第二章 魔界美少女探偵始動
1
「え?」
僕は思わずそういった。だって仕方ないだろう? 誰だって聞き間違えたと思うはず。
「探偵?」
これは黄泉子さん。彼女もきっと釈然としないのだろう。当たり前だ。
「え? 違うんですか? だってあなたたちは吸血鬼の正体を探ろうとしたんですよ。でも失敗しちゃった。つまり、あなたたちは探偵として未熟なんです。だからあたしたち名探偵にかわりに事件を解決してもらいたいんでしょう?」
デデリカはきょとんとした顔でいう。
なにかがずれている。たしかに力は貸してほしい。だけど名探偵? あんた探偵じゃなくて悪魔だろ? 解決方法が違うんじゃないのか?
「いや、あいつが何者かなんかどうでもいいんです。ただの人間じゃないのはわかりましたし、僕としてはあいつをやっつけて、響子さんを取り戻せればそれでいいんです。そのための力が欲しい」
「はあああぁ~あ。なんですか、デデルコ、こいつ、あたしたちに探偵をさせないつもりですよ。信じられないですよ」
デデリカは幼い顔に明らかに落胆の表情を浮かべた。
「ふん、まったく礼儀を知らないやつだ。オレたちを呼び出しておいて、生け贄はなし、探偵もやるなだと?」
デデルコがカミソリのような目で睨みながら、ハスキーな声でいう。
「ひょっとして探偵の真似事が好きなんですか?」
悪魔の癖に。そういいたかったが、飲み込んだ。
「真似事じゃないですよ。あたしたちは魔界の名探偵。不思議な事件のあるところにいっては、怪事件を解決する。それがあたしたちの唯一の楽しみなんですよ。そうじゃなかったら、わざわざ呼び出しに応じたりするわけないじゃないですか」
なんでもいい。そう思った。たしかに誘拐された少女を救い出すのは探偵の仕事といってもあながち間違いじゃない。もっとも現実の探偵じゃなくて、ミステリー小説に出てくる名探偵ならの話だけど。
そういえば、やたら美女が誘拐されて、相手の犯人が黄金の仮面を被っていたり、ピエロの格好をしていたりする怪人であることが多い名探偵がいたはずだ。小説の中には。
魔力を借りて、僕が響子さんを救い出すつもりだったけれど、こいつが解決してくれるのならそれでもいい。僕がヒーローになることよりも、響子さんを救い出すことがなによりも優先するのだから。
あのとき、自分がヒーローになるために、響子さんが誘拐されたほうがいいなんて、一瞬たりとも思ってしまった自分に決別するために、僕は断固としてそう思った。
「じゃあ、頼んだら、あの吸血鬼から、響子さんを取り戻してくれるんですか?」
「もちろんですよ。そのためにあたしたちは来たんですよ」
デデリカは急に嬉しそうな顔になった。
「じゃあ、魔力を使ってどこに響子さんがいるかを……」
「ひゃあああああ。デデルコ、こいつぜんぜんわかってないですよ」
デデリカはそういうと、掌で顔を覆い、天を見上げた。
「オレたちが魔界の名探偵であることさえ知らない無知なんだ。しかたあるまい」
だってそんなこと、あの本には一行だって書いてなかったじゃないか。
「いいですか? あたしたちがそんなことに魔力を使ったら代償高いですよ。とってもあなたには払えません。ただ働きしてあげるのは趣味だからです。探偵するのが大好きなんですよ、あたしたちは。そうでなかったらあんたなんか相手にするもんですか」
よくわからないけど、魂を差し出したりする必要はないわけ? それはそれで嬉しいんだけど、魔力を使わずにいったいなにをする気なんだろう?
予期せぬ出来事に、僕はすっかり混乱していた。
「つまりそれは、……」
黄泉子さんが口を挟んだ。
「あなたたちが推理だけで事件を解決するってこと?」
「そうそう。まさにそのとおりです。あなた、こっちのぼんくら男と違って、察しが良くて助かりますよ」
デデリカは大きな目を細め、透き通るような白い肌をバラ色に染めながら、嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねだした。
「魔力なし?」
僕は驚いて口にした。
「そう、そんなものは封印ですよ」
「じゃあ、人間よりもずっと頭がいいとか?」
「えへへ、あんまり自信ありません」
そういって舌を出すデデリカ。
「それにあたしたちは人間界には長時間いられないから、聞き込みはあなたたちにやってもらいますよ」
それはこいつらに頼らず、僕らが自力で事件を解決しようとするのと大差があるのだろうか?
顔に出たのかもしれない。デデリカが不満そうにいう。
「む。ひょっとしてあなた、あたしたちの探偵能力を疑ってますね? あの一八八八年にロンドンで何人も売春婦を惨殺した切り裂きジャックの事件も、じつはあたしたちが人知れず解決したんですよ。もちろんジャックは闇に葬り去りましたけどね」
デデリカは胸を張り、小鼻を膨らませた。
知らないよ、そんな大昔のこと。しかもロンドンだぁ?
「あ、信じてませんね? ほかにもいろいろあるんですよ。たとえば……」
「おい、デデリカ、帰ろうぜ。これでもオレたちは魔界の名探偵だ。引く手あまたなんだぜ。能力を信じないやつらに、押し売りすることなんかこれっぽっちもねえよ。そもそもこんないい女を用意しておきながら手を出すななんて、この男、悪魔を舐めてるんだよ」
黄泉子さんは生け贄じゃないといって以来、不機嫌そうな顔で睨んでいたデデルコが、さらに機嫌悪そうにいった。
「えええ~っ、帰っちゃうんですか? 吸血鬼ですよ、黒マントの。きっと人間が魔物のふりをしてるんですよ。なんか楽しそうじゃないですか。そういう恐れを知らない人間の悪だくみをあばいてお仕置きするなんて。ぐふふふふ」
「いや、あれは絶対、本物……」
「ま、それならそれでもいいですけどね。しばらくそういう魔物と戦ってませんし、それはそれで楽しそうですよ。ま、そのへんはじっくり見極めていきますから、本物か人間か」
僕はあれが人間の仕業だとはとても思えないけど、この悪魔にしてみれば、どっちでもいいらしい。とにかく事件解決が趣味なのだ。
「でも魔力で犯人が何者か、ぴぴってわかるんじゃないの? 本物か、人間か」
僕は人間として当然の疑問を口にした。
「だ~か~ら~っ、何度いえばわかるんですか? そういうのは反則なんです。魔力で心を読んだり、自白させたりしたんじゃ面白くもなんともないじゃないですか。あなたひょっとして図書館で借りたミステリー小説の表紙に赤字ででかでかと『犯人はだれそれ』と書かれていても怒らないタイプですか?」
僕はそんなもの読まないからどうでもいい。
「あたしだったらそんなことをされたら、絶対書いたやつを見つけ出して地獄に引きずり込んで拷問してやりますよ。ぐふふふ」
そういうことに魔力を使うのはぜんぜんOKらしい。
「あのう、あたしもあいつは人間じゃないと思うけどな。だって瞬間移動したし、人を念力で宙に浮かせたりしたんだから。吸血鬼じゃないとしても魔物の類でしょ? あるいは悪魔そのものとか」
僕とデデリカの会話じゃ、前に進まないと判断したのか、黄泉子さんが発言する。
「ほらほら、なんか楽しそうな事件ですよ、デデルコ。調べてみる価値ありですよ」
デデリカがはしゃぎながらいった。
「ふ~ん。よし、オレが見てやるよ。取り組む価値があるような事件なら引き受けてやる」
デデルコは割れた魔鏡に手をかざす。砕け散った鏡の破片は宙に浮くとジグソーパズルのように元の場所に収まった。次の瞬間、割れ目が消え、完璧に復元する。
そして掌を黄泉子さんの額に置くと、こういう。
「あのとき、見たことを正確に思い出せ。それがあの鏡に映る」
「あの、それって反則なんじゃ?」
僕は思わず突っ込んだ。
「うるせいな、おめえは。オレたちが相手するにふさわしい事件かどうか調べるだけだ。ただの安っぽい事件ならお断りだ。本物の魔物の仕業か、仮に人間がやったとしても、いかにもそれっぽい事件だったら協力してやるよ。そのときは魔力なしだ」
「そうですよ、この男はさっきから文句をいってばかりですよ。あたしたちをいったい誰だと思ってるんですかね」
至極当然のことをいったはずなのに、ふたりの悪魔からは思い切り怒られた。
「さあ、目をつぶってリラックスしろ。思い出すんだ」
黄泉子さんはいわれた通りに目をつぶる。
やがて鏡面はゆらゆらとゆらめきだし、なにかが映し出された。
駅の改札口を出る沖田さんと高木さん、それに響子さんの後ろ姿。
これはあのときの黄泉子さんの視点だ。あのとき僕も見ることのできなかった映像がこれから映し出されていく。いや、映像だけでなく音までともなっている。激しい雨音が聞こえてきた。
僕の目は鏡に釘付けになった。
鏡の中に、自動改札機が間近に映り、それを通り過ぎていく。黄泉子さんが通ったっていうことだ。黄泉子さんの視点は、そのまま前の三人を追う。
三人は外に出ると、傘を広げた。まず高木さんが先行して商店街の人混みの中に入り込んだ。すこしたってから今度は響子さんがいく。すぐあとを沖田さんが歩く。
それにともない、視点も前に進む。一瞬、視点が黄泉子さんの手に持っている傘に移った。指が閉めていた傘のホックを外す。そのまま、傘を開いた。
そのときスマホがなる。スマホのモニターが見えた。黄泉子さんが確認したってことだ。
番号非通知。
黄泉子さんはそのまま切った。僕からの連絡かもしれないと思ったら、非通知だから切ったのだろう。誰からか知らないけど、今は僕からの電話以外は出ている余裕がないはず。
視線はふたたび前の商店街に向いた。二、三秒探したのち、歩いている響子さんの後ろ姿を確認する。そのまま、彼女を追っていく。
しばらく何事もなく、商店街の人混みの中を進んでいく。沖田さんは響子さんからすこし距離を置き始めた。吸血鬼に怪しまれないようにするためだろう。
黄泉子さんのスマホを持った手が映し出される。ボタンを操作し、僕の番号を呼び出した。スマホが視界から消える。耳に当てたということだろう。
「商店街を抜けるところよ。すぐそっちにいく」
黄泉子さんの声が聞こえた。
『ここから見えるところに吸血鬼はいません』
これは僕の声だ。スマホを通じての音が鏡から聞こえる。
響子さんたちは商店街から離れ、さびしい道に入っていく。これは前回僕が経験したとおりだ。ここから先は急に人通りが少なくなる。ただ前回と違って、まだ日が沈んでいない。夕方、しかも雨ということで、決して明るくはないけど、前回のように暗がりの中を歩いているわけじゃない。その点響子さんも心強いはずだ。後姿から不安は感じられない。
しばらくは同じような光景が続いた。聴覚的には、地面や傘に叩きつけられる雨音以外はときおり通る車の音くらいしか聞こえない。
やがて視線は斜め上を向いた。四階建てのビルが見える。そこの非常階段には僕が双眼鏡を覗きながら立っていた。
視線はふたたび響子さんに戻る。その先には横に入る小さな路地がある。
「次の曲がり角はだいじょうぶ?」
黄泉子さんの声がした。スマホを通じて僕に喋っている。
『だいじょうぶです』
僕は返答する。たしかにこの時点で怪しいやつの姿はなかった。
『ひょっとして今回は休みなんじゃ?』
「油断しちゃだめ」
今にして思えば、僕はなんてのん気だったんだろう。
響子さんが路地の側を通り過ぎようとしたとき、耳をつんざく悲鳴が聞こえた。
「きゃあああああ。出たぁ」
響子さんは後ろずさりながら、路地の中を指差す。傘で顔は見えないけど、きっと恐怖におののいた表情をしているのだろう。
沖田さんと高木さんが走った。黄泉子さんがそれを追いかける。
まず沖田さんが角を曲がった。
「ぐああああ」
沖田さんの叫び声が聞こえる。
『なにがあったんですか、黄泉子さん』
僕がスマホ越しに怒鳴る。
高木さん、そして黄泉子さんが路地に入った。
沖田さんが宙に浮いていた。地面からほんの二十センチほど上を。
黄泉子さんに背を向け足をばたつかせながら、苦しげに両手で喉をかきむしっている。そのままゆっくりと浮いていく。ゆらゆらと上下左右に不規則に揺らめきながら、地上から一メートルほどのところでとまり、漂った。
その向こう側にはフードで顔を隠した黒マントの怪人が立っている。
「テニス部のキャプテンが、テニス部のキャプテンが、苦しんでる」
黄泉子さんの声。これは僕に説明している。
「……しかも宙に浮いたまま」
高木さんが傘を投げ捨てて逃げ出した。
黄泉子さんが図面ケースから聖剣を取り出し、鞘を払った。
むき出しの聖剣が魔力を払ったせいか、宙に浮いていた沖田さんが地面に落ちる。ずぶ濡れの顔は蝋のように白かった。
「いない、あいつがいない」
たしかにやつは消えていた。さっきたしかにいた路地の奥にはいない。
「しかも、この先は行き止まりよ。どこに消えたの?」
これは半分独り言。半分、僕に説明したんだろう。
黄泉子さんのいう通り、完全な行き止まりだった。三方はブロック塀に囲まれている。高さは二メートル以上あるうえ、てっぺんには進入防止用の杭のような物が並んでいるから、そう簡単にはよじ登れない。しかも黄泉子さんが視線を外したのはほんの一瞬だから、目を盗んでそこから逃げるのは不可能だろう。それに、もし塀をよじ登ったのなら、塀の陰になっていて見えなかった僕にも、そいつの姿が見えたはずだ。もちろん、そんなことはなかった。さらにいえば、そこには電柱だのゴミ箱だのポストだの人が隠れられるところなんてない。もちろん地下に通じるマンホールもない。
黄泉子さんの視線は行き止まりの壁を舐めるようにすみからすみまで行き来した。
僕もそれにともないじゅうぶん観察したのに、なにも見えない。忍者のように、壁と同じ色の布で姿を隠していたとかいう冗談のようなオチはありえない。
この間、黄泉子さんの視線は行き止まり周辺に注がれ、後ろにはまったく注意がいっていなかった。このとき響子さんがいたかどうかはよくわからない。
『黄泉子さん、やつは外にいる。そっちに向かった』
耳元で鳴り響く僕の声。
黄泉子さんは反射的に後ろに振り返った。
「なんですって? そんな馬鹿な」
目の前に吸血鬼がいる。
顔は例によってフードを目深に被っているために口元しか見えない。その唇からは牙がむき出し、血が流れている。
狭い路地のこと、黄泉子さんが沖田さんに気を取られている間に、こいつが横をすり抜けたとは考えられない。かといって、黄泉子さんの頭上を跳躍したとするなら、それはそれで超人的だし、その場合やっぱり上から覗いていた僕に見えたはずだ。
やはりやつは瞬間移動したとしか思えない。
黄泉子さんは聖剣の切っ先で吸血鬼の喉元をねらって突いた。
吸血鬼はひらりと身をかわすと、一瞬で間合いを詰める。
そのまま猛スピードで黄泉子さんの腹部に体当たりをかました。そのときスマホは飛んだようだ。
視線は空に向かった。落ちてくる大量の雨だけが見える。仰向けに倒れてしまったのだ。
そのまま視界はかすみ、暗くなった。
「ふん、なるほど、たしかに本物っぽいな。人間には無理だ。しかもこういう魔物はオレもはじめて見るな」
デデルコはそういうと、黄泉子さんの額にかざしていた手をどけた。黄泉子さんはがくりとよろめく。
「だいじょうぶですか、黄泉子さん?」
僕は叫んだ。
「あ、平気。ちょっとふらついただけ。……っていうか、こっち……見ないで」
黄泉子さんは羞恥の表情で胸を隠す。そうだった。黄泉子さんは裸なのだ。
「ご、ごめんなさい」
僕は思いっきり目をそらした。
「ふん、心配するな。思いを鏡に投影するのに、トランス状態になっていたのが戻っただけだ」
デデルコが冷たい口調でいい放つ。
「ほうら、デデルコ、こいつらの手助けをすれば謎の魔物と対決ですよ。どうですか、わくわくしてくるじゃないですか?」
「まあ、そうかもな」
「もっともあたしは魔物のふりをした人間が犯人のほうが面白いですけどね。いったいどういうトリックを使ってこんなことをしたのか考えただけでわくわくしますよ。それに人間のくせに吸血鬼や悪魔を語るならお仕置きですよ。ぐふふ」
デデリカは幼い顔に邪悪な笑みを浮かべる。
う~む。本物の悪魔のお仕置きって、いったいどんなものなんだ? 聞きたいような聞きたくないような。
いや、響子さんをさらったやつだ。地獄で拷問を受けようがどうしようが僕の知ったことじゃない。
「まあ、少年、そういうことだ。しばらくやっかいになるぞ」
デデルコは機嫌を直したのか、赤いセクシーな唇に笑みを浮かべると、とんでもないことをいい出した。
「やっかいになるって?」
「おまえ、いちいちなにかあるたびに、オレたちを呼び出すつもりか? 面倒くさいだろうが」
たしかにいわれてみればその通りだ。だいいち呼び出すためには毎回処女の月経の血がいるし、そのたびに裸になるのもごめんだ。
「だけどさっき人間界には長時間いられないっていってたような……」
「心配するな。この部屋はすでに魔界の一部だ。この部屋から外に出るのはちょっとまずいが、この部屋にいる限りなんの問題もない」
デデルコは耳を疑うようなことを平然という。
「つまり僕はしばらく魔界で寝泊まりするってこと?」
「気にするな。べつに死にゃあしない」
「ほ、ほんとにだいじょうぶなの? 君たち以外にも怪しいやつがつぎつぎに出てきて、僕の魂を欲しいとかいわないの?」
「デデルコ、こいつ自信過剰すぎです。いったい誰がこんなやつの魂が欲しいと思うんでしょうね? 自分の魂にそこまでの価値があるとでも思ってるんですかね」
「気にするな、デデリカ。若いってことはそういうことだ。根拠のない自信に満ち溢れているんだよ。たとえば、世界を救えるのは自分しかいないとかな」
僕は人間として至極当然の不安を口にしただけなのに、中二病あつかいされてしまった。
「心配しなくても、ここはシールドしたから他のやつらは入ってこれないよ。そもそもオレたちがいるのに入ってこようなんて思う馬鹿な小悪魔はいないぜ」
それは君たちが強いから、低級悪魔は近寄ってこないってことですか?
聞くのが怖いからやめた。
とりあえず安全らしい。根拠はないが、そう信じることにする。
「わかったよ。それであしたから具体的にどうすればいい?」
吸血鬼に魔力で対抗するよう説得するのは不可能らしい。はっきりいって響子さんが心配だが、とにかくこいつらのいうとおりにしたほうがけっきょくは解決が早そうだ。
「決まってます。あしたから聞き込みですよ。まずは家に閉じこもってる高木、それと意識が戻り次第、入院している沖田です。それと現場を実際に調べますよ」
地道だ。地道すぎる。
「なに不満そうな顔してるんですか? 捜査の基本は足ですよ」
おまえは新人刑事に説教するベテラン刑事か?
もっと名探偵らしく、話を聞いただけで謎をすべて解かんかい。
そんなことしてる間に、響子さんは……、響子さんは……。
そういえばあいつはなんのために響子さんをさらったんだろう?
人間が犯人なら、身代金目当てか、それとも……、ああ、僕の口からはいえない。
だけどあいつは吸血鬼だぞ。美少女にあんなことや、こんなことをするのが目的のはずがない。
そこにいたって僕はようやく重大なことに気が付いた。
血を吸うために決まっている。
そして血を吸われた響子さんは吸血鬼に……。
「大変だ。そんなことしてる場合じゃない。早くしないと響子さんが血を吸われて吸血鬼になっちゃう」
「それならもう手遅れですよ。あいつが吸血鬼だったら、とっくに血を吸われてるに決まってます」
デデリカは身も蓋もないことをいい放った。
「心配するな。吸血鬼を倒せば元に戻る、きっと」
デデルコが真剣みのかけらもない表情でいい捨てる。
「きっとってなんだよ、きっとって。絶対じゃなきゃ困るんだよ!」
「若いな。人生において絶対なんてことはないんだ、少年」
デデルコは唇の端をきゅっとあげながらそういった。
くそう、そもそもこいつらは探偵ごっこを楽しみたいだけなんだ。響子さんがどうなろうと知ったこっちゃないんだ。
だけど悔しいことに、それでもこいつらに頼るしかない。僕には推理や捜査のノウハウなんてかけらもない。それは黄泉子さんだって大差ないはずだ。
「ちょっと質問! あなたたち外には長時間出れないっていってたよね? つまりあたしたちだけで聞き込みをやって、あなたたちは報告を受けるってこと?」
黄泉子さんが疑問を口にした。
「なんかに憑依していくからだいじょうぶです。スマホがいいんじゃないですかね?」
「スマホに憑依?」
「だって便利じゃないですか? スマホと話をしても不自然じゃないですよ」
たしかにそれもそうだ。だけど、そういうことに魔力を使うのは反則じゃ……。
顔に出たらしい。デデリカが怒った顔でいう。
「いいですか? どんな名探偵だって必要なデータがそろわないと推理なんてできないんです。小説じゃないんだから、警察が必要なデータを教えてくれるわけないし、そういうのを集めるために最小限魔力を使うのはいいんですよ」
そうですか……。いや、すこしでも早く事件が解決するならそのほうがいいんだけど。
「ん、そうだよね。データはやっぱ必要よ。データもないのに犯人当てたって、勘で当てたとしか思われないし」
黄泉子さんが変なことをいいだしたが、なぜかデデリカは大喜びだ。
「あなたはこっちのぼんくら男より話が早くて助かりますよ」
「じゃあ、そういうことで、あとはあしたにしてきょうは解散にしない?」
「それもそうですね。じゃあ、寝ますかね、デデルコ」
「ああ」
デデルコはそういうと、いきなり服を脱ぎだし、豊満な体をさらしだした。続いてデデリカがロリコンが泣いて喜びそうな華奢な体をさらす。
うわあああああ。いったいぜんたいなにがおっぱじまるんだぁああああ!
僕はそう叫びたいのはかろうじて我慢した。
ふたりは全裸になると、当然のように僕のベッドに潜りこむ。
「じゃあ、あたしもきょうは帰るから。あした連絡入れるね」
後ろから肩を叩かれ、振り返るといつの間に服を着たのか、来たときの黒づくめの格好の黄泉子さんが立っている。
え、いつの間に服を? ろくに見る暇というか、心の余裕がなかったじゃないですか?
……じゃない。なにをいってるんだ、僕は?
なんにしろ、服を着た黄泉子さんに裸を見られてると思うと、急に恥ずかしくなる。
黄泉子さんも、ちょっと恥ずかしそうに視線を僕の体から外すと、そのままベランダから出て行った。
「おい、少年」
「僕には優っていう名前があるんです」
僕は服を着ながら、デデルコにいった。
「ふん、おまえの名前なんかどうでもいい。それより、今の女のほうを知りたいな」
「黄泉子さんですよ。詳しく知りたかったら、『黄泉子の部屋』をネットで探してください」
僕は投げやりにいった。
「ほう、ウェブサイトを持っているのか? それはいい、あとで覗いておこう。どうせスマホに取り憑くんだしな」
悪魔のくせに、インターネットにも詳しいのか、こいつは?
そんなことよりも、問題がある。僕はそれを口にした。
「あの、ちょっとデデルコさん。僕はどこで寝ればいいの?」
「どこでも好きなところに寝ればいいじゃねえか?」
もちろんベッドはその選択肢に入っていないんだよね?
僕は服を着ると、召還に使った小道具を片付け、電気を消して床に寝るしかなかった。
いったいどうしてこんなことに?
こいつらを呼んだことは正解だったんだろうか?
僕は根本的な疑問をそれ以上考えないように努めた。
暗闇の中、ベッドからふたりの甘い吐息のようなものが聞こえるのは気のせいだよな?
いったいこいつらなにをしてるんだ?
頼む、誰かいってくれ。気のせいだって。
そうだろう? 気のせいだ。気のせいだ。気のせいに決まっている。
頼むから誰か、そういってくれえぇえええええ!
2
僕は学校に来ていた。沖田さんの意識が戻れば、学校をサボって病院に聞き込みに行くつもりだったけど、まだ意識不明らしいので、とりあえず学校で高木さんのクラスを訪ねて事情を聞くつもりだ。朝電話で確認したら、きょうは学校に向かったらしい。
響子さんが二日も学校に来ていないというのに、相変わらず事件化していない。警察が陰でどの程度動いているのかも定かじゃない。いずれにしろ学校としては、事件は警察にまかせっきりで、騒ぎを大きくしたくないのだろう。ここで学校が騒いだところで事件解決にはなんのメリットもないどころか、パニックが起きるだけだ。身代金目的の誘拐なら犯人を刺激するだけ。警察や学校がそう判断するのはむしろ当然だろう。なにせ犯人が人間でなく、身代金目当ての誘拐ではないと知っているのは僕たちだけだ。通報した林田さんが警察に「犯人は吸血鬼なんです」とかなんとかいったかもしれないけど、警察がそんなことを信じるわけもない。
昼休みになり、弁当を平らげると、僕は三年の校舎に向かった。もちろん、きょうから復帰してきたボクサーの高木さんに話を聞くためだ。
廊下を歩いているときにスマホが鳴る。メールの受信音だ。取り出してモニターを見ると、デデリカが写っていた。きのうと同じロリータファッションでなにかを喋っている。それは音声にならず、マンガのように文字と吹き出しになっていく。
うわっ、魔力でスマホをバージョンアップさせてやがる。
おかげで僕は世界でもっとも進化したスマホの持ち主になった。
気を取り直して、吹き出しの中の言葉を読む。
『いよいよ聞き込み開始ですね。うまくやるんですよ。黄泉子たんが見ていなかったものを見てるかもしれないんですからね。聞き出す内容はわかってますね?』
「わかってる」
僕は小声でつぶやいた。メールに向かって叫ぶ変なやつと思われたくなかったからだ。どんな質問をするかは朝に打ち合わせ済み。それを忘れるほど馬鹿じゃない。
『おめえよう、気い入れて聞き込まないと、しらばっくれられるぞ。まあ、ぶっ飛ばされないように注意してやりな』
デデリカの後ろからデデルコが憎まれ口を叩く。
もっともその可能性は充分にあった。高木さんにしてみれば、触れられたくない話題のはずだ。なにせ女と友達を見捨てて逃げ出すなんて、格闘技をやっている人間にしてみれば恥以外のなにものでもないはず。トラウマになっているかもしれない。そこを突っついてくる下級生を疎ましく思うのは当然だろう。
まあ、不良でもないボクサーが校内で下級生を殴るとも思えないけど、用心するに越したことはない。
僕はスマホをポケットに押し込むと、高木さんのクラスを尋ねた。
「いねえよ。たぶん屋上だ。あいつは昼休みによく屋上に行くからな」
悪友らしき男のひとりが答えた。僕は礼をいうと、屋上に向かう。
屋上には他にも誰かいるよな?
もしふたりっきりになった場合、触れられたくないことを聞いて、逆上した高木さんに殴られるのはごめんだ。
その願いもむなしく屋上には高木さん以外の誰もいなかった。高木さんはフェンスの側に突っ立って、グラウンドを眺めている。全身から近寄りがたい雰囲気を発散していた。他に誰もいないのはそのせいかもしれない。
だけど僕は逃げるわけにはいかなかった。覚悟を決めて近づいていく。
高木さんが振り返り、にらみつけた。もともといかつい顔が怒りに燃え、ほとんど鬼のような表情。近寄ってくるなという意思表示だ。ほとんど殺気に近い。だけどそれにめげるわけにはいかない。さらに歩を進める。
「なんだ、小僧。俺に関わるな」
顔を真っ赤にして怒鳴った。もともと荒っぽい性格なのかもしれないけど、あの事件のせいですさみきっている。
「そうもいかないんです。どうしてもあなたに聞かないといけないことがあるので」
僕は勇気を振り絞っていった。
「なんだ?」
「魔術師のような格好をした吸血鬼のことです」
高木さんは目を見開き、唇を震わせて絶句した。数秒後、ようやく口を開く。
「な、なんでそのことを知ってる、おまえ?」
「僕も見たからです」
「なんだと? どういうことだ?」
「僕も林田さんに頼まれまして、あなたたちの前に響子さんのあとをつけたことがあるんです。そのとき遭遇しました。まあ、頼りないんでクビになっちゃいましたけどね」
「俺と沖田はそのあと釜か?」
「そういうことです。ただ僕としても響子さんが心配だったんで、あのときあなたたちのあとをつけました。正確にいえば、つけたのは相棒で、僕は近くのビルの上から観察していたんですけどね」
「つ、つまりは……見たんだな、あれを?」
あれとは吸血鬼のことか? 宙に浮いた沖田さんのことか? それとも逃げ出した高木さんのことか?
いずれにしろ答えはイエスだ。
僕が肯くと、高木さんから殺気が消えた。かわいそうなくらい肩を落とした。
「俺は、俺は……、逃げるつもりなんか」
「非難するつもりなんてありません。相手は魔物です。誰だって勝てませんよ。それよりも知りたいんです」
「な、なにを?」
「もちろん響子さんがどうなったかですよ。あなたが宙に浮いた沖田さんを見て外に飛び出したとき、響子さんはそこにいたんですか?」
「わからない。わからないよ。あのときは必死だったんだ。他のことなんか目に入らなかった」
「じゃあ、あなたはあそこでいったいなにを見たんですか?」
高木さんの顔が青ざめた。かすかに震えたようにも見える。
「あの路地に走りこんだ沖田が、いきなり止まったんだ、まるで金縛りにでもあったように」
「金縛り?」
「そうだ。沖田は苦しんでいた。喉をかきむしっていた。そして次の瞬間、沖田の体はゆっくりと浮き上がった。だけど落ちてこないんだ。沖田は空中に浮かんだまま、もだえ苦しんでいた」
「そのとき、吸血鬼は?」
「そんなやつのことは見てない。俺は沖田から目を離せなかったんだ。それ以外のことは目になんか入っちゃいない。はっきりいってあのときの俺は響子ちゃんなんか眼中になかった。自分が逃げることで精いっぱいだったんだ」
高木は吐き捨てるようにいった。
「そうですか」
目新しい情報は何もなかった。逃げたとき、後ろに響子さんがいたかどうかだけでも知りたかったのに、高木さんはすれ違った黄泉子さんにすら気づいていない。いや、見てはいるんだろうけど、頭に残っていないのだ。
「あのとき、高木さんは響子さんの前を歩きましたね。そのときあの路地だって見ているはずです。そのとき怪しいやつはいたんですか?」
「いや、誰もいなかった。たしかにおまえのいうとおり、俺は先頭に立って怪しいやつがいないかどうか直前に確認したんだ。信じないかも知れんが、誰もいなかったんだ。見落としてなんかいない。やつはいきなり現れたんだ」
僕はこの証言を信じた。ぼうっとしていたのならともかく、怪しいやつがいないかどうか、目を皿にして探っていたはず。見逃すとは思えない。
「もういいだろう? それ以上話せることはなにもないぞ」
「最後にもうひとつだけ。どうして高木さんはこの事件に関わったんですか?」
「沖田に頼まれたからさ。俺は沖田の友達だ。頼まれればやるさ。沖田にしてみれば、俺はかっこうのボディガードになると思ったんだろうな。まさか逃げ出すとは夢にも思ってなかったろうがな」
高木さんはそういって自虐的に笑うと、僕に背を向け、なにも喋らなくなった。僕は礼をいうと、屋上を出る。
僕は階段の踊り場でスマホを出した。
「どうだった?」
僕の質問に、3D映画のようにモニターから顔だけ飛び出させたデデリカが答える。
「まあ、たいした収穫はなかったですね。次の沖田の証言に期待するですよ」
「でもまだ意識不明なんじゃ?」
「いいかげん目を覚ますころですよ」
デデリカはそういうと、モニターの中に消えた。
次の瞬間、スマホが鳴った。通話のほうだ。発信者は黄泉子さん。
僕が出ると、黄泉子さんがいう。
『病院で待ってたんだけど、沖田くんの意識が戻ったみたい。優くん、一緒に来る?』
まるでタイミングを計ったようだ。僕は「もちろん行きます」と答えると通話を切った。
午後の授業はサボることにした。
3
沖田さんの入院している病院の前に駆けつけると、黄泉子さんが手を振ってきた。きょうの格好は、タイトミニにパンスト、ロングブーツを履き、タンクトップの上に皮ジャンを羽織っている。もちろんすべて黒だ。手に持っている花束はお見舞いを装うためだろう。さすが黄泉子さん、段取りがいい。
「サボりはいけないぞ」
会うなり、笑顔で黄泉子さんはいってきた。
もっともその笑顔には、どことなくはにかみが感じられるのは、意識のしすぎだろうか?
なんといっても、きのうは裸で肌を寄せ合い、悪魔を呼び出すという異常な体験を共有したのだ。ある意味、一夜をともにしたことに匹敵するような……。
妄想が暴走しそうになってきたので、僕はぶんぶんと頭を振ってそれを振り払う。
「黄泉子さんこそ店いいんですか?」
「だいじょうぶ。店長もこの事件解決に乗り気みたいだし、休みもらったの」
そういって、神秘的な目をにこやか細める。
「じゃあ、いこうか」
黄泉子さんは僕が学校に行っている間、病院内を歩き回って調べたらしく、自分の家のように案内しだした。沖田さんの病室は二階の大部屋だった。
僕たちが部屋に入ろうとしたとき、入れ違いにふたりの男が出てきた。ひとりは長身の若い男で、ストライプの入ったモスグリーンのスーツ、中にはピンクのワイシャツ、オレンジのネクタイといったいでたち。さらさらヘアを茶色に染めた軽薄そうなお坊ちゃんタイプといえるだろう。もうひとりは背の低い初老の頑固親父タイプ。白髪交じりの角刈りで、しわの刻まれた下駄のような顔をし、薄汚れたグレイというよりどぶねずみ色のスーツを着ている。
誰だ?
ふたりは露骨に僕らを観察した。とくに親父のほうは目つきが鋭い。こいつだけなら、疑いなく刑事だと思っただろう。
「なにか?」
黄泉子さんが話しかけた。
「いや、君たちこそなんの用だい?」
ピンクシャツのほうがいった。
「ただのお見舞いですけど」
「誰の?」
「ええと、沖田さんです」
黄泉子さんは正直に答えた。ごまかそうにもほかの患者の名前を知らないから仕方がない。
「どういう関係?」
「え~っと、あの……」
「ただの友達です。あなたたちこそ誰ですか?」
黄泉子さんは、口ごもっていた僕にかわって、きっぱりといった。でも友達って、会ったことすらないのに……。
「おっと、こりゃ失敬」
親父がポケットから警察の身分証を出した。やはり響子さんの事件を調べている刑事らしい。
「警視庁の
「ひ、ひどいっすよ、チョーさん。いきなり馬鹿って紹介はないでしょう」
こっちのまったく刑事に見えない男もやはり刑事らしい。それにしてもミス研とは。刑事があだ名で呼び合うのは古い刑事ドラマだけじゃなかったのか?
いや、ケーブルテレビでたまたまそういう古い刑事ドラマを見ただけなんだけどね。
「お見舞いが終わったら、君たちにも話を聞きたいんだが、いいかね?」
チョーさんがいう。
内心まずいことになったと思ったけど、逃げるわけにもいかないだろうし。
「わかりました」
そう答えるしかなかった。
「じゃあ、待たせてもらうよ。沖田くんは一番手前のベッドだ」
チョーさんはそういいながら、廊下にある長いすに腰掛けた。
まあ、悪いことばかりでもないだろう。警察がどの程度の情報を掴んでいるか、逆に聞き出せるかもしれない。
僕は黄泉子さんとともに病室に入った。
「誰だい、君たちは?」
僕たちがベッドの側に行くと、沖田さんは不審げな顔で聞いた。
ベッドから起き上がれない状態ではないようだけど、顔色は悪く、明らかにやつれていた。普段自信過剰気味ともとれる目も、どこか卑屈な感じがする。いつもナチュラルに仕上げてる短い髪も、ごわごわになっていて二枚目の見る影がない。たったいま刑事の事情聴取があったばかりだから余計そうなのかもしれない。
「響子さんのクラスメイトの南野優といいます。こっちは友達の新月黄泉子さん。響子さんの事件を調べています」
僕はベッド周りのカーテンを閉めると自己紹介した。そのとたん、明らかに沖田さんの顔に動揺が現れた。
「やめろ。係わり合いにならないほうがいい。君のためだ」
目をおどおどさせながらも、はき捨てるようにいった。
「もうこの事件にずっぽり浸かってます。逃げるには手遅れですよ」
「どういう意味だ?」
「僕も彼女もあいつのことを見ていますから。じつはあのときあとをつけてたんです」
そのひと言で沖田さんは目を見開き、絶句した。
「あのとき、あいつを追って沖田さん路地の中に入っていきましたよね。その直後にこの黄泉子さんもあとを追ったんです」
「うん、あなたが宙に浮いているのをこの目で見ちゃった。だけどその直後、あいつは真後ろから現れたの。瞬間移動したとしか思えないんだけど、どうなの?」
黄泉子さんが他の入院患者に遠慮して小声でいう。
「……響子ちゃんはどうなったんだ? あいつがさらっていったのか?」
沖田さんは唇を軽く震わせながら、逆に聞いてきた。
「わかりません。彼女はほんの一瞬、みなが目を離した瞬間に消えました」
「消えた……だって?」
僕は自分の知っていることをすべて説明した。もちろん悪魔を呼び出して、そいつらの指示で動いていることに関しては例外だ。これは誰にも話すつもりはない。
「そうなのか、……恐ろしい」
沖田さんは心底怯えていた。そこには強気で快活なテニス部キャプテンのイメージはどこにもない。
「あのときなにがあったんですか? 僕たちも、高木さんも知らないなにかが起こったんじゃないんですか?」
あのとき、吸血鬼を行き止まりに追い込んだのは、他ならぬ沖田さんだ。ほんの数秒のこととはいえ、あいつと沖田さんのふたりきりの時間というものがたしかに存在したはずだ。
「あ、あいつは……、僕に向かっていきなり手をかざした」
沖田さんは青白い顔で語り始める。
「その瞬間、僕の体が固まったように動かなくなった。それまで普通に走っていたのに」
沖田さんが金縛りにあったように動かなくなったといっていた、高木さんの証言と一致する。
「同時に息ができなくなったんだ。あいつは僕に触ってもいない。一種の超能力のようなものなんだろう」
「それは催眠術のようなものじゃないんですか?」
「いや、違うだろう。催眠術じゃ金縛りはともかく、僕の体を浮かせることはできない」
まあ、それはたしかにそうだ。
「浮いたときって、どんな感じだったの?」
もってきた花を花瓶に生けていた黄泉子さんが口を挟む。
「なんというか、ゆっくり持ち上げられた感じかな。そのあと、そこで止まった。まるで蜘蛛の巣に絡まった蝶のような感じさ。見えない糸が全身を強烈にしめつけるような感じで、胸をかきむしったしまった。そのまま死ぬかと思ったよ」
思い出すのもつらいのか、顔中から汗を拭きだしている。
「その直後、あたしはその場に駆けつけたのよ。あなた、あいつが消える瞬間を見た? あたしにはあいつがいつ消えたのかわからない」
「見たよ。まるで映画のSFXさ。体全体が霧のようになって消えた」
そして背後から現れたというのか? 僕自身、あいつを実際に見ていなければ、いかにオカルト好きとはいえ、にわかには信じられない話だ。
「警察には同じことをさっき話したばかりだよ。まるで信じちゃもらえなかったけどね。きっと僕をヤク中か受験ノイローゼだとでも思ってるに違いないさ」
「それで、あいつの顔は見たんですか?」
僕は一番重要なことを聞いた。いままで誰もあいつの顔をしっかりと見ていない。
「完全には見ていない。黒いフードをずっぽり被っていたからね。見えたのは鼻の先端と口元だけさ。まあ、見た感じ、日本人の男、それも僕らと年のそう変わらない男って感じだった。そして……口からは牙が生えていた」
それは僕の見たイメージと重なる。
「もう、いいかい。まだ体の調子がよくないんでね」
沖田さんは心底疲れた感じで話す。
「わかりました。失礼します」
僕は帰ろうとしたとき、沖田さんの首筋に小さな傷跡があるのに気づいた。なにか錐のようなもので刺されたような傷がふたつ。
「その首の傷はどうしたんですか?」
「え? ああ、気づかなかったよ」
沖田さんは首に手をやり、いった。
僕は黄泉子さんと顔を見合わせた。
その傷跡はどう見ても、吸血鬼に噛まれた跡にしか見えなかった。
4
僕と黄泉子さんは並んで喫茶店の席に座っていた。通りに面した壁が全面ガラス張りで、明るい日差しが入り込んでくる、なかなか洒落た喫茶店だ。向かい側には例のでこぼこ刑事コンビ。沖田さんの病室を出ると同時、待ち構えたように連れてこられた。ほんとうは黄泉子さんやふたりの悪魔と情報の整理をやりたかったところだけど仕方がない。
ちょっと美人だけど無愛想なウエイトレスが注文品を持ってきた。コーヒーに昆布茶、アイスティー、それにフルーツパフェデラックス。昆布茶はチョーさん、アイスティーは黄泉子さん。ちなみにフルーツパフェデラックスは僕じゃない。僕はコーヒーをすすった。
「君たちはどうしてこの事件に関わっている?」
チョーさんがいきなり聞いた。
「え?」
「おいおい、いまさらとぼけんでくれよ。どうして探偵の真似事なんかしてるんだ? そもそもどうしてこの事件を知っている? 極秘のはずだぞ」
しっかりお見通しらしい。あるいはさっき病院の壁にへばりついて聞き耳を立てていたのかもしれない。
やむを得ず、僕はすべてを話した。もちろんデデルコ、デデリカの件は伏せてある。頭のおかしい高校生だとは思われたくない。
「ふん、なるほどな。で、君はどう思うんだ?」
「どうって?」
「だから沖田がいったことだよ。あれを真に受けるのか?」
真に受けるもなにも、僕は双眼鏡を通して見ていた。ほんの一瞬目を離した隙に、吸血鬼が現れたり、響子さんが消えたりしたのは間違いない。黄泉子さんは宙に浮く沖田さんを実際に見ている。そもそも悪魔が実在することをすでに体験で知っているのだから、吸血鬼くらいいたってぜんぜん問題ない。
「ほんとうだと思いますよ」
「おいおい、本気かい? 小学生だって信じないと思うが、あんなたわ言」
チョーさんは呆れ顔で昆布茶をすすった。
「なんかムカつくんですけど。じゃあ、刑事さんはどう考えてるの? ぜひともお説を御拝聴したいものね」
黄泉子さんが口を尖らせる。
「そいつはまだわからないさ。沖田が誘拐に絡んでるとしても、少なくとも単独犯ってことはありえない。まあ、君たち全部が関わった狂言誘拐だとすると話は別だがね」
君たち全部とはいったい誰が含まれるのだろう?
沖田さん、高木さん、それに僕と黄泉子さん、おそらく林田さんも。それに狂言というからには響子さんも含まれていることになる。
たしかにそう考えると、この摩訶不思議な事件は解決する。すべてのオカルト的な出来事は嘘ででっち上げられたってことだ。警察が真っ先に疑うのはある意味当然かもしれない。常識的に考えればそれしかないからだ。
「冗談でしょ? 本気でそう思ってるなら、とんだバカ刑事ね」
黄泉子さんは怒りを隠さない。
「バカ刑事だぁ?」
「バカで悪けりゃ、下駄よ!」
「下駄だぁあああ?」
「だって下駄じゃない。顔四角いし、足で踏むのにちょうどいいよ。踏んでいい?」
そのひと言で、チョーさんは怒鳴る。
「この礼儀を知らねえ小娘がっ! いいか? もちろん狂言だと決め付けてるわけじゃない。たとえば、誘拐がほんとうだったとして、おまえらが共謀してやったという可能性だってあるしな」
「え?」
僕と黄泉子さんは同時に驚きの声を上げる。
「べつに不思議でもなんでもないさ。たとえばだ、君が黒マントの怪人に扮装する」
チョーさんはにやりと笑って、僕を指差した。
「そして君が彼女たちのあとをつける」
そういって、今度は黄泉子さんを指差す。
「つまり優くん、君が待ち伏せし、黄泉子さんが追い立てる。挟み撃ちってやつさ。高木は逃げ出し、沖田は恐怖のあまり錯乱する。その隙に響子さんをさらって逃げた。念力で宙に浮かせただの、瞬間移動だのは沖田が錯乱しているのをいいことに、君たちが話をあわせた。そう考えるとしっくりいくぜ。さっきの見舞いだって、沖田がなにを見て、どう思ったかを確認しに行ったとも考えられるしな」
「本気でいってんの? この下駄顔刑事」
黄泉子さんが怒鳴る。チョーさんは怒るのを通りこしてあきれ顔だ。
「ほら、優くんもいってやりなさいよ。下駄、下駄」
さらに続けようとするのを、チョーさんは手を出してさえぎった。
「熱くなるなよ。そうだと決めつけてるわけじゃない。ただの可能性さ。なんの証拠もないしな。まあ、可能性だけでいうなら、他にも集団催眠に掛かったとか、何者かにあとで偽の記憶を植え付けられたとか、限りなく胡散臭いが、悪魔や吸血鬼よりはましな仮説だってある」
チョーさんはそういって、にやりと笑った。自分でいいながら、まったく信じていないのは明らかだ。
つまり、こいつは僕たちを疑っている。
「まあまあ、チョーさん。そんな証拠もなしに容疑者扱いしないで……」
ミス研がパフェをほお張りながらいった。
「じゃあおめえ、なにか他に考えがあるのか? こいつらが嘘をついていない場合、どういう可能性があるっていうんだ」
「そりゃあ、まだわかりませんが、なにかとてつもない大トリックが……」
「ねえよ、そんなもん。これは小説じゃないんだ。現実の事件なんだ」
そう、これはトリックなんかじゃない。現実であることも間違いない。
不可能としか思えない出来事が、魔力によって現実になっているんだ。
「じゃあ、聞くけどさ、誰か目撃者はいなかったの? あのとき、響子さんは大声で叫んだし、いくら人通りの少ない場所とはいえ、注目が集まったはずよ。まだ明るかったんだし」
黄泉子さんがチョーさんを挑発するようにいった。
「今のところまだだ」
「おかしいじゃない? もしあたしたちが犯人だとして、どうやって彼女を連れ去ったわけ? まさか担いで逃げたとはいわないよね。それこそ誰かに見られるに決まってるもん。常識で考えれば車を使ったはずだけど、あたしたちは車はもちろん免許すら持ってないの。調べればすぐにわかることだけどね」
「む……」
黄泉子さんの反撃に、チョーさんは黙った。
だけど僕は知っている。響子さんが消えたとき、あのあたりに止まった車はいない。注意は路地の中に向いていたけど、車が止まって誰かが下りてくればさすがにわかったはずだ。近くにいた黄泉子さんだってそんな車には気づいていない。つまりそんな車はなかった。
「まあ、そんなにとんがりなさんな。なにもすぐに逮捕しようっていうんじゃないんだ。邪魔したな」
チョーさんはむすっとした顔で立ち上がると伝票を取った。背中から不機嫌オーラを丸出しにしながらレジに向かう。
「やった! 下駄を論破してやった」
黄泉子さんは聞こえよがしにいうと、両手で口を横に広げて舌を出す。べろべろばあだ。
黄泉子さんって、案外子供っぽくて怒りっぽいところもあるんだな。
僕のそういう視線に気づいたのか、黄泉子さんは「いやん」と顔を赤くした。
「もしなにか思い出したら僕のスマホに電話してくれるかな?」
ミス研はあきれ顔で番号が入った名詞を僕らに渡すと、どたばたとチョーさんのあとを追う。
彼らが店から出ると同時に、黄泉子さんが眉をつり上げながら、いう。
「もう、信じられない。あの下駄、本気であたしたちのことを疑ってる」
「そうですね。ひょっとしたら尾行がつくかも……」
そのときスマホが鳴った。デデリカだ。モニターを見るとデデリカが笑顔でなにか喋っている。喋るといっても声を出しているわけじゃない。まわりの目を気にして例のマンガの吹き出しに書かれた文字で意思を伝えてるということだ。
『心配しなくてもいいです。デデルコがあいつのスマホに憑依したです。つまり、あいつらの会話は筒抜けってことですよ』
魔力で警察の情報を得ていいのか? と突っ込もうとしたけどやめた。どうせいうことは決まっている。こいつの基準では真相を直接知るために魔力を使うのはご法度でも、推理に必要なデータを得るために魔力を使うのはOKなのだ。それはミステリーを解く上でルール違反にならないというのがこいつの持論だ。それに僕としては、ルール違反だろうがなんだろうが、事件が早く解決して欲しいのだから不満などあるはずがない。
『あ、今デデルコから情報が入りました。あのふたりの刑事、帰ったと見せかけて隠れてますよ。あんたたちのあとをつけるつもりです』
うんざりした。この後、もう一度現場をくわしく調べるつもりだったがやめたほうがよさそうだ。なにか自分たちがやったという証拠が落ちていないか確認しに行ったとか思われると損だ。あのチョーさんのことだから、「犯罪者は現場に戻ってくる」とかなんとかほざくに決まっている。
「とりあえず、いったん別れて夜にでも落ち合う?」
黄泉子さんの提案に従うしかなかった。
『夜にまた優たんの部屋に来るですよ。尾行が解けた段階でデデルコがちゃんと教えるからだいじょうぶです』
また黄泉子さんを夜中にベランダから部屋に引っ張り込むのか? 変な噂が立つのは時間の問題だな。
僕はそう思った。
5
夜中の十二時過ぎ、きのうと同じように黄泉子さんがベランダから僕の部屋に侵入してきた。もちろん僕は縄梯子を下ろしたり上げたりと、その手助けをしている。誰にも見られないことを祈るしかない。デデリカたちはそんなことのために魔力を使ってくれるようなお人よしではないからだ。
「ハーイ」
黄泉子さんは悪魔たちに明るく挨拶した。
「ふふん、黄泉子、今夜も一段と魅力的だな」
デデルコが妖しい目で黄泉子さんを舐めるように見ると、開口一番にいった。しかも舌舐めずりしている。
今夜の黄泉子さんの服装は、黒のスパッツにタンクトップ、その上に黒いウインドブレーカー……ってそんなことはどうでもいい。黄泉子さんには手を出すなよ、デデルコ。おまえはデデリカといちゃついてればいいんだ! いや、僕の部屋の中ではいちゃつくな。他でやれ。
口には出せなかった。だってデデリカと違ってデデルコは怖いからね。
きょうはもう魔法円なども用意していないので、僕らは普通にカーペットに腰を下ろした。
「まあ、とりあえずオレがあのふたりの刑事から探った情報を報告してやろう」
デデルコがえらそうにいう。
「結論からいえば、あいつらはけっきょくなにもわかっていない」
いきなり断言した。
「あのあと、馬鹿な刑事ふたりが議論していたが、けっきょく、白髪親父が狂言誘拐説を強引に押し通した。それ以外の推理を考える知恵がない」
だったらおまえはわかったのかよ、と突っ込みたくなる。
「ぜんっぜん期待してなかったけど、やっぱりそうなわけね」
黄泉子さんがうんざりしたようにいう。
「まあ、そう考えるのが一番簡単ですからね」
デデリカは馬鹿な公僕の考えそうなことだとでもいわんばかりだ。
「デデルコ。他になにかわかったことはあるの?」
僕が尋ねると、デデルコはもったいぶって語り始める。
「まず現場からはそれらしい証拠はなにひとつ見つかっていないし、これといった目撃証言もない。悲鳴を聞いた近所の住人はいたが、逃げる犯人も雛祭響子も誰ひとり見ていない。まあ、おまえたちが現場にいたところを見たやつもいなかったがな」
「僕らを疑っているのはあの刑事だけなの? それとも警察全体の意見なの?」
「いまのところあの刑事だけの考えのようだ。狂言誘拐につきものの身代金の要求がないからな」
「警察がすぐに暗礁に乗り上げるのはみえみえですよ。おそらくこの先も身代金の要求はないはずですからね。事件の動機がわからないし、いっさいの物的証拠がない。目撃証言は信じがたいオカルトめいたものばっかりで、犯人がさらった瞬間を見たものは誰もいない。これじゃあ、迷宮入り確定ですよ」
デデリカは身も蓋もないことをいい出したので、思わず突っ込む。
「警察はともかく、君はどうなんだよ、デデリカ?」
「まだ事件を解明するに必要な手がかりが全部そろってないですよ」
デデリカは肩をすくめ、両手のひらを上に向け、小首をかしげた。デデルコはデデルコでほざく。
「そんなに簡単にわかったら、つまらねえじゃねえか」
こいつらはほんとうに魔界の名探偵なのか?
少年探偵団ごっこなんてやってないで、さっさと魔力で響子さんを助けろよ。
そういいたいんだけど、それをいってもはじまらないのがこいつらだ。
なにせ少年探偵団ごっこがしたくて、人間界に来たようなやつらだ。とうぜん、それがすべてに優先する。
「おっと、忘れてた。ついでにこいつを鑑識からパクってきたんだった」
デデルコはどこからともなく数枚の写真を取り出す。響子さんが消えた現場の写真だ。
「え、パクってきたって、まずいんじゃ……」
「心配するな。正確にいえば、魔力でコピーした。大元はやつらのところにある」
まったくこういうことに関しては魔力も使い放題だ。
まあ、なんにしろ、きょうは現場検証できなかったからありがたい。僕たちは写真を一枚一枚見ていく。
アスファルトの地面。数枚に分けて撮影されているけど、いずれにも足跡、血痕、頭髪等遺留品一切なし。あれだけの雨だから当然か。
三方のブロック塀の写真数枚。ブロックは全体的に雨に濡れている。目立った破損はない。人間の隠れられそうなところなど一切なし。
ブロックのてっぺん。進入防止用の短い鉄杭が十センチ間隔ほどで並んでいる。先端が鋭いから、ブロック塀の上を歩くことは不可能だ。その先端に血痕や、破れた衣服が付いていることはなかった。
ブロックの向こう側。三方とも民家で、外壁とブロック塀の間はいずれも数十センチしかなく、地面は土。雨でぬかるみ状態になっていて、いずれも足跡はない。つまり塀を乗り越えて、この間を歩いた形跡はなし。
けっきょくこれといった証拠はなにもない。むしろ、犯人が塀を乗り越えたり、塀の上を歩いたわけじゃないことがわかっただけだ。
「見事なまでに、なんの手がかりも写っていないですね」
デデリカが頬をふくらませる。
「で、あしたからどうするのさ? 聞き込みったって、もう聞くべき人には聞いたし、これ以上下手に動けないよ。チョーさんに疑われているからね」
「そうですね、まあ、こうなったらしばらく待つしかないですよ」
「待つ? なにを?」
「ふん、わかってねえな、おめえは。いいか、こういう犯罪は続くんだよ。次に誰かべつのやつが誘拐されるんだ。そう決まってる。そうすりゃ新たな手がかりが出るだろう?」
デデルコは真顔で断言した。
「いったいなんの根拠が?」
「馬鹿ですねぇ。ミステリーを読んだことがないんですか? ミステリーというものはそういうものですよ」
デデリカはなにをいまさら、といった表情でいい切った。デデルコはそれを聞いてうんうん肯いている。
頭いてえ。
こいつらがほんとうに切り裂きジャックの事件とやらを解決したんだとしたら、よほどとてつもない偶然に助けられたに違いない。
「ねえ、あたしが囮になるっていうのはどう?」
黄泉子さんがとんでもないことをいい出す。
「それは名案ですね。黄泉子たんに雨の夜、あのあたりをうろついてもらいましょう」
デデリカがぽんと手を打って金色の瞳を輝かせた。
「だ、だめですよ。そんな危険なこと」
僕は必死で止めた。響子さんに引き続き、黄泉子さんまでさらわせるわけにはいかない。
「そう危険でもないさ」
デデルコが口を挟む。
「オレが黄泉子のスマホに憑依しておけばな」
「いいですね。名案ですよ、それ」
僕の懸念を無視して、話は変な方向に進んでいく。
「でも、だけど、……やっぱりだめ。相手は神出鬼没の怪人なんだよ」
「いいか? もし相手が黄泉子を傷つけようとしたら、オレが守ってやる。吸血鬼だか小悪魔だか知らないが、はっきりいってオレの敵じゃないさ。まあ、さらうだけならオレが居所をデデリカに教えてやればいいさ。そうすれば敵のアジトがわかるってもんさ」
「う……」
すこしは説得力があった。デデルコに推理力があるかどうかは知らないけど、少なくとも魔力があるのは間違いない。
「だけどあいつは超能力が使えるんだよ。瞬間移動に精神動力。強敵だよ」
「こんなふうにか?」
デデルコは僕を睨んだ。たちまち僕の体は宙に浮く。しかも金縛りにあったように、体が一ミリたりとも動かせない。あのときの沖田さんと同じだ。
「ついでだから、こんなこともしてやろう」
そういうと、指先を僕のほうに突き出し、くるくるとまわす。
「うわああ」
風景が高速回転しだした。いや、僕が空中で回転してるんだ。
「や、やめてくれええ」
死にそうだ。目が回って死にそうだ。
「デデルコ、お願いやめて」
黄泉子さんの声が聞こえる。
「わははははは、わかったか」
黄泉子さんには弱いのか、デデルコはようやく開放してくれた。床に下ろされたが、ふらふらしてまともに座れない。気持ち悪くて吐きそうだ。
「ふん。いっとくがこんなのはほんのお遊びだぞ。わかりやすいようにおまえの戦闘能力にたとえるなら、デコピン以下の力しか使ってないぞ」
デデルコは威張りながらいう。
「ね、優くん、だいじょうぶだって。きっとデデルコのほうがあいつよりも強いよ。だからあたし、囮役をやる」
黄泉子さんは僕を介抱しながらいった。
まあ、たしかにだいじょうぶそうな気はする。デデルコはたしかに強い。
「だけど次の雨はいつだ?」
「あしたですよ。明け方から一日中降ります」
デデリカがいい切った。天気予報というより予知らしい。
「じゃあ、あしたの夜にやろう」
黄泉子さんは心なしか楽しそうだ。
「きょうは雨が降らないうちに帰るね」
「そう急ぐな、黄泉子。オレたちのベッドで一緒に寝ないか?」
デデルコがとんでもないことをいう。そもそもそのベッドは僕のものだ。
「遠慮しとく」
黄泉子さんはくすっと笑ってそういうと、ベランダから外に出る。僕は縄梯子を段取りしながら、黄泉子さんにいった。
「ほんとうにやる気なんですか?」
「心配することないって。きっとうまくやるから」
黄泉子さんは湖のように神秘的な瞳で僕を正面から見つめ、そういった。その目でじっと見られると魂が吸い込まれそうになる。僕はいつだってこの目には逆らえない。
「で、でも……」
僕がさらに止めようとする言葉を発しかけたとき、黄泉子さんが唇を僕の唇に合わせた。
ほんの一瞬、軽くふれあっただけのキス。
だけど僕はそれだけでなにもいえなくなった。
初めてのキス。それも相手は黄泉子さんだ。
「優しいんだね、優くん。それともあたしだから心配してくれるの?」
「え?」
「ほんとうは、優くんが心配しまくる響子ちゃんにちょっと嫉妬してたんだよ。知ってた?」
黄泉子さんは赤く染まった顔で悪戯っぽく笑う。
「あはっ、いっちゃった。気にしなくていいよ」
気にしなくていいよって、そんなことは不可能だ。
僕は今まで、黄泉子さんは僕のことはせいぜい弟ぐらいにしか思っていないと信じていたのに。
もしかして僕に心配させようとして、こんな危険な役を名乗り出たのだろうか?
戸惑っている僕を残して、黄泉子さんはそのまま縄ばしごを下りようとした。
「あ、待って」
僕はあの日以来、ずっと身につけている十字架。店長からもらったお守りの十字架を黄泉子さんに渡す。
「お守り。どれくらい効果あるかは知らないけど」
「ありがとっ、きっと御利益あるよ。だって優くんが身につけてたんだからね」
黄泉子さんは嬉しそうにそれを首に掛けると、もう一度笑った。今度は僕の心を癒す、優しい笑みで。
僕は去っていく黄泉子さんを見つめながら、しばらく夜風に当たり、頭と熱くなった体を冷やした。
それにしても黄泉子さんはどこまで本気なんだろうか?
黄泉子さんの身を心配する僕の顔にそそられたんだろうか?
あるいは今度の事件で、急速に僕を男として意識したんだろうか?
それともまさかはじめて出会ったころから……?
なんでもいいと思った。捕らわれの響子さんに悪いのはわかってるけれど、僕はちょっとだけ幸せを感じていた。
部屋に戻ると、デデルコとデデリカはすでに僕のベッドに潜り込んでいた。もちろん僕が入る余地なんてあるはずもない。
6
……雨?
僕は目を覚ます。
まだ暗い。時計を見ると三時すぎだった。ほんの三時間ほどしか寝ていない。目を覚ましたのはそれだけ眠りが浅かったんだろう。無理もない、黄泉子さんが囮になるなんていい出したせいで、響子さんだけでなく彼女のことまで心配になるのは当然だ。もちろん、あのキスのせいもある。おまけにベッドではなくカーペットの上で寝ている。
それにひきかえデデルコとデデリカは人形のように眠り込んだままだ。ちょっとやそっとのことでは起きそうにない。悪魔のくせにぐーすか寝るな、といいたい。
ちょっと憂鬱な気分だ。昨夜、デデリカのいうとおり、降ってきた雨。この雨が一日続くらしい。しかも風の音までする。けっこう強いようで、雨が窓ガラスをたたく。
すっかり目がさえてきた。眠れそうにない。僕は僕なりに今度の事件を考えてみようと思った。
そもそもあいつはなぜ響子さんを狙ったんだろうか?
あいつが吸血鬼でたんに人間の血を吸いたいだけなら、なにも響子さんを付けねらう必要はない。にもかかわらず、三回も襲った。
あきらかに執着している。ストーカーのように。
吸血鬼が自分のしもべにする人間を誰にするかで執着するなんて話は聞いたことがない。まさか、あいつは吸血鬼のくせに響子さんに惚れて、自分のものにしようとでも思ったのか?
吸血鬼の花嫁に選ばれた。
血を吸われた響子さんは吸血鬼と化し、奴隷のようにそいつだけを愛す。
そんなおぞましい可能性は否定したかった。だけどそれ以上につじつまの合う答えが浮かばない。
そもそもあいつはほんとうに吸血鬼なのか?
たしかに人間とは思えない不思議な力を発揮した。でも誰もあいつが人間の血を吸っているところを見ていない。ただ牙が生えて、口から血を流していただけだ。
しかもあいつに襲われて、吸血鬼になったやつなんてまだ誰もいない。
いや……。
そこまで考えて、僕はあることを思い出した。
沖田さんの首筋にあった噛み傷のことだ。
まさか……。
沖田さんが今ごろ吸血鬼化している?
馬鹿馬鹿しい。
そう思い込もうとしたが、だめだった。どんどんオカルティックな妄想が膨らんでいく。
もともとそういうことを考えるのは大好きだったし、信じていたんだけれど、どこか頭の片隅では現実逃避だと理解していたような気もする。それがほんとうに悪魔が出てきたことによって、頭が混乱しているのかもしれない。
雨音が強くなっていく。ますます気がめいり、頭がぐちゃぐちゃになっていくような気がした。
眠ろう。こんな状態ではなにを考えても無駄だ。
そう思ったとき、ベランダで物音がした。なにか人の気配がする。
誰だ?
黄泉子さんが戻ったとも思えない。とてつもなく嫌な予感がした。あいにくベランダに出るサッシ戸にはカーテンが掛かっていて外が見えない。
僕は音を立てないようにゆっくりと立ち上がった。電気をつけようとしたのを考え直し、棚においてあった懐中電灯を手に取る。そのほうがもし外に誰かいた場合、逃げられずに正体を見極められると思ったからだ。懐中電灯をオフにしたまま忍び足でベランダに向かう。カーテンをほんのちょっと開け、隙間からベランダを覗いた。
心臓が止まるかと思った。
闇の中にうごめくもの。それはずぶ濡れになった黒マントの怪物だった。
「う、うわああああ」
声を出すつもりはなかったが、僕は叫んでいた。半ばそんな気がしないでもなかったが、まさかほんとうにこいつが僕に家に来ることなんてあるはずがない、という気持ちのほうが強かったのだ。
黒マントの吸血鬼は僕の声に反応し振り返ると同時に、なにか手に持っていたものを落とした。
僕は反射的に懐中電灯のスイッチをオンにし、怪物の顔を照らす。
フードは風で上のほうまでめくれ上がっていた。
怪物はすぐに顔を背けたが、懐中電灯の弱い光は、一瞬だけとはいえ、そこに見知った顔を映し出した。
「わ、わああああああ」
僕はもう一度叫んだ。
沖田。その顔はテニス部キャプテンの沖田さんだった。
「デデルコ、デデリカ、起きろ!」
僕はベッドに向かって叫ぶ。反応なし。のん気な寝息が聞こえた。
熟睡していやがる。悪魔のくせに。
僕はこのときほどこいつらが役に立たないと思ったことはない。壁にある電気のスイッチを押すと、悪魔たちから布団をめくり取った。
「おわっ」
忘れていた。こいつらが素っ裸で眠っていることを。
とくにデデルコの巨乳が目に飛び込んできたが、今はそんなことをいっている場合じゃない。
「頼む、起きてくれぇ」
僕は必死でふたりの体を揺すった。
「ふにゃあ?」
「ふにゃあじゃない。起きろ」
「わっ、デデルコ、大変です。優たんが夜這いかけてきてますよ」
「な、なにぃ?」
寝ぼけ眼のデデルコの回し蹴りが僕の首に炸裂した。
首が折れたかと錯覚するくらい強烈な蹴りだったが、気を失うわけにはいかない。僕は吹っ飛ばされながらも必死で訴える。
「ち、違うぅ。吸血鬼だ。沖田が吸血鬼になってベランダに現れたぁ」
「なんだと?」
ふたりはベッドからくるりと体をひねって飛び降りると、もういつもの格好をしていた。
おまえらはキューティーハニーか? と突っ込みたいのを我慢する。
ふたりはベランダに飛び出すが、もう沖田はいなかった。
「残念。逃げられたようですよ」
「ち、おまえ、いうのが遅いんだよっ!」
おまえたちがぐーすか寝てるのが悪いんじゃないか。
いおうとしたが、やめた。どうせいっても聞く耳なんか持たないからだ。
「だが、まずいことになったようだぞ」
デデルコがいう。ベランダでなにかを拾ったようだ。僕はそれを見て仰天した。
「そ、それは、黄泉子さんが着ていたウインドブレーカー?」
「ありゃりゃ? 黄泉子たんまでさらわれちゃいましたよ」
デデリカがのん気な声でいう。
僕はスマホを取り出すと、黄泉子さんのケータイ番号を呼び出した。
「黄泉子さん?」
『おかけになった電話は現在電源を切っているか、電波の届かない……』
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