かんがえる 六

「ここってあの、カエルって沢山いるんですか?」

「ええ。とくに神社のあたりなんかは」

「うぇー……」

「あら、お嫌いですか?」

「ものすごく嫌いです」

「それはそれは……」

 などなどと、掃除をしているマキさんとほのぼのとお話しながら、こっそりとギンジさんの方も盗み見る。思ったとおりギンジさんは入口のところから動かないまま、ヒマそうにあくびをかましていた。

「あの、やっぱり私手伝ったほうが……」

「本当に大丈夫ですよ、毎日やっていますから」

 そう言いながらマキさんはテキパキと木製の台を拭いたり、床を掃いたりと動き回っているのだが、なにぶん広いために結構やることが多い。さっきギンジさんは「掃除くらいなら」とか言ってたけど、あの人掃除をなめているんじゃないだろうか。それともギンジさんがやっているであろう外の仕事は、これよりもはるかにキツいのだろうか。

 マキさんと色々と話しながら、掃除するのに合わせて裏二つの部屋のうち、大きな台とかが置いてあった方の後ろの部屋に移動する。そこはやはり細かい作業をするところらしく、一定の大きさに揃えられた丸い木材だとか、紙に書かれた沢山の下描き、それに端屑ぱくずがそこかしこに散らばっていた。マキさんが毎日掃除をしているという以上、これはさっきまでクダンさんがなにかの作業をしていたということなんだろう。

 その石造りの床の部屋に予想通り裏口があったときには、ちょっと誇らしくて気分が良くなった。

「やっぱり不安ですよね……」下描きの紙を一つ一つ拾う手を休めないまま、マキさんはため息をつく。「何も思い出せないなんて、私なら耐えられません」

「うーん、でも、思い出せないおかげで耐えられるのかもしれないです」

 不思議そうな顔で、マキさんは振り返った。「と、おっしゃいますと?」

「自分が何を失っているのかが、わからないですから。もしかしたら思い出したらすごく嫌な記憶ばかりなのかも……って、そんな風にも思えちゃって」

「まぁ……そんなことないですよ、きっと……」

「だといいんですけど」ギンジさんがこちらを見ていないことを確認しつつ、ニッコリと微笑む。「でも、思い出そうとは頑張ります。気になりますし。だって、どうやったらこんな村にたどり着けるのか、全然想像つかなくて……」

「えぇ、本当に……」

 ため息をついて、心臓を落ち着ける。

 よし。

「あのぉ、マキさん?」小さな声で、ささやきかける。「えっと、かわやってどこに……」

 振り向いたマキさんは笑顔で、私がギンジさんに対して恥ずかしがっていたと思ってか、小さな声で返事をしてくれる。「あぁ、それならこの裏すぐのところですよ」

 これは都合がいい。

「行けばわかりますか?」

「ええ、多分」

「ありがとうございます。それじゃ、行ってきまーす」

 そう言って私は、なるだけ不自然ではないように足音を忍ばせて、裏口をするりと抜けていった。もし厠がこちらになかった場合は、「ちょっと裏を見てきます」とでも言うしかなかったので、ひとまず助かった。これなら多少の時間がかかっても怪しまれまい。

 途中一度だけ、不安にかられてギンジさんのいる方へ目を向けたけど、すでに死角に入っていたため姿は見えず。

 外に出る。

 ふう。

 少し離れた場所に、なるほどわかりやすく厠が建っている。そう言えば厠とはなんなのかは覚えているのだな、なんて思いながら、私はしゃんと背筋を引き伸ばした。

 さぁ、私が流れ着いてた場所を見に行かなくちゃ。位置は大体わかっている。ここからまっすぐ厠の脇を進めばいい。そこまで遠くはないはずだ。

 よし、行こう。

 厠の前で鼻をつまみながら、マキさんにだけ聴こえるよう祈りつつ木の壁を叩き、抜き足で数歩ほど進んでから、土を蹴って一気に駆け出す。

 やっぱりこの草履、ちょっと走りにくいなぁ……。

 暗い森の木々を抜けて、はぁはぁと息を切らせつつ進んでいくと、なるほど湖が見え始めたところで地形が傾きだしたので、できるだけ木を正面に捉えつつ下っていく。こうすればどこかでズルっと滑っても安全だろう。

 というか……。

 滑るなぁ、本当に。

 いつの間にか私は走るのをやめて、木に寄りかかるように気をつけながら、むしろズルズルと滑るのを利用しつつその傾斜を下っていた。さっき見たときは、こんなに傾いていなかったような気がするんだけど……でも確かに、あの湖から村のあたりまでは結構な高低差があったし、こんなものか。ここに生えてる木々も、よくもまぁこんな場所に根を張ったものであると感心してしまった。

 さて、そろそろ終わりが見えてきた。

 おそらく最も傾斜のキツいところに差し掛かったものの、崖の直前はここよりも多少緩やかそうなので、思い切って私は今自分がいる木に、抱き抱えるようにしがみついた。そのまま徐々に体を木に沿って回転させつつ、最終的にぶら下がるような格好になってから、つま先を地面に這わせて足場の良さそうな場所の土を指先で掘って喰い込ませる。

 よし、順調。

 思い切って手を離した。

 当然ズルっと行きかけたけど、事前の対策と、爪に草が喰い込むのを恐れずに地面を掴んだ手のおかげで、比較的緩やかに停止する。

 ホッと一安心。失敗していたら湖にボッチャンだったので、ちょっとおっかなかった。でもこういうのって意外となんとかなるものである……って、変だな、何も覚えてないのにこんな感覚があるなんて。でもそのおかげで少しずつではあるけれど、私の正体というものがおぼろげながらも見えてくる。私はやっぱりやんちゃだったのかな。

 さっき桟橋でしたのと同じように、顔を崖から覗かせる。遠くから見たら大した高さに感じなかったのに、いざこうして上から見てみると意外に高いのでびっくりした。下では緩やかな波がチャプチャプと、白い波を立てて岩を濡らしている。ソロリソロリと腹ばいのまま左の、さっき向こうから見たときに見えていた、斜めに生えている枝の折れた木の上まで移動する。その下あたりはなるほど多少浅いらしく、きれいな水の下に土が見えた。よくぞこんなところにちょうど良く流れ着いたものだ。つまり私って、もしかして奇跡的に生きているってやつなのか。村の人たちには改めてお礼を言わねばなるまい。

 とまぁ、ここまで見に来たはいいのだけれど、思い出すようなことは何も無しか。当たり前か……だって私はこの場所まで流れついたわけだから、きっと湖を漂っているあいだは気を失っていただろう。そうでなかったら、こんな面倒くさいところに流れ着くはずもない。いくらこの湖が広いとは言え、自分で泳げたのならばもっと手頃な場所に這い上がることくらいできただろうし。

 そう言えば……私はなんで記憶がないんだろう?

 つまり、記憶を失うきっかけはなんだったのだろうか。

 今の私の状態は、明らかに物忘れなどとは一線を画す特殊なものである。いったい如何なる理由でこのような状態に追いやられたのか、それさえわからぬすっからかん……何かの呪いか、それともタタリか。と、悩みにうなりつつ後頭部を掻いた時に、ひりっと少し痛みを感じた。そのままごく自然に二、三度さすって痛む場所を確認してから、ようやく「おや?」と疑問を感じる。これはいったいなんだろう。確かシズさんに髪をかしてもらった時にもちょっと痛かったような気はしたけど、勝手に温泉か何かのせいだと考えていた。が、よくよく考えてみたらそんなわけもない。この痛みは腫れによるものだ。頭なんていつの間にぶつけたかなぁ……。

 ……いや、待て。そうか。

 そうだ、私はぶつけていない。

 ゾワッとする。

 少なくとも、暗い部屋で私が目覚めてからは一度も、ぶつけていない。

 これは私が記憶を失う前の傷だ。

 そう考えると途端にドキドキとしてきた。なんといっても、曖昧な感覚以外で初めて実感した、確かに私が生きていたという痕跡である。つまりこれは、私の記憶が頭からポロっと転がり落ちる前に、私は一度どこかで頭をぶつけているという証拠なのだ。あるいは誰かに殴られたのかも。例えば、例えばだ……私は遠く湖の向こうにあるという人里から、悪党に襲われ逃げようと走った後、頭を殴られて湖に叩き落とされ、そのままここまで流れてきたとか……と、これは少々想像が先走り過ぎか。なにぶんまだまだ証拠が足りない。それに……。

 あぁ、そうか。

 湖を漂っていたなら、どこかで頭くらいぶつけて当たり前かも知れない。

 それが記憶を失った後の、目覚めるまでのあいだの話だとしたら、こんな傷なんの証明にもならないことになる。

 ガクっときた。こんな、なんの証明にもならない怪我だけでウキウキした自分にまた恥ずかしくなってしまった。私って本当に子ども……。

 ひとり、ため息。

 あぁ、そろそろ長居しすぎかな。流石に厠にいないことバレているだろうか。

 しょうがないので立ち上がって、来た道を振り返って、ハッとする。

 これ、ここを上らないと帰れないじゃん……。

 あらためて周囲を見渡して、ここに来るのをギンジさんが止めた理由を理解する。

 帰りのこと考えてなかったなぁ……。

 と言っても帰るのが不可能というわけではない。ただ、ある程度の跳躍が必要というだけで、それに失敗すると湖にボッチャンという危険度の高さがおっかないという話である。ちなみに上らず帰る、つまりさっき私のいた桟橋のある浜側へ出る道もあるが、そちらは来た道に比べ輪をかけて危ない。なにせこの足場の悪い中を下っていくような道である。木の間隔も微妙に遠いし、流石にあそこを通る道筋で滑り落ちないと言い切れるほど自分を信頼できない。というか、実際私はつい前日まで寝たきりだったのだから、無茶はいけない。万が一にも湖に突っ込むようなことになった場合、折角用意してもらった着物をまた着替えなければいけないし。

 さっき私が飛び降りるようにして手を離した木を見る。当然この木が一番近いわけだけど、あれを掴むには、ちゃんと手を反対側……つまり上まで届かせた上でしがみつかなければならない。失敗したら、ちょっと危ないなぁ……。

 一度、十分に気をつけながらその場に座って、草履を脱いで帯に無理やり挟み込む。この方が、滑るまい。

 足場の具合を確かめるために傾斜に右足をかけて、練習がてらに少しぐっと力を入れたら、ずるっと滑ってほんのりと体勢を崩す。ありゃりゃ……これはキツイな。つまりこれは本格的に跳ばないとダメな感じか。すると斜め上方に跳ばないといけないわけだから、これ本当に危なっかしいんじゃ……。

 ええい、ままよ。

 不安の声をぬぐい去るように、「やっ」と掛け声を上げて跳び上がり、木に素早く腕を回す。幸い危なげもなくしがみつくことには成功したので、そのまま体を上に引っ張りあげようとする。

 が、これが実は曲者くせものであった。私の掴んだ木は斜めに傾く地形と違い、真っ直ぐ地面から垂直に生えているものだから、この状態の私の体を引き上げるためには幹に回している腕を上に持っていかなければならない。だけどそうするには足場があまりにも心もとなかったのだ。腕に体重を預けているあいだは坂に足をつけていても大丈夫だけれど、いざ地面に力を入れて体を押し上げようとするとあっという間にズルっと滑り落ちてしまう。こうなると全てがうまくいかない。脚を木に回そうにも、その脚が体の上まで運べない。途中までなんとか体を回せても、どこかで結局滑って台無しになる。坂に腹ばいになって、腕の力だけでできる限り体を引っ張りあげようとしても、手がかりがないせいで意外に難しかったし、それでも精々肘のところまで体を持っていけるだけである。まいったなぁ、まさかこんなぶら下がった状態で足止めを食らうとは。地道にでもなんとか頑張って体を上に持っていくしかないか。

 ……とか考えながら、歯を食いしばりつつ、なんとかまともに足がかりとなる場所を爪先で探っていたのだが、それに集中しすぎていたために、急に誰かに腕を掴まれた時には思わず悲鳴をあげてしまった。

「ひゃっ!?」

 そのままグッと、あっという間に体が引き上げられる。

 目の前に、傷が目立つ赤い顔。

「あ、ギンジさん……」

 ギンジさんは右の腕を、私が掴まっていたのよりも一つ奥にある木に掛けながら、左手だけで私を掴んでいた。そしてそのまま私を立ちやすい位置に誘導した後、まだ現状を飲み込みきれていない私に、目で背中に乗るように促した。

 まず最初に私が思ったことは、「怒られる!」であった。おかげでありがとうございますもよりも先に、「ごめんなさい」と言いそうになったのだけれど、私を見つめるギンジさんの目が怒っているようには見えない、それどころか優しさをたたえているかのような不思議な表情をしていたために、驚いて何も言えなくなってしまった。

 黙って、今日二回目のギンジさんの背中へ。ギンジさんも黙ったまま、淡々と坂を上っていく。私なら精一杯であっただろう道を、ギンジさんはいとも簡単に木から木へと腕を掛けながらスイスイと進んでいく。そんな大人のたくましさに、私はすっかり見惚れてしまった。最初この人を信用できないとか思ったのは間違いだったのかな?

「あの……」勇気を持って、口を開く。「えっと、ごめんなさい」

「いや……無事でなによりだ」息も切らさず、ギンジさんは答える。「むしろ俺が初めから連れて行くべきだったな。すまない」

 多少なりとも叱られると思っていた私にとって、その返答はあまりにも予想外であった。それまでのギンジさんの印象からすれば、怒鳴り声のひとつくらい響かせそうなものだったのに……。

 だけど、そんな温もりのこもった優しい言葉が、逆に私の心にチクリと、深く刺さった。

 それは言わば、本物の申し訳なさというものだろうか。先までの、叱られることをしてしまったという幼い罪悪感とは違う、相手の苦労や気遣いに対する負い目。それにあるいは、ギンジさんにちゃんとものを頼まなかったことへの後悔か。シズさんだって、彼を頼るように言っていたのに……。

 でも、仕方ないじゃないか。誰を信じていいかなんて、私だってわからなかったのだから。てっきり疎まれていると思っていたのだから。もしかしたら、この人は私の面倒を買って出てくれたのかもしれない……なんて、流石にちょっと買いかぶり過ぎだろうか。

 なんだか自分が恥ずかしいや。

 でも……この気恥ずかしさは、安心と表裏一体のもの。

 ギンジさんの肩に手を置く姿勢をやめて、ギュッと抱きつくように腕を回す。

 大きな背中だった。

 もう道は平らだったけれど、私はギンジさんの背からおりようとは思わなかった。だんだか急に疲れがどっと湧いてきてしまったようだ。空はまだまだ明るいのに……考えてみれば、私は何日も眠っていたあとの寝起きである。ちょっとした冒険をするのにはまだまだ早かったのかもしれない。なるほどマキさんの心配は当たっていたわけだ。

 今日、村であった人たちは、なんだかんだみんないい人たちだったなぁ……いい村だなぁ……。

 後から聞いた話だけれど、あの作場に着く頃には私は、スースーと寝息を立てていたらしい。

 明日は髪を切りたいなぁ、なんて思いながら……。

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