かんがえる 二
小さな黒い木の台に載せられた、四つの食器。一つにはお米が手のひら分入っていて、もう一つには紫と緑の野菜。三つ目の容器には魚の切り身である。最後の一つには温かいお茶が入っていた。
おばあさんと向かい合いながら、用意された朝食をもしゃもしゃと口に運んでいく。布団は、私が食台の前に移動してる間にシズさんが手早く片付けてしまった。
「どうやらお腹には入ったようだね、上々上々」
「はい、おかげさまで」ごっくんとそれを飲み込みながら、笑顔で頷いた。
この朝食と一緒におばあさんがやってきた時には、自分でも呆れてしまうくらいホッとした。少なくとも、この人は私に優しいようだ。そういう人が一人でもいてくれるということがこれほど心強いものだとは思わなかった。そんなだから私も馬鹿に素直になってしまって、よく噛んで食べるんだよと言うおばあさんの忠告を
おばあさんの体が、昨日の夜よりもずいぶんと小さく見える。あの闇の中では、なんとなく山のごとくに大きく感じていたのだが。
食べてる間に、おばあさんはいくつか質問してきた。頷くか首を振るだけでいいと言われていたので、質問に応じて適当に頭を動かしていたのだが、ほとんどの場合で頷いていたように思う。質問のだいたいは、私が名前以外の記憶のほぼ一切を失っているのだな、という確認のためのものだったのだから、頷くほかない。
一通りの質問が終わったところで、今度は私から質問をぶつけてみた。「あの、おばあさんの……名前はなんというのでしょうか?」
「ワタシかね」と、硬そうな顔のしわを釣り上げながら、お婆さんは笑う。「ワタシの名前はキヨだ。村ではキヨばあ様なんて呼ばれているが……おばあさんで、十分だよ」
「はい、わかりました」ありがたくうなずきながら、味の濃い野菜を口の中に放り込む。「……えぇと、少し変なことを聞きますが……」
「なんだい?」
「私って、どんな見た目をしているのでしょうか?」
その質問を聞いたおばあさんは、岩の切れ目のように細い目をほんの一瞬だけ開かせてから、またくくくっと肩で笑う。「そうかそうか……そういうことさえもわからないのか……」
「はい、まったく……。多分、それほど大人ではないと思うのですけど……」
「ふむ……見た目か」おばあさんは私の顔を、優しさのこもった瞳でじっくりと見つめる。「そうさな……歳と頃だと、十は超えているだろうかね……眠っている間に手を加えるわけにもいかなんだから、髪は荒れ放題だけれども、綺麗に揃えればきっと大層の器量好しだろう」
そう、髪……これがどうにも
「まぁ、人から伝え聞くよりも我が目で確かめたほうが早かろう……おい、シズや」と、おばあさんは目線を私からはずさないまま、手を二回だけパンパンっと叩いた。するとすぐに、シズさんがふすまの裏から影が伸びるように現れたのには驚いてしまった。薄々気がついていたが、このおばあさんは偉い人なようだ。
「はい……」
「手鏡を一つ、供え棚から持ってきておくれ」
「……は? 供え棚から、ですか?」と、シズさんは不安げな表情で私とおばあさんを交互に見る。「しかし、あれは……」
「よいよい。あれは本来、お供え物ではないのだから。自分の顔を見れば、この子も何か思い出すかもしれぬよ」
「……かしこまりました」と、シズさんは頭を下げて、足早に去っていく。
それを見送ってから、なんとなく小さな声で、おばあさんに語りかける。「……おばあさんは、この村では偉い人なのですね」
「偉くなどないよ。ただ一番長生きをしているだけさ」そう言っておばあさんは、ゆっくりと腰をさする。「……それにしても、村というのが何か、お前さんは理解しているのだね?」
「え?」
「お前さんには、記憶がないのだろう? しかし、一切を失っているわけではない。少なくとも、言葉は覚えているのだから」
「はぁ、なるほど」口を拭きながら、二三回頷く。
「例えば……朝と夜は、わかるだろう?」
「はい、そうですね」
「では、人形は?」
「わかります」
「……蛙は?」
「かえる? いえ、ちょっと……」
「ほう……蛙を知らなんだか。それはいけない」と、おばあさんが首を振ったので、またほんの少し不安を感じながらごくんとつばを飲む。
「えっと、なにがいけないのでしょうか……?」
「この村ではね、蛙は神聖なのだ」
私はそもそも、そのかえるというのが道具なのやら神なのやら皆目見当もつかないのであったが、神聖というからにはきっとありがたい何かなのだろう……と想像をたくましくするより先にシズさんが、上品な赤い持ち手のついた手鏡を携えて戻ってきたので、当面の興味はそちらへと移ってしまった。
シズさんはおばあさんに一度だけ目配せをしたあと、そっとしゃがみこんで私の手に手鏡の持ち手を差し出す。
おばあさんの登場で幾分落ち着いていた私は、変に気負うでもなくしっかりとシズさんを見つめ、「ありがとうございます」と丁寧に礼をして、それを受け取った。
滑らかな鏡面に顔を映す。
まず思ったのは、髪の毛が長すぎるということだった。これはいけない……見た目にも機能にも、良いところが一つもないではないか。前髪が目の下のところまで垂れてきているし、顔の横にも
うむ、幼い。だが思ったほど子どもというわけでもなさそうだった。
まず肌は、皺が岩肌のようにしまったおばあさんや、灰色に皮がよろけたシズさんと比べれば当たり前だけれど、とにかく若くて張りがあった。自分の手を見たときと同じように、ちゃんと柔らかく丸みを帯びている。しかし、どうもやはり痩せすぎなのは間違いないようだ。何日も眠っていたのだとしたら、仕方がないだろう。むしろ痩せ方のわりに今が元気すぎるくらいだ。
目の下にあった小さなホクロを掻きながら、鏡の前の自分の顔が、ほんのりと嬉しそうに変化していくのがわかった。
だって、けっこう可愛らしいではないか。目も丸く開いているし、鼻も口も余計な自己主張をしていない。もうちょっと
……我ながら、か。
例えようもないほどに私の近くにある顔というものが、まさか私の想像とこれほど違うとは……。
嬉しいとは思いながらも、私は少し変な気分も味わっていた。
自分で自分の顔を可愛いだの、器量好しだのと思うなどということに、そもそももって違和感を覚える。相変わらずに何一つ思い出す気配のない私であるが、しかし何となく推察するに、記憶をどこかへ落としてくるより以前、私はこの顔を素敵だのと思ったことはないのではないか。言ってしまえば私は、たった今鏡の前のこの人と出会ったのだ。出し抜けにこの顔を、お前の顔だと与えられたようなものなのだ。その顔に馴染みのない私からすれば、これはまだ他人の顔である。
黒目の向きだけ鏡に向けたまま、私は顔を上下左右にグルグル動かした。口を開いて舌を出してみたりしながら、時々眉間にシワなんかを寄せてみたりした。なるほど可愛らしい、素敵な顔だ。きっと見るものを惹きつける、珠のような笑顔だ。まだ子どもながら、本当に髪を整えていないことを悔やまれるであろう器量好しであるように感じる。が、しかし……。
「どうだい、素敵な顔だろう?」と、きっと私の顔から感想を察してるであろうおばあさんが私に聞く。
「それは……えっと……はぁ……」
しかし、こうだ。この顔が私の顔という感じがしないせいで、褒められても中途半端な気分にしかなりえないのだ。なんというか……私自身、この顔に抱く感想を自己評価として感じることができない。ゆえにおばあさんのこの言葉もまた、私に向けられた賛辞であるようには感じられないのだ。とはいえこの顔は間違いなく私の持ち物であるわけで……。
……まぁ、顔なんてものはそういうものなのかもしれない。たとえ顔が焼き潰れようが皮が剥がれようが私は私なのだから。それは記憶がなくとも、自我はあるという私の現状とよく似ている。
「あの、はい、自分で言うのもおかしいのですが……」と、やはり曖昧な気持ちのままオズオズと顔を上げる。「思ったよりも……その、よかったかなと……」
「……見覚えはないのかい?」
「はい、まったく……」
と、私が頷いたのを見て、おばあさんの横に正座して控えていたシズさんはまたも憎々しげな不審の目を私に投げかけた。もしかするとこの人は、私の記憶喪失を疑っているのかもしれない。
「であるならば、今はさぞ複雑な心境だろうね」しゃがれた声をおばあさんは響かせる。「出し抜けにこれはお前さんであるなどと言われても、きっと
「きつ……え?」
「さて、腹は膨れたかね?」
と、あらかた
「あ、はい、だいぶ」
「上々……シズや」
「はい」と、シズさんはスっと立ち上がり、台ごと私の前から食器を取り下げてどこかへ運んでいってしまった。その動作があまりに手早く滑らかだったものだから、お礼を言うことも忘れて見とれてしまった。そして
ジーンと、不可思議な感覚が爪先から伝わってきたかと思ったら、次の瞬間沢山の見えない小さな針が、左足の全体を突き刺した。
思わず足を抑える。「っ……!?」
「ん、どうしたんだね?」
ほんの少し足を動かしただけで、あたかも足の内側が縛り付けられたかのような鈍痛を感じる。いったい何事だろう……何かまずい状態だろうか……足がちぎれてしまうのではないか……と、様々な不安が一瞬間のうちに脳裏を駆け巡った。
「あ、足が……」
「痺れたか?」
「し、しびれた?」あんまりにおばあさんがあっさりとした口調でそういうものだから、私は驚いて素っ頓狂な声を上げてしまった。
「足や腕を踏んだままにしてるとな……そういう風になるものなのだよ。少し待てば治まるさ」
そうおばあさんが言っているうちに、さっきまであれほど壮絶に思えた痛みがみるみる
記憶を失っているということの実害に気づいたのも、この時だった。
記憶の喪失とは、かくも恥ずかしいことか……不便なことか。私を取り巻くあらゆる事象の何が正常で、何が異常か……安全か、危険か……そういうものの判断基準でさえ、未だにまるで思い出すことのない記憶な中に閉じ込められてしまっているのだ。なんと心細い……。
であるならば、一刻も早く私自身が何者なのかを知りたいものだ。
「あのう……私って、どういったわけでここにいるのでしょうか?」と、今まで聞かなかったことがおかしいような根本的な疑問を口にする。
「ふむ」細い目をいつになく鋭く光らせて、おばあさんはうなる。「それはワタシらにもわからないのだよ」
「わからない?」
「お前さんは、この村の近くで生き倒れているのを発見されたのだ。なんとも不思議なことだ……ここは人里とは離れているうえに、あたりはオオヌマと呼ばれる湖と、深い山や森ばかり……ワタシらにも誰も、お前さんがどこから来たのか皆目見当もつかないのだ。だからこそ、ぜひその
そう聞いたとき、何となく背筋にゾワッとしたものを感じたのを覚えている。
「ほ、ほんとにそれしかわかっていないのですか?」
「あぁ……その通りだ」
「近くに人の住むようなところは、ないのですか?」
「……ないね」
このときようやく、私は自分自身がこの村にとってどんな立ち位置にあるかを理解したように思う。私は、村の中に唐突に現れた、正体不明の存在なのだ。しかも、その記憶の全てを失っているだなんて……もののけの
「そんな……でも、そんなの、おかしくないですか? 私はだって……え、ど、どんな感じで私は……」
「お前さんが見つかった場所も、おいおい案内しよう……何か思い出すかも知れないからね」
バッと、身を乗り出す。「お願いします、すぐにでも!」
すがりつくような気持ちだった。あまりにも少なく、頼りない私の情報……せめて推察の余地のある程度にまで高めるために、少しでも何か掴みたかったのだ。今はこの人を頼るしかない。
「……怖いのかね?」おばあさんが、私の目を見つめる。
「不安です……何も思い出せないのって、とても……」
「フーム……いいだろう。が、その前にな……二つほど」
「な、なんでしょうか?」
おばあさんはゆったりとした動作でアゴのあたりを撫でたあと、はぁーっと溜め息一つ
責められているわけではないことなどわかっていたが、それでもジワっと目頭が熱くなってしまった。口から何か吐き出しそうなくらいの不安に襲われた。こうもはっきりとお前は怪しい、疎まれているなどと言われてしまっては、情けなくなるより他にないではないか……。
でも、やっぱりこのおばあさんはいい人だ。きっと、村に出てから覚悟なしに不審の目に
「無論、お前さんに罪はないよ……だが
「はい……大丈夫です」
「上々上々……それと、もう一つ」
また何か嫌なことを聞かされると思ったので、身構える。
「……はい」
「
「……オンセン?」
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