かんがえる 三

 あの後、厠(なんか大きな、足の長い虫がいた)で用を足してから、シズさんに連れられて、思った通りに大きかった屋敷の、おそらく裏口のようなところから私たちは外に出た。その先には、石の階段が森の中へと続いていて、道なりに下っていくとまた一つ小さな小屋が見えた。湿気った空気の閉じ込められたその小屋に入ってから、シズさんに言われるがままに服を脱いで、反対側のすだれを出たところに、それはあった。

 温泉……そう言われたときは思い出せなかったけど、実際に目で見てみると、なんとなくそれを知っているような気がするシロモノである。ハクユと、この村では呼んでいるそうだ。なるほど確かにお湯が白い。周囲は簡単な木の柵で囲っていて、動物が入ってこられないようになっていた。雨よけの屋根もしっかりと付いている。

 そのお湯に、鼻の下まで浸かりながらブクブクと泡を作ったり、爪先つまさきで足元のヌルヌルするところをいじったりしながら、いい加減に芯までぬくまってから湯から上がったあと、体を拭き、シズさんが持ってきた新しい着物に着替えてみると、なんだかとてもさっぱりといい気持ちになってしまった。腹の中や頭の内をじくじくと突き回していた沢山の不安は依然として消えてはいなかったけれども、きっとそれに立ち向かえる、私は何か思い出せるだろうという無根拠な自信まで立ち現れてきたようであった。なるほどおばあさんが入浴を勧めてくれたのもわかるというもの。なんだか村に伝わる風習でモクヨクだミソギだ云々うんぬんと言ってたけど、そういう意味の言葉だったんだろうか。

 シズさんが持ってきた新しい着物は、シズさんの着ているやつをそのまま小さくして、色だけ紺色に染めたような感じの簡素なものだった。帯の色は赤。ギュウギュウと着付けられた時にはきつく感じたけど、着てみると生地がヨレていて柔らかく、なかなかに動きやすい着物である。できればもう少しすそを短くして欲しかったけれど、そんなワガママ言えた立場ではないだろう。

「えっと、ありがとうございます」と、私が腕を広げている間に手際よく着物を着せてくれたシズさんに、都合何度目かわからないお礼を述べる。屋敷でおばあさんと別れて二人っきりにされてから、ことあるごとにありがとうとばっかり言っているのだが、シズさんの反応は素っ気ない。無理もない……きっとこの人は、嫌な仕事を押し付けられているような立場なのだ。できれば言葉だって交わしたくないだろう。だけど私としても、私は決して害のあるような存在ではないわけで、むしろ何もかも他人に頼らざるを得ないほど弱々しい身の上でしかないこともわかってほしかった。きっとシズさんと同じくらいに、私も不安なのだから……少しでも打ち解けてほしいと思う、この私の気持ちもまた道理というものだろう。

「……どこか不便は、ございませんか?」シズさんの声は、あくまでも外来者……おばあさん(それにきっとこの村の人みんな)の言うところの外モノに対してのそれであるので、早くも心が折れそうになる。

「はい、大丈夫です……」

「それでは」と、また導かれるままに石の階段を上っていく。が、あの屋敷へ向かう途中で横道に逸れて、また別の方向へと歩き出した。

「……あの、こっちは何があるんでしょうか?」

わたくし共の住む、村の中でございます」シズさんは振り向かずに、多少息切れした声で答える。「あなたの見つかったところへご案内するようキヨ様から言付ことづかっておりますので……」

「あの、おばあさ……いや、えっと、キヨ様は……その……」

「おばあさんで、結構ですよ」

「え?」

「キヨ様が直々にそうおっしゃられていたのですから、スミレさんはそのように呼ぶのがいいのでしょう……キヨ様は、今はお休みになられています」

「そうなんですか……」無論、老体であるわけだから、村の中まで一緒に来られないとは思っていたけれど、それでも多少の落胆はあった。今のところシズさんと仲良くなる未来が見えてこないものだから……。

 さほども経たぬうちに木々の間を抜け、開けた道に出た。左手にはそこそこ大きな屋根のある家があり、右手の家は小さい。その二つが、どうやら村のさかいであるようで、その先には家屋がいくつか見えている。左斜め上の方向を見ると、おそらく私たちがいたであろう大きな屋敷があるのがわかった。そうすると、やはりあのおばあさんはこの村の偉い人で、そのお屋敷の下にほかの人々が住んでいるみたいな、そういう構造の村なんだろう。

 私たちが今あいだを通り抜けている二つの家は、感覚的には村の外にあるような風情であった。なぜならその家の先に、何か丸っぽい気味の悪い生き物の石像が一つ、大口を天に広げて置いてあるからだ。見た感じ、いかにも入口の目印である。そこにどうやら誰かが寄りかかって腕を組みながら、難しい顔でこちらを眺めているらしい。

 心持ち、シズさんの後ろ側に移動して、体を隠す。

 男の人だ……。

 ちょっと怖いと思った。

 その男の人を無視して、シズさんは村へ真っ直ぐに通り抜けてくれるかと思っていたのだが、直前まで来たところで彼女は立ち止まってしまったので、やむなく顔を上げて目礼をする。

 ……また鼓動が早くなっていた。私がこの村に来てから、初めて出会う男の人である。男女というものがわかるのだから、人生で初というわけではないと思うのだけれど、それでもおばあさんは当然のこと、シズさんと会った時よりも緊張していた。どうせこの人も、私をよく思っていないとわかっているのも理由の一つだろうか。おかげで顔もマトモに見られないでいた。

「……スミレさん」シズさんが、小さな声を絞り出す。気丈を装っているけれど、かなり疲れているようだ。やはり体がどこか悪いのだろう。

「はい?」

「この方は、ギンジというもので……ここからの案内を引き受けて下さっています」

 ふーんと、おそらく相槌であろう、息を吐く音。ギンジさんか……首から下を見るに、シズさんとは比べ物にならないくらいに頑強そうで、指先は赤黒く、汚れた茶色い着物に土まみれの草履と、いつも肉体労働をこなしているであろうことが容易に想像できた。

 そういうところが、ますます怖い。

「では、あとはよろしくお願いします」そう言って、シズさんが頭を下げるのに合わせて、本日何度目かわからない会釈。

 ……ん?

「え、あの、シズさんは……?」背中に隠れるために我知らず掴んでいたシズさんの着物を、思わず強く引っ張ってしまった。

「私には別の仕事がありますので……」

「そ、そう、ですか……」

「これからのことは、このギンジをお便りくださしまし……」

「…………」

 シズさんがいなくなる……。

 そう思ったとたん、キューっと胸が苦しくなった。

 自分でも意外だった。あれだけ仲良くなれそうにもないと思っていたシズさんに対して、まさかこれほど信頼を置いていたとは……ご飯の世話も、服を脱ぐのも、体を拭くのも、これまで全てやってくれていたのはシズさんである。それはある意味で、シズさんはおばあさんよりも私を助けてくれていたということなのだと、今更になって気がついてしまったようだ。考えてみれば、私が今、モノを頼めるのは二人しかいない。

 未練がましく引っ張っていた袖を、ゆっくりと離す。

「わかりました……あの、色々と、ありがとうございました……」

 精一杯、頭を下げた。きっと嫌われていると思っていても、感謝しないわけにもいかない身の上だった。

 落胆の色を隠すこともできないまま、うつむいている私の頭に、ふわっと暖かい手が触れる。

 ドクンと、心臓が高鳴った。

 シズさんが……私の頭を撫でている……?

 ガバッと顔を上げた頃にはもう、シズさんは来た道を引き返して、きっとおばあさんの屋敷に戻っていた。その後ろ姿を、今生の別れのような気持ちで見つめる。

 嬉しかった。

 だけど……。

 よけいに一人にされてしまったような気がして、寂しくもなった。

 振り向くこともしないまま、シズさんは道の途中で折れ曲がり、やはり屋敷の方へと上っていく。

 ……私って、一人ぼっちなんだなぁと、しみじみ感じた。

 それってとっても、さみしいなぁ……。

 私はいったい誰なんだろう? どうしてこんな、誰も私を知らないようなところにいるのだろう?

 思い出したい。

 ぜひとも、一刻も早く、思い出したい。

 思い出さねば。

 私自身の、私らしさというものを、見つけ直さねば。

 決意とともに深呼吸一ついて振り返り、先ほど紹介されたギンジという男の人の顔を見る。

 右目の上に、大きな傷が斜めに一つ、ギザギザに入っているのがまず目を引いた。大きな鉤鼻の下に黒いヒゲがチリチリと伸びていて、髪は後ろで高く小枝みたいに縛っている。体つきから想像していたよりもずっと親しみやすそうな顔だったので、少しだけ安心した。目の周りが黒くくぼんでいるところを見るに、この人もあまり健康には見えない。そういう人たちの住む村なのかもしれない。

「スミレ……と、いうのだったな?」男の人……ギンジさんは、背をかがめて私の顔を覗き見る。「記憶が無いと聞くが……真実まことかね?」

「あ、あの、はい、そうなんです……」後ずさりしかけながらも、唾を飲み込んで返事をする。「今は名前しか思い出せなくて……」

 眉間にしわを寄せながら、ギンジさんはとても厳しい目で私を睨む。その目があんまりに真剣なので、私も目を逸らせないまま、不安ばかりが増してきて、気が付けば自分の裾を震える手で掴んでいた。

「嘘じゃないだろうな?」と、低い声。

 あぁ、どうしてそんなことを言われなければいけないんだろう? 確かに村の人たちの不安もわかる。今の私は、半ばありえない存在なのだから。一体いかなる神秘の結果、私はこの村に漂着し得たのか、恐らく誰にも予想のつかない私なのだから……だけど、そのことを一番不安に思っているのは私なのだ。何も思い出せぬまま、立場が悪くなればタッタ一人村を追い出されかねない……そんな状況でも人を頼らねばならないことがどれほど息苦しいか……。自分自身にもわからぬような理由がゆえに、他人から疑惑の眼差しを向けられるのがどれほど切ないか……。

「そ、そんな、本当なんです……っ」必死の思いで首を振る。「わ、私も本当にどうしてここにいるのかわからなくて……それで……それで……」

 じわっと、目から涙がこぼれてきた。慌ててそれを拭おうとするが、一度こぼれ出してしまった涙を押し留めるには至らず、ついには両手を顔を覆ってみじめに泣き出してしまった。さっきお湯から上がって服を着替えた時にわいてきた勇気も全部、シズさんの手のひらに吸い取られてしまったようだ。

 あぁ、悲しいなぁ……。

「おぉ、これは……すまない、俺が悪かった」と、頭を撫でるギンジさんの声。「そうさなぁ……お前が一番辛いものなぁ……よしよし……」

「ごめんな……さい……」

「何を謝るか、悪いのは俺だ。疑って悪かった」

 どうやら今更になって、それまでジワジワと頭に浸透してきた私の立場というものが、泣けるほど深刻に理解されてきたようだった。こんな誰の顔さえわからぬ村に、一人きりで取り残された……それどころか、すがる思い出さえ奪われた。今、私はさみしいと思っている。それはつまり、さみしくないという状態を、もっと安らいでいられた、周りに私を知る人がいた時のことを知っているという意味。それなのに、それを思い出せない空っぽの頭……バカ頭。

 心細いなんてものじゃなかった。

 考えれば考えるほど不安になるから、考えないよう考えないようにと努めるのが精一杯だった。

 泣いてる私の肩にギンジさんの手が掛かる。「まいったなぁ……元気出してくれや、なあに、すぐに思い出せるさ……」

 ……この人は、あまり信頼できないように感じた。

 言葉は優しそうだけど、この人だってきっと、私と距離を置こうとしている。できるだけ関わらないでいられたら、それでいいって思っている。だからきっと、私もこんな風に案内をたらい回しにされているのだ。みんなやりたくないから、みんな平等にって。

 頭の上に、暖かい手のひらの感触。

 あのシズさんの見せた優しさは、果たして本物だったのか。いじらしくさみしがった私への哀れみだったのか、それともあの丁寧な口調と同じような、儀礼的な心遣いのひとつだったのか……。

 ちゃんと優しいって思えたのは、あのおばあさんだけ。そのおばあさんが、この村の偉い人で良かった。命の恩人と思ってもいいだろう。

 あぁ、ホントのホントに、ありがとうございます……。

 そのおばあさんの気持ちに応える意味でも、私は記憶を取り戻さなければならない。私を無害と信じてくれたあの人の信頼を、裏切らないために。

「も、もう大丈夫です……」と、なんとか呼吸を沈めて顔を上げる。「……お願いします、どうか私が見つかった場所へ、連れて行ってください……」

「本当に大丈夫か? なんなら一度キヨばあ様のところに戻っても……」

 ほら、逃げようとしている。

「いえ、大丈夫です」精一杯に強がって、ぐっとギンジさんを睨みつける。「私もできるだけ早く思い出したいんです」

「……そうか」口元だけ変に微笑ませて、ギンジさんは屈めた背を伸ばす。「ならば行こうか。ついて来なさい」

 ギンジさんの後ろを、シズさんの時よりもさらに一歩分ほど距離をあけてついて行く。木の壁に、石の置かれた木の屋根のついた家屋の並ぶ村の中は、昼前だというのに鳥の足音が聞こえるくらいに静かだった。

 歩きながら、散在する家のうちの一つをギンジさんは指差す。「あれは染め物なんかをやる所でね……もっともあそこは女の持ち場だから、俺はあまり入ったことはないが。で、あの大きな屋根のあそこが、人形作場だ。この村で、二番目に大切な場所だろう」

「二番目?」

「一番目は神社だ……我らの村は代々そこの神様を手厚くおまつりしているからこそ、四百年に渡り他所よその干渉を受けないまま、無事に栄えてやってこられたのだ」

「四百年ですか……」神様の概念は、知っている。「とてもありがたい神様ですね」

「ありがたいか」ギンジさんは、ため息をついて立ち止まる。「それは言うまでもないことだが……俺は恐ろしくもあるよ」

「恐ろしい?」

「お前もあまり、軽々しくあの神様を語るなよ?」そう言って振り返った彼の目の冷たさに、思わず体が後ずさった。

 つばを飲む。「語るな……ですか」

「ああ、そうだ」重々しく、ギンジさんは頷く。「……タタリ神様であるゆえ」

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