第四章 魔界美少女探偵完勝


   1


「ちょちょちょちょちょちょちょちょ、ちょっと待てぇ」

 ひどく狼狽した叫び声。チョーさんだった。

「悪魔だと? そんな馬鹿な話信じられるかぁあああ!」

 口が利けるようになったとたんこの始末だ。まあ、チョーさんらしいといえばそうなんだけど。

「もう、人がせっかく気分を盛り上げてるのに最低ですよ。まあ、ミステリーの中では、刑事は名探偵の邪魔をするものって相場は決まってますけどね」

 デデリカがブーたれる。

「ふん、これでも疑うか、おめえ」

 デデルコが前方に手をかざした。その先には黄泉子さんがいる。

 斜めに傾斜した祭壇の上に置かれていた十字架がふわりと浮いた。もちろん黄泉子さんを磔にしたままだ。そのまま波間を漂うかのように揺らめきながらデデルコの方に引き寄せられていく。

「はっ!」

 デデルコの気合とともに、十字架が粉々に砕け散った。

 黄泉子さんの裸身が、海に沈むかのようにゆっくりとデデルコの腕の中に落ちていく。デデルコはしっかりと抱きとめると、血で覆われた体を優しくなでた。とたんに洗い流されたように白い肌があらわになっていく。

「さあて、お姫様。お目覚めのキスだ」

 デデルコはお姫様抱っこ状態にしたまま、黄泉子さんの唇を奪った。

 こ、このレズ悪魔が、黄泉子さんの聖なる唇をぉぉぉおおおお……。

 僕の心の中に、嫉妬とも怒りともとれる感情が雷雲のように広がっていく。

 黄泉子さんがゆっくりと目を開く。

「あ、あ、あ、あれ? あたしどうしたんだろ?」

 黄泉子さんは動揺している。とうぜんだ。裸でデデルコに抱かれているんだから。

「心配するなよ、ハニー。おまえを脅かしたやつらはオレたちがお仕置きしてやるさ」

 黄泉子さんは唖然とした表情で、きょろきょろとまわりを見渡した。

「あ……あっ」

 吸血鬼の群れを見て、状況を思い出したんだろう。可憐な唇から脅えた声が漏れた。

「もう、あんなやつらには指一本ふれさせないさ」

 デデルコの気障な台詞に、黄泉子さんの神秘的な瞳から泉のように涙が湧く。

「素敵っ」

 黄泉子さんはこともあろうか、デデルコの首に腕を巻きつけた。

 ぐああああああ。黄泉子さん、あなたは動揺してるだけです。正気を失ってるんです。

 あ、あのときのキスはいったいなんだったんですか?

 くそおおおお。デデルコのやつ。一番おいしいところを持っていきやがってぇええ。

「黄泉子さん!」

 僕の叫び声に黄泉子さんは一瞬きょとんとしたのち、ようやく自分が今、全裸なのを悟ったらしい。

「きゃあああ。いやあああん」

 蝋のように白かった全身を、一瞬のうちに薄紅色に染め、顔を両手で覆ってデデルコの腕から飛び降りたかと思うと、こそこそとデデルコの陰に隠れた。

 し、信じてますよ、黄泉子さん。さっきのは悪魔の魔力ってやつですよね? ちきしょう、デデルコのやつ、汚い手で黄泉子さんをたぶらかせやがってぇ!

 そ、それにしても、美しすぎです、……黄泉子さん。

 パニックになったのは僕だけではないようだ。常軌を逸した叫び声が聞こえる。

「ちょちょちょちょ、チョーさん。こいつら本物です。本物の悪魔っすよ」

「ば、ば、ば、ば、馬鹿いってんじゃねえ。そ、そ、そ、そんなことがあってたまるか。トリックだ。トリックなんだよ」

「もう、外野うるさすぎです。あたしはみんなの前で推理を披露するのだけが楽しみで人間界に来てるんですからね。もうまったく、邪魔しないで欲しいですよ」

 デデリカはふたりの刑事を指さし、金色の瞳で睨みつけた。

「お、おう。そこまでいうなら推理を聞かせてもらおうじゃねえか。おめえが悪魔かどうかはこの際どうでもいい。目えつぶってやらあ。だが、犯人は悪魔じゃないんだろ、ただの人間なんだな?」

 チョーさんがいった。ただの頑固親父かと思えば、けっこう柔軟性があるのか?

「そうそう、そうですよ。それが正しい刑事の名探偵に対する態度ってもんですよ」

 デデリカは満足そうな笑みを浮かべ、うんうんと肯いたあと、拳を振り上げて断言した。

「さっきもいいましたけど、犯人は悪魔でも吸血鬼でもないし、魔力も超能力も使えないただの人間に間違いないですよ」

「あれだろ? けっきょく、狂言誘拐だったんだろ? 雛祭響子が仲間を使って自分で失踪したんだろ?」

 この期に及んでも、自説に固執するチョーさん。ある意味すげえ。

「ぜんぜん違いますよ。響子たんはただの被害者です」

 デデリカはえへんと胸を張って、チョーさんの推理を否定した。

「そういうからにはなんか根拠でもあるんだろうな?」

「だってぜんぜん動機がないですよ。狂言誘拐を装って、身代金の要求もしないでどうするんですか? 狂言ならいずれ戻る気だったんでしょうけど、そのときどう説明する気なんです? 帰ってから大変ですよ。あらぬ噂を立てられたり。なんのメリットもないですよ。それともあなたには狂言誘拐だとした場合、そのメリットを説明できるんですか? それもこんなありえそうもないことをわざわざ演出してまで」

「う、そ、そりゃあ、おめえ……」

 チョーさんは押し黙った。

 この親父、あれだけ、狂言、狂言いっておきながら、その動機すら説明できないのかよっ!

「第一、響子たんが犯人で狂言誘拐ってのが真相なら、ミステリーとして面白くもなんともないじゃないですか」

「ちょ、ちょっと待て」

 僕はあわてて口を挟む。

「そんなことより響子さんはどうなったんだ? まさか、すでに生け贄として殺されたのか?」

「そんなに殺されててほしいんですか?」

「馬鹿いうな。心配してるに決まってるだろうが」

 僕は叫んだ。

「冗談ですよ、冗談。ほんとに優たんはユーモアってもんを欠片も解さないですからね」

 デデリカは「こまった、こまった」とでもいいたげな顔つきだ。

「心配しなくてもちゃんと生きてますよ」

「ほんとか?」

 これは僕だけでなく、チョーさんとミス研も同時に叫んだ。

「響子さんはどこにいるんだ?」

 早く救い出さないと手遅れになるかもしれない。

「さあて、どこですかね?」

 デデリカは小首をかしげる。

「悠長なこといってんじゃねえぞ。知らねえんならあいつらをしょっ引いて、ぶん殴ってでもゲロされれば済むこった」

 チョーさんが民主警察とは思えない暴言を吐く。しかし僕はそれに賛成だ。悪魔がなんといおうと世間がどういおうと、大賛成だ。人質の命を救うためなら悪党に人権など必要ない。

「んもう、それじゃあ興ざめですよ。刑事が暴力的な取調べで事件が解決するミステリーなんて聞いたこともないですよ」

「そんなこといってる場合じゃねえだろ。雛祭響子がほんとうに誘拐されたんなら、俺たちは彼女を無事に助け出す義務がある」

「そうだ、そうだ」

 僕は拳を上げてチョーさんを応援した。

「もうせっかちですね、ふたりとも。心配しなくてもだいじょうぶですよ。ほんとはどこにいるかわかってるんですから」

「じゃあ、すぐに救出にいかなくちゃ」

 僕はのん気なデデリカに詰め寄る。チョーさんとミス研ものってきた。

「もう、だいじょうぶですっていってるのに」

 デデリカがふくれっつらをする。

「ふん、オレが安心させてやるよ。デデリカはもったいぶってるだけさ」

 デデルコが一歩前に出た。そして十三人の吸血鬼のひとりに向かって手をかざす。

「かあああああ!」

 デデルコの気合とともに、その吸血鬼の黒マントは切り裂かれ、はじけとんだ。

 中から現れたのは、響子さんの裸身だった。


   2


 いったいなにがどうなっているんだ?

 僕は激しく混乱した。

 たしかにここに進入しようとしたとき、僕は外から響子さんの顔をした吸血鬼を見たような気がした。だけどそれは見間違いだと思った。響子さんは生け贄にされたと確信したからだ。

 黄泉子さんが生け贄にされている姿を見た以上、響子さんも生け贄にされたと考えるのが当たり前だろう?

 それにデデリカは狂言誘拐ではないといった。響子さんは被害者だと。

 ならばなぜ響子さんが黒マントのやつらの中に入っている?

 彼女は脅えきった顔で、裸身を隠すようにうずくまる。

 僕はそのとき、初めて彼女が後ろ手に縛られていることに気づいた。さらに口には猿轡が。

「デデリカ、これは……?」

「見ての通り、彼女は捕らわれの身ですよ。捕らわれのお姫様が、敵の下っ端の中にまぎれているなんて誰も思わないです。葉は森に隠せ、死体は戦場に隠せ、人質は加害者の群れの中に隠せ、ですよ」

 そ、そ、そ、そんな馬鹿な?

「さっき優たんにそこにいた全員が襲い掛かろうとしましたね。でも、よく観察すると、ひとりだけ積極的じゃない黒マントさんがいたのに気づきませんでした? なんかいやいや動いてるみたいな。変だと思わないんですか?」

 そんなことに気づく余裕なんかあったわけないじゃないか。

 でもそれにしたっておかしいじゃないか? それならば、どうして……?

「どうして逃げないんだ?」

 チョーさんが僕のかわりに叫ぶ。

「簡単にいいますけど、そう簡単に逃げられませんよ。後ろ手に縛られた状態で、こんな数の敵がいるんだから。それにいくら気丈だって高校生の女の子なんですから、怖いんですよ。逃げようとしてひどい目に合わされるのがね」

 たしかにその通りだ。

「それだけじゃない」

 沖田が叫んだ。

「見てみろよ、彼女の首を」

 響子さんの首にはネックレスがつけてあった。二重の金の鎖。その間には十センチほどの細長い飾り。

「それがただの首飾りだと思ったら大間違いだ。中に小さなナイフが仕込んであるんだよ。このリモコンスイッチを押せば、スプリングで飛び出し、喉に突き刺さる。しかも施錠されていてとれない。だから響子は逃げれないんだよ」

 沖田はフードの下から邪悪な笑みを浮かべた唇を覗かせると、百円ライターのようなものを突き出した。それがリモコンスイッチか?

 そ、それって、非常にまずいんじゃ?

「こいつを押せば、響子は死ぬぞ。いいのか?」

 沖田はマジだ。とてもはったりには聞こえない。目はフードに隠れていて見えないが、きっとイっちゃってるに違いない。いったいなにを考えてるんだこいつは?

 いや、逃げるつもりだ。響子さんを人質にして。それとも自暴自棄になって、彼女を道連れにするつもりか?

「デデルコ、馬鹿ですよ、こいつ」

 デデリカが見下した目つきで沖田を見る。

「はあぁ、そんなものがオレたちに通じるとでも思ってるのか?」

 ため息をつくデデルコの顔には、哀れみすら感じた。

「押してみろよ、試しに」

「や、やれないとでも思ってるんだな? 後悔するぞ。くそ、やってやる、やってやろうじゃねえか」

「うわあああああ、やめろ」

 沖田のあまりにも追い詰められた真剣さに、僕は思わず叫んだ。

 追い詰めすぎ。デデルコたち追い詰めすぎだ。ほんとに押すぞ、こいつ……。

 ボタンが押された。

 なにも起こらない。

 よく考えればとうぜんといえばとうぜんだった。こいつらは本物の悪魔だ。ついさっきもその力をまざまざと見せ付けられたばかりじゃないか? こいつらにとってリモコンを効かなくするくらいそれこそ朝飯前なんだろう。

 う~む。事件を推理するためには魔力は使わないが、犯人を捕まえる段階になれば魔力は使いたい放題らしい。つまり人間相手の捕り物などにはまるっきり興味の欠片もないのだろう。

「ふん」

 デデルコは指をぱちんと鳴らす。その瞬間、ネックレスもロープも猿轡もちぎれ飛んだ。

「きゃあああああああ」

 とたんに響子さんが悲鳴を上げた。さっきまで惜しげもなくさらされていた可愛らしい胸をしっかり隠して。

「くそ、くそ、くそぉお」

 沖田はリモコンを投げ捨て、変わりにナイフを取り出した。そして響子さんに向かう。

 とたんに響子さんが宙に浮かんだ。そのままデデルコのほうに吸い込まれるように空を飛ぶ。沖田の手に持っていたナイフは粉々に砕け散った。

「まぬけ、そんなことがオレの目の前でできるとでも思ったか?」

 デデルコは勝ち誇った。しかも両手に花というか、両サイドには全裸の響子さんと黄泉子さんが寄り添っている。

 な、なんて羨ましいんだ?

「み、見ないで……優くん」

 響子さんが真っ青だった頬をぽっと朱に染め、もじもじしながらいう。

「はい」

 僕は思わず目をそむけた。そのとき黄泉子さんが視界に入ったんだけど、なんとなく目が怒っているような気がする。気のせいだよね、それって?

「デデルコ、男たちの注目がそっちのふたりに集まるのってどうかと思いますよ。これから名探偵が事件を解決するクライマックスってときに」

 デデリカが頬をふくらませた。自分に注目が集まらないのは耐え難いらしい。

「これで体を隠していろ」

 デデルコが手を挙げると、祭壇に乗っていた赤い布きれが生き物のようにひらひらと飛んできた。黄泉子さんと響子さんは顔を赤くしつつ、ふたりで肩寄せそれにくるまった。

 一瞬、ふたりは顔を見合わせたかと思うと、恥ずかしそうに互いに顔を背ける。

 うおっ、あの赤い布きれの中には、ふたりの羞恥に染まった裸体が密着ぅう。

 僕がそんな馬鹿な妄想で顔を赤らめていると、黒マントの下っ端のうち、ふたりがいきなり出口に向かって走った。

 とてもデデルコにかなわないと思ったらしい。

 とたんにそいつらがふわりと宙に浮いた。

「逃げられるとでも思ってるのかよ」

 デデルコは残酷な笑みを口元に浮かべると、左右の人差し指を突き出し、くるくると回す。

 宙に浮いたふたりはそれに合わせて回転した。恐怖の叫び声を上げながら。

 さらにその状態で、互いにぶつかり出す。

「あははははは。踊れ、踊れ」

 デデルコはそれを見ながら大口を開けて笑う。

 そういうと、ほんとうに踊り出した。空中に浮きながらバネ仕掛けの人形のように、手足を不自然に跳ね上げながら。

 もちろんやつらだって踊りたくて踊っているわけじゃないだろう。わけのわからん魔力で、強制的に体を動かされているのだ。

 それを見て、残りの奴らは氷のように固まった。チョーさんたちでさえ、口をあんぐり開けて事の次第を見守るだけだ。

「んもう、最低ですよ、あいつら。名探偵がこれから事件を解決しようってときに逃げ出すやつなんて聞いたことないです」

 デデリカがそんなやつは絶対に許さんという口調でいった。

 デデルコは遊びに飽きたのか、ようやく空中で踊るふたりを解放した。投げ捨てるように、コンクリートの床に落とす。まあ、死んではいないだろう。

「おい、そこの雑魚ども。おまえらは動くな、口もきくな。息だけしてろ」

 デデルコは残った黒マントたちを燃えるような真っ赤な瞳で睨み付ける。

 哀れな吸血鬼軍団はもう完全に蛇に睨まれた蛙状態だ。がたがた震える以外は、ほんとうに身動きひとつしない。

「そ、それであいつらは誰なんだ? 誰があんたをさらった?」

 気を取り直したチョーさんが、響子さんに向かって叫んだ。

「はい、スト~ップです。真相を語るのは名探偵の役目ですよ。被害者に真相を聞いて事件解決なんていう間抜けなミステリー読んだことないです」

 デデリカがチョーさんをけん制した。それもまったくどうでもいいような理由で。

「し、しかし……」

「だいじょうぶですよ。ちゃ~んと馬鹿でもわかるように説明してあげますから」

「じゃ、じゃあ、おめえに聞くよ。あいつらは誰なんだ?」

「もうほんとせっかちですね、この刑事さんは。ここが一番おいしいところなんですから、あたしが真相を解明したら、『まさか?』とか『馬鹿な?』とかしっかり驚いて欲しいです。それがあなたたちの唯一の役目なんですよ。まったく、わかってるんですかね」

 デデリカが勝手なことをいう。

「チョーさん、チョーさん、余計な口を挟むとへそを曲げるだけっす。僕らが驚き役に徹してやれば、気分よく推理を披露しますよ、きっと」

 ミス研はミステリーマニアの気持ちがわかるのか、チョーさんを説得した。

「だってよ、おめえ。あんな中学生だか小学生だかわからねえ小娘の推理にアホみたく驚けっていうのか? いくらなんでも情けなさ過ぎるぞ」

 まあ、たしかにそうだろう。たぶん自分の娘よりもはるかに幼い外見の小娘に主導権を奪われ、自分にできることはわざとらしく驚くことだけ。刑事生活何十年かは知らないけど、ベテラン刑事チョーさんにとっては屈辱以外のなにものでもないはずだ。僕はちょっとだけ同情した。

「どうやらやっと自分たちの立場がわかったようですね。じゃあ、説明を始めましょうか?」

 デデリカはそういって、目を糸のように細めると、頬をピンクに染め「ぐふふ」と笑う。死ぬほど嬉しそうだ。ほんとにこれだけのために人間界に来たらしい。いや、戻ってきた。僕に対して腹を立てていたはずなのに。

 下手にこれ以上邪魔をするとなにをしでかすかわからない。チョーさんたちもそう思ったのか、もはやなにも口出ししない。

「まずこの事件について整理するですよ。いったいいくつの出来事が起こったのか? まずはじめに吸血鬼に扮した黒マントの怪人が響子たんの前に現れました。不安になった響子たんは友達の林田めぐみに話したわけです。それが優たんに伝わり、優たんが彼女を尾行する。そして優たんも吸血鬼を見た。そこからはだんだん話が大きくなっていきます。林田は沖田に、優たんは黄泉子たんに話し、それぞれ吸血鬼を捕まえようとしたわけですよ。でも、まあ、ここまではいわば前座ってとこですかね」

 デデリカはここまでいうと、すこし間を取ってまわりを見渡した。

「そ、それで?」

 しかたなく僕が相槌を打ってやる。どうも反応がないとやる気が起きないタイプらしい。まあ、うすうす気づいてはいたけど。

「ふふん、そしていよいよ事件の核心に迫るわけですよ。黄泉子たんや沖田、それに高木の前で響子たんは吸血鬼とともに消えうせてしまったわけです。そして最後に黄泉子たんがさらわれ、その証拠品としてジャンバーを優たんに渡す。そしてそのあとはここであったことにつながるわけですよ。まあ、それだけの事件が今回起きたわけですね」

「そんなこと今さら解説してもらわなくたってわかってるぜ。そんなことより最初の黒マントは誰だったんだ?」

 チョーさんが突っ込んだ。

「そうそう、その調子で合いの手を入れるのが刑事さんの役目ですよ」

 デデリカは小馬鹿にしたようにいう。

「まあ、じつは最初と二回目に響子たんの前に現れた黒マントは、誰がふんしていたのか特定するのは無理ですよ。だってこいつらこんなにいるわけですから」

 いや、まあ、たしかにそうかもしれないけど……。名探偵の言葉とは思えない。

「それにそんなことはどうでもいいことですよ。誰にだってできますから。まあ、体格から判断して、真犯人の頭目自らやったと思いますが、確証はないです。こいつらを逮捕したあと、刑事さんがアリバイ調べとか取調べで地道に特定すればいいじゃないですか?」

 デデリカはまさにそのことに関しては興味の欠片もなさそうだ。

 そして事実、まさに頭目こそが、体格といい、雰囲気といい、僕の見た吸血鬼の記憶に一致する。あれは小柄で華奢だったけど、妖気のようなものを発散していた。雑魚どもからはそんなものは感じられなかったのに。

「そんなことよりも興味深いのは、響子たんが消えた日のことですよ。でもそれはまあ、メインディッシュということで、最後がいいですね。まずは簡単な黄泉子たん誘拐事件から説明するですよ」

「おう、誰がさらったんだ?」

「誰がもなにも、あれは見たままの事件ですよ。なんの捻りもありません。犯人はこいつです」

 デデリカはそういうと、右手を開いたまま前に突き出した。

 その延長線上にいた男の黒マントがずたずたにちぎれ飛び、中から現れたのは全裸の沖田だった。


   3


 どうも悪魔を呼び出すときは全裸が基本らしい。僕のときもそうだったけど、響子さんをマントの下で裸にしたのも、召還条件にあるのだろう。

「だがこいつにはアリバイがあったはずだ」

 チョーさんが叫ぶ。

 たしかにそうだ。僕は沖田が吸血鬼ならではの超能力を使ったと思い込んでいたんだけど、デデリカの説明によると沖田はただの人間だ。瞬間移動なんてできない。

「トリックでも使ったっていうのか?」

「あんなのトリックっていうほどのものでもないです。ただの身代わりですよ。別人が入れ替わってベッドに寝てただけです」

「なに? そりゃあ無理だろう。いいか、おまえは知らないかもしれんが、沖田の同室のやつらは証言してるんだ。十二時から四時の間沖田はベッドから出なかったってな。それに看護師が三時半に巡回して沖田を確認している。つまり入れ替わる暇なんてなかったんだ」

「そうっすよ。俺が電話で確認したときもそういってたっす」

 噛み付きそうなチョーさんとミス研の顔に満足したのか、デデリカは気分よさそうに続ける。

「そんなのぜんぜん問題ないですよ。十二時前に入れ替わって、四時過ぎに元に戻ったんですよ。沖田のベッドは入り口のすぐ側ですから、偽物が他の患者に見られないようにベッドに出入りするのは夜中や朝っぱらなら難しくありませんよ」

「なんだって?」

 チョーさんが叫ぶ。

「しかし看護師が巡回してるだろうが?」

「そんなの、いるかどうか確かめただけですよ。その時間部屋の中は真っ暗なんですよ。顔なんてろくに見てるはずないです。それとも看護師が、ベッドですやすや寝ている患者の顔をいちいちライトで照らして確認したとでもいうんですか?」

 チョーさんがあんぐり口をあけた。気持ちはわからないでもない。あまりにも単純すぎてトリックと呼ぶのもおこがましい。っていうか、これがミステリー小説のメイントリックだとしたら、読者は壁に本をぶつけるだろうな。

「馬鹿いってんじゃねえ。そんなことあるわけねえだろ。いいか? 隣のベッドのやつが十二時から四時まで起きてたのはただの偶然だ。そんなものを頼りにアリバイ工作するはずがない。今回はたまたまうまくいっただけだ。それにそんな穴だらけのアリバイ工作でしかないのに、わざわざ優の家に行き、顔をさらしただとぉ? すこしでも考える頭があるなら絶対にやらないだろうが、そんなこと」

「いいですねぇ。やっぱりそれくらい突っ込んでくれないと推理の披露のしがいがないですよ。いいですか? 沖田はべつにアリバイを作るつもりはなかったんですよ。顔を優たんに見られたのはまったくの誤算でした。ただ外出したかったから身代わりを置いてきただけです。べつに黄泉子たんを襲うのは他のメンバーでもよかったんでしょうけど、きっとうんざりしてたんですよ。ベッドにずう~っと寝たままなのに」

 チョーさんとミス研は驚きのあまり、埴輪顔になっていた。鏡を見ればきっと僕も同じような顔をしているだろう。

「なんだと、つまり、寝てるのに飽きたから、気晴らしに身代わり頼んで外に出たっていうのか? んで、そのついでに女を襲ったと? それが結果的に完璧なアリバイになったと?」

「そうです」

 デデリカは胸を張り、小鼻をふくらませると、力強く断言した。

「そうなのか、おめえ」

 チョーさんは沖田に向かって怒鳴るが、沖田は凍りついたような顔のまま、ひと言も喋らなかった。

 まあ、たしかにデデリカのいうことには一理ある。なにせ沖田はしばらく意識不明のふりをしていたわけだ。その後もろくに歩き回ることすらできない。たしかにうんざりするだろう。僕だって息抜きに外に出たいと思うかもしれない。息抜きに女を襲おうとは思わないけど。

「その身代わりになったやつっていうのは誰だ?」

「知らないですよ、そんなこと。どうせこの中の誰かなのは間違いないですから、あとで刑事さんが拷問でもして聞き出せばいいです。たぶん一番背格好が似ているやつですよ」

 デデリカはそんなことにはまったく興味がないといわんばかりだ。

 チョーさんはあきれ返っている。

「まて、どうして沖田は僕のところへ、黄泉子さんのウインドブレーカーを置いておこうと思ったんだ?」

 僕はかねてからの疑問を口にした。

「深い意味はないですよ。ただの嫌がらせです。自分のことを嗅ぎ回る優たんに目にものをいわせてやりたかったんですよ、きっと」

 そんな馬鹿な? ただそれだけのことなの?

 僕は思わず絶句する。

「まさかとは思うけどさ、ひょっとしてあたしをさらったこと自体たんなる嫌がらせだったの?」

 黄泉子さんが怒り心頭といった顔で、沖田を指さした。

 あの、指さすのはいいけど布きれがずり落ちて胸が見えてますよ、黄泉子さん?

 意識して見ないようにした。不本意ながらエチケットとして。

「よく考えれば、べつにあたしを生け贄にする必要なんてないし」

 そういったあと、胸が露出したのに気づいたのか、「きゃっ」と短く叫ぶとふたたび腕を布の中につっこんで体を隠した。なんかいつも大人っぽい黄泉子さんが、妙に可愛らしい。

 それにしてもよく考えれば黄泉子さんのいったことにも一理ある。どうして沖田は生け贄にわざわざ黄泉子さんを選んだんだ?

「じつはそのことには大きな意味があるんですよ。でもそれを説明する前に、まずメインの事件について話さなくちゃ理解できません」

 デデリカは小さな子供のように無邪気な笑みを見せた。ただ金色の瞳だけが妖しく光っている。

「メインの事件っていうのは、もちろん一番摩訶不思議な事件のことですよ。あの日、袋小路に入った吸血鬼は消えうせ、沖田は宙に浮き、ちょっと目を離した吸血鬼は黄泉子たんの後ろから現れ、かわりに響子たんは消えうせたわけです。まあ、あたしたちなら朝飯前に同じことができますけど、人間にはちょっとできそうにないですよ。だから刑事さんたちは初めから信じませんでしたし、優たんは吸血鬼の魔力のせいと信じました。でも、こんなのはただのトリックですよ」

 デデリカはそのトリックを見破った自分は偉いといわんばかりだ。

「だけど……」

 僕は納得できない。沖田は犯人の一味らしいから、あいつはなにか芝居を打ったのかもしれない。だけど高木さんは? あのひともこいつらの一味なのか? 仮にそうだとしても、黄泉子さんは? 第一僕が遠くからとはいえ、双眼鏡で見ている。

「高木さんはこの中にいるのか?」

 僕は顔を隠した黒マントたちをぐるりと指差した。すくなくともフードの下からのぞく顔に、高木さんらしきものは見あたらない。

「高木? ああ、あのへっぽこボクサーはこいつらの仲間じゃないですよ。まあ、いいように利用されただけです。事件の真実味を増すために、ああいう間抜けな第三者の証言が必要だったんですよ」

「じゃあ、無理だ。あのとき、現場には黄泉子さんと高木さんがいた。僕だって双眼鏡で覗いていたんだ。どうやってごまかす? いくら沖田がひとり芝居したって無理だ」

 デデリカは「ふふん」と鼻を鳴らしながらも満足そうな笑みを浮かべる。

「ほんとにそうですかね? 消えた消えたっていってますけど、吸血鬼や響子たんが消えた瞬間を見た人はいるんですか?」

 消えた瞬間を見たかだって?

 たしかに響子さんが消えた瞬間は誰も見ていない。ほんの一瞬目を離した隙にいなくなっただけだ。

 あいつが黄泉子さんを襲ったあと消えたところも見ていない。高木さんは逃げ、黄泉子さんは気絶し、僕は双眼鏡から目を離し、黄泉子さんのところへ走った。

「……いや、見てるさ。あいつが最初に行き止まりに追い詰められ、そこで消えた。沖田の証言は当てにならないけど、高木さんと黄泉子さんが消えたって証言してる」

「なにいってるんですか? 高木は消えたところなんか見ていませんよ。ちゃんと証言聞いてたんですか?」

 なんだって?

「高木は宙に浮いた沖田に目を奪われ、吸血鬼が消える瞬間なんて見てないですよ。それどころか路地に入り込んだ吸血鬼の姿そのものを見てないですね。はっきりそういってます。しっかりしてくださいよ」

 そ、そうだったか? だけど、黄泉子さんは見てる。僕たちは黄泉子さんの記憶を映した鏡でその姿を確認してるじゃないか?

 僕は鏡を通して、あいつの姿をたしかに見た。あいつは行き止まりで消えた。

「黄泉子さんは見てる。おまえだってはっきり見たはずだ。鏡に映った黄泉子さんの記憶を通して」

「まって。優くん、思い違いをしてる。あたしはあいつが消える瞬間なんて見てない。姿を見た。そしてその直後いなくなったのを確認した。それだけよ」

「そうです。黄泉子たんのいうとおりですよ」

 いわれて見ればそうだったかもしれない。だけど……。

「それだって同じことだ。逃げ場のないところであいつを見たんだから」

「あれはゴーストだったんですよ」

 ゴースト? 幽霊? まあ、悪魔がいるくらいだから幽霊がいたって不思議じゃないけど。

「つまり実際に見てもいないのに、頭の中で作り出した虚偽の映像ですよ」

 なんだって? なにをいってるんだ、こいつ?

「え? そんなことはないって。だってあたしはたしかに見たもん」

 黄泉子さんが頬をふくらませる。

「いいですか?『記憶は一度脳の中に刷り込まれると二度と消えることはない。ただそれを取り出すことができなくなるから思い出せなくなる』、そんな風に思ってる人が多いようですけど、はっきりいって大嘘ですよ。記憶は時間とともに風化し、変質します。正確にいえば、ビデオテープのように上から新たな情報が上書きされていくんです。そうなるとその人にとって上書きされた記憶こそが真実になるんですよ」

 なにをいい出すんだ、こいつは?

「そして暗示や思い込みは簡単に嘘の情報を上書きします。現実に目撃証言による冤罪がなくならないのはこのせいですよ」

「だから、……なんなの?」

 黄泉子さんが不安げに聞く。

「黄泉子たん、あのときの心理状態を思い出してください。きっと冒険心を刺激されてわくわくする気分と、吸血鬼に出会うかもしれないちょっとした恐怖心に支配されていたはずです。そんな中、響子たんが叫び、袋小路の中を指差す。そして中を覗くと先に飛び込んだ沖田が宙に浮かびながら苦しんでいる。黄泉子たんはこの時点でこの中に吸血鬼がいると信じ込んだんですよ。だから見てもいないものが頭の中に刷り込まれてしまったんですよ」

「じゃあ、いたと思ったのは、あたしの勘違いなの?」

「最初からいない。だから消えるはずのない状況で消えたのか?」

「そうです」

 僕らの問いに、デデリカは満足そうに肯くと、断言した。黄泉子さんは、信じられないといった顔をしつつも、反論しなかった。

「それから沖田が宙に浮かんで苦しがったのは、いまさらいうまでもなく沖田の自作自演ですよ」

「だけどどうやって? 苦しがるだけならともかく、浮いたんだぞ。それも高木さんや黄泉子さんの目の前で」

「はあぁあ~っ、まったく呆れますね、優たんには。あれですか? 優たんはマジシャンが人を浮かせたら魔法を使ったと信じ込む口ですか?」

 デデリカは両手を中途半端に広げ、馬鹿に付ける薬はないとばかりにため息をつく。

「ば、馬鹿にするなよ。そういうのはピアノ線かなんかで吊ってんだよ」

「はい、よくできました」

 デデリカはうんうんと何度もうなずくと、拍手をした。

「な、なんだって? だって外だぞ。天井なんかないんだぞ。どうやって吊るんだよ?」

「もう、そっから説明してあげないとだめなんですか? デデルコ、説明してあげてくださいよ」

「そういうのはデデリカの役目だろうが。ま、このぼんくらがここまで馬鹿じゃ、説明する気にならないのはよくわかるが」

 デデルコは冷たい視線で僕を見下ろしながら、勝手なことをいう。

「いいか、あそこのブロック塀の天端には進入防止用に鉄のとげとげがあっただろう? 両サイドのブロック塀の鉄のとげに高強度のピアノ線を一本引っかけて、張っておいたんだよ、あらかじめ。小型のターンバックルかなにかを使えばびんびんに張れる。人がぶら下がれるくらいな。で、その真ん中当たりにごく小さな滑車を通しておいた。たぶん直径二、三センチ、厚さ数ミリのタイプ。色はバックの雨雲に紛れるダークグレイってとこだ。これならあの大雨の夕方の薄暗がりで見ても気づきにくいからな。もちろんそれに別のピアノ線をかけておく。沖田はあのときそのピアノ線の一方を体に固定した。簡単に引っかけられるようにしておいたんだろうな。その状態で、滑車にかけておいたもう一方を手で掴み、それを引っ張ればどうなる?」

 どうなるって、たしかに体は上に浮く。ゆらゆらと揺れながら。

「沖田は苦しがって喉を掻きむしるふりをしながらピアノ線をたぐったんだよ」

 な、なんだって? いや、だけど……。

「それなら現場に証拠のピアノ線が残るじゃないか」

「馬鹿か、おめえは? おまえと黄泉子が現場から逃げ去ったあと、沖田はひとりになったろう? そのときに沖田が回収したに決まってんだろうが。あるいは救急車で沖田が運ばれたあと、そこらへんにいる仲間が回収したのかもしれないがな」

 そんな馬鹿馬鹿しいトリックだったのか?

 たしかにあのとき、そんな細工がされていたとしても、あのパニック状態ではわからなくても無理はない。その小さな滑車にしたところで下から見上げる形になれば、バックの雨雲に紛れるし、そもそも大雨が降っていたから見上げた状態じゃ視界が悪い。まして視線は浮いている沖田に集中するはずだし、その上のほうには注意がいかない。まず気づかないだろう。ましてやピアノ線なんか見えるわけがない。

「じゃあ、あの喉の咬み傷は?」

「あらかじめ、自分で付けてたに決まってるじゃねえか」

 沖田は顔を背けてなにもいわなかった。

「いや、それはいいとして、問題はまだあるぞ。黄泉子さんの後ろからいきなり現れたやつはなんだったんだ? しかも、それとほぼ同時に響子さんは消えた。どう説明するんだ? それだけじゃない。黄泉子さんが見たと思ったのは嘘の記憶なのかもしれないけど、響子さんだって見たはずだ。なにか叫んで、指差したんだぞ。そう、最初に叫んだのは沖田じゃなくて響子さんだ。あれも思いこみによる錯覚なのか? そんなのが偶然ふたつも重なるのか?」

「あ、あたしは……」

「はい、スト~ップ。響子たんは黙っていていいですよ。ちゃんとこの馬鹿にはあたしから説明しますから」

 なにかいいかけた響子さんを制すると、デデリカはにんまりと笑う。楽しくてしょうがない感じだ。

「優たん、君には算数の問題を出してあげます。1引く1はなんですか?」

「1引く1? もちろんゼロだけど、それがいったい……」

 そこまでいって僕はデデリカがいいたいことに気づいた。

 な、なんだって? だけど……。そんな馬鹿な?

「気づいたようですね。その通りです。なぜ、響子たんは誰もいないはずの路地に驚き、指差したのか? なぜ響子たんは突然消えたのか? なぜ、それと同時に黒マントの怪人が現れたのか? すべての答えはひとつですよ」

 1引く1はゼロ。ひとり現れて、ひとり消えた。それはつまり……。

「そうです。彼女が隙を見て、一瞬のうちに鞄から出したマントを羽織ったんですよ」

 響子さんこそが黄泉子さんを襲った黒マントの吸血鬼? デデリカはそういっている。

「だけど、おめえ、それじゃあけっきょく狂言誘拐じゃねえか? おめえ、違うっていっただろう?」

 チョーさんが怪訝な口調で口を挟む。

「入れ替わってたんですよ。響子たんと真犯人がね」

「それはないって。だってあたしはずっとあとをつけてたんだから。もしほんとうに入れ替わったんなら、気づかなかったはずないじゃない?」

 黄泉子さんが反論した。

 いや、黄泉子さんだけじゃない。高木さんだっていた。いつ入れ替わったっていうんだ? そんなことが可能なのか?

「いいですか? あのとき高木は響子たんと沖田のしばらく前を歩いたんです。黄泉子たんは見つからないようにすこし距離を置いてあとをつけました。そこに死角があるんですよ」

 死角だ? またわけのわからないことをいい出した、こいつは。

「つまり高木はそうそう後ろを振り返るわけにはいかなかったんですよ。なにも知らない高木は、そんなことをすれば相手に怪しまれるかもしれない、と思いますからね。沖田は黄泉子たんがあとをつけているのも知ってました。だから、黄泉子たんの目が離れるほんの一瞬の隙を狙って、仲間が響子たんをさらったんですよ。覚えてますか、黄泉子たんのスマホが鳴ったのを?」

「たしかに。あたしはあのとき、優くんからかもしれないと思ってモニターをチェックした。番号は非通知だったからすぐ切ったけど……」

 そうだ。たしかに黄泉子さんは一瞬、響子さんから目を離した。それは鏡に映った黄泉子さんの視線を通じて、僕も確認している。

「もちろん、あれはタイミングを合わせて誰か沖田の仲間が電話して、その隙に他の仲間が商店街の路地裏に響子たんを引っ張り込んだんですよ。あの絶妙なタイミングで鳴った電話こそ、入れ替わりがあったなによりの証拠です。偶然にしてはできすぎですよ。納得いかなければ刑事さんがあとで誰がかけた電話か調べればいいですよ。この中の誰かのスマホからに決まってます」

 あの電話にはそんな意味があったのか?

「つまり響子たんをさらうと同時に、身代わりの女が何食わぬ顔で響子たんになりすましたんです。さいわい傘で顔が隠れるので、入れ替わってしまえばばれる心配はほとんどありませんからね」

「し、しかし人混みの中で白昼堂々とさらったっていうのか?」

 チョーさんが驚きの声を上げる。

「白昼といっても夕方ですし、大雨で視界は悪かったですよ。スタンガンを首に当てても傘で見えなかったですし、声も雨音でかき消されます。案外やりやすかったと思いますよ」

「そうなんです」

 響子さんが口を挟んだ。

「その人のいう通りなんです。あたしはあのとき、駅を出てすぐのところで首にスタンガンを当てられて……」

 デデルコがいうと、「ほんとか? この野郎」としか思えないけど、響子さん本人がいえば信じるしかない。

「吸血鬼が雨の日にしか出ないのは、まさにこれこそが原因なんです。はじめから狙ってたんですよ」

 いや、だけどちょっと待て? その推理は変だ。傷がある。

「デデリカ。君はいま沖田は黄泉子さんがあとをつけているのを知ってたっていったな。なんで知ってるんだそんなこと? 黄泉子さんのことなんて誰にもいってないぞ。しかも黄泉子さんのスマホに電話した? どうしてあいつらが黄泉子さんのケータイ番号を知ってるんだ? おかしいじゃないか」

「ふふん。優たんもすこしは考える脳があるじゃないですか?」

 デデリカは完全に僕を馬鹿だと思っているらしい

「優たん、ほんとうに黄泉子たんが響子たんのあとをつけることを、誰にもいいませんでしたか?」

 誰かにいったかだって? そんな大事なことを誰かにいったりするもんか。

 そう思ったが、次の瞬間、あることに思い当たった。

「え?」

「ほうら、心当たりがあるじゃないですか?」

 馬鹿な。そんな馬鹿な。

「じゃ、じゃあ……」

 犯人は店長だったのか?

 この事件のことを話し、黄泉子さんのケータイ番号を知っている。それは『魔女の棺』の店長しかあり得ない。

「そう、今優たんが頭に描いた人物。そいつが首謀者ですよ。そしてあたしの考えに間違いなければ、その首謀者こそが響子たんの偽者を演じたやつですよ」

 いや、待て。それはありえない。店長はけっこう背も高い。そこにいるやつはむしろ小柄だ。体格的に無理だ。それに店長も仮面で素顔を隠しているけど、口元は見えてる。あれはあの吸血鬼の中性的で妖気漂うものとはぜんぜん似ていない。

 じゃあ、こいつはいったい誰だ?

「その正体は……」

 デデリカは例によって手のひらを首謀者に向けて開いた。そして気合とともに、首謀者の着ていた黒マントがちぎれ飛ぶ。

 例によって中から白い裸身が現れた。

 しかもそれは小柄ながら魅惑的な女の裸体だった。

「え? え、なんだって? だ、だけど、どうして……」


   4


「きゃああああああああ」

 絶叫が聞こえた。叫んだのは響子さんだった。

「な、なんで、めぐみが……?」

 彼女も真犯人の正体を今知ったらしい。真っ青になって石化した。ちぎれたマントの中から現れ、床にうずくまったのは他ならぬ響子さんの親友、林田めぐみだったのだ。

 僕は激しく混乱する。

 林田めぐみ、彼女こそは僕に響子さんの護衛を依頼した張本人。それが事件の黒幕? 正直いって納得いかない。

 たしかにあの日、僕は彼女に呼び止められて、名前こそいわなかったけど、仲間が僕のかわりに響子さんのあとをつけることをいった。だからそのことを知っている第三者は店長以外ではたしかに彼女しかいない。だけど、それが黄泉子さんであること、ましてや彼女のケータイ番号なんて知るすべはないはず。

 いや、待てよ。そういえば、依頼を受けたとき、林田が番号を打ち込むのに、スマホをちょっとだけ貸した。っていうか、強制的に取られた。そのときに黄泉子さんの番号を盗み見たのかもしれない。

 いや、やっぱりだめだ。そのためにはその時点で僕の協力者が黄泉子さんだって知ってたことになる。そんなことは考えられない。

「狐に包まれたような顔してますね、優たん? ひょっとして予想が外れたんですか?」

「だってそうじゃないか? 僕は林田さんに黄泉子さんのことを名前も素性も話してないよ。第一、林田さんが黒幕ならばどうして僕に依頼したんだ? まあ、僕にはどうせ真相なんかわかりっこないと思ったのかもしれないけどさ。それにしたってわざわざ僕に探偵のまねごとをさせる必要なんかこれっぽっちもないじゃないか?」

「そう、不思議ですねぇ」

 デデリカはにやにや笑っている。

「林田はいったいなにをたくらんでいたんでしょうね?」

 そんなこと僕が知るもんか。ぜひ教えてほしいくらいだ。

 たしかに今冷静に考えれば、林田はいろんな意味で怪しい。

 そもそも沖田に響子さんの護衛を依頼したのは林田だ。自分でいっていた。沖田が犯人のひとりだとすると、当然林田も仲間と考えるほうが自然じゃないか? 偶然だとするには無理がありすぎる。

 病院で僕にこれ以上関わるなといったのも、僕を心配してというより、警告だと考えた方が自然だ。

 くそう。ツンデレのふりして、犯人だったのかよっ!

 いや、……だけど仮に林田が犯人だとしても、僕に探偵の真似事をさせなければならない理由なんてありそうもない。

 それでも僕はない知恵を絞った。

「吸血鬼が実在すると、僕に思わせたかった?」

「ふ~ん、優たんにそう思わせてどうするんですか?」

「知らないよ、そんなことは。だけどそれしか考えられない。林田さんは中学時代の僕を知ってる。高校に入ってからはオカルトマニアだってのをクラスで隠してるからみんな知らないけど、彼女は知ってるんだ。僕がそういうことが大好きだってことをね。だから僕だったら本気で吸血鬼の存在を信じて、探偵のまねごとだって喜んですると思ったんじゃないか?」

 いっていて、自分でもわからなくなった。だからどうなんだ? そんなことをしてなんになるんだ? さっぱりわからない。

 僕が吸血鬼の存在を信じて、吸血鬼にさらわれた響子さんを探したからって、林田になんの得があるっていうんだ? そんなものはありはしない。

 非力とはいえ、わざわざ自分に敵対するものを作り出す理由なんてあるわけがない。

 彼女は想像もしなかっただろうが、僕がデデリカたちを呼び出した結果、こうして真相解明までたどり着こうとしている。もし彼女になんらかの思惑があったとしても、大失敗だってことだ。

「ふん、けっきょく愉快犯だってことだろう。吸血鬼の魔力を演出して、馬鹿なガキが大騒ぎするのを見たかっただけだ。悪魔を呼び出そうなんて考えるいかれたガキの考えそうなことだ」

 チョーさんが憎々しげにいう。

 そうか? そうなのか? ただそれだけなのか?

 なにかが引っかかった。それがこの事件の要のような気さえする。

 いったい林田はなにをしたかったんだろう?

「いいですねぇ、その台詞。この事件の肝心要なところがまったくわかっていない頑固刑事の台詞そのものですよ。そうでなくっちゃつまらないですよ」

 デデリカはチョーさんをおちょくりまくる。

「ふざけんな。それじゃあ、聞かせてもらおうじゃねえか、この事件の肝心要なところってやつをよ」

「もちろん、動機ですよ」

 デデリカは断言した。

「いいですか? 連中はなんで響子たんをさらったんだと思います?」

「なんでって、生け贄にするためじゃないのか?」

 僕はその答えに確信を持っていた。黄泉子さんに対するやつらの仕打ちを見れば誰だってそう思うだろう。

「デデリカだって知ってるだろう? 冥界の悪魔レギオン・デ・ラコールを召還するには十代で乙女座の処女を生け贄にささげなくちゃならないんだ」

 例の本にレギオンの召喚方法はちゃんと書いてある。僕は生身の人間を生け贄にしなくちゃいけないっていう時点でこの悪魔を呼ぶのはあきらめた。

 響子さんが乙女座だってことは知らなかったけど、そうに違いない。

「ふ~ん?」

 デデリカはまるで教え子の馬鹿な答えを楽しむ女教師のように悪戯っぽく相づちを打った。

「でも、変じゃないですか? それならばどうして響子たんは生きてるんです?」

 どうしてだって?

 たしかにそうだ。どうして生きてる?

「そうか、つまり悪魔召還には失敗したんだ」

「まあ、たしかにレギオンは気まぐれな悪魔ですからね。条件が整っていてもなかなか現れないやつですよ。もっとも召還条件がそろわなくても現れることも、ごくまれにはありますけどね」

 デデリカはなぜかにやにやと笑いながらいう。

「それで第二の生け贄として黄泉子さんを選んだんだな? そういえば黄泉子さんはたしかに乙女座だ」

「ぶぶぅ~っ。残念ながらぜんぜん違いますようだ」

 デデリカはじつに楽しそうに否定した。

 なんだって? どういうことだ? 黄泉子さんはまちがいなく乙女座。いや、……そういうことじゃなくて、この推理全体がちがうってことか?

「そ、そんなはずはないだろうが? それ以外に、響子さんをさらうどんな理由があるっていうんだ?」

 僕はムキになって怒鳴る。

「優くん、……違う」

 かすかに震えた、消え入りそうな声が聞こえた。響子さんだ。

「あたし乙女座じゃない。あたしは牡羊座。もう誕生日過ぎてるの。めぐみだって知ってるはずよ」

 え? 馬鹿な、そんな馬鹿な?

 そう思ったとき、林田が一番最初に僕に探偵のまねごとを依頼したときの言葉がよみがえる。

『響子は一見脳天気でそれでいて気が強そうだけど、しょせん十六歳になったばかりの女の子なのよ。相手が吸血鬼だと思えばノイローゼのふたつや三つ起こすわよ。だからあたしは響子には、心配させないように、「たまたま通りかかったストーカーだよ」っていってるんじゃないのよ』

 そんなようなことをいっていた気がする。

 十六歳。つまり五月の時点で誕生日を過ぎている。乙女座は確か八月の終わりから九月に掛けてのはず。

 たしかに、林田はそのことを知っていた。

 じゃあ、林田は他の悪魔を呼ぼうとしたのか?

 いや違う。生身の人間の生け贄を捧げろとあの本の中で書いてあったのは、レギオンの召喚だけだ。それにさっき悪魔を呼ぼうとしたとき、レギオンの名前をしっかり口にしていたじゃないか?

 つまり牡羊座の処女には用はなかったはず。

 それなのに、どうして響子さんをさらった?

「優たん、覚えてますか、レギオンの召喚に必要な生け贄の条件を? なんかもうひとつくらいなかったですかね?」

 もうひとつだって? そうだ、確か、こう書いてあった。

「生け贄は十代の乙女座の処女。しかも悪魔の存在を信じるものでなくてはならない」

「その通りですよ」

「それがいったいどうしたっていうんだ?」

 チョーさんが怒鳴る。

「ま、まさか?」

 黄泉子さんが驚愕の表情でいった。

「まさか、彼女の狙いは、最初からあたしだったの?」

「え? いや、黄泉子さん、それはないでしょ……」

 僕がそれを完全否定しようとすると、デデリカは大はしゃぎする。

「さすが黄泉子たん。そうです。まさにその通りなんですよ」

「な、なんだって? いい加減なことをいうな」

 思わず耳を疑った。そんな馬鹿なことがあってたまるもんか。

 林田は黄泉子さんとなんの面識もない。黄泉子さんのことなんて、なにひとつ知らないはず。

「どうして林田がはじめっから黄泉子さんをねらうんだ?」

 デデリカが口を開く前に、黄泉子さんが答える。

「それはきっとあたしがウェブサイトを持っていたから」

 え? ウェブサイト? そういえばたしかに黄泉子さんは持っている。『黄泉子の部屋』というオカルト関係のサイトだ。そういえばプロフィールも載っけていたな。

「そうそう、その通りですよ。林田はそれを見て、生け贄の条件にぴったりだと思ったんですね。ぼんくら優たんと違って、黄泉子たんにはこの事件の真相がわかったようですね? さすがですよ」

 デデリカは心底嬉しそうに、けらけらと笑う。

 黄泉子さんはサイトにそこまで自分を特定できることを書いたのか? いや、書いていた。名字以外はばっちり書いていた。

「サイトにはフルネームこそ書いてありませんでしたけど、林田はホームページの制作者が黄泉子たんだってつきとめるのにたいした手間はかからなかったでしょうね。なにしろ『魔女の館』っていうオカルトショップでバイトしていることまで書いてましたから。しかもその店には知った顔の常連がいた。もちろん優たんのことです」

 つ、つまり……。

「つまり、林田は黄泉子さんを生け贄にするために、僕に話を持ちかけたのか?」

「その通りです」

 いや、まて、なにか変だぞ。なにもそんなことをする必要はないんじゃないか? 響子さんを誘拐するくらいなら、初めから黄泉子さんをさらった方が手っ取り早いんじゃ?

「不思議に思ってますね? どうしてそんなめんどくさいことをしたのか? ストレートに黄泉子たんをさらった方が早いじゃないかって」

「違うのか?」

「優くん、覚えてる? あたしが悪魔召喚に何度も失敗したってサイトに書いたってことを」

 そういう黄泉子さんの目は、すでに確信に満ちていた。一方、僕にはさっぱりわからない。たしかに黄泉子さんは僕にそういったかも知れない。だけどそれがなんなんだ?

 顔に出たらしい。デデリカが軽蔑的なまなざしを送る。

「まったく、優たんは黄泉子たんがそこまでいってもわからないんですか? もう、ほんとのぼんくらですね。いいですか? 生け贄の条件は無条件に悪魔の存在を信じること。すこしでも疑いがあれば失敗するのは目に見えてます。黄泉子たんは前に何度か挑戦して失敗してるってサイトにも書いてるから、きっと悪魔召喚に懐疑的になっていると思ったんでしょうね。それじゃあ、だめなんですよ。悪魔の存在を完璧に信じさせるためにも、黄泉子たんの目の前で奇跡の魔力を演じてみせる必要があったんですよ」

 めまいがした。黄泉子さんを引き込むために僕に近づいた。そのためだけに響子さんを脅かし、挙げ句の果てにさらったのか? それも黄泉子さんに悪魔の存在を信じさせるために魔力としか思えない演出をしてまで。

 僕の顔色を読んだのか、デデリカがじつに嬉しそうにいう。

「そうです。響子たんは餌だったんですよ。優たん、ひいては黄泉子たんを引き込むための。オカルトマニアなら、まちがいなく興味をひかれるネタ。雨の日に現れる吸血鬼。優たんは見事に食いつきましたね。ヒーローになるチャンスですし。しかも手に負えないとわかると、憧れのお姉さん、黄泉子たんに泣きつくに決まってる。林田はじつにいい読みをしていましたね。まさしく大当たりです。うきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃ」

 デデリカはまさに笑い狂いながら、手をたたいて大はしゃぎした。

 それにしても、身も蓋もないいい方だ。黄泉子さんが聞いているというのに。

「嘘?」

 響子さんが無表情のままぼそりといった。事実を受け入れがたいんだろう。当然だ。僕だってそんなことが真実だなんて認めたくない。

 それにしても響子さんの前でこんなことをいうなんて、デデリカはデリカシーなさ過ぎ。もっともこいつにそんなものを期待するほうがどうかしているのかも知れないけど。

「おい、ほんとうにそれがこの事件の動機なのか? 長年刑事やってるが、そんな動機見たことも聞いたこともないぞ」

 チョーさんが心底あきれた口調でいった。

「現実の事件どころか、ミステリーでも聞いたことないっす」

 ミス研までこんなことをいいだす始末だ。

 まあ、そうだろう。誰だって信じられない。そもそもなんでそこまでして悪魔を呼び出したかったんだろう? それに沖田をはじめとするこいつらはなんなんだ? どうしてそんな馬鹿げたことにつきあっている?

「こいつら全員が、そんな馬鹿げたことをしでかしてまで悪魔を呼び出したかったっていうのか?」

 チョーさんは黒マントどもをぐるりと指さしながら、信じられんといった顔でいう。

「まあ、それぞれ思惑があったんですよ。たとえば沖田は響子たんを自由にしたかったんじゃないですか? ほかの連中はたぶん沖田にそそのかされて、サディスティックで性的な儀式に参加できると思った馬鹿ですよ、きっと」

 デデリカはそういいながら、両手を指揮者のようにふるった。

 たちまち残り十ひとりの黒マントがはじけ飛び、例によって全裸の姿をさらした。

 誰だ、こいつら?

 僕には見覚えのないやつらだった。ただいかにも悪そうな男どもだ。リーゼントやそり込みを入れた坊主頭、金髪。底辺校の不良か、暴走族の下っ端のように見える。

 僕が普段こいつらに会えば、たぶん目を合わすこともできないと思う。それほど凶悪そうなやつらだ。だけど今は悪魔に脅える情けない男にしか見えない。おどおどした目で全裸のまま震えている情けない男たちだ。

「何者だ、こいつら?」

 チョーさんが僕の思いを代弁してくれた。

「知りませんよ、こんなやつら。沖田に聞いてください。ただ要するに沖田は陰ではこういう顔を持ってたってことですよ。たぶん、暴走族の幹部かなんかなんでしょうね。それでこいつらはそのメンバーってとこですよ」

 デデリカはまた例によって、そんなことはあんたが調べろといわんばかりだ。興味のかけらもないらしい。

 それにしても、沖田は未だにこういうやつらと付き合いがあるっていう噂はほんとうだったんだ。

「だけど林田は悪魔を呼び出してなにをしたかったんだ? 悪魔なんかに興味はないはずだ。なにかとんでもない理由があるのか?」

 そう、林田こそは中学時代、僕のオカルト趣味をあざ笑った本人だ。

「そんなに深く考える必要はないんです。たんに悪魔を呼び出してみたかっただけですよ、きっと。彼女は優たんに負けないくらいオカルト大好き少女だったんですよ」

「なんだって?」

 そんなはずはない。そんなはずは。だってこいつは中学時代、僕をオカルト小僧ってさんざん馬鹿にしたやつのひとりだぞ。いや、むしろ先頭に立って、誰よりも執拗に。

「ふふ、納得がいかない顔ですね。優たんだって高校に入ってからは仮面を被ってたじゃないですか? オカルトなんかに興味はないっていう仮面をね」

 僕はそのひと言に激しい衝撃を受けた。

「つ、つまり、林田は中学の時からすでに仮面を被っていたのか? オカルトなんて大嫌いだっていう」

「そうですよ。彼女はきっと小学生時代にいやな思いをしたんでしょうね。だからオカルト嫌いの仮面を被ったんですよ、それも早い時期に。だから中学時代臆面なくオカルト大好きを表明していた優たんに意地悪したんですよ。『自分がやりたくてもできないことを平気でやっている、許せない』ってとこですかね。そうに決まってます。そうでなければオカルト好きっていうだけで執拗に優たんをいじめたりはしないですよ」

「そんな……馬鹿な」

 林田がオカルト大好きと表明していた僕に嫉妬していただって? 僕にも同じ仮面を被せるために先頭になって僕を攻撃したのか? とても信じられなかった。

 もっともこれはデデリカがそう思ってるだけで、根拠は一切ない。

 だけどいわれてみれば、店長はいっていなかったか?

 例の悪魔召喚本を中学生の女の子に売ったと。

 売った時期を考えれば僕と同年代の女の子だ。まさにそれは林田だったとすればすべて納得がいく。

「馬鹿なって、信じてませんね。じゃあ、本人に聞いてみましょうよ」

 デデリカはさっきから黙って聞いていた林田に話を振った。

「あたしのいったことに間違いないですよね。まあ、ないと確信してますけど、万が一違うっていうんなら聞いてあげます」

「……ふふふ」

 林田が笑った。

「あははははははは。そうよ、あんたのいう通りよ。あたしはただ悪魔を呼び出してみたかったのよ。悪魔はどんな姿をしているのかこの目で確かめたかった。悪魔になにができるか見てみたかったのよ。子供の頃からの夢だったわ。そのためだったら友達を裏切ろうが、利用しようが関係ない。犯罪だって喜んでするわ。それがあたしっていう人間なのよ。誰もわかってくれなかったけどね」

 林田の顔が醜くゆがんだ。意地悪で生意気だけれど可愛くもあった林田の顔はもうどこにもない。そこにあるのは悪魔に取り憑かれた女の顔だった。

「あんたは勝ったつもりかもしれないけど、あたしはまだ負けてないわ。あんたに勝つためにはこっちも悪魔を呼べばいい。あたし自身の体を生け贄にして」

 林田はそういうや、ナイフで自分の手首を切った。噴き出した血を自分の胸になすりつける。たちまちのうちに林田は血まみれになった。

「お願い、レギオン・デ・ラコール。あたしに力を貸して。あの小悪魔を打ち倒して。かわりにあたしの心臓を食らうがいいわ」

 林田が叫ぶ。同時にびしっとなにかが裂けるような音がした。

 空間が裂ける。ただでさえ薄暗い場所だが、中空の一角だけに真の闇が発生した。

 そこからあふれ出すまがまがしいオーラ。僕だけでなく、全員が感じたはずだ。

 もっとも悪魔を信じそうにないチョーさんですらただごとでない異変を感じているようだ。

「ありゃりゃ、来ちゃいましたよ」

 デデリカがつぶやいた。


   5


 ずるり。

 空間に生まれた闇の中から太い毛むくじゃらの腕が出てきた。黒い剛毛に覆われた腕はまるでゴリラのそれを連想させた。母親の体内から生まれ出たばかりのようにそれは粘液に包まれている。

 同時にひどい匂いがあたりに充満する。はっきりいえば腐臭だ。その悪臭は部屋中にたちこもっていた香の匂いすらもかき消してしまうほどだった。

 誰ひとり口をきかなかった。

 僕や響子さん、黄泉子さん、刑事たちはもちろん、呼んだ張本人の林田も、その仲間たちも。それどころかデデルコとデデリカでさえ沈黙した。

 腕に引き続いて頭部が出てくる。顔はゴリラとは似ても似つかない。ひと言でいえば鋭い角の生えた山羊だ。ただし毛の色は黒く、狼のように鋭い目だけが真っ赤に燃えている。山羊に似使わない牙の生えた口から、「くはぁあ」という音とともに押し出された吐息はまるで煙幕のように黒く目に見え、堪らない悪臭をさらにひどくした。

 上半身が完全に現れた。ゴリラの背中に半漁人の背びれがついている。そのまま下半身がずるりずるりと空間の亀裂をくぐり抜けてくる。金色の鱗。腰から下は魚だった。

 その尾びれが完全にあらわになったとき、裂けた空間の闇は消えた。いや、閉じた。この世と悪魔の世界をつなげる穴が。

「知らねえ、俺はこんなもの呼び出すつもりなんかなかった。協力すればおもしろいものが見れるっていわれただけだ」

 沖田の手下のひとり、金髪が絶望の表情で叫んだ。そのまま出口に向かって走る。デデルコのことなんか、もう頭にない。

 無理もない。誰がどう考えたってこいつのほうがデデルコよりも恐ろしい。

 手下の金髪は出口をくぐり抜けようとした瞬間、はじき飛ばされた。まるでそこに見えない壁でもあるかのように。

「無駄だ。レギオン・デ・ラコールは空間を閉じた。おまえたち人間は出られない」

 デデルコがせせら笑う。

「チョーさん、こ、こ、これって……いったい、なん、なん、なん、なんなんすかね?」

「し、し、し、知るか。俺に聞くんじゃねぇえええええ!」

 さすがのチョーさんたちの声も震えている。

 僕はといえば、そこにいる大半のもののように、動くことも話すこともできずに固まっていた。膝が笑い、冷たい汗が体中を覆う。声帯は凍り付いた。

「小賢しい人間どもが。俺をこんなところへ呼び出してどうするつもりだ?」

 山羊がしゃべった。その声は低く、ひどくしゃがれている。聞くと心が凍り付くような声だ。

「ふん、下等な悪魔が二匹ほど混ざっておるな。恐れ多いと思うならとっとと逃げ出すがよい。おまえたちに用などない。だが人間たちは別だ」

 レギオンは両手を上に広げた。

 床から何か黒いものがわき上がってくる。それは子供の影法師とでもいったらいいのか? 小さな人間の影が立体的になったような感じだ。それが十体ほど出現すると、おのおのが動いた。

「男の魂などまずくて食えたものじゃないが、こいつらにはちょうどいいだろう。たまにはこいつらにも魂を食わせてやらんとすねるからな」

 悪魔はそういって笑った。地獄の底から響くような声で。

 影法師どもは手はじめに腰を抜かしている不良たちに向かって群がりだした。声を出すでもなく、足音ひとつたてない。不良たちは動くことができずに、叫び声だけが上がる。

 やつらの秘密の砦は、瞬く間に阿鼻叫喚の地獄に変わった。

 レギオンはというと、口から蛇のように長い舌を出すと、それを林田の体に巻き付け、血を舐めた。林田はさっきまでの勢いはすでになく、人形のようにされるがままだ。その表情は恐怖におののいているというよりも虚無。おそらく自分の想像を超えるものの出現に理性をなくしてしまったのだろう。

 林田は精神も肉体も生ける人形と化していた。

「さあて、それじゃあ、あたしたちは帰りますかね、デデルコ」

「そうだな。レギオンのお許しが出たことだしな」

 デデルコとデデリカは薄情なことを平気でいう。

「ま、待って。……お願いだから、あいつらを助けてあげて」

 恐怖で固まった僕のいいたいことを、黄泉子さんが代弁した。

「なんでですか? あいつらは自業自得ですよ。黄泉子たんを殺そうとしたやつですよ? まあ、心配しなくても黄泉子たんや優たんたちは連れて出てあげますよ」

「ほんとうは優や刑事たちだってどうでもいいが、特別サービスだ。だがレギオンと戦ってまであの悪党どもを助ける義理はオレたちにない」

 デデルコとデデリカは冷たくいい放った。

 たしかにそうかもしれない。しかしいくら悪党どもとはいえど、黄泉子さんと同じく、僕には修羅場と化した廃墟で悪魔の使いたちに魂を食われるやつらを見すてることはできない。

「ひゃっ、ひゃうぅ、……ぎゃはぁあああああ」

 金縛りにあったように動けなかった不良たちは、恐怖に引きつった顔で、意味不明な叫び声を上げながらも、死にものぐるいで手足を振り回し影法師どもを追い払おうとしだした。

 あまりの必死さに手を焼いたのか、影法師のうちの一匹がこっちに向かって来る。

 デデルコの手のひらから光が床に向かって放たれた。それがそのまま洋風の剣になる。

 だが影法師はそれに気づかなかったのか、デデリカに向かう。見た目からデデリカが一番弱いと判断したんだろう。

 デデルコが剣を振るった。

 影法師の首が落ちる。同時にその体は霧のように飛散した。

「き、貴様!」

 レギオンは林田をねぶっていた長い舌を引っ込めると、デデルコを威嚇した。

「小悪魔の分際で、冥界の魔王レギオンに逆らうつもりか?」

 レギオンが吼える。その体から発散されたまがまがしい衝撃波のようなものを感じた。よくわからないけど、レギオンの怒りが魔力を増し、それが波動になって周囲に広がったんだろう。僕たち人間のみならず、好き放題不良たちをいたぶっていた影法師どもまで逃げまどう始末だ。

「ふん、オレたちはおとなしく帰るつもりだったんだ。ちょっかいを出す馬鹿がいたから振り払っただけのこと」

 デデルコはレギオンの威嚇に屈しなかった。その顔には微塵の恐れもない。

「小賢しい小悪魔め。おとなしく帰してやろうと思ったが、気が変わったぞ。人間たちの前に始末してやる」

 レギオンは右腕を振り上げると、それをデデルコに向けた。

「殺れ、使い魔ども」

 そのひと言に、あたふたとそこら中を駆け回っていた影法師たちは、デデルコにいっせいに飛びかかった。魔王の号令にわずかでも遅れれば命がないとばかりに。

 やつらはデデルコに向かいながら、その形態を変える。人間の子供のような姿から、口を広げ、それはワニの口のようになった。しかもその牙は鋭く長い。

 その大きく開いた口でデデルコを咬みちぎろうと四方からデデルコを襲った。

 デデルコはすこしもあわてず、一歩踏み出すと、独楽のように回りながら剣を振るった。

 ワニのように大口開けて襲いかかった影法師たちは、一匹たりともデデルコにふれることさえできずに、ずたずたになり、空中で霧のように溶けた。

「ふん、準備運動にもなりゃしない」

 デデルコはレギオンを挑発でもするかのようにいう。

「何者だ、貴様?」

 デデルコを舐めきっていたレギオンが初めて警戒の色を見せた。

「貴様ただの小悪魔ではないな? 姿かたちは変えていても、その正体はそれなりの悪魔と見た」

「オレはデデルコさ。聞いたことくらいはあるだろう?」

「デデルコ? 魔界の闘神と呼ばれた女悪魔か? なぜそんな格好をしている?」

「気に入ってるのさ」

 魔界の闘神? なんですかそれ? 強いのか?

 それにそんな格好って、デデルコのほんとうの姿はどんな姿なんだ?

 僕は思わず聞きたくなった。

「おもしろい。ならばこのレギオンが自ら相手せざるを得まい」

 レギオンの体が宙に浮いた。その悪魔のひれで空中を泳ぐかのように。

 さらにその両手を前に出すと、爪が伸びた。それも、しゃきーん! て感じで、一瞬のうちに五十センチほど。その切れ味はどう見ても日本刀くらいはありそうだ。

 どうやらデデルコを強敵と見なして戦闘態勢に入ったらしい。

 デデルコは三歩ほど前に進むと、剣を両手で持ち変えた。その切っ先を天に向けつつ、顔の脇で担ぐように構えると、鋭い目でレギオンを見据える。

 ただでさえ赤い瞳が、真っ赤に輝いていく。風もないのに、長い髪が生きているかのようにざわめく。血のように真っ赤な唇が、きゅうっとゆがんだ。笑っている。デデルコは強敵を前に笑っている。はっきりいって、めちゃくちゃ怖い。

 レギオンは波間を漂うかのごとく、ゆらゆらと宙で揺らめきながら、「ぐるるるる」と獣のうなり声を上げた。闘気が高まったせいか、口から吐く息の腐ったような匂いがますます強まったような気がする。

 両者はしばらくの間膠着状態のままにらみ合いを続ける。

 ふいにレギオンが間合いを詰めた。尾びれで一蹴りすると、ほとんど瞬間的に三メートルほど前進する。デデルコとの間の距離はほんの一メートルってとこだ。

 レギオンの爪が、デデルコを襲った。左右に広げた腕で両サイドから挟むようにデデルコめがけて斬りつける。

 デデルコは相手の懐に飛び込むと、剣を振るう。

 レギオンの両手首が宙に舞った。

 さらに返す刀で、レギオンの首を払う。首はいったん跳ね上がると、床に落ち、ころころと転がった。

「やった」

 僕の声が黄泉子さんのとハモった。

「まだだ」

 デデルコがそれに反応した。

 その言葉を証明するかのように、黒山羊の生首と長い爪の生えた両手首は宙に浮かんだ。

 空飛ぶ生首は笑う。

「ふははははは、そんな剣で俺を倒せるとでも思ったか?」

 ふたつの鉄の爪が鳥のように自由に飛び回り、デデルコにアタックをかけてくる。

 デデルコはそれを剣でたたき落とすのだが、いくらやっても空飛ぶ鉄の爪は攻撃を繰り返す。

「ちっ、これじゃらちがあかないぜ」

 たしかに体は後方で待機し、手だけが攻撃を続ける。頭に至っては剣の届かない天井近くを浮いていては有効な攻撃などできるわけがない。そもそも相手は体を切られても死なないやつだ。

「デデルコ危ないんじゃないの? デデリカ、お願い、助けてあげて」

 黄泉子さんは本気で心配そうな顔で哀願した。心配なのは僕も同じだが、デデリカには期待できないだろう? どう見てもデデリカは戦闘タイプじゃない。

「心配ないですよ、黄泉子たん。デデルコはこんなやつなんかには負けないですよ」

 デデリカがのんきな口調でいった。その顔にはたしかに焦りは感じない。それどころか薄ら笑いを浮かべ、楽しんでさえいるように見える。

 左右から飛んでくる爪をはじき飛ばしたあと、デデルコの体に変化が起こった。

 背中から翼が生えたのだ。巨大なコウモリのような真っ黒な翼だ。

 デデルコは飛ぶ。頭上で戦いを見下ろしていた生首に向かって。

 剣先が山羊の眉間を貫いた。柄の根本まで深々と突き刺さっている。

 山羊が断末魔の悲鳴を上げた。

 デデルコはほっと息をつく。

「デデルコ、危ないです!」

 デデリカの叫びは間に合わなかった。二体の鉄の爪は後ろからデデルコの背中を貫く。

「きゃああああああああ」

 黄泉子さんの悲鳴が耳をつんざいた。

「ぐ……」

 爪は腹や胸から突き出ていた。デデルコは落ちる。そのまま床にたたきつけられると、腹ばいのまま動かなくなった。たぶん貫通した爪がコンクリートの床に突き刺さっている。標本にされた虫のようだ。ただどう見ても心臓のあたりを爪が貫いているのに、デデルコの体は動いている。その程度では死なないらしい

 もっとも不死身度ではレギオンが上か? 首を切り落とされ、脳を剣が貫通しても生きている。

 頭に刺さった剣が炎を上げた。瞬く間に剣は溶け、消え去っていく。眉間の傷はすでにふさがっている。

 レギオンは大声を上げて笑った。

「馬鹿め、だまされて油断するからだ、未熟者めが」

 次の瞬間、僕は心臓に直接氷を押し当てられたような冷気を感じた。

 側にいたデデリカからだった。

 デデリカはデデルコに向かって歩く。一歩歩くごとに冷気は強まっていく。デデリカの心を象徴しているかのようだ。

 僕はその後ろ姿を見守るしかできない。

「なんだおまえは? デデルコの娼婦の小悪魔か? こいつは男より女が好きらしいからな」

「よくも下等悪魔のくせに、デデルコをこんな目に遭わせましたね」

「なに? この冥界の魔王レギオンを下等悪魔だと?」

「冥界の魔王? 自称冥界の魔王の間違いですよ」

 レギオンは明らかに驚いた。自分をまがい物扱いしたデデリカの言葉に?

 いや、きっとそれだけじゃないと思う。デデリカの体全体から冷気とはべつに、なにやら邪悪なものが発散されている。霊感も魔力もない僕にすらわかるほどの強烈で邪悪ななにかが。

 デデリカはレギオンと向かい合い、僕たちに背を向けている。今のデデリカはいったいどんな顔をしてるんだ?

 ひょっとしたら今のデデリカの顔が見えていないのは幸せなことなのかもしれない。僕はそう思ってしまった。

 デデリカから発せられる邪悪なオーラはさらに強力になった。感じるどころか、まるでそれが目に見えるような気さえする。

「デ……デデリカ?」

 黄泉子さんも同じことを感じたらしい。脅えきった声を上げた。

 今までデデリカには軽く接してきたけど、ひょっとしてこいつってめちゃくちゃ恐ろしいやつなんじゃ?

「ま、まさか? おまえはまさか、あの……」

 まさか、あの……、ってなんだよ? なにがいいたいんだよ?

 デデリカはそんなに強いのか? 偉いのか?

 デデルコを串刺しにしていた爪が抜けた。そしてその本体を守るようにデデリカの前に浮かぶ。

 だが次の瞬間、悪魔の爪は向きを変えた。そして自分自身の体を切り刻む。逆にデデリカにコントロールされているのだ。

「やめろぉおおおおお」

 頭を貫かれても平気だった山羊の首は、血を吐くような叫び声を上げながら、宙を狂ったように飛び回る。

「レギオン・デ・ラコール。おまえの弱点は頭ではなく心臓ですよ」

 ずたずたに切り裂かれた体から、心臓が露出した。デデリカが手を挙げると、心臓はレギオンの体から飛び出し、宙で脈打った。

「握りつぶしてあげます」

 言葉に誘われるままに、心臓は吸い込まれるようにデデリカの手のひらに収まる。

「ま、待て、俺が悪かった。引き上げる。だ、だから……」

「遅すぎますよ、冥界の魔王を語る身の程知らずの小悪魔」

 デデリカの手のひらが青白く光る。あっという間に心臓が凍り付いた。

 デデリカがそれを握りつぶすと、ガラスのように粉々になって飛散した。

「ぎゃああああああああああ!」

 レギオンは今度こそ、断末魔の叫び声を上げ、無限に体を分裂させながら消え去った。

 耐え難い腐臭と体全体を覆っていた邪悪な気が消え去った。よどんでいた空気が一気に浄化されたような気がする。同時にデデリカが発していた冷気も消え去った。

「だいじょうぶですか、デデルコ?」

「ああ、失態を見せちまったね。こういうことはオレの役目のはずなのに」

 心配するデデリカに、デデルコはばつの悪い顔でいう。しかし体を貫いた傷跡はすでに跡形もなかった。

「いいんですよ、デデルコ。あたしもたまには戦ってみたいんですよ」

 デデリカが笑った。レギオンと戦っているときは見なかった顔が、今は笑っている。あどけなさと、可愛らしさにちょっとだけ神秘的な雰囲気を含んだ笑みで。

「さあて、これで事件は解決ですよ。刑事さん、さっさとこいつらを逮捕するですよ。使い魔に精気を吸い取られて弱った上に、レギオンの恐怖でおかしくなりかけてますがみんな生きてますよ」

 デデリカは床に素っ裸で転がっている連中を指さした。みな意識を失っているか、放心状態になっているやつらばかりだ。

 もっともそのチョーさんとミス研も、口をあんぐり開けたまま立ちすくみ、固まっている。

 デデルコがふたりの頭をひっぱたたき、活を入れた。

「しっかりしろ。それでも刑事か?」

「お、おう、……そ、それもそうだな。ミス研、連行する……ぞ」

 チョーさんがこわばった顔を必死で動かして、そういった。

「う、う、う、……うす。といっても多すぎるっすよ。応援……呼びましょう」

 そういうミス研も、ゼンマイ人形のように、ぎくしゃくと体を動かしながらいう。

「どうでもいいけど、早くしたほうがいいですよ。あと一、二時間もすればこの建物崩れますから」

「な、なに? なんでだ?」

「あたしたちは人間界にいるだけで、まわりの場を狂わせてしまうんですよ。だから長いこといられません。特に今回にみたいに強力な魔力を使ったときは、その効果が顕著に出ますからね。おまけにレギオンの魔力との相乗効果もありますから、建物にひずみが出ちゃいました。だからコンクリートにはそこら中ひび入ってますし、たぶん中の鉄筋はぼろぼろに腐食してますよ。そうでなくても、放置された廃屋ですからね」

「ま、まじっすか? 急ぎましょう、チョーさん」

「お、おう。といっても無線もないし、ここはスマホがつながらんぞ」

「特別サービスであたしが電波中継してあげますよ。さっさと電話したらどうです」

「おう、すまねえな」

 チョーさんはそういうと、スマホであたふたと応援を要請した。

「じゃあ、あたしたちは警察がくる前に、帰るとしますか?」

「そうだな。もうこんなところに用はない」

「じゃあ、優たん、帰りますよ」

「え、帰るって魔界に?」

「なにをいってるんですか? 優たんの部屋ですよ。あそこは居心地がいいんです」

 デデリカはなにを当たり前のことをいうのかといわんばかりだ。

「早くここを出ましょう」

 さすがの筋金入りオカルト大好きな黄泉子さんも顔が青い。ってよく見ると、体を覆っていた布が完全に下にずり落ちてますよ。レギオンに注意を奪われ、本人もまわりも気づかなかったらしい。

「あ、あの、黄泉子さん、体をなにかで……」

「きゃ、きゃああん」

 黄泉子さんは飛び跳ねると、下に落ちた布きれで体を速攻で覆った。

 一方響子さんはそんなことすら気にする余裕がないのか、美しい体を晒して立ちつくすのみ。黄泉子さんはそれに気づくと、布きれを被せ、さっきのようにふたりしてくるまった。

「ほら、元気出して。友達は失ったかも知れないけど、助かったんだし。もう誰に脅かされることもないんだよ」

 黄泉子さんが優しく語りかけると、響子さんの大きな目からぶわっと涙が溢れた。そして激しく嗚咽する。ある意味、人形のように感情をなくすより、はるかに安心だ。響子さんはそのまま黄泉子さんの胸に顔を埋め、黄泉子さんは優しく抱きしめる。

 ある意味めちゃめちゃエロいんですけど、それ。とくに布の下を想像すると……。

「まあ、黄泉子たんと響子たんは刑事さんの顔を立ててここにいてやってくださいよ。犯人捕まえても被害者がいなきゃ、面子丸つぶれですからね」

「ん、わかった」

 黄泉子さんは響子さんを慰めることで、平常心を取り戻したようだ。

「じゃあ、黄泉子たん、響子たん、そのうち優たんの部屋に遊びに来てください」

「おう、待ってるからな」

 デデルコとデデリカは勝手なことをいって、両サイドから僕の腕をつかんだ。

「じゃあ、いきますよ」

 いきますよ、はいいけど、ひょっとしてずっと僕の部屋に居座るつもりか?

 文句のひと言もいおうとした瞬間、目の前からみんなの姿が消え失せ、まるで宇宙空間を飛んでいるような気分になった。

 いわゆる、時空を飛んでいるってやつ?

 次の瞬間、僕は見慣れた自分の部屋にいた。

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