第二章 わかがえる
わかがえる 一
「……どうしても、なのか?」と、困り果てながら私を眺めるおばあさんの前で、私は正座をしながらも、
「だって……私の髪ではないですか。私の体の一部なのですから、それをほかの人にとやかく言われる筋合いはないと思います」
「それはそうなのだが……」
と頭を掻きつつ、シズさんと目を合わせて眉をひそめるおばあさんを見ながら、正直なところ私も焦っていた。まさか自分が、こんなにも
昨日ギンジさんの背中で思った通りに、私はおばあさんに頼んで髪を切ってもらうことにしたのが今朝のこと。おばあさんはそれを快く引き受けて、シズさんを呼んでくれたのだけれど、私が一言注文をつけた瞬間に、二人は固まってしまったのだ。
「……短くと、言ったね?」
「はい、クダンさんくらいがいいです」
私がそう言った時の、シズさんの眼差しときたら、あれは完全に悪人を見る目だった。唇をきつく結んで、両目をカッと見開いて……まるで私が、今からここで用を足しますとでも言ったみたいにびっくりしていた。でも、どうしてそんな目で見られなきゃいけないのか皆目見当もつかなかったので、私は素直に、「どうしてそんなに驚くのですか?」と聞いたのだが、おばあさんの返事が……。
「女が髪を短くというのはなぁ……」
だったので、私の頭はカッカと燃え上がってしまったのだ。まさかおばあさんがそんな事を言うとは思ってもみなかったのだ。だけど色々言い合っているうちに、どうやら女が髪を短く切るということが、少なくともこの村ではありえないということがわかったし、つまるところ私がここで髪を短く切ってしまうと、村の中での私の立場がさらに悪化するということをおばあさんは
わかったのだが……。
正直意固地になっていた。
女だから……その理由にとにかく腹が立ってしまったのだ。だから、自分でもやめておいたほうがいいかなって思いながらも、発言を撤回する気分にどうしてもなれないって、もうここまで言ってしまったのだから引き下がれないって、後から考えると本当に子供らしくバカバカしい理由で、私は意見を押し通してしまった。邪魔なら縛ったらどうかだとか、本来なら納得できるような代案もあったというのに……。昨日村で会った人たちの優しさに少し油断していたというのもあるかもしれない。その時私が会った人たちが、いったい村の人たちの何割ほどなのかも知らずに……。
私のこの意地の張りようは、きっと昔からのものなんだろうなと、未だ欠片さえも立ち現れぬ記憶に思いを馳せてみる。私はいったいどこで暮らしていて、どこで大きくなってきたのか……なんだか今のままだと、私はこの姿で生まれたんじゃないかって思えてきて、不安ばかりがグルグルと頭を渦巻く。
そんなだから私は、記憶を思い出そうとする努力に、少々尻込みを感じていた。だって、辛くなるばかりなんだもの……。
何かのきっかけで、パッと記憶が戻ったりしてくれないかなぁ……。
と、またシュンとした気分に陥っていたのはわずかな時間だけのこと。サッパリと短くなった自分の頭を鏡で確認し、髪が首にまとわりつかない身軽さを感じた時には、自分でもちょっと恥ずかしくなるくらいにニンマリしてしまった。長さは肩よりは少し上で、横も耳が少し隠れるくらいと、私が想定していたよりも明らかに長めだったけれど、この辺が妥協点ってやつかもしれない。
機嫌の良いまま、とりあえずは髪を切ってくれたシズさんに笑顔で「ありがとうござい……」と振り返った。でも、その先に見えた眉間に深々とシワの寄った表情を見て、私の声は尻切れに細々としぼんでしまった。
嘘みたいに、怖い顔してる。
流石に肝を冷やした。
そんな、何もそこまで……ほとんど怒っているみたいな顔じゃないか。その後もシズさんに温泉まで連れて行かれたり、また着替えも手伝ってもらったりとしたのだけれど、その間にずっとそんな感じだったので、気まずくて気まずくて仕方が無かった。髪、切らない方が良かったかな……いや、でもだって、こんなのおかしくないかな? 髪短く切ったくらいでどうしてそんな目で見られなきゃいけない? そんな妖怪でも見てるみたいな……。
なんて、そんな文句を言う度胸なんてあるわけもなく、ただただ
「……スミレさん?」振り返らないままのシズさんが、久しぶりに声をかけてきたので、背筋にヒヤッとしたものを感じる。
「は、はい?」
「スミレさんはどうして、髪を短くしたかったのでしょうか?」
「うーんと……動きにくいからと言いますか……」今にもシズさんが怒鳴り出すんじゃないかと、内心かなりドキドキしながら、慎重に言葉を選ぶ。「あの、何かいけなかったでしょうか?」
「いえ……そんなことは」それだけ言って、シズさんはまた黙ってしまう。やっぱり私は嫌われてるのかしら。でも、なんだかんだ髪を切ってくれたのはこの人だし、今日も体を洗ってくれたし、今だって私の頼みで神社まで案内してくれているし……それもこれも、おばあさんの命令だからってだけの話だろうか。なんだかどんどんシズさんという人がわからなくなっていく。
うだうだ悩んでいるのも束の間、視界の隅に、なにやら動くものを捉えて立ち止まる。
ひょっこりと茶色い影が、森の中から顔を出した。
丸く開かれた目は非常に鋭く、三角の耳が角のように頭の上に突き出している。口周りの毛は白っぽくて、かすかに緑色に汚れていた。
「あっ」と、私が声を上げるのに合わせて、シズさんは振り返り、そして私の見ている方を見た。
「あぁ、キツネですね」
「きつね?」
その名前、目が覚めてからどこかで聞いた気がしたけれど、思い出せない。ともかく綺麗な生き物だったので、もう少し近くで見たいなと思ったのだけれど、ほんの少し私が屈んでそちらに近づくやいなや、そいつは音も立てずに森の中に消えてしまった。とても私が追いつけるようなものではない速さだった。
あぁ、残念。
キツネを諦めて、長い階段を何度か曲がりながら上り続けると、二本の柱を高い所で「円」みたいな形に繋いだものが見えてきた。階段はそこまでだし、きっとあれが神社の入口だろう。けっこう上ったなぁ……なんだかハァハァと息を切らしているシズさんには本当に申し訳ないけど、でも、彼女を支えて歩くには、私は明らかに力不足だ。
階段を上りきる。
ほぇーっと、思わずため息が漏れた。
「ここが神社ですか……」
石畳の先に見えたのは、大きな三角屋根の黒い立派な
カエルだ。池を囲む大きな石の上で、こちらを睨むようにジッとしている。
ぶるっと全身が震えて、思わず目を伏せる。神社にはたくさんいるって、マキさん言ってたっけ……。
呼吸を整えて正面を見直すと、神社の前には私よりも少し大きいくらいの石像が二つ、入口を挟むように置いてあるのだが、それがどちらもカエルであることに気がついてまた気分が悪くなる。
もう最悪……。
昨日、最初にギンジさんに会った時、彼が寄りかかっていたのもカエルの置物だったなぁ……それを見たときには、ただちょっと不気味と思っただけだったけれど、何を模したものなのかわかってから改めて見ると、いかにも現物を想起させられてしまって気持ちが悪い。
「スミレさん、こちらへ……」
いつの間にか神社の入口のところに立っていたシズさんが、私を呼ぶ。二つの石像を見たくなかった私は、地面の朽ちかけた石畳から目を離さないまま、意味がないと知りつつも肩身を狭くして急いで駆け抜けた。そしてシズさんの隣までたどり着いてたところで顔をあげて、おや? と思う。なんだこの入口?
この建物の構造は、どうやら上から見ると凸の字形をしているらしい。その先っちょの部分が、今私たちの目の前にある三段ほどの階段の先にあって、そこが入口の戸なわけだけれど、そこに白い紙が縄にくくりつけられたものがビッと張ってあるせいで、出入りするには不便に思えた。ここが入口じゃあないのかな?
首をひねって考えている私の横で、シズさんがおもむろに正座する。
「
「あ、はい」
私も素直に、正座した。膝に当たる石の感触が冷たい。
シズさんはまず、一度軽く頭を下げた後に、さらに大きく頭を下げる。当然私もそれを真似る。
次に両手のひらを合わせて二、三度こすり合わせてから、パン、パン、と二回手を叩いた。
私も、パン、パン。
……シズさんは目を閉じているけれど、それは真似なくとも大丈夫、だよね? だってそうしなきゃそもそもどうにもならないし。
最後にもう一度、大きく頭を下げて、シズさんは立ち上がった。
「……以上が、拝殿に入る前の作法になります。今後こちらへ立ち入る用のあるときは、いかなる場合においてもこの手順を省略してはなりませぬ。よろしいですか?」
相変わらず淡々とシズさんは話していたけれど、その内容の重たさ、とくに「いかなる場合においても」という強い意味の言葉を言われたので、私は少しドキっとした。こんな行為の何に意味があるのかって正直思っていたけれど、でも、たとえ忍び込むことがあったとしてもこの
タタリ神様……でしたもんね。
祟りという言葉の意味は、なんとなく知っている。
「はい……必ず」
シズさんは私を見て、少しの間黙っていたけれど、やがて納得したように小さく頷いてから、階段を上って、そしてすぐに左に曲がる。やっぱり正面のこれは入口じゃなかったようだ。
形が凸の字なわけだから、すぐにもう一度右に曲がるわけだけれど、折れた先がちょうど入口らしく、村でよく見るのと同じ
それをくぐり抜けた先の、微かな光が差し込むだけの暗がりの中で、私は今度こそ本当に驚嘆の声を上げた。
神社の内部は、大きな部屋一つの単純な構造である。中には五段ほどある大きな棚が左右に三つずつ、計六つ並んでいたわけだけれど、そこにはびっしりと人形が、微かな光を放つかのごとくにズラッと並んでいるのだった。
どの人形の顔にも、文字の書かれた札が貼られている。
あまりにも尋常ならざる光景に思わず後ずさった。
なんだか死ぬほど不気味だった。
シズさんの着物の袖に、しがみつく。「うわぁ……」
「私どもの村は代々、ノガミ家をはじめといたします諸家へと人形を納めることによって、多大なる恩賞を
「あ、はい、だいたい……」つばを飲み込みつつ、色とりどりの着物を着た人形たちを眺め回す。
「それでは、ツクロヒのことも?」
「一年に一度、人形を使者が持ち寄る日……でしたよね?」
「はい」シズさんは頷く。「その時、厄を吸った人形は本来丁重にお祓い申し上げた後、山の上にある石台の上で焼き果たし、その御霊を鎮める習わしなのですが……ここにある人形は、その受けた厄の程度が
心の臓にヒンヤリとしたものを感じながら、両手で体を抱きつつ「……はい」と頷いた。どうしよう……こんなおっかないところだとは思わなかった。
甘い香りがかすかに鼻を突く。なんの匂いだろうか。
視界も音も、ここに陳列された人形たちからにじみ出る瘴気に当てられたみたいに、どこか不安定に感じられた。
元から暗い森の中、屋根につく天窓と雨戸から差し込む細い光さえも棚に
今や妙な威圧感さえ放っているように感じる人形たちの飾られた棚を横目に、真っ直ぐに進んでいく。その先には白い布や木の器、小さな石像に動物の角と思しきもので丁重に飾られている二つと祭壇があって、その間に白い幕が、どこかへの入口のように垂れ下がっている。よくはわからないけれど、きっとあの向こうにあるものが、ここで祭られているこの神社の本体みたいなものなんだろう。布で遮られた内側から橙の光が染み出している。中に一体どんなものが置いてあるのか……。
しかしその祭壇以上に私の目を吸い寄せたのは、むしろその手前、両脇の壁に並ぶ小さな人形たちだった。
そこにはおどろおどろしげに並ぶ人形棚とは別に、簡素な木の台が二つ両側に据えてあって、そこにもまた人形が供えてある。左に七つ、右に六つ、どれも札は貼られていない。
「あの、シズさん?」袖を引いて、足を止める。「これらは一体なんなのでしょうか?」
歩を止めたシズさんが、ゆっくりと振り返って私を見下ろした。「……クダン様が一番最近にお作りになった、人形でございます」
「あぁ、これが……」道理で、後ろに並ぶいかにも危なげな人形たちと比べて、まるで子供のおもちゃのように澄んで感じるわけだ。「クダンさんから、見てくるといいと言われていました」
「まぁ、クダン様が……」シズさんは意外そうな表情で、人形を睨む。「それでは、ご覧になられますか?」
「はい」喜んで、頷く。「あの、触ってもよいのでしょうか?」
「触る……」私の提案に一瞬だけ
「みそ……え?」
「ハクユのことです……私はあちらの清掃を致しておりますから、御用がありましたらお呼びくださいまし……」
そう言ってシズさんは、ゆっくりとした足取りで祭壇の間、布の裏へと入っていった。あの中はどうも思ったよりも広いらしい。そちらはそちらで気になったけれど、今の関心は目の前の人形の方が優先か。
膝を落として目線を合わせると、改めて他の人形とは何かが違うんだとなというのを思い知る。
左に並ぶ七体は、見たところ全てが男の子のようである。反対に右の六体は全部女の子。大きさはどれも、作場でクダンさんに見せてもらったのと同じような感じだけれども、ちゃんと年の差がわかる程度に大小変えてあるようだ。男女とも、私から見て手前にあるものほど幼い子を模したものらしい。男児人形は皆ギンジさんやクダンさんと同じ茶色い着物を着ていて、女児人形は今私の着ているような紺色の着物。一つ一つに、上品な手作りの愛らしさを感じた。クダンさんって性格はあれだけれど、やっぱり人形作りは上手なんだな。なんだっけ、確か秘伝の造形師とかなんとか。しかしよく見てみると、一つ一つの完成度には多少の差を感じるようだ。例えばこの一番小さい男の子のやつなんかは、あんまり……。
そう思いながら私は、本当に何気なしに、並ぶ人形の左の手前、四角い顔の、幼い男の子の人形に指先を触れさせた。
その瞬間……。
ふわっと、頭の中に浮かんだ姿。
それはひとりの人間。
一人の、顔。
私よりも幼くて丸い顔に、元気いっぱいに輝く瞳。それに、きりっと上がった眉毛。肩からずれてる茶色い着物と、汚れた手足で駆け回る……。
その姿。
動き。
声。
匂い。
存在。
……名前。
ゼンタ。
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