かんがえる 四
村を抜ける間中、並ぶ家々の戸口から、隠れ潜む濁った目が私たちを睨んでいるのがわかった。不審と好奇が入り混じった、とても不愉快な視線……おかげで下ばかり見ていたものだから、ギンジさんの村の説明を大体聞き流してしまったように思う。
連れてこられた場所は、村からまたちょっとだけ下ったところにある大きな湖(オオヌマと言うんだっけ)の茶色い砂浜。意外と大きな桟橋に新しい小舟が停留されていて、なんだかこじんまりとした村の印象と比べてひどく不釣り合いに感じた。ただ、その湖の水がとても綺麗に透き通っていて、太陽の光をキラキラ反射していたのには思わず声をあげて見とれてしまった。湖を囲う陸地のうち、右手方向には普通に森が広がっている。そして左手側は、ここから離れるほど段々と緩やかに崖になっていて、一番高いところでは大人が二人分くらいの高さがありそうだった。
「ほら、あそこだ。あの、崖から木が生えてるとこの、すぐ下だ」と、ギンジさんが指差したのは、まさにその左側、そこそこ離れたところの、大人一人分がそれ以上くらいの高さのところだった。「あそこにお前は首だけ出して流れ着いていたのを、村のものが発見したというわけだ」
「そうなのですか……つまり私は、湖の先から流れてきたのですね?」
「まぁ……妥当に考えれば、そうだろう」彼は頷く。「この湖の向こう岸……ここからじゃ島が邪魔で見えぬが、あちらには船着場と、さらに数里ほどいけば人里もあるのだからな」
「そうでしたか……」なあんだと、ホッと胸を撫でおろす。やっぱり私はちゃんと道理ある人間じゃないか。少なくとも、全然ありえないところに降って湧いたような存在じゃあ決してない。どのような理由があったかは未だ皆目見当もつかないが、少なくとも、尋常のうちに十分入るような理由があることは確実だ。
崖の方へ歩き始める。
「あぁ、ダメだ、あそこにはいけない」と、ギンジさんが止める。「お前の流れ着いていた場所は奇跡的に水も浅かったのだが、あの辺りは底が深くてなぁ……それにあの崖が危ないのだ」
くるりと振り返る。「危ない?」
「崖の上の足場がな、湖の方へ傾いている」説明しながらギンジさんは、ボリボリとあごひげをさする。「おかげでツルリといきやすいものだから、村の者も近寄ることは禁止されているんだよ。お前を助けるのにも船を使ったからね」
「そうですか……」と言いつつも、いまいち納得はしていなかった。だって、見つかったところへ連れて行ってくれるって言ったじゃないか。それに傾いてるといっても、そこまでの急傾斜にも見えないし、木もたくさん生えているし、気をつければ落ちる心配なんてなさそうな気がする。大人はいつも心配ばかり……とはいえ、ここでギンジさんを振り切ってあそこまで見に行くわけにもいかないので、場所だけしっかり覚えておくことにして、また後で行くことにしよう。位置からしたら、人形を作っていると先ほど紹介された作場の裏からまっすぐ行けば、ちょうどだろう。
さて、今はそれよりも……。
「わかりました」と、素直にうなずいてから、期待に目を輝かせてギンジさんを見上げる。「あの、危ないところまでは行きませんから、ちょっとこのあたりを歩いてみてもいいでしょうか?」
ギンジさんが、少し意外そうな顔で見返してきた。さっきまで泣いていたくせに、もう元気を取り戻したのかと呆れているのかもしれない。実際私は、一度泣いたらすっかり気分が晴れてしまったのか、先程から実に
だって、とっても綺麗なところじゃないか、ここ。森は深いし、湖は透き通ってるし、探検してみたくなる場所はいくらでも見つかりそうだ。
「ああ、構わんとも」と、彼は私から目を逸らすように辺りを見回す。「俺は元から、お前が危ないところに行かないように見てるよう言われたのだからね」
「わぁ、ありがとうございます!」と、お礼を言うが早いか、私は桟橋の方へと駆け出していた。
なんだか走るのって久しぶりな気がする。実際久しぶりなんだろう。
桟橋の先でうつぶせになって、湖の方に顔を出す。水面からの高さは、手を伸ばしたら指先が浸かるくらい。ひんやりと冷たく透き通った水の上に映る自分の顔を指先でかき回しながら、透き通った湖の底へ目を凝らす。今動いたのは魚だろうか、それとも私の影法師か……なんて考えながら、長い髪の毛の先がつくくらいに、顔をどんどん水面に近づけていく。
「あぁこら、危ないじゃないか、戻りなさい」と、ギンジさんが叫んでいる。まったく心配性だなぁ……。
仕方なく体を引っ込めて、今度は足を桟橋から垂らして座ったら、濡れた毛先が首筋についてひんやりした。それを適当に首の後ろへまとめなおしてから、今度は湖に浮かんでいる島の方を見る。
目を凝らしてよーく確かめてみると、最初一つだと思っていた島が、実は二つの島が重なって見えていたのだということがわかった。どちらも茶色の岩肌に、木が青々と茂っている。それを見てたらなんだかウキウキしてきて、どうにかしてあそこに行けないかなと考える。現実的にはたどり着けそうもないその隔絶感が、なんだか別世界に繋がってるみたいな神秘を匂わせていた。足場は悪そうだけれど、それだけに登ってみたい。泳いでいくには遠いだろうか。いつか船を出してもらえるかな?
「ずいぶんと元気そうだ」と、いつの間にかすぐ後ろまで来ていたギンジさんの声が頭上から響く。「……記憶がないとは思えんな」
少し含みを持たせた言い方に感じて、なんだかギクッと気まずくなる。でも、確かに今の自分はちょっとはしゃぎすぎかもしれない。さっきまで、あんなに元気がなくなっていたのが嘘のようである。サッパリして気持ちよくなったと思えば、すぐに泣き出して、また元気になって……子どもらしいなあって、我ながら思う。思うけど、でも、だってこんなに湖が綺麗なんだもの。森が豊かなんだもの。できるならここに住みたいって、そう思えるくらいに素敵なんだもの。
いい村だなぁ……。
振り返ると、背の高いギンジさんの四角い足の間に、一本の大きな木が見える。そこに何やらよくわからない、黄色い丸いものが付いているのが気になって、立ち上がって今度は、ギンジさんの脇を駆け抜けそちらに走る。久しぶりの運動だからか、足の裏がかすかに痛んだが、歩速を緩めることなく走り抜いた。近寄ってみるとますます不思議だ。黄色と白の輪っかが木に食い込んでいるようだけど、そんなに硬いものには見えないし……。
「それは
私は「はーい」と返事をして、上を見る。太い枝が高いところでからこちらに伸びてきていた。あそこまで上れば、快適に座れそうだけど、そんなことしたらまた怒られるだろうか……などと考えながら足をすっと引いたとき、ゲコッ、となんだか不思議な音を聞く。
なんだろうと、足元を見た。
小さくて、赤茶色にヌメリと光る不思議な生き物が、そこに佇んでいた。
ゴツゴツしているのに、なんとなく柔らかそうに濡れているプックラと膨らんだ胴体に、足が四つ。後ろのほうが大きくて、指の間になんだか布張りみたいなものがついている。口は、顔を半分に切り出すほどに大きい。
裂けるようにパカっとその口を開いて、それは鳴く。
ゲコッ、ゲコッ、ゲココココココ……。
その時に私を襲った、身を
なぜだかはわからないが、とにかくこの足元の生き物が、
全身、総毛立つ。
思わず叫び声をあげて尻餅をついた。
すると……どうだろう。
その妖怪は、あろうことか軽快に跳ね上がって、私の足先に乗っかったではないか。
その瞬間、声も出せないくらいに
呼吸が止まる。
「……っーーー!!?」
タ……タスケテぇ……。
「ど、どうした!?」慌ててギンジさんが走ってくる。私はズルズルと尻を引きずりながら、彼の着物の裾に夢中でしがみついた。
「な、な、なんですか、これぇ……!?」私は喘ぎながら、もはやそちらを見ることはできなかった。なんだかとてつもなく不気味で、そして恐ろしかった。「と、とと、とってください……うぇ……げほっげほっ……」
「ん、んん~?」と、ギンジさんは
「か、かえるぅ?」
「なんだお前……蛙が怖いのか?」そう言いながらギンジさんは、さも大切なものを扱うかのように、私の足からおぞましい生き物を取り上げた。
かえる……思い出した。おばあさんが、神聖だと言っていたモノの名前。
……これが神聖?
……冗談でしょ?
何かの間違いなのでは?
「ぎ、ギンジさんは、怖くないのですか? 気持ち悪くないのですか?」
「そらあお前……この村にいたら嫌でも見ることになるぞ? 怖いわけがないだろう……おい、大丈夫か?」
正直大丈夫ではなかった。なんだか全身から力が抜けてしまって、もはやギンジさんにしがみついていなければ体も起こせない有様だった。だって、なんて気持ちの悪い……こんなものに出会うかもしれないとなると、なんだか一気に探検の意欲もなくなってしまった。
「お前……本当に蛙が怖いのか?」ギンジさんは、どうにも信じられないといった面持ちで私とその……カエルを交互に見続ける。「こんな害も毒もない……むしろ蚊やハエなんぞを捕って喰ろうてくれるのに……」
「…………」
「それに蛙というのはこの村のタタリ神様の化身であられるぞ? 俺が待っていた場所のあの石像も、蛙を模したものだったろう?」
そういえば……そうだったか……。
「…………」
「おいおい、参ったなぁ……村まで戻るか?」
私はなんとか呼吸を落ち着けながら、一度だけコクンと頷いた。
……ちょっと、記憶がどうとかどうでもいいくらいに、色々わからなくなってしまっていた。
もう一回温泉に入りたいくらいに、汗でびっしょりだった。
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