かんがえる 五

 しばらくギンジさんにおぶってもらっていながら、湖から離れていくうちになんとか落ち着くことができた私は、桟橋のあるところからやや上ったところ、おそらく村の入口とも言える場所で背中から下ろしてもらって、今度は人形の作場へ向かって歩いていた。私が次はそこに行きたいと言ったからである。とにかく一刻も早く、あの形状を忘れたかった。今こうして思い出すだけでも吐き気がこみ上げてくるくらいに、カエルというものが怖かった。そんな私を見てギンジさんは、「蛙がなぁ……」と、しきりに頭をひねっている。どうにも私があれを怖がっているのが信じられないというか、理解できないという風に感じているようで、何度も「お前、からかっているのではあるまいな? 蛙ぞ?」なんて聞いてくるのだ。私はむしろ、そんなギンジさんを見て頭をひねりたかった。あれが気持ち悪くないなんてどうかしてる……。

 いや、私だってカエルの何が嫌なのかと問われると、うーんと返事に窮するしかない。でもそれはとにかく、痛いのが嫌であることと同じように耐え難い不愉快の結晶だった。あの生き物は、水場の近くによくいるそうだ。私が後で行こうとしている場所にもいなければいいが……。

 右手に作場が見えてくるが、その前にも村の入口のような石像があって、ギョッとして目を伏せた。石像がカエルを模したものだと気がついたからだ。

 そのままギンジさんの足元だけを目で追うようにしながら、作場のすだれをくぐり抜けた私は、思わず「あれ……?」と声を上げてしまった。

 なんというかこう……人形作場というくらいだから、そこいらじゅうぎっしり人形ばかり置いてあるか、もしくは人形の作りかけの頭やら脚やらが散乱している景色を想像していたのだが、入ったところの土間には空の棚が置いてあるだけで、何とも言えずすっからかんの雰囲気である。確かになんだか粉っぽい匂いというか、息苦しい粉塵じみたものを鼻に感じはするけれど……。

「……人形、ないですね」

 ギンジさんは、「今はな……時期でないのでな」とだけ答える。

 作場の中は、全体の四等分したうち、入口の区画がまず土間になっていて、向かって左に空の棚である。右手側の四分の一区画は少し高くなった石造りの床で、そこにはよくわからない円形の筒やら鉄の刃がついた棒やら台やらと、工作器械らしきものが設置されているのを見るに、きっとそこで人形を作っているのであろう。だが機器の一つ一つが大きいところを見るに、あそこでは木材を大雑把に切り出すとか、大掛かりな作業をやるところに違いないとも思う。きっと細かな彫刻やらなんやらはここからは見えない、仕切られた半分の中でやっているんだろう。端の方には大きな釜みたいなものがあって、そこは黒い灰でいくらかすすけていた。

「時期ではないって、どういうことですか?」と、ひとまずは右手の工場こうばに好奇心を寄せつつ、当たり前に質問する。

「あぁ、それは……」

「ツクロヒの時期ではないということだ」

 突然の低く深い声に驚いて、振り返る。入口のちょうど真正面の、土間から上がったところに、いつの間に現れたのか一人の男の人が正座していた。おばあさんよりは若そうなものの、ギンジさんよりも一回りは年上に見える。黒い髪は短く切り揃えられていて、ギンジさんのように結ってはいない。細くとも鋭い眼光は、どことなくおばあさんに似たものを感じさせた。

「クダン様……いらっしゃったのですか」驚いた素振りを見せながらも、ギンジさんが深々と頭を下げたのを見て、慌てて私も頭を下げる。この人も偉い人か……名前はクダン……。

「……娘さん、スミレというのだったな?」と、クダンさんが正座したまま私に語りかけてくる。

「え? あ、はい、スミレです……」

「記憶がないと?」

「はい……そうです」もしかして私はこの村の人と会うたびにこれを聞かれなければならないのかと、今更に気づきながら頷く。

「ふむ……こっちへ来なさい」そう言って彼は自分の目の前の土間の床に手を差し出した。

「はい……」と、クダンさんに従い近寄りながら、私はまたもイヤーな気分になってしまった。

 なんかこの人、偉そうだ。

 いや、実際偉いんだろうけどさ……でも、例えばおばあさんなら、来なさいと言わずに自分から近寄ってくるか、それができないのなら「少しこっちへ来てくれるかね?」とか、そんな風に頼んでくるんじゃないかと思った。

 ぴたっと、クダンさんの前に立つ。

 少しだけ足が震えていた。

「私の目を見られるかね?」喉のそのまた下から唸っているような重低音が、耳元からくすぐったいくらいに響いてくる。

 なんだその質問?

「あの……はい」と緊張しつつ目を上げた途端、急にクダンさんの手が、私の肩をガッチリ掴んだ。

「わ……!?」

 そのまま驚く程近くで顔を見合わせられた私は、当然のように目をそらしてしまったのだけれど、クダンさんにさも真剣な風に「こちらを見なさい」と言われてしまったものだから、やむなく恐る恐る目を合わせる。

 この人……本当になんなの……。

 目いっぱいに、クダンさんの老け顔が広がっている。流石にこの距離は色々と落ち着かなかった。見たくもなかった顔の特徴が見える見える……。細く柔らかい眼光や、目の横のたるんだシワ、鼻の下にちょろちょろと伸びる灰色のヒゲに、色の薄い唇……老人というほど老けているわけではないが、それでも自分とは明らかな年の差を感じる顔。

 そしてちょっと、息が臭かった。

 まいったなぁ……。

 何が何だかわからぬままピクピク震えている私のことを、ギンジさんが二回咳払いするくらいの時間見つめ続けてから、やっとクダンさんは私の肩から手を離して、そしてにっこりと微笑んだ。「うん、嘘は言ってないね」

「は、はぁ……」

 ……そんなことを判断するために今までずっと私を見ていたのか。

「スミレか。いい名前だね」

「はぁ……ありがとうございます」

「さてさて、どうして人形がないのか、だったね」先までの深刻な形相はどこへやら、クダンさんはさも明るく手を叩く。「おいらたちの仕事はね、人形を作ることよりも直すことのほうが多いのだ。我らの村は代々、大名様や武家なんぞの家の厄除けたる人形をお作りし、納めていてね」

「左様」後ろの方でギンジさんの相槌。「我らは人形作りの奥義を今日まで受け継いできてきた。そしてこのお方、クダン様こそ、その秘伝を極められた当代の造形師である」

 ちょっとよくわからなかったので、振り返りながら質問する。「えっと……人形を作るのが一番上手ということですか?」

 するとどういうわけか、ギンジさんの顔が真っ赤に染まってしまったのでギョッとしてしまった。

「上手だと!? お前、馬鹿にしとるか!?」

「ひっ……」怒鳴り声に、泣きそうになる。「いや、えっと、ごめんなさい……」

「これギンジや、そう怒るものでないよ」かかかっと、クダンさんは笑う。「この子は記憶がないのだよ? それに純朴な言葉で良いではないか。スミレや、お前の言う通り、おいはこの村で一番人形を作るのが上手いのだ」

「く、クダン様まで、そのような……」

「ギンジや、所詮はおいもそんなものなのだよ。我らの人形が雲上に納められているのは、おいの力ではなかろうさ。たかが人の力だけで四百年も、こんな山と森の中の隠れ里で、斯様な生活ができようか。飢えもなく生きられようか」

「…………」

「お前もわかっておろう……我らが神の、人智を超えたるわざの深さを……」

 なんだか話が私の頭越しになってしまった。その……うんじょうだとか、上だ技だと言われたって、いまいちピンとこない私である。

「えっと、それでツクロヒっていうのは……」

「あぁ、すまんね、ツクロヒの日さね」すっかり明るく振舞い始めたクダンさんが、またも陽気に手を叩く。そういう癖なんだろう。「年に一度、我らが村で作られた人形を使者が持ち寄って来る。それがツクロヒの日だ。修繕が主たる目的だが、もしその人形がけがれを吸うている……すなわち、厄除けの役割を果たしていたのであれば、手厚く供養し、祈り、焼いてしまうのが習わしだ。その時にはまた新しい人形をお作りするのだよ」

「はぁ……では、今はここに人形はないのですか?」

「そうさね……あぁ、少しそこで待ちなさい。座ってもよろしい」そう言って立ち上がったクダンさんのせいの高さが思ったよりも一回り低かったので、なんだかびっくりして拍子抜けしてしまった。この人、偉そうなのに格好悪いなぁ……。

 クダンさんは座敷の奥の方へ何かを探しに行ってしまったので、私は彼に勧められたがままに板の間に腰掛ける。すると必然的に入口のところで腕を組むギンジさんと向かい合う格好になってしまったので、気まずさを誤魔化すために自分の膝に目を落とした。

 あ、ちょっと擦りむいてる。指先でこすったらヒリヒリした。あのカエルを見つけて転んだ時か……。

 思い出して、ゾワッと鳥肌。

 あれ、本当に嫌いだなぁ……。

 しばらく後ろの方でガサゴソと音を立てたあと、「あぁ、これだこれだ」と言いながら、奥からクダンさんが戻ってくる。

「今はこれだけさね……ま、作りかけというやつだ」

 そう言われながら、人形を投げるように手渡されたのだが、見た目よりほんのりと重かったので取りこぼしそうになる。なので慌てて両手で抱え直しながらも、とりあえずは興味津々に、それを見た。

 大きさは私が両手で支えてちょうどくらい。

 作りは木製。

 作りかけだからか、髪は無し。眉もなし。

 色も塗らず。

 服も無し……といった感じか。

 なんだかツルツルでヘンテコだった。なるほど確かに作りかけという風情である。その未完成の小坊主人形が足が痺れそうな具合に正座をしているのだが、膝と腰のところがどうやら曲がるようにできているらしい。その関節部分がかっちりと割れているものだから、そこだけいかにも作り物っぽく感じた。曲げてみようかとも思ったけど、壊すのは怖いと思い直す。手は膝の上……とはいかず胴から斜め下へ不格好に伸びていて、指先は不自然に感じるほど小さい。また首の細さも、顔を支えるには不十分に思える。

 ……が、その顔は体に比べて、逆に不自然に感じられるほどに精巧な出来であった。

 この人形に、顔料の類は使われていない。つまり顔の造形は全て彫刻によるものなわけだけれど、その頬のなんと柔らかそうなこと……目の丸いこと……。耳は流石に多少不自然に頭部に張り付いていたけれど、目を凝らさなければ気にならない程度にうまく表現されている。

「クダン様、それは……?」と、気づけば近くまで寄ってきていたギンジさんが、私と人形と、それにクダンさんを見回す。

「あぁ……まぁ、腕が錆びないようにせねばなるまいからね」クダンさんは尻をかきながらそう答える。「髪や色はつけとらんが、どうだ、綺麗なものだろう?」

「はい、とても……」上手ですと言いかけて、言葉を飲み込む。「とても、えっと、素敵です」

「……この上の神社まで行けば、完成したものがいくつか置いてあるから、明日にでも見に行くといい」

「じんじゃ?」じんじゃ……あぁ、ギンジさんが、この村で一番大事だと言っていた……。

「く、クダン様!?」そのギンジさんが耳元で大声を上げたので、思わずまた人形を落としそうになった。「あ、あそこは、しかし……」

「これこれ、こんな子供をそう邪険にするものではないよ。よいではないか、見るくらい」

「ですがあれは……」

「こら」

「…………」

 ……?

「あ、ギンジさん……と……あら」入口の方から、まだ聞いたことのない女性の声。ギンジさんとクダンさんが何やら目と目で争っているその間で、居所を見つけられずに俯いていたせいで、誰かが来ていたことを見逃していた。

「ああ、マキか」クダンさんが朗らかにそちらに手を振る。「ほら、この子が例の子だよ。名前はスミレというそうだ」

「スミレ……」と呟きながら目が合ったその人は、シズさんと同じ、白くて裾の長い着物を着ている女の人だった。けれど、シズさんに比べて随分と若く見える。今までこの村で出会った人たちの中では、断トツもダントツだろう。私がおばあさんの予想通りの十二、三歳だとすれば、彼女は二十くらいだろうか。長い黒髪も若々しくつやめいてるし、身長も私と大差ない……と言っても頭ひとつ分くらいは違うかな。スッキリと伸びた眉毛の下の目も、ギンジさんやシズさん、それにクダンさんとかと比べて随分澄んでいるように感じる。

 つまり何が言いたいかというと、ほかの人と違ってこの人は全然怖く感じないということだ。おばあさんのように頼りがいがあるとは言わないけれど、そこがかえって親しみを覚えるというか、この人とは友人になれるんじゃないかって、そう思えるのだ。

 とはいえ今朝方から続く周りからの刺すような不審の眼差しに幾分警戒心を強められていた私は、とりあえずは表情を固くして、「はい、スミレです。よろしくお願いします」と一礼二礼、ペコペコと頭を下げた。

「スミレ……ですか。あ、私はマキと申します」マキさんも慌てたように頭を下げる。「その……何も覚えてらっしゃらないのですよね?」

「はい、全く……すみません」

「え? あ、いえいえそんな、私の方こそ、ごめんなさい」そう言って彼女はまた私のように頭を下げる。「お体はもう大丈夫なのですか? 随分と長く眠っていましたし……どこか悪いところとか、ありませんか?」

「悪いところ? いえ、特には……」

「あぁ、よかった。ずっと目を覚まさないのではと、私心配で……」

 そう言って両手を合わせて、目を細めて笑うマキさんを見て、私はやっと自分の勘が正しかったと確信してホッとする。

「あははは、私、そんなに眠ってたんですか?」

「えぇ、ずっと……」

「やあやあ、ちょうどいいところに来たね、マキ。まぁ上がりなさい」クダンさんがまた偉そうに手招きしつつ、自分は腰を摩りさすり立ち上がる。「おいはもう帰るとするかな」

「あ、ならおつきして……」

「いやいや、君はギンジと一緒にスミレについてやっていなさい」草履を履いたクダンさんが、体を支えようと走ってきたマキさんを手で制する。「なぁに、一人で家に帰るくらいはできようさ。それでは、ギンジ、マキ、あとは任せたよ」

 ありがたい提案を残して、変にヒョコヒョコと歩いていくクダンさんに二人が頭を下げたので、いちおう座ったままでそれにならう。といってもクダンさんは見ちゃいないわけだから無駄だと思う。どちらかというと、ギンジさんに怒られないために頭を下げた気分だ。

 礼儀正しく入口のところまで行ってクダンさんを見送ったギンジさんは、どこかホッとしたような顔で私を振り返った。「さて……で、スミレや、まだここで見たいところがあるか?」

「え、あ、そうですね……」正直もう見るところもないのだけれど、時間稼ぎにぐるりと周囲を見回しながら、ちょっと色々と企てる。「えっと、マキさんとお話したいです」

 名前を呼ばれたマキさんは、子供っぽく目を丸くして自分を指さした。「私、ですか?」

「マキさんは、何をしにここへ?」

「あぁ、えっと、こちらの掃除に参りました」そう言いながらマキさんは袖をまくる。「本当はクダン様がいらっしゃる前にするべきなのですが、あの方っていつも気まぐれで……」

 閃いた。

「わぁ、私も手伝っていいですか?」精一杯の明るい声で、白々しく身を乗り出す。

「え? あ、そんなそんな……」予想通り、マキさんは遠慮する。「これは私の仕事ですし、えっと、スミレさんはまだお体が……」

「大丈夫ですよ、走れましたし。ね、ギンジさん?」

「……ん?」何やら外を気にしていたギンジさんは、急に名前を呼ばれて呆けた顔で振り返る。「なんだって?」

「私、もう元気ですよね?」

「ん、そうだな……」

「でも、無理するのは危ないですよ」素敵な笑顔を浮かべながら、マキさんは私を見る。「スミレさんはお客人様ですし……」

「いいんです。私も世話になりっぱなしでは申し訳ないんです」自分でも適当なこと言ってるなと思いつつも、ギンジさんを見つめる。「ギンジさん、どう思います?」

「まぁ、掃除くらいならできるだろうが……」

「ね? マキさん、お願いします」

「そ、そんな頭を下げないでくださいな……」困ったように笑いながら、マキさんはため息をつく。「でも、本当に大したことをするわけではないのですよ。ちょっと掃き掃除をするくらいで……」

「んーっと……じゃあ見てます。それなら大丈夫ですよね?」

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