があった。誰かが植えたのか、または、種が運ばれて自生したのかは分からない。濃い紫色をしている。
春子は、強い好奇心に導かれ、紫蘇と木々の茂みへ足を踏み入れた。角の尖った葉が膝に当たると痒くなる。彼女は短いスカートを穿いていた。枝を踏み、草木をかき分け、川の音に惹かれるようにより奥へ向かっていく。
五メートルほど歩くと、開けた場所に出た。それは、小さな橋だった。個人で制作したような手すりも何もない橋だった。ただ、作りは古いようで板の端がささくれ立って腐っている。足下を覗き込むと、遠いところで川の流れが見えた。春子は、慎重に橋の上を渡っていく。すると、手すりも何もない橋を渡った先に、木で組まれた小屋があった。青色に塗装してあり、二つの窓はどちらも端が割れて、黒く汚れていた。橋と同じように、建設されたのはかなり前だろう。剥がれた屋根が、長年、雨風に晒されていることを示している。
青い小屋は、森の中にひっそりと建っていた。
「こんなところに小屋がある」
春子は独り言を言う。こんな場所があるとは全く知らなかった。あの橋は、紫蘇と雑草に覆われて、まるで誰かに隠されていたようだ。
春子は小屋の入り口を探す。橋から真正面にあるのは壁なので、建物を回り込んでみた。ちょうど壁の反対側に、入り口はあった。しかし、明らかに扉が朽ちており、灰色になっていた。扉の横に小窓がある。覗いてみたところ、磨り硝子になっているため、中の様子は分からなかった。桜子は 奇妙な好奇心に後押しされていた。どうしても、中が見てみたい。
「なにしとん……?」
春子は、扉に伸ばしていた右手を引っ込めた。声に、聞き覚えがあった。
「涼くん」
彼女は少年の白い顔を見つめる。彼は半袖のシャツを着て、短パンを穿いていた。頭には、鍔の広い帽子を目深に被っている。そのため、目に影が落ちていた。右手に、長いスコップを持っている。何か農作業をしていたのだろうか。軍手も填めていた。
「春子さんか。びっくりしたわ……、こんなとこに何しにきたん?」
少年は不審の目でこちらを見ていた。
「ええ、涼くんの姿を見かけて……、追いかけてきたの」
春子は嘘を吐いた。こういう時に、翳りもなく嘘を吐ける自分の性質が嫌になる。少年は、ますます不審がるような目でこちらを睨んでいる。
「まあええわ……、なんや、そこに入りたいん? 鍵かかっとるで……」
「この小屋は、誰のものなの?」
「誰のものかは知らんけど……、今は、僕が使ってます」
「使ってるって、何のために?」
少年は何も答えなかった。スコップを小屋の隅に投げ捨てると、ポケットに手を突っ込み、ジャラジャラと鍵の束を出した。彼はその中から一本取ると、春子を押しのけて、扉の鍵穴に差し入れた。軽い音がして、扉が開いた。木の軋む音が響いた。
「汚いとこやけど、どうぞ」
少年は小屋へ入りながら言う。
まず、臭いがした。納屋でするのと同じ種類の強烈な臭いだった。つまり、動物の糞と、穀物の臭い。室内は薄暗く、家具などは全くなかった。ただ、いくつか鉄製の檻が並んでいた。その中には、毛の塊が動いている。座ってよく見ると、兎だった。
「涼くん、ここで動物を飼っているの?」
春子は後ろに立つ少年に尋ねた。他の檻もよく見てみると、猫や犬もいた。栗鼠は三匹いる。それぞれ、檻の中でぐったりしていた。 小屋の中は、湿った地面の冷たさと、日陰ということで多少ひんやりとはしているものの、やはり空気が籠もって暑かった。檻の隅に餌の入った袋が山積みになっていた。水を入れる器も転がっていた。
「そうですよ」
少年は、水桶から器に水を入れると、兎のいる檻の中へ差し入れる。兎は、警戒しながら水の方へ近づいていった。毛並みはあまり良くなく、土色に汚れていた。
「まあ、そのうち誰かに見つかるやろとは思っていたので、いいんですけれど……、まさか、春子さんとは思いませんでした」
「御免なさい……」
「まいったなあ」
少年は春子の横に座って、頭をかいた。小動物のような動きだった。
「誰にも言わんといて下さいよ」
「内緒で飼っているの?」
筑紫は知っているのだろうか。
「そうです、春子さん以外は誰も知りません」
その言葉は、何故か春子を安心させた。春子以外は誰も知らない。桜子は、知らないのだ。
「誰にも言わないわ」
「約束ですよ」
春子はにっこりと微笑むと、顔の前で小指を立てた。
少年はじっとその小指を見つめ、やがて自分の小指も立てた。
十四
筑紫が、涼の捜索願いを警察へ要請してから一週間ほど経った。筑紫はずっと青ざめた顔をしていて、極端に口数が減った。村の人たちも、農作業を後回しにして、昼間は涼の捜索活動に加わった。夜は、二次被害が起こる可能性もあるため、捜索はできなかったらしい。暑さも長時間の捜索を妨げる要因だった。
春子は学校へ行く道すがら、毎日、あの紫蘇の茂る橋へ足を向けた。
橋の上から覗く川は、轟々と唸り、波打ち、全てのものを巻き込みながら流れ続ける。岩に当たっても柔軟に形を変え、美しい泡を立てて、何事もなかったかのように流れ続ける。
姉が、あの川だとしたら、自分はこの橋かもしれないと春子は思った。朽ちて色あせた、薄汚い小さな橋。今にも壊れかけている。悠 然と流れる姉の姿を上から眺めながら、決して姉にはなれない。橋は、川がなければなんの役割も果たさないのだ。ああ、馬鹿らしいと思う。自分をものに喩え るなんて小説家でもあるまいし、本当に馬鹿らしい。理科の授業で、蝙蝠が哺乳類であることを教えられた時に教師が話したことも馬鹿らしかった。「蝙蝠は、 空を飛ぶくせに哺乳類だから、鳥類にも哺乳類にも嫌われている」とかそんな話だった。蝙蝠が、鳥類や哺乳類に分類されていることを知っているとでも言うのだろうか。人間の都合で蝙蝠は分類されているだけで、蝙蝠はそんなこと全く興味がないだろう。
ギイギイと軋む橋を渡り、青い小屋にたどり着く。小屋の周りに背の高い雑草が生えていた。日光を浴びて地面は白っぽく見える。蟻の行列が、蟷螂のばらばらになった体を運んでいた。自分の体の五、六倍はあるかという巨大な塊でも、蟻はなんなく運んでいた。
春子は小屋へ入る前に、橋の側から川へ下りていった。急な傾斜で足を滑らさないように、慎重に下りていく。足下には、桃色の花と藻が生えて、瑞々しい彩りをしていた。草の狭間に見える地面は、暗い茶色だった。
川のふちの大きな岩に載って、水に手を浸ける。春子は鞄の中から小花柄の水筒を取り出し、蓋を開けると中に入っていたお茶を川へ 流した。母親が入れてくれたものだ。緑色の水はあっという間により多くの水に混じって消えてなくなった。空になった水筒を川へ突っ込み、中へ水を入れる。 手が冷たくなった。
水筒を持って小屋へ戻ると、ポケットから鍵を取り出した。一本だけの錆びた鍵。もち手が丸く、古めかしい色をしている。灰色の扉の、ちょうど真ん中の鍵穴に差し込み、右に捻る。カチャリと快活な音がすると、扉が開いた。
春子は小屋の中へ入ると、それぞれの檻を観察した。先程、水筒に入れてきた川の水を器に入れ、兎の前に差し出す。兎は、警戒しながら近づいてきた。猫や犬や栗鼠にも同様に水をやった。小屋の中に用意されている餌をやり、食べる様子を座って見つめる。カンカンカチャカチャ、小屋の中に音が溢れる。動物たちは至って静かだ。
「涼君」
春子は、小屋の一番暗がりへ声をかけた。そこには、一際大きな檻がある。
小屋の天井にまで届きそうな、背の高い檻だ。
他の動物に比べると一際大きな影が、そこに、じっと座っていた。
「調子はどうですか?」
春子が声をかけると、影が顔を上げた。白く、肌のきめ細かい美しい少年。目のふちに隈があり、丸みのあった頬は今はもうこけてい る。髪も伸びて、鼻の下までかかるほど。夏の制服は土色に汚れて、袖から見える手は荒れていた。檻を引っかいて爪が割れたとき、春子は屋敷から持ってきた バンドエイドを張ってやった。食事は朝と昼に渡している。朝は、給食が足らないと嘘をついて母に作らせた弁当を。帰りは、空になった弁当箱に給食を詰めて 渡している。
「お水を汲んできました」
春子は水筒の蓋に水を入れて、檻の中へ差し入れる。涼はそれを受け取ると、一気に飲み干した。震える喉には、まだ大人のような出っ張りは見当たらない。声変わりもまだだろう。
最近、涼はほとんどしゃべらなくなってきた。
膝を抱えて、檻の隅で震えている。
春子が顔を出しても、暗い目で睨むばかりだ。
初めて小屋へ案内された日の、照れくさそうな顔はもう見られない。
檻へ入ったばかりの日は、散々叫んで五月蝿いくらいだった。
それが、少し寂しい。
十五
夕方になり、小屋に鍵をかけて屋敷へ戻ると、春子は真っ先に桜子の部屋へ向かった。
土間で、母親に「帰りが遅い」と言われたが、聞く耳を持たずに無視した。より一層大きな怒鳴り声が聞こえたが、春子は気にもしなかった。
醜いものを嫌い、毎日、身綺麗にしている母親。裕福な商家から、こんな山奥へ嫁がされ、娘と僅かな住民以外の人目に晒されること なく、単調な作業を繰り返すだけの母親。若い頃は大層美しい娘だったらしい。春子は母親の膝の上で、何度も何度も、学生だった頃の写真を見せられた。
「姉さん」
祖母の部屋を通り過ぎ、暗い池の見える渡りを走りぬけ、桜子の部屋の前にたどり着いた春子は、入室の許可も待たずに襖を開けた。
入室してまず、気がついたのは臭いだ。何かが、腐るような強烈な臭い。春子は胃から上ってくる酸っぱい液体を、なんとか飲み込んだ。吐き気がする。
部屋の中には誰もいなかった。
布団は、丁寧にたたまれて、部屋の隅に積まれている。日光の当たった障子は硬く閉ざされ、強烈な腐敗臭が逃げ場をなくしている。 日の光から見放された場所だ。ふと、足下を見ると、兎が死んでいた。夏の始まりに飼った子猫と同じように、白目を剥いて、ただの薄茶色の塊になっていた。
また、動物を埋めなければならないと、春子は思った。
「姉さん、どこにいるの! 姉さん!」
書き物机の下も、押入れの中も、手当たり次第に探した。しかし、姉の姿はどこにもない。障子が外れるほど強い力で叩き開けて、靴下のまま庭に飛び出す。暴力的な赤い光が降り注ぎ、春子は目を細める。彼女は汗をかいていた。
今まで、姉が移動する時は常に春子が側にいた。春子の目の届かないところで、姉が部屋から出ることはない。厠へ行く際も、春子の助けを必要とした。
庭には、花が咲き、木々が葉を茂らせ、そうしてあの桃の木があった。
春子は桃の木に近付くと、人間の目のような樹皮に触れる。太い幹から細い枝が伸びて、桃の葉はすべらかで細長い形をしていた。葉の密集が日光を遮って少しだけ涼しかった。
春子は、服が汚れるのも構わず、木の元に座って息を吐いた。気持ちが良くて、眠ってしまいそうだ。そうだ、姉は足が悪いのだから、一人でどこかへ行くことなどできない。もし、外へ出たとしても、必ず誰かと一緒のはずだから、大丈夫だろう。
誰かと一緒?
春子は眉を顰めた。
不信感は減数分裂する卵のように数を増して膨れ上がり、やがて、彼女を立ち上がらせるに至った。
桜子は、きっと筑紫と一緒にいるに違いない。
それは、春子の中で確信めいたことだった。理由など必要がない。その予想が、正しいか、間違っているかなど、もはや彼女には関係がなかった。桜子が自分の知らない間にいなくなった。その事実だけが、暗闇の中で化物のように口を開けている。
「ああ、ああ」
春子は知らない間に涙を流していた。ボロボロととめどなく溢れてくる。ただ、桜子と筑紫が一緒にいると思うと泣けてきた。以前、兎を持ってきた時の、楽しそうな笑い声を思い出すと体が震える。
優しくて、人間に優しすぎるために、罪のない動物を残酷な運命に叩き落とした筑紫。子供の頃からいつだって彼は、春子と桜子たち のことを気にかけて、晴れやかな笑顔で障子を開けて顔を出した。子猫も、兎も、桜子を喜ばせるという理由のためだけに持ってきたものだろう。筑紫から見た 桜子は、自分の意思では部屋から出られない気の毒な少女だったに違いない。
「ああ、ああ」
彼女は走りだす。
靴下のまま、庭へ出たため足の裏が痛い。きっと、小石がいくつも刺さっているだろう。屋敷から道路へ降りる階段で、足がもつれて盛大に転んでしまった。膝をすりむいて血が落ちた。あまり痛みはなかった。血など構うものか。
春子の後ろ姿を発見した母親が、鬼のような顔で追ってきた。何かを叫んでいる。きっと、右手には棍棒を持っているだろう。靴を履いていないことと、家の手伝いをしないことと、男のように走っていることを、丁寧に怒っているに違いない。構うものか。
「五月蝿い、黙れ! お前はずっとそこにいろ! お前はもう、そこで死ぬだけだ!」
春子は振り返って、母親よりももっと大きな声で叫んだ。自分の凶悪な言葉が山にこだまするのは面白かった。母親は、何がなんだか分からないという顔をしていた。きっと、混乱しているのだろう。
春子はもう、自分が泣いているのか怒っているのかそれとも笑っているのか分からなかった。全ての感情がごちゃ混ぜになって、頭がぼうっとする。自分は頭がおかしいのだろうか。きっと、そうだろう。だって、涼をあんなところに閉じ込めているのだから。
でも、自分だけが頭がおかしいのだろうか。
動物をあんなところに閉じ込めていた涼は?
動物をいとも簡単に殺してしまう桜子は?
その桜子に動物を渡す筑紫は?
十六
気がつくと、春子はあの橋へ来ていた。
紫蘇の葉を避けて、雑草の中へ入っていく。轟々と鳴り響く川の流れが、蝉の声と混じって耳に届く。葉の鋭い雑草が、すりむけた膝に当たってとても痛かった。川で血を洗い流そうと思った。夕焼けが山の間で赤い光を放っている。
橋を渡っていく途中、昨日まで何もなかった場所に穴が開いていた。木が腐って抜けそうになっていた箇所だ。ふと、川を覗くと、大 きな影が見えた。浅瀬の岩に引っかかって流れを遮っている。人の背中だ。女の物では無い。大人の男性の、がっしりとした背中だった。両手が川の流れに従って、海月みたいに揺れている。髪の毛は海草のようだ。白いシャツが乱れている。
春子は、急いで橋を渡り切り、川辺を下りていった。奇妙な影は近づくにつれて、見慣れたものと形を合わせていった。浅黒い肌と、太い腕。
筑紫が水の上に浮いていた。
「春子」
春子は、ぼんやりとした頭で、自分の名前が呼ばれるのを聞く。混乱した頭と、暑さとで、今にも倒れそうだ。両手で顔を覆って、目を閉じる。自分の手は、川と同じくらい冷たい。血が通っていないみたい。顔だけに汗をかいている。
「春子」
小鳥のような、歌うように可愛らしく、憎たらしい声。人の名前を何度も何度も、こちらの状態などお構いなく、呼びつける女の声。
「春子、こちらへいらっしゃい」
振り返らなくても、誰がそこにいるのか分かった。十五年以上も聞き続けているのだ。ちょうど、自分が九歳になる夏、川原で麦わら帽子を取りに行かせた時と同じ声だった。
見上げると、案の定、桜子がこちらを見ていた。今は、顔を隠す包帯はなかった。肌が引き攣り、目が半分潰れた様になって、薄い髪が風になびいて顔にかかっている。服装は、桃色の浴衣だった。
「早く! こっちへ」
春子は、膝の痛みを意識しながら、ゆっくりと立ち上がった。這い蹲るように、斜面を登っていく。足を地面に引っかけて、両手で草を握って。きっと、髪はぐちゃぐちゃになっているだろう。せっかく綺麗な三つ編みにしたのに。
ようやく登り終えると、息が切れていた。目の前に、桜子が居る。車椅子に座ってこちらを見ている。何もかも知ったような顔で。
青い小屋の前で、姉妹は生まれて初めて対峙した。今まで彼女たちは隣合って座ることはあっても、顔を付き合わせて話す事は無かった。
「筑紫さん」
春子は右手を握り締めて、桜子の目を見つめる。頭が痛くて、足がぐらついた。
「春子、怪我をしているじゃない。ちょっと、来なさい」
桜子はおいでと言うように、春子を手招いた。レースのついたハンカチを持っている。春子が近づくと、それで膝の血を拭ってくれた。
「これでいいわ」
にっこりと、微笑む。
その時、春子の泉が噴出した。
熱が体中を巡るのを感じた。
春子は握り締めていた右手を、その顔へ、姉の顔へ、力の限り叩きつけた。凄まじい勢いで、桜子は車椅子ごと地面に倒れ落ちる。ふわりと土ぼこりが舞った。その時、彼女は生まれて初めて人を殴ったわけだが、その衝撃の強さ、また、拳の痛みに驚いた。
「笑うな」
春子は叫ぶ。きちがいのように語尾が裏返ってしまった。きっと、桜子は小屋の中も見ているのだろう。あの、檻の中も。鍵はしてあるはずだから、扉を壊して中へ入ったのかもしれない。涼を逃がしたのだろうか。きっとそうだろう。そうだろうか。
春子はもう、どうでも良かった。
十七
「なんでお前がここを知っているんだ」
「春子、そんな言葉遣いをしないで」
桜子は、虫のように弱々しい動きで、頬を押さえながら、ゆっくりと体を持ち上げた。顔は、相変わらず微笑んでいる。
「筑紫に頼んで貴方の帰りを追ってもらったのよ。最近、とても楽しそうだったから。何かいいことがあるのかしらって、気になったの。御免なさいね。涼のこともあるから。もしかしたら、春子が何か知っているのかしらって」
夕方になると、薄暗い森の中で、ツクツクボウシが鳴き始める。蜩の鳴き声も聞こえる。暑さも和らぎ、涼しい風が肌をなでた。
「そうしたら、困ったことになってしまって。もちろん、私をここまで運んで下さったのは筑紫よ。小屋の扉を壊して下さったのも筑紫。でも、小屋の中へ入ったら、筑紫がおかしくなってしまったの。突然、叫びだして。良い加減にしろよ、だなんて物騒なことを言うの。涼が死んでしまったからかしら。きっとそうね。もう、あの男のことはよく分からないわ。勝手に、橋から転げ落ちて死んでしまったんだから。ねえ、ちょっと、車椅子を戻すのを手伝って頂戴」
桜子は、動かない足を荷物の様にして、腕の力だけで春子に近付いてきた。
春子はそれを、靴を履いていない足で踏みつけた。姉の顔が地面に突っ伏す。変な声が聞こえた。そのまま、春子は桜子の髪の毛を引っ張りあげて、引き攣った顔に張り手を打つ。
春子は一心に、桜子を殴り続けた。土の上で、桜子は布きれの様に揺らいでいた。
やがて、桜子は口から血を吐いた。肌は真っ赤に腫れていた。
「お前が不自由を生み出す。お前が動物を殺す。お前の傷が同情を募り、人の心を不当に揺さぶる。お前の言葉が人を地獄に叩き落とす。お前の存在が人を不幸に貶める」
彼女は、懸命な暴力の際に、その様に残酷な事を叫んでいた。頭は熱を帯びて、激しい痛みを伴った。眉根を幾ら寄せても足らない。しかし、そんなものは、目の前の姉に比べれば、微々たる痛みだった。痛みと呼ぶのもおこがましいほど、小さかった。
「死んでしまえ」
春子は、姉に唾を吐きかけると、そう言った。
その時、アハハ、とかすれた笑い声がした。
息を吸う音と、咳払いが同時に聞こえる。
春子はまた漫然とした怒りを煮えたぎらせ、笑い声へ拳を叩きつけた。思い切り、蹴り飛ばす。張り倒す。殴り続ける。しかし、笑い声は止まらなかった。
「アハハハハ」
「黙れ」
春子は怒鳴る。
「アハハハハ」
「黙れ、五月蠅いッ」
笑い声は止まらない。まるで、大衆劇場の観客だ。おかしな動きをする役者を見て、観客は拍手喝采。大笑いである。
「アハハハハ。やっぱり、春子は所詮、春子よ」
桜子はもう、立ち上がる気力も無い様で、地面に顔を付けたまま壊れた玩具のように笑い続けた。
顔が青黒く腫れて、髪の毛が鳥の巣の様に乱れている。
「ああ、おかしい。こんなおかしいことがあるかしら」
「黙れ。黙れ。黙れ」
春子もまた、姉と同じように気力が無くなり、ぐったりと地面に座り込んだ。割れそうな頭を抱える。
「可哀想な子。羨ましいのと馬鹿にするのとが、ごちゃ混ぜになって混乱しているのね。怒っているのか、悲しいのか、楽しいのか、訳が分からないのでしょう。怒っているけれども、殴るのは楽しい。悲しいけれど腹は立つ。楽しいのに、泣けてくる」
桜子は、やはりいつものように微笑んでいた。頬が水ぶくれの様になっても、目が潰れていても、口だけはずっと三日月のままだ。
春子は、ただ膝を抱えて震えていた。段々と、自分がとんでもないことをしたような気がしてくる。とても怖いことを。なんだか、色々と忘れている。子猫は死んでしまったし、兎も死んでしまったし、そうだ、筑紫も死んでしまった。さっき、桜子が涼も死んだと言っていた。熱中症か何かで倒れてしまったのだろうか、それとも、舌を噛んで死んでしまったのだろうか。可哀想に。その可哀想なことをしたのは自分なのに、まるで他人事のように、春子は可哀想だと思った。
「乱暴に自分の感情を明らかにしようとするから、混乱するのよ。自分が、怒っているのか、泣いているのか、分からないでしょう。貴女のそれは、ただの、そう、反射。反射に過ぎ無い。怯えているのね。怖いのでしょう。どうして怖いのかしら。何が怖いの。死ぬのが、そんなに怖いの。どうして。どうして」
桜子の声は、川の水の様に澄んでいた。
「どうしてって」
「姉さんは、放って置いても死ぬわよ」
「嫌だ」
「貴方は良い子ね、春子」
春子は、桜子の声に耳を澄ませていた。
坊主の様に、祈祷師の様に、一心に自分の耳に届く音を聞こうとしていた。一体、何を言っているのだろうと。
曾祖母の葬式で、春子は泣かなかった。
曾祖母の顔は白い布で覆われていた。
汚いものを隠すみたいに。
きっと、母親の仕業だ。しかし、誰が死んでもそうすることを、大きくなってから知った。
「貴女は良い子よ、春子」
姉の声はまるで呪文のようだった。
桜子が、手を伸ばしている。
子猫と兎を殺した手を伸ばしている。
春子は、いつの間にか、自分が泣いていることを認めた。今度はまた、どうして泣いているのだろうか。悲しくは無かった。嬉しくも無かった。怒っているのでも無い。心は安心している。
だって、目の前の女が優しく微笑んでいるのだから。
春子は、ひざまずいて姉の手の下へ潜り込んだ。
「さあ、仕事をしましょう。春子、手伝って頂戴」
春子はこくりと頷いた。
桜子は、小屋からスコップを持ってくるように指示をする。
一面の空は暗くなり、山の先で太陽が沈んでいくところだった。髪が風になびいて、口の中に入ってくる。ゴロゴロと瓦礫を転がすような音がして、見上げると黒と赤をない混ぜにしたような気味の悪い雲が浮いていた。雷だ。すぐに雨が降るだろう。
春子は、もし鬼が現れるなら、こんな夕暮れだろうと思った。
「今度は二人ぶんの穴だから、大変よ」
桜子がにっこりと笑った。
山の中へ姉妹の笑い声がこだまする
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