第一章 かんがえる

かんがえる 一

 私が次に目覚めた時にはすでに、ちょうど太陽が雲の下から斜めに差す、素敵に輝かしい晴れの朝だった。昨夜の体の重たさなど、まるで部屋の全体から重しが外されたかのように綺麗さっぱり消え去って、ほとんど意識をしないうちに、気づけば体が起こされていたほどである。もしやあの時あの部屋には何か得体の知れないあやかしの力があって、それが私を押さえつけていたのではあるまいか。あるいは、それはもしかしたら暗闇というものの重さなのかもしれない。だから人は夜には体が動かず眠りに落ちる。昨夜体を起こした時だって、枕元で瞬いていた灯りがその闇の重しを少し外してくれたからなのかもしれない……なんて、他愛のない想像を膨らましながら伸びをすると、開かれた障子戸から世にも冷たい朝の風がジーンと染みてきた。身に染みるというのはまさにこれかというくらいに染み抜いた。 

 おぉ、寒っ。

 慌てて茶色い掛布団を引っ張り上げて、肩までくるりとくるまった。

 前髪をかき分けながら、あらためて明るくなった部屋を見回して、ハーっとひとつため息をつく。想像していたものよりも一回りくらい広かったものだから……私が寝ている布団なら、あと十枚程度は敷けそうだ。暗闇の中で目を覚ました時には、草の揺れる音も近くに聴こえていたものだから、きっと狭い部屋に寝ているに違いないと考えていたのだれど、感覚なんて当てにならないものである。その真ん中にチョコナンと自分が寝ていたのだと思うと、なんだか見世物にされたみたいな気恥ずかしささえ感じてしまった。あのおばあさんはこの村の偉い人だろうか。あの人が私をここに寝かせたのだろうか。

 そのまま右に目を向けると、開かれた白い飾り付きの障子戸の向こうに、そよぐ草葉と大木が一本。その奥に背の高い竹柵が見えるあたり、どうやら庭のようである。つくづく良い部屋に寝ていたのだなぁ……でも、それってありがたいことだろうか。広いからって寝心地がよくなるわけはないのだから、もっとちょうどいい部屋で寝れば良かったのに……と、やや離れた位置にある囲炉裏を眺めながらあくびをする。

 さて、どうして私はこんなところで寝ている?

 私はここに寝たのか? 寝かせられたのか?

 存外頭はハッキリしていた。寝ぼけてはいない。昨夜は疲れのあまりか名前を思い出したところで寝てしまったが、思考はその時から連続していたかのように明晰だ。

 故に、私は誰だという問いも、薄気味悪い不安とともにまだ胸に残っている。

 そう、不気味。

 これは不自然な感覚。

 まずはそう言い切れるあたり、私は生まれたばかりということはないだろう。この状態を不自然と感じられる以上、それまでの「自然な状態である私」を私自身が知っていなけらばならない。記憶としてはっきりとは思い出せなくとも、感覚として、私はそれを知っている。この事実は、自分が言葉を解すること以上に私が記憶を喪失した何者かであるということを確信させていた。

 だけど……理屈なんて、しょせんは言葉である。この胸の奥にある気持ち悪さを取り除くにはほとほと役に立たないものである。それなのに、これほど不可解な状況の中にいるのに、あんなにも落ち着き払って、昨夜私は目覚めたことに、驚嘆きょうたんせずにはいられなかった。何度となく繰り返してきたはずの、自然な目覚め。

 その記憶。

 何一つ、思い出せないのに。

 ここは、どこだろう?

 なぜここに居るのだろう?

 何かを思い出そうと、必死に頭を動かしても、何もない。喉のところまで出かかっているとか、ちょっと寝ぼけてて、頭の中で引っかかっているような感じとはわけが違う。完全な伽藍がらんの洞なのだ。

 あまりの不可思議さに、まだ現実味を感じられなかった。

 何かの間違いではないか。

 ひょっとすると、これは夢なのか。私は決して赤子ではない。今、この世に生まれたはずがない。今まで私は生きてきた、その実感はある。疑いようのない自分自身というものの、クセというか、習慣というか、この思考の流れで生きてきたのだというひとつの自信。だってそうでなかったら、自分の姿もわからないこんな状況で、自分が女であることなどわかるはずがないじゃないか。そもそも人間が、男と女のふたつあることさえ知らない道理。

 そう、私はいろいろ知っている。私が今被っているものが布団だということも、サラサラという音の正体が、風が草を揺らすものだということも。

 では、それらはどこで知ったのだ? どこで私は生きてきたのだ?

 あ……あぁ……頭が痛い。痛くなってきた。

 思い出せそうで、でも言葉が出てこないなんてものじゃない。何もかも、すっぽり抜けてしまっていて、気持ちが悪い。

 それにいまいち、頭が回りきっていないような感じがするのだ。まだ少し寝ぼけているのかもしれない。

 鏡……そうだ、鏡だ。

 自分の顔が、見れないものか……。

「おはよう……ございます」と、細くしなびた声がして振り返る。見るとそこには一人の女性が、両手を体の前に重ねて行儀よくたたずんでいた。長い黒髪が、白い着物と灰色の顔にかぶさっている、痩せた女性。歳は如何程だろうか……若いとはとても言えない顔だ。それでも、あのおばあさんよりはずっと年少なはずなのに、その沈んだ肩や頼りない指先の仕草、いちいち体力を消耗していそうなほど苦しげな呼吸から感じられる雰囲気は、まさに枯れ木そのものである。もしかしたらどこか体が悪いのかもしれない。

 が、ともかく私は、明るい中で初めて人を見られたことに少なからず安心させられていた。また、彼女の身の丈の感じから、相対的に自分の大きさも推しはかれた。これはなんとなく気が付いていたことではあったが、私は大きくない。手のひらも丸っこいし、腕の細さも、これだけ痩せた彼女よりも細そうなところを見るに、間違いなく子どもなのだろう。

 子どもか……そういう知識も覚えているのだな。

「あ、おはようございます」と、笑顔で返事をする。「えっと、初めまして、スミレと申します。他には何も思い出せませんが……どうか勘弁してください」

 けっこう愛嬌よく振舞ったつもりだった。だけどその人は、むしろそんな私の気安さに腹を立てたのか、一瞬ではあったけど、まるで私を叱りつけるんじゃないかってくらいクシャっと顔の右半分を引きつらせた。

 ぎょっとして私は縮こまる。

 今まで枯れ木のようにたたずんでいた彼女から発せられた、敵意とも取れるような鋭い目線……油断し、なんの身構えもないままにそれに射竦いすくめられてしまった私は、途端に寂しく、心細くなってしまった。記憶がないのとはまた別の種類の不安で頭がいっぱいになった。

 今の私はこの……オオヌマの村において、いったいどんな扱いで存在しているのかまるで見当もつかないくらい、孤独な私であった。改めて自分の立場の異様さに身震いする。あのおばあさんは優しかったし、この部屋もいい場所のようだから、ある程度は手厚く保護されているのだと勝手に想像してしまっていたけれど、思い返してみれば、あの夜私は見張りがつけられていたではないか。たった一度目覚めただけで、あれほど慌ただしく見張りの誰かは駆けていって、私がおばあさんと話している間も、そのふすまの裏には男の人がしっかりと身構えていたではないか。こんな、明らかに小さくか弱い少女一人に対して……。

 うとまれているのかもしれない。

 怪しまれているのかもしれない。

 そう思うと、とたんに我が身をちっぽけに感じた。布団をだらしなく肩までかぶっている自分の姿が滑稽にさえ思えてきて、思わずしゃんと正座をし直してしまった。

 どうしよう……胸が張り裂けそうだ。

 自分が何者か知れないこと以上に、深く深く不安をあおられた。

 私はここにいていいのだろうか?

 やがてその人は、幾分気持ちが静まったのか、それとも私が気まずそうに居直ったことに気がついたか、ともかくホッとひと呼吸置いて、わざとらしい笑みを口元に浮かべて話し始めた。

「スミレさん……ですか。名前だけ、覚えていらっしゃるの?」

「あ、はい……あの、スミレで、はい……他は、なんとも……」

「……他は、なんとも?」

「はい……」

 しーんと、微妙な沈黙が部屋に流れる。さっきまであんなに素敵な朝だと思っていたのに……チュンチュンと、小鳥の鳴き声ばかりが先刻と変わらず気持ちよく響いている。

 灰色の顔のその人は、なんだか疑り深げな眼光で、私の体を上から下へジロジロと見下し続ける。「……それでは、その名前も、真実まことなのかはわからないのでは?」

 どうしてそんなこと聞いてくるのかなぁと頭を掻く。「えっと、それは、なんとなくわかるといいますか……」

「……ほんとうに?」

「はい……」

 なおも疑り深い目で私を眺めながら、その人は不承不承といった面持ちで頷いた。これは、嫌われていると思って間違いないのだろうか? そうだとしたら、すごく嫌な状況である。しばらくは手厚く介抱してもらえるかと思っていたが、私が少しか元気になった途端に村を追い出されるやも知れぬ……おぉ、怖……。

「……わかりました。朝食あさけの用意ができておりますが……こちらにお持ちしても大丈夫でしょうか?」

 朝食か……。

 グウっと、腹が鳴ったような気がした。そうか、お腹が空いているよな……当たり前か。

「あ、はい、ありがとうございます……えっと、その、よろしくお願いします」と、今度はできるだけ丁寧に、畳につくほどに頭を下げる。

「それでは……」と、白服の女性は頭を小さく下げ返してきながら、足早に立ち去ろうとする。

 ふと思い至ることがあったので、呼び止める。「あ、あの……」

 背中をピクっと震わせて、彼女は振り返った。

「はい、なんでしょうか……?」

「で、できればお名前を……教えていただけないでしょうか?」

 そう言われた彼女は、何やら疑り深い目線で私をじろっと見回したあと、小さな声で、「……シズと申します」と呟いた。

「シズさん……ですね。ありがとうございます」また、頭を下げる。

 しばらく振り返ったまま、次の質問が無いかを確認してから、シズさんはもう一度頭を下げる。「……では」

 スッスッスと床を擦るような足音をたてて、彼女はいなくなる。おかげで私は少し安心して、体をのっぺりと布団に横たえた。

 あー気まずかった。でも、名前はどうしても知りたかった。だってその人を思い出そうと思ったときに、なんだか具合が悪くなりそうなんだもの……。

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