第三章 魔界美少女探偵消失
1
僕は頭の中が真っ白になった。
ど、ど、ど、ど、どうしたら、いいんだ?
響子さんに引き続き、黄泉子さんまでさらわれた。しかもデデルコが護衛に付く前の段階で。
やつを追う? だめだ。もう姿が見えない。どこにいったのかわからない。ただでさえ神出鬼没なやつなのに、今から追っても見つけられるとは思えない。
「た、頼む。黄泉子さんを探してくれ。今ならまだ間に合うかもしれない」
僕はふたりの悪魔に頭を下げていた。しかも土下座だ。
「探すったって無理ですよ。もう追いようがないです」
「だから、悪魔の力を使ってくれよ」
こいつらにはこいつらなりのルールがあるらしいけど、もうそんなことは知ったことじゃない。もう僕はこいつらの魔力に頼るしかない。
「だ~か~ら~っ、それは反則ですよ」
「反則だろうがなんだろうが、使えるんだろ? どうやるのかは知らないけど、黄泉子さんの居所がわかるんだろ、魔力を使えば?」
「ふ~ん、い・や・で・す・ね。つまんないですよ、そんなの」
僕はデデリカをぶん殴ってやりたかった。
「ふん、なんだおめえ、その目つきは?」
僕の感情が表に出ていたのだろう。デデルコはいきなり僕の顔を足蹴にすると、倒れた僕を燃えるような目で睨み付けた。
「嫌なものは嫌なんだよ。おめえ、なにか勘違いしてるんじゃねえのか? オレたちはおめえの奴隷じゃねえ。オレたちを好きに使えると思ったらとんでもない間違いだ」
「デデルコは黄泉子さんに執着してたじゃないか? その黄泉子さんがピンチなんだぞ」
「ほう、それならオレが黄泉子を救い出したら、好きなように扱ってもいいのか?」
デデルコは好色な笑みを浮かべ、真っ赤な唇をなめ回す。
くそ。こいつらはやっぱり悪魔だ。能力うんぬんじゃなくて、心の性根が悪魔そのものなんだ。
「も、もう頼まないよ。消えろ。おまえたちなんか消えればいいんだ」
僕は叫んでいた。そもそもこいつらはなんの役にも立っていない。魔力は使ってくれないし、かといって名探偵のような推理を披露することもない。いないほうがましだ。
「生意気なんだよ、おめえは。人間のくせによぉ」
デデルコは僕にげしげしと蹴りを浴びせながらいう。
痛みよりも耐えがたい屈辱が襲う。僕は自分の無力を呪った。
「まあまあ、デデルコ。そんなやつ蹴ったってしょうがないですよ。もう帰るですよ。こいつがひとりで魔物相手にどれだけできるか、ちょっと楽しみですよ」
「ふん、それもそうだな」
デデルコは冷たい目で僕を見下ろし捨て台詞を残した。
「だいたいおめえはよう、男のくせに他人に頼りすぎなんだよ。最後には神頼み、悪魔頼みだ。世の中そんなに甘くねえんだよ。まず自分がやるべきことをやってから人を頼れ」
部屋の片隅に闇が生じた。まるで空間がそこだけ割れたように。
デデルコとデデリカはその闇の中に溶け込んでいく。あいつらの姿が消えると、空間は正常に戻った。
「くそ、くそ、くそお」
僕は床を叩いた。涙すら流している。
デデルコのいうとおりだった。僕はけっきょく悪魔に頼っただけで、自分自身ではなにもしようとしていない。これはそもそも僕が解決すべき問題じゃないのか?
そう思う反面、こうも思う。
僕は怒りに任せてとんでもないことをしてしまったのではないか?
相手が人間ならばともかく、魔物、吸血鬼の類なのだ。そいつらの正体がわかったところで対抗できるのはあいつらしかいないのでは?
どんなに卑屈になろうが、あいつらを帰すべきではなかったのではないのか?
とにかく頭の中がぐちゃぐちゃだ。いったいなにをすればいいのか、まったくわからない。
黄泉子さんの家に行って安否を確かめる?
だめだ。黄泉子さんは両親と住んでいる。僕は両親と面識がないし、こんな夜中に行っても開けてくれるわけがない。
「電話だ。こんな時間に非常識だけど、黄泉子さんの親に電話して事情を話せば……」
僕はスマホではなく、黄泉子さんの家の電話にかけた。しばらくあと、留守電に切り替わる。たぶん寝てるんだろう。
警察に電話するか?
だけど、あいつらは僕らを疑ってるやつらだぞ。真剣に黄泉子さんを探すとは思えない。
……いや、疑ってるのはチョーさんだ。そうか、それならば……。
ミス研だ。
僕はミス研こと綾川刑事からケータイ番号の入った名刺をもらっていることを思い出した。
ミス研がどういう反応を示すかはわからないけど、あの人しか頼るべき人間が見つからなかった。
僕はスマホにミス研の番号を押す。
何回か鳴ったあと、寝ぼけた声が聞こえた。
『……ふぁい。綾川っす』
「南野優です」
『……んんぅ、君か? いったいなにごとだい?』
「黄泉子さんが例の黒マントの怪人に誘拐されました」
『なんだって?』
ミス研はようやく目が覚めたらしく、激しい声で聞き返す。
僕は事件の全容を説明した。もちろんデデルコとデデリカに関することは抜きで。
『わかった。それがほんとうなら、沖田は病院を抜け出してるはずだ。今すぐ病院に電話して、沖田がいるかどうか調べさせるよ』
「それと黄泉子さんのところへ行って安否を確かめてください」
『わかった。そっちは近くの派出所の警官を送るよ。結果がわかり次第連絡する』
電話は切れた。あとはとりあえず待つしかない。
待ちながら僕は考える。
沖田はなんだってのこのこと僕のところへ黄泉子さんを誘拐した証拠を持ってきたんだろう? いや、持ってこさせたのは沖田を操っている吸血鬼本体なのかもしれないけど、いったいあいつらはなにをしたいんだ?
いや、そもそもなぜ黄泉子さんをさらったんだ?
わからない。まったくわからなかった。
僕のスマホが鳴る。ミス研だ。
「どうでした?」
僕は叫んだ。
『沖田は病室で寝ているよ』
「え? そんな馬鹿な」
『いや、宿直の看護師に確かめたんだ。ほんの数分前にあそこの大部屋に行ったそうだ。そのとき全員ベッドにいることを確認したそうだ。間違いないといっているね』
「じゃあ、きっとぎりぎり間に合ったんですよ。今帰ったばかりなんだ」
僕の家からなら夜中に車を飛ばしても、病院までは三十分くらいかかる。僕は自分でも確信を持てずにいった。
『いや時間的にそれは無理だろう。それに誰にも見られずに病室にたどり着くこと自体がまず難しいし、この雨でずぶ濡れになっているんじゃ通ったところに水が落ちるだろ? だがそんなこともなかったそうだしね』
このとき僕は初めて沖田がすでにただの人間でないことを思い出した。
沖田は吸血鬼にかまれ吸血鬼になった。ならば同じことができてもまったく不思議はない。
つまり沖田は瞬間移動したんだ。
魔力を使える吸血鬼のアリバイを調べることなどまったく意味のないことだった。
だけどそんなことをミス研にいったところで取り合ってくれるはずもない。
「黄泉子さんは?」
『派出所の巡査に確認しに行ってもらっているけど、まだ連絡はないよ』
「そうですか」
『君はほんとうに沖田の顔を見たのかい?』
「見ました。一瞬でしたけど間違いないと思います」
ミス研は考えをまとめているのか、しばらく黙り込んでいた。
『ちょっと待って。電話が入った。派出所の巡査かもしれない』
ミス研は別の電話に出る。しばらくしたあとにこっちのスマホに話しかけてきた。
『君のいうように彼女は家にいないね。両親の話じゃ、いままで朝帰りしたことはないといっている。犯人からの連絡らしきものはないようだね』
やはりなにかの間違いということはなかった。黄泉子さんが誘拐されたことは確定だ。
『とにかくこれから鑑識をそっちに回すように手配するよ。この雨じゃ犯人の遺留品が残っているとも思えないけどね。もしまだ両親にこのことを話していないのなら、起こしてでも話を通しておいてくれ。僕もチョーさんを引っ張って、今からそっちに向かう。場合によっては一緒に沖田を訪ねてもいいよ』
僕が承知すると、ミス研は電話を切った。
2
僕はミス研の運転する覆面パトカーに乗っていた。助手席にチョーさん、僕は後ろの席だ。
ミス研に電話したあと、僕の家には警察の鑑識課が乗り込んできて大騒ぎになった。僕の部屋、特にベランダまわりは念入りに調べられ、証拠の黄泉子さんのウインドブレーカーも彼らが持って行った。他にも、ミス研たち以外の刑事がやってきて、あれやこれや聞かれた。そのあと、朝になってようやく現れたミス研たちが、連れ出してくれたわけだ。
もちろんパトカーは沖田の入院している病院に向かっている。
雨は夜中からほとんど切れることもなく、しとしとと続いている。ワイパーがひっきりなしに動いていた。
「おめえよ、ほんとに見たのか? その沖田が黒マントでベランダにやってきたってのをよ」
チョーさんが顔半分後ろに振り返りながら、疑わしそうにいう。
「ほんとですよ。嘘ついたってしょうがないでしょう?」
「信じられねえな」
そういうと、そっぽを向いた。
たしかに常識では考えられない。吸血鬼を捕まえようとして逆に噛まれた男が、吸血鬼化し女を襲う。B級ホラー映画そのものだ。しかも沖田にはアリバイがある。吸血鬼だから瞬間移動したなどといっても誰が信じるだろう。
「チョーさんは狂言誘拐説じゃなかったんすか?」
ミス研が横から口を出す。
「それなら、むしろ吸血鬼の正体が沖田だっていうのは不思議でもなんでもないっすよ」
「狂言ならこいつも共犯のはずだ。それなのに吸血鬼が沖田だなんていうから変なんだ」
それは暗に黄泉子さんがさらわれたのも狂言だといいたいのだろうか?
チョーさんはその後考え事をしているようで車内には沈黙が続く。車は重苦しい雰囲気の中、やがて沖田の入院している病院に着いた。
病院の中はこの前来たときと特になにも変わっていなかった。まあ、強いていえば、雨のせいでいくぶんじめじめしているのが違うくらいだ。僕らは沖田のいる病室に向かう。途中、看護師たちが夜勤時に待機するナースセンターも通った。
「ふん、こんなに入り口から離れたところに病室があるんじゃ、沖田が誰にも見られずに抜け出すのは難しいな」
チョーさんがいった。
「でも、たかだか二階ですし、窓から逃げるって手もあるっすよ」
「馬鹿いうな。個室ならともかく大部屋だぞ。雨も風も強かったんだ。夜中に窓なんか開けてそこから出入りすれば、床は濡れるし、音もする。同室のやつが気づくさ。まあ、中に入ったら念のため、一番窓に近い患者に聞いてみればいい」
話している間に病室に着いた。中に入ると、すぐ側のベッドに沖田は上体を起こし、テレビを見ていた。
「よう、元気そうじゃないか、沖田君」
チョーさんが下駄のような顔に皮肉な笑みを浮かべながらいう。
「あ、刑事さん。まあ、だいぶよくなりまして。きょうの午後、検査で異常がなければ夕方にでも退院できると思います」
「ほう、そりゃよかった。まあ、きのう夜中に抜け出して女を誘拐できるくらい元気なんだから当然だよな?」
「え? いったいなんの話です、刑事さん」
「いや、この優君がきのうの夜中、君を見たんだよ。例の黒マントの怪人に扮して、新月黄泉子の着ていたウインドブレーカーを手に持っていたそうだ。しかもそれ以来彼女は行方不明だ。君が誘拐したとしか思えんだろ?」
「おい、優くん、いったいなんの話だ、そりゃ?」
沖田は心底驚いた顔で聞く。とぼけやがって。
「そんなことをいったってごまかされませんよ。僕ははっきりと見たんですから。あなたが黄泉子さんをさらったんだ」
「おいおい、それはいつのことだって? どこで僕を見たっていうんだ?」
「夜中ですよ。きのうっていうか、もう今朝の明け方ですけど、三時過ぎ、いや三時半近かったですね。僕の部屋のベランダにあなたがいたんですよ、例の黒マントの吸血鬼の格好をしてね」
「僕が病室を抜け出したっていうのかい?」
「そうです」
「おいおい、兄ちゃん、そりゃあないぜ」
いきなり口を出した男がいた。隣のベッドの男がカーテン越しに話しを聞いていたらしい。自らカーテンを開けると、その労務者風の髭面中年男は話を続ける。
「俺は夜中体に痛みが走って、十二時から四時くらいの間ずっと眠れなかったんだよ。もしその間、隣の兄ちゃんがどこかに出かけたらわかったさ。だがそんなことはなかった」
「でも、カーテンがあるから、その間ベッドにいたかどうかはわからないでしょう?」
「だがそれこそ三時半ごろ、看護師が見回りに来てたぜ。もしベッドにいなけりゃ、看護師が大騒ぎしたはずだ」
男は断言した。べつに沖田をかばっている風もない。
「そのときの看護師さんには裏を取ってます」
ミス研がいう。
「納得してくれたかい、優くん」
沖田が勝ち誇ったようにいった。もちろん納得などしていない。それこそ音もなく瞬間移動したに違いないのだから。
こいつはもう吸血鬼だ。人間のふりをしているだけだ。
その言葉を飲み込んだ。そんなことをいえば、キチガイ扱いされるのは自分のほうだ。
「ちなみに窓からこっそり出入りしたなんてことはあり得ないかね?」
チョーさんの質問に男は笑った。
「そんなことがあるわけないさ。それよりはドアからこっそり出るほうがまだ楽だぜ。なあ、じいさん?」
男は一番窓側のベッドに向かって怒鳴った。
「ああ、誰も窓から出入りなんかしていないよ。わしの寝入りは浅いんじゃ」
一番奥のベッドからカーテン越しに老人の声が聞こえる。
「ふん、これ以上聞くまでもないな」
チョーさんが苦々しげにいった。
「みなさん、ご協力を感謝します」
チョーさんは立ち去ろうとしたが、僕は同意できない。沖田に詰め寄った。
「もう御託はいいよ。どこだ? 黄泉子さんをどこにやった? 響子さんも一緒か?」
同じ学校の先輩にこんな口を利いたのは初めてだ。だが躊躇はしない。
「刑事さん」
沖田は呆れた口調で僕を指差す。
「帰るぞ、小僧」
チョーさんに首根っこをとっ掴まれて病室の外に引きずり出された。
「離してくださいよ、僕は暴力を振るってでも聞き出さなきゃならないんだ」
「物騒なことをいってるんじゃねえ。ここは病院だぞ」
チョーさんに離す気配はない。
「いったいなにをたくらんでるんだ、おめえ?」
「なんのことですか?」
「沖田のアリバイは証明された。つまり、おまえは自分の家のベランダで沖田を見たわけがないってことだ。それなのにどうしてそんな証言をする? 仲間割れか? それともかく乱作戦か?」
チョーさんの頭の中には、狂言誘拐説しかないらしい。
「だから、僕は見たんです」
「悪いがこれっぽっちも信用しないぜ。なぜなら今回のことを抜きにして、雛祭響子の誘拐だけ考えても、沖田の単独犯はありえないからだ。おまえの言葉を信じる限り、沖田は黒マントを追った。それだけでも共犯がいる。しかし黒マントが煙のように消えうせるにはそれだけじゃ不可能だ。雛祭が消え、高木も黄泉子もおまえも、どこに消えたかわからない。そんな馬鹿なことがあるわけがねえ。おまえら全員が口裏を合わせない限りな」
けっきょくこの推理にループする。話にならない。
「まあまあ、チョーさん、未成年を脅しつけるのはまずいっすよ」
ミス研がとりなす。
「ねえ、優くん、見間違いってことはないのかい? 沖田によく似た男だったとか、あるいは誰かが変装していたとか」
「そんなことはありません」
ミス研はソフトに接してくるが、それはけっきょく彼らの作戦だ。チョーさんがこわもてで、ミス研が懐柔してくる。ふたり組みの刑事の基本だ。僕はようやくそのことに気づいた。
ミス研に頼ったのは間違いだった。けっきょく僕のことなど信じちゃいない。
だまされてたまるか。
「学校まで送るよ」
ミス研はそういってきたが、断った。
警察は当てにならないどころか、僕を疑っている。
黄泉子さんは誘拐された。
デデルコとデデリカは愛想を尽かして消え去った。
僕には味方がいない。自分ひとりでやるしかない。
沖田が退院するまでここに張り込んで、出てきたあとは尾行するしかない。あいつは必ず黄泉子さんや響子さんが捕らえられているところへ行くはずだ。
「わかってると思うが、ここでひと悶着起こすなよ。そうなりゃ、遠慮なしに引っ張るぞ」
「わかってますよ。そんな馬鹿なことはしません」
僕が答えると、チョーさんとミス研は病院を出て行った。
3
けっきょく僕は授業をサボった。
もっとも沖田が退院するとしても夕方だ。それまで時間があるはずだから、僕はその間、吸血鬼のアジトに潜入することを前提にして準備をした。近くのコンビニに行き、張り込み用の食料としておにぎり数個、さらに夜暗いところに入ったときのことを考えて、懐中電灯など必要なものを籠に入れていく。証拠を集めるためのカメラはスマホに付いてるやつでいいだろう。あと、ひょっとしたら尾行のためにタクシーを使う羽目になるかも知れないけど、足りるだろうか? そう考えると財布の中身は心許ないがなんとかなると思うしかなかった。
昼過ぎに病院に戻ったとき、ちょうど病院を出ようとしていた林田さんに出くわした。午後の授業をサボってお見舞いに来ていたらしい。
「あんた、なにやってんのよ?」
林田さんがそういって、僕を睨む。
「沖田さんから聞いたわよ。あんた、沖田さんが犯人だと思ってるんだって? バッカじゃないの」
相変わらずの饒舌だけど、彼女に説明したところで相手にされないのは最初からわかっている。
「なに? 待ち伏せて、暴力でもふるうつもり? ま、心配ないか。あんたじゃ沖田さんに勝てっこないしね」
むかつくいい方だけど、真実だろう。相手は元不良のテニス選手、たとえ病み上がりでも体力では絶対に勝てない。いや、それ以前に吸血鬼なんだから勝てるわけがない。
「あんたを巻き込んで悪かったわ。でももう手を引きなさい。調子に乗れば、ほんとうの犯人に殺されるわよ」
林田さんはとげとげしい口調ながら、お詫びと警告ととれる台詞を喋った。
ひょっとして心配されたのだろうか?
あの林田さんが僕を気遣ってるなんて思うと、複雑な心境だが、今はそんなことをいってる場合じゃない。ここまで来たら、もう僕は手を引くわけにはいかない。
「なによ、変な目で見て。いい? あたしは間違ってもあんたを心配してるんじゃないわよ。なにかあったらあたしが責任感じるからいってるだけ。あたしはあんたにクビをいいつけたのよ。覚えてる? だからほんとうはもうどうなろうと知ったことじゃないんだけどさ」
心なしか彼女の顔が赤くなっているような気がする。
「もう一度いうわ。手を引きなさい。だけど、間違ってもあんたを心配しているわけじゃないからね」
林田さんはツンと顔を背けると、病院を出て行った。
なんなんだよ、いったい?
僕はすこし混乱したが、そんなことで悩んでいる場合じゃない。すぐに頭を切り換えた。沖田を待ち伏せする必要がある。
出入り口が見張れる待合室に陣取った。もっとも沖田自身、退院は夕方といっていたくらいだから、しばらくはなにも起こらない。退屈な時間が流れた。
けっきょく、沖田が母親に連れられて病院を出たのは夕方になっていた。僕は彼らの乗った車を追うため、なけなしの金でタクシーに乗ったけど、沖田は自分の家に帰っていっただけだった。
母親と一緒だった時点で嫌な予感はあった。たしかに沖田にしてみればとりあえず大人しく家に帰るしかない。
だけど僕としてはこのまま家に帰るわけにはいかない。沖田が動くと信じて外で張り込むしかない。きょう動かなければあした、それでだめならあさって。とにかく張り込みと尾行を続けるつもりだ。もう、僕にできることはそれしか残っていなかった。
さすがに住宅地で雨の日に一ヶ所に立っているのは怪しまれるので、沖田の家が見える範囲で歩き回った。そのうち、沖田の家を見張るのに恰好な場所に喫茶店があることに気づいた。僕はためらうことなくそこに入る。そこは道路側がガラス張りになった喫茶店で、さいわい沖田の家が見える窓際の席は空いている。目当ての窓の側の席を分捕ると、一番安いコーヒーを頼んだ。
怪しまれないように、適当なマンガを机の上に積んでおいたけど、それに目を通さずに外ばかり眺める変な客と思われたかもしれない。だけどそんなことにはかまっていられない。僕は沖田の家を眺め続けた。
日が暮れ、夜が更けていく。それでも雨は相変わらず降り続く。家では心配しているかも知れないけど、帰るわけにはいかない。
コーヒーのあとサンドイッチだけでひたすら粘る客にマスターの視線が厳しくなったころ、動きがあった。十一時をすでに回っている。
沖田の部屋と思われる一階の窓から、沖田はこっそりと外に出た。
家族に見つからないように気を使っているんだろう。それだけでも怪しすぎる。僕は速攻で支払いを済ますと、喫茶店を出た。
さいわい見失うこともなく、僕が外に出たとき沖田が傘を指して歩いていく後姿が見えた。服装はジーンズにチェックのシャツというなんの変哲もないカジュアルな格好で、例の黒マントではない。
黄泉子さんのつかまっているところへ行く気か?
僕はそれを期待した。
もしあのとき吸血鬼の顔が沖田だったのは僕の勘違いで、沖田がたんなる被害者だとすると、退院したばかりの夜に、家をこっそり抜け出して行くところがあるとは思えない。
つまり吸血鬼化した沖田が、吸血鬼の黒幕に呼び出されていると考えるのが妥当だ。
そう思うと心臓が高鳴ってくる。
沖田はどんどん人気の少ないほうに歩いていく。車が行き来する大きな通りから中に入っているため、ただでさえあまり人通りが多くなさそうなところだけど、この雨のせいでほとんど人が歩いていない。近くにはコンビニや夜遅くまでやっている店もないようだし、飲み屋の類もないから夜出歩く人間が少ない町なんだろう。静か過ぎた。しかもこのあたりの人間は寝るのが早いのか、まだ十二時前なのに電気のついている家が少なかった。
沖田の家から歩き続けて、もう三十分は経つだろう。それだけでも病み上がりの人間とは思えない。今の沖田の肉体はむしろ普通の人間よりも強靭に違いないのだ。
一般住宅がさらにまばらになったころ、沖田はついに足を止めた。目の前にあるのは工事中の建物だった。このあたりまで来ると、もう完全に人通りがなかった。
塗装が剥げ、さび付いた高さ三メートルほどの仮囲い用鋼板が、建物の周りを取り囲んでいた。入り口の仮設ゲートにはパイプが厳重にくくりつけられていて、開きそうにない。
ただ仮囲いの一部がちょうど人が潜り抜けられるほどの大きさで破損していた。沖田は躊躇せずにそこをくぐり中に入っていく。
僕は安易に中に入らず、その隙間から中を詳しく観察する。
建設中のビルかと思ったら、どうもそうじゃない感じだ。工事中ではなく、建てることを放棄したビル。理由はわからないけど、途中で建設中止になった建物って感じだ。口ではうまくいえないけど、建設中の建物にはある種の力強さがあると思う。これにはそんなものは欠片もない。死んでいるのだ。途中放棄された怨念のようなものすら感じる。
むき出しのコンクリートが三階分までできており、その上に柱の鉄筋が中途半端に伸びている。ここからじゃよく見えないけど、きっとぼろぼろにさびているに違いない。一階分は一戸建て住宅数件分くらいの広さがありそうだから、おそらくマンション工事が途中で中止され、足場を払って解体工事待ちの状態で放置されているんだろう。サッシもついていないがらんどうの窓からは一切の明かりも漏れていない。中は暗闇だってことだ。
沖田は懐中電灯を取り出し、中に入っていく。おそらく階段を上っているんだろう。明かりは上のほうに向かっていった。
いるのか? この中に黄泉子さんと響子さんが?
僕の胸は高鳴る。同時に脳内に警告の声が聞こえた。
これは罠なのでは?
よく考えれば、瞬間移動できるはずの沖田が、わざわざ三十分もかけて歩いてきたのは、僕が張り込んでいることに気づいておびき寄せたのでは?
もしそうなら、僕はまさに飛んで火にいる夏の虫だ。
とたんに躊躇した。
それにこの中にほんとうに黄泉子さんたちがいるのかどうかすらわからない。
そこまで考えて、僕は思い立った。
僕は逃げるためのいいわけを探している。
激しい自己嫌悪が襲う。
そのとき、上の階の手前の部屋にほのかな明かりが見える。おそらく蝋燭の明かりだろう。窓際にふたりの吸血鬼が立っているのが見えた。ふたりとも例のフードつき黒マント姿だ。
そのうちのひとりが蝋燭のともった燭台を持っている。その蝋燭の明かりが、もうひとりの小柄な吸血鬼のフードの中を照らした。
顔全体が見えたわけじゃない。いつもは見える口元はもうひとりの陰になって見えず、逆に赤いほのかな灯りが目元と鼻筋を照らした。
僕は心臓が止まりそうになった。
その小振りながらつんと尖った形のいい鼻。大きな目。
それは響子さんのものだったからだ。
そんな馬鹿な?
いや、考えたくなかっただけだ。響子さんは沖田同様、吸血鬼の毒牙にかかり、彼らの仲間になってしまったとしか思えない。その証拠に、くりくりっとした愛嬌のある目は、生気のない死人のような目になっている。いつもの輝きがまるでない。
残念ながら、それが見えたのはほんの数秒だ。もうひとりが蝋燭を顔から遠ざけると、もうフードの中は見えなくなった。
見間違いだ。
そう信じたかった。
それでも、あの顔をフードの下からは絶対に見たくはなかった。
黄泉子さんはどうなんだ?
おそらく、この中に黄泉子さんがいるのは間違いない。
ただ捕らわれているだけなんだろうか? それとも、……。
そうは思いたくなかった。まだ望みがあるはずだ。
とはいえ、このまま単独で突っ込んで、僕の身になにかあれば、ここが吸血鬼たちの巣窟だということが闇の中に葬られる。
僕はスマホを取り出し、ミス研に電話した。
つながらない。モニターを見るとアンテナが立ってない。圏外だ。
公衆電話を探すか?
だけどこれで警察が動くだろうか?
沖田はこの中に入っただけだし、なにもしていない。響子さんを見たといっても、距離がある上、暗い光の中で一瞬見ただけだ。僕自身、間違いなく響子さんだといい切る自身がない。
ならば警察を動かすだけの根拠を見つけてやる。
とりあえず、深入りは避けて、なにかここがあいつらの根城だという根拠を見つけるだけだ。
僕は自分にいい聞かせた。
準備してきた道具の中から懐中電灯を取りだした。ただし見つかりたくないから、まだスイッチは入れない。
僕は敷地内に侵入すると、そのまま放置された建物の中に入っていった。
4
中にはなんの明かりもない。とはいえ、窓がつくはずだった壁の開口部からは周囲の明かりがわずかに入ってくる。ほとんどなにも見えないけど、完全な闇というわけでもなかった。
僕は懐中電灯を点けるかどうか迷った末、点けないことに決めた。ライトを使えばたしかに視界は確保されるかもしれないけど、相手に見つかる可能性が格段に高くなる。それだけは避けたかった。
しばらくじっとしているとある程度目が慣れ、部屋の様子がなんとなくわかるようになってくる。もちろん詳細はわからない。
とりあえず沖田が上に向かった階段が、近くにあるはずだ。僕は息を殺し、足跡を立てないように注意しながら前に進む。
ぴちゃりと音がした。コンクリートの床に水溜りができている。おそらく屋根もきちんとかかっていないできかけの建物では雨が進入してくる経路がたくさんあるんだろう。一日降り続いている雨が入り込んだに違いない。
水溜りは深くはない。僕は注意深く前に進んだ。
前方にぼんやりと白っぽい塊が見える。よく見ると階段だった。注意して一歩を踏み出す。
上の段から、たらたらと水が流れ落ちてきている。どうも完全な室内階段ではなく、踊り場は外部に面しているようだ。腰までの手すりのため外の明かりがすこしは入ってくる反面、外から入り込んだ雨水が流れてきているのだろう。
さいわいかなり目が慣れてきたので、外の明かりがわずかなりとも入ってくる踊り場付近の様子はかなりわかった。段を踏み外すこともなく二階にたどり着く。
沖田はここからどこに行ったんだ?
とりあえず、ここからは明かりらしきものは見えないし、物音や、人の気配も感じられない。
三階に行ってみよう。
そう思ったのは、さっき響子さんらしき人影を見たのが三階だったからだ。
僕は階段を上った。
三階は一、二階以上に水浸しだった。天井、つまり四階の床のコンクリートにところどころ配管用かなんかの穴が開いているから、上に溜まった水がまともに流れ込んでくる。
やはりどこからも明かりは漏れていなかったし、人の気配もない。
僕はさっき響子さんがいた部屋を探した。だいたいの位置はわかる。
落ち着け。恐れるな。
僕は自分にいい聞かせる。心臓が異常なまでに高鳴っているのがわかったからだ。
暑くもないのに、体中から汗が噴き出している。
水溜りがはねて音を立てないように、ゆっくりと足を動かし、響子さんがさっきいた部屋に向かった。
それでも前のほうからは明かりも見えなければ、足音ひとつ聞こえてこない。
たぶんあの部屋だ。
一番奥の外に面した部屋。位置的に、僕がさっき仮囲いの隙間から覗いたとき彼女がいた部屋に間違いないはず。
僕は息をこらし、まだ玄関扉も付いていないコンクリートの開口部を静かにくぐった。
誰もいない。少なくとも見えないし、人のいる気配もない。
ばしゃ。
水がはねる音がした。僕は心臓が口から飛び出るかと思った。
音のしたほうを見ても、なにも見えない。誰もいるようには見えない。
いや、それは気づかなかっただけだった。なにかが動いた。それも急激に。とても人間の動きとは思えなかった。
すばやく、音もなく動く影。
それもひとつじゃない。別方向に同時に動いた。
僕は思わず懐中電灯のスイッチを入れた。
猫だった。
心底ほっとした。おおきく安堵のため息をつく。
もうひとつの影も猫だ。ライトに驚いたのか、二匹の黒猫は逃げていった。
「脅かしやがって」
安心したせいか、口に出すつもりはなかったがつい言葉にしてしまう。
ついでにライトで部屋の中を照らした。
間仕切りが作られていないから広く感じるけど、3DKほどのマンションの一室だろう。むき出しのコンクリートの壁と床、どこにも人影はない。隠れるところもない。
もう一度ほっとした。猫で安心させておいて、他のところを見たら、例の吸血鬼が立っていた、なんていうホラー映画のようなオチがないともかぎらないからだ。
ふいに足元を見て愕然とした。まったく気づかなかったけど、床に穴が開いている。三十センチと七、八十センチほどの長方形の穴だ。工事中の資材の上げ下ろしにでも使うんだろうか? なんにしろ暗闇の中では絶好の落とし穴だ。気をつけなくてはならない。
まてよ……。
あれはほんとうにただの猫なのか?
餌があるとも思えないし、こんなところに猫が住み着いているのも変じゃないだろうか?
とたんに恐怖がぶり返す。あの猫が吸血鬼の化身に思えてきたからだ。
ライトを消した。もしあの黒猫が吸血鬼の化身、もしくは使い魔だとしたら、やつらがやってくるのは明白だ。こんなものを点けていれば、僕はここにいると宣言しているに等しい。
短い間とはいえ、ライトを点けていたので、消した瞬間には闇が訪れた。
まずい。目が慣れるまで動けそうにない。
だけど同じ場所にいるわけにはいかなかった。
僕は壁に手をつけると、手探りで部屋を出る。とりあえず隣の部屋に入り、身を隠そうと思った。
例の落とし穴に注意しながら、隣の部屋に足を踏み入れる。息を殺し、耳を澄ます。雨音でうるさいけど誰かがいればその息遣いなりが聞こえるはず。だけどこの中に誰かがいる気配はなかった。
「うわあっ、なんだこいつら?」
下の階からいきなり叫び声が聞こえる。しかも聞き覚えのある声だった。
チョーさん?
「わわわ、やばいっすよ、チョーさん」
ミス研もいる。
沖田を尾行してきたのか? いや、それなら僕は気づいたはずだ。どうやら僕を尾行してきたらしい。
それにしても、いったい下ではなにが起こっているのか?
部屋がすこしだけ明るくなった。下の階から例の床の穴を通じて光が漏れている。
きっとミス研とチョーさんが懐中電灯を使っているんだろう。
僕は恐る恐る床の穴に近づく。覗き込めば見つかる可能性もあるけど、覗かずにはいられなかった。
思わず声を出しそうになり、手で口を覆った。
チョーさんとミス研に例の黒マントの吸血鬼が襲い掛かっている。しかも単独じゃない、複数だ。五、六人? いやもっといる。
やはりやつは血を吸うことで仲間を増やしている。
ひょっとしてあの中に響子さんもいるのか? それどころかもしかすると、黄泉子さんまで?
頭がパニックになりそうだ。
とにかく証拠だ。
僕はポケットをまさぐり、スマホを取り出す。
内蔵カメラのシャッターを切った。シャッター音がしたけど、さいわいにして誰も僕に気づかない。チョーさんたちを捕まえるのに夢中だ。
チョーさんたちは拳銃を持っていないのか、あるいは持っていても武装していない人間にむけることはできないのか、柔道で応戦しようとしていたが、しょせんは多勢に無勢、それ以前に相手は吸血鬼。あっさりと捕まった。
自分が携帯していた手錠で後ろ手に拘束される。
「わわわわ、まずすぎるっすよ、チョーさん。やっぱり乗り込む前に応援を頼むべきでしたよ」
「やかましい!」
応援、頼んでないのかよ?
思わず突っ込みを入れたくなる。
ふたりはやつらに引っ張っていかれた。
相手が大勢いるとわかり、しかも刑事がふたり捕らわれた以上、すぐにでもここから立ち去り、一一〇番すべきだ。証拠だってある。
そう決心した。それは恥ずべき行為じゃない。逃げるのとは違う。僕がひとりで解決できる問題じゃないからだ。警察に連絡することこそが僕にできる最高に有効な手段だ。
僕はこのときほど、電話が通じないことを呪ったことはない。
足音を立てないようにして階段に向かう。だけど僕はそれ以上進むことができなかった。階段の下から明かりが見えたからだ。
炎のともった蝋燭を片手に、黒マントたちがぞろぞろと階段を上がってくる。それに続いてチョーさんとミス研、その後ろにはまた何人かの黒マント。
僕は壁の陰に隠れた。こっちにこないことを神に祈りながら。
祈りが通じたのか、ぺちゃぺちゃという水溜りを歩く足音は小さくなっていく。僕と反対の方向に向かったということだ。恐る恐る顔を出し、覗くと、蝋燭の炎は遠ざかっていく。
安堵のため息が出る。
しばらく待ち、明かりが見えなくなったころ、僕は抜き足差し足で階段に向かう。このまま下に向かうつもりだった。あとは公衆電話を探すか、スマホの電波の通じるところまでいって警察に電話するだけだ。
なにかを踏んだ。
そんなものを気にしてる場合じゃないんだけども、なぜか気になった。虫の知らせのようなものだ。
足をどけてそれを拾ってみる。
十字架。片手に収まる大きさの、十字架。これは……。
僕が黄泉子さんに渡した十字架じゃないか?
僕は激しく動揺する。そのとき……。
「きゃあああああ」
若い女の悲鳴がした。やつらの向かったほうからだ。
黄泉子さん……?
いったん外に出るべきか、このまま追うべきか?
僕の頭の中でものすごい葛藤が起こる。体がふたつに引き裂かれそうだ。
もう一度、叫び声が鳴り響いた。こんどはさっきより、強く。
僕は踏み下ろそうとしていた足を上げ、声の方向に向かった。
5
吸血鬼たちがいるのはおそらく一番奥にある部屋だ。近づくにつれ、間違いないと思えてきた。一番奥の部屋の開口部から明かりが漏れていたからだ。
なにやら不気味な音が聞こえてくる。まず音楽。静かで低い旋律だけど、地獄の底から亡者たちが怨みの言葉を投げつけてきているかのような不気味な音楽だ。コーラスにうめき声のようなものが混じっている。
まさか、これは……?
僕はデデルコとデデリカを呼び出すために、自分自身がやったことを連想する。
これは悪魔召還儀式じゃないのか?
不気味な音楽のほかに、官能を刺激するような香の匂いが立ち込めてくるにつれ、その思いは確信に変わる。
吸血鬼たちが悪魔を召還する?
なにやらすごく不思議な気がする。あいつら自身が魔物なのではないか?
悪魔を召還するのは人間と相場は決まっている、というのが僕の常識だったけど、必ずしもそうではないらしい。吸血鬼たちも召還儀式で悪魔を呼ぶ。おそらく自分たち以上の魔力を持つ悪魔を。
そこまで考えて、不吉な予感が走った。
ま、まさか……?
あいつらが若い女をさらうほんとうの理由は……?
それ以上考えたくはなかった。
だがそれしか考えられない。黄泉子さんは生け贄だ。あいつら黄泉子さんを生きたまま悪魔に食らわせるつもりだ。
恐怖が胸を締め付ける。
一歩前に進むたびに、視界がゆがみ、体中から汗が噴き出す。
手足は振るえ、痺れてすらきた。
僕の顔はおそらく表情が凍りつき、青白い人形のようになっているだろう。
それでも僕は前に進んだ。
逃げるわけにはいかない。
この中でなにがおこなわれているのかこの目で確認するんだ。
一番奥の部屋はすでに目の前だった。
僕は息を止め、むき出しのコンクリートの開口部からゆっくりと中を覗き込む。
入り口のすぐ脇にはチョーさんとミス研が転がっていた。ふたりとも手錠を後ろ手にかけられ、さらに足をロープで縛られている。うぐうぐとくぐもったうなり声しか上げないのは猿轡をされているからだ。
部屋の中央には半径二メートルはあろうかという魔方円が描かれている。そしてそのまわりの要所要所には蝋燭が立てられていた。様子がはっきりわかるのはその明かりのおかげだ。黒マントの吸血鬼たちはその中にうずくまっている。数にしてちょうど十一名。
部屋の奥には祭壇が祭られてあった。ベッドほどの大きさの壇に赤いシートがかけられている。祭壇は平らではなく、奥のほうが高く、斜めになっている。祭壇の上には全長二メートルほどの大きな木製の十字架が置かれてあった。上になるはずの部分が斜め下になっているので、いくぶん逆十字気味になっている。
そして、そして……。
その逆十字に全裸の黄泉子さんが磔になっていた。
僕は口を手でふさいだ。そうでもしなければ絶叫していただろう。
僕の不吉な予感はあたった。あいつらは悪魔召還の生け贄として若い女をさらっていたんだ。
全裸に剥かれた処女。悪魔の生け贄としてこれ以上ふさわしいものはないだろう。
響子さんも生け贄として殺されたんだ。
血を吸われて吸血鬼になったんじゃない。悪魔の生け贄として命をささげられたんだ。
さっき外から見た響子さんに見えた吸血鬼は、やっぱり僕の目の錯覚だった。そうでなければゾンビだ。
黄泉子さんは……。
黄泉子さんはどうなんだ? 目を開けていないけど、まだ生きているのか? もう手遅れなのか? それとも気を失っているだけなのか?
祭壇の横に、魔法円の中にいる十一人とはべつにもうひとり黒マントが立っていた。マントから出した手には短剣が。
やめろ、なにをする気だ? 頼むからやめてくれぇ。
声にならなかった。僕の体は凍りつき、喋ることも動くこともできない。
「みゃああう」
足元で声がした。僕は恐る恐る視線を下に落とす。
二匹の黒猫。こいつらが僕の足元にまとわり付いている。
嫌な予感はしたさ。そうじゃないかとは思ったさ。
やはりこの猫は僕を見張っていた使い魔だ。
だけどこいつらのおかげで金縛りは解けた。
僕は大声で叫んだ。
「やめろぉおおおおおおおおお!」
部屋の中の吸血鬼たちがいっせいに振り返った。
僕は反射的に後ろに下がる。
背中がなにかに当たった。コンクリートの壁じゃない。
振り向くと、そこには十三人目の吸血鬼が立っていた。左手には蝋燭のともった燭台を持って。
そいつは右手で僕のみぞおちを殴りつけた。
激しい痛みとともに、呼吸ができない苦しみを感じ、僕は床に崩れ落ちた。
そのときそいつのフードの下に隠された顔がはっきりと見えた。
沖田だった。
6
天井が動いている。コンクリートの梁が僕の足元にほうに移動いていく。
違う。動いているのは僕のほうだ。仰向けになったまま誰かに襟首を掴まれ、引きずられている。
そうだ、僕は沖田に当て身を食らった。すこしの間意識を失っていたらしい。
僕は今の状況をたちまちのうちに思い出した。
悪魔召還儀式だ。生け贄は黄泉子さんだ。
「離せ」
僕は叫びながら大暴れして沖田の手を振り払った。
「復活するのが早いな、優くんよ」
沖田が不敵に笑う。
僕は立ち上がろうとして、初めて自分の手と足がロープで拘束されていることに気づいた。
黄泉子さんは?
僕は祭壇に目をやる。口から叫び声が上がるのを、止められなかった。
「うわああああああああああああああああ」
黄泉子さんの白い裸身は血まみれになっていた。
ちょうど胸の辺りが真っ赤に染まり、垂れ落ちた血が喉まで来ている。
心臓を奪われた?
僕はとっさにそう思った。
「くそっ、くそぉ。よくも黄泉子さんを殺したな、吸血鬼め」
呪詛の言葉を沖田に叩きつける。
「ふん、勘違いするな。彼女はまだ生きているよ」
「え?」
僕はあらためて黄泉子さんを見た。彼女の横に立っていた吸血鬼の手には片手に血まみれのナイフ、もう片方には首の取れた鶏が握られていた。あのナイフは黄泉子さんを切り刻むために出されたのではなかったのか?
「鶏の血?」
「そうさ、あの女は悪魔を呼び出すための生け贄なんだ。死んでたら困るだろう?」
沖田はそういって笑った。
「あの女を生きたまま食らうのは、悪魔の楽しみに取っておかなくっちゃな」
「響子さんは、……響子さんはどうなったんだ?」
「さあな?」
沖田は馬鹿にしたような口調でいった。
「生け贄にしたのか?」
「おいおい、俺は響子ちゃんを守ろうとしたんだぜ」
沖田はフードの下から、にやにやと笑いながら答える。
たしかにそうだ。あのとき沖田はまだやつに噛まれていなかった。林田さんに頼まれて、高木さんとともに響子さんを守ろうとしたんだ。吸血鬼化したのはそのあとだ。
つまり、沖田は響子さんがどうなったのかほんとうに知らない?
祭壇の脇に立っていた吸血鬼が沖田を手招きする。
「おしゃべりはそれくらいにしてもらおう。リーダーが呼んでいる」
祭壇に立っているやつがリーダー、すなわち他の十二人の血を吸って吸血鬼にした大元か?
そいつは他のやつらに比べると、むしろ小柄なくらいだ。
顔は例によって深く被ったフードで見えない。唯一見える、冷酷そうな唇は僕をあざ笑うかのように、両端をきゅうっと上げる。
沖田は僕の口に布切れを押し込む。
やめろ。黄泉子さんに手を出すな。
声にならなかった。
「まあ、これからなにが起こるのかしっかり見ておくがいいさ」
僕にそういい残すと、魔法円の中に入っていった。
リーダーと呼ばれた吸血鬼が祭壇に祭られていた剣を握った。それにともない、沖田を含む手下十二人の吸血鬼たちは額を地に擦り付けた。
僕はこのとき初めて、祭壇に古い本が祭られていることに気づいた。
見覚えのある本。そう、あの『実践悪魔召還法完全解説書』だ。僕がデデルコとデデリカを呼び出すために使ったのと同じ本だ。こいつらも持ってたんだ。
リーダーは本を沖田に渡す。沖田がページを開き、床に置くと、吸血鬼たちはそれに群がった。
やつらは本を見ながら、不気味な呪文を唱え始めた。日本語ではないのではっきりとは聞き取れない。とにかく不吉な感じのする意味不明の言葉が低い声でえんえんと語られ始めた。
リーダーは剣を持って舞う。
なんとかとめなくては。
このまま儀式が続けば最悪の結果になることは目に見えている。召還儀式が悪魔を呼ぶことは経験済みだ。しかもこいつらが呼ぶ悪魔は、処女を食らうらしい。デデルコやデデリカとは比べ物にならないような凶悪なやつなんだろう。
だけど僕にいったいなにができるっていうんだ?
最悪だ。僕はそれを眺めながら、くぐもった声でうなり、芋虫のように転がっていることしかできない。
吸血鬼の頭目の剣舞は続く。蝋燭の炎だけの明かりの中でふわりとマントを翻し舞うその姿は、おぞましいはずの吸血鬼をなぜか美しく感じさせた。
ときおりめくれたマントから一瞬見える白い手や脚にはなにも身につけていない。おそらく全裸の上にマントを羽織っているだけなんだろう。その四肢はむしろ華奢ですらあった。
場に異様な精神エネルギーが満ちてくるのを感じる。
暗闇にともるわずかな灯り、繰り返し続ける呪文、妖しい香の匂い、血まみれの美女の生け贄とその側で踊る支配者。そして悪魔を召還しているという意識が精神を普段と違う世界へ追い込んでいく。
デデルコとデデリカを呼んだときと同じだ。あの時も僕は異様に精神が高揚していた。状況が状況だったし、黄泉子さんの月経の血が混ざった香の匂いをかいでいると思っただけでおかしくなりそうだった。しかも暗闇の中、全裸で黄泉子さんとせまい魔法円の中で体を密着させつつ、呪文を唱える。ごく普通の高校生の僕に理性を保てというほうが無理だ。
たぶんそういう異常な精神の高揚が悪魔を呼ぶのだろう。
一度経験がある以上、僕にはわかる。この場はあのときと同じような雰囲気になっている。
いや、より邪悪な精神が渦巻いているように感じる。
そんな中、吸血鬼の頭目の動きがぴたりと止まった。
魔法円の中で十二人の吸血鬼たちが唱えてていた呪文も止まる。
この部屋全体に異様な緊張感が走った。
「偉大なる冥界の悪魔、レギオン・デ・ラコール。闇より出でてこの場に現れたまえ。処女の生き血をすすり、心臓を食らいたまえ。そしてわれらに力を与えたまえ」
吸血鬼の頭目が男とも女ともとれる声で叫んだ。
そして剣を両手で高々とかざす。
吸血鬼の頭目の動きはそのまま凍ったように止まった。
静寂。いや、相変わらず流れる不気味な音楽と外からの雨の音は聞こえる。だけどそれ以外の音は消え去った。吸血鬼たちの呪文も、頭目の悪魔を呼ぶ台詞も。
なにも起こらない。
やがて吸血鬼たちがざわめきだした。
「やはり生け贄に浴びせる血が鶏ではだめか?」
頭目は不吉なことをいう。
「ならばその男の首を刎ね、生首の血で生け贄を染めてくれよう」
やはりそうなるのか? 頭目が剣先で指したのが僕であることはいうまでもない。
沖田を含む十二人の吸血鬼たちは魔方円の中で立ち上がった。そしていっせいに僕を見る。
やつらはじりじりと僕を囲むように近づいてくる。
僕は猿轡をかまされた口からくぐもった叫び声を漏らすばかりだ。
「馬鹿じゃないですか?」
女の声がした。それも妙に舌足らずな幼い声。どこかで聞いたことのある声。しかもこの喋り方は……。
吸血鬼たちはいっせいに声の方向を向く。もちろん僕もだ。
そこに人間は誰もいなかった。
いたのは二匹の黒猫だけ。
デデリカ? いや、今の声は間違いなくデデリカ。
二匹の黒猫はデデルコとデデリカだったのか?
「悪魔がいるところへ、他の悪魔がのこのことやってくるわけないですよ」
猫が喋った。いや、デデリカだけど。
この場にいる僕以外の誰もが驚いたようだ。やつらの口々から動揺の声が漏れる。
だが次の瞬間、動揺の声は驚愕の声に変わった。
黒猫からふたりの女が飛び出したからだ。それも軍帽を被ったSMの女王さまみたいのと金髪のゴスロリ少女がだ。
猫は「みぎゃあああ」と鳴きながら逃げ去っていく。どうやらあいつらは猫に化けたわけではなく憑依していたらしい。
「何者だ?」
沖田が恐る恐るといった感じで聞く。
「悪魔ですよ」
デデリカは小首をかしげ、可愛らしい声でいう。
吸血鬼たちはひざまずこうとする。
「でもあんたたちの呼んだ悪魔じゃないです。あんたたちの願いを聞くつもりはこれっぽっちもありません」
デデリカは大きな目をさらに見開き、小さな唇に冷酷な笑みを浮かべた。
「いいですか、あたしたちはあんたたちの悪事を暴きに来た魔界美少女探偵、デデルコとデデリカです」
吸血鬼たちは明らかにパニックに陥っていた。チョーさんとミス研は混乱の極みといった目でお互いを見詰め合っている。
なんでもいい。とにかく僕を助けに来たらしい。
僕は心底ほっとした。
「まったくしょうがねえな、おめえはよ」
デデルコはあきれ顔で僕を見ると、指をぱちんと鳴らした。とたんに僕を縛っていたロープと猿轡が解ける。ついでにチョーさんたちのも解けたようだ。
「猫に憑依して僕をつけてきたのか?」
「違いますよ、まったく。いいですか? あたしは明確な推理に基づいて、優たんじゃなくて真犯人をつけてきたんです」
デデリカは眉をつり上げ、頬を膨らませる。
「明確な推理? っていうか、真犯人?」
「といっても、沖田のことじゃないですよ。この事件のすべての黒幕である、あそこで剣舞をしていた吸血鬼の頭目のことです」
つまり吸血鬼の大元を探り当てたってことか? ろくなデータもなかったのに、短時間でいったいどうやって?
「もう、まるでわかってないですよ。優たんは誤解してますね。こいつらは魔物でも吸血鬼でもないです。ただの人間ですよ」
ただの人間だって?
「そんな馬鹿な?」
僕の驚いた顔を見ると、デデリカは機嫌を直したのか、ふくらませていた頬を元に戻す。
見開いていた目を細め、えくぼを作りながら上唇をぺろっと舐めた。
「ちょうどいいことに刑事さんもいるし、たったいまから魔界美少女名探偵デデリカが事件の真相を解き明かしてあげます」
デデリカはじつに嬉しそうにいった。
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