魔界美少女探偵デデルコ・デデリカ

南野海

第一章 魔界美少女探偵登場


   1


 黴くさい異臭が僕の鼻腔を刺激した。

 ここは窓もない真っ暗な部屋。手に持ったランプのすこし赤みがかった明かりが、ごく周辺部分だけをぽうっとほのかに浮かび上がらせる。

 ゆらゆらと揺れる炎に照らされる古い本の背表紙。膨大な量の本棚にぎっしり詰め込まれたものの一部だ。

 僕はそのタイトルを片っ端から読んでいった。

『魔女裁判』、『魔術師』、『恋の白魔術』、『魔術入門』、『魔女とサバト』、『実践タロットリーディング』、『性魔術の光と影』、……。

 探している本はなかなか見つからなかった。

 ふいに上のほうから光が差し込んだ。天井の隅の一部が開いたからだ。その真下には僕がここに下りるのに使った階段が伸びている。

「ねえ、ゆうくん、まだ見つかんないのっ?」

 やはりランプを片手に持った若いお姉さんの声が響く。

 ここ、オカルトショップ『魔女の棺』で店番のバイトをしているフリーターの新月黄泉子しんげつよみこさん。といっても、高校をやめたときは一年生で、去年のことだから、まだ十六歳。僕よりひとつ上なだけだ。

 真っ白な肌に作り物のような端整な顔立ちをしている。とくにそのすらりと通った鼻筋は端正にしてナチュラル、僕にいわせればまさに美の極致。その瞳は穏やかでいて神秘的で、見つめられると吸い込まれそうな気がする。その上、長身にしてスリム、とくに腰がセクシーにくびれているというモデルのような体形を併せ持つ究極の美女だ。黒い服が大好きらしく、いつも真っ黒な衣服を身にまとっている。きょうは足首までありそうな漆黒のワンピース。肩に掛かるちょっとだけ内側にカールした黒髪、目の上でまっすぐに切りそろえた前髪と合わせて怖いくらいに似合っている。

「あ、いや、僕ひとりでだいじょうぶですから」

「だよねえ。でも、うるさいの、マスターが。手伝ってやりなさいってさ」

 黄泉子さんは苦笑いしながら、階段を下りてきた。

 正直いって、僕はすこし焦った。黄泉子さんにはあこがれめいた気持ちを持っている。それでも手が届かないと知りながら、天使にあこがれるのは男の性。

 だからほんとうのことをいうと、探している本のことを彼女に知られなくなかった。

 そう、僕の探している本は悪魔の召還法を記したもの。

 普通の本屋にはまず置いてない本だ。だからこそ、ここに来た。

 この地下室にある本はそもそも売り物じゃない。『魔女の棺』の店長の私物だ。僕はこの店の常連で、店長とも親しい。だからなんとか頼み込んで、店の地下にある店長個人のコレクションから借りることを許してもらった。もっとも店長は自分で探すのは面倒だったらしく「自分で探してね、優君」といって店の床にある扉を開けて、僕を地下室に入れてくれたってわけ。

 もっともこんな状況は想像していなかった。たいして広くはない部屋だけど、電気が点かない上に、本棚が図書館のごとく並べられている。これじゃあ、僕に探させるのも当然、どこにあるのか探すだけでひとしごとだ。

「まったく、電気くらい直してほしいよね」

 黄泉子さんがぶつくさ文句をいう。ずっと前に電気がつかなくなったのに、どうせほとんどいくことがないからと放置していたらしい。

 黄泉子さんを差し向けたのも、すこし気がとがめているのかもしれない。

 店長は、僕の気持ちをまったくわかってない。

 学校でオカルト好きをカミングアウトすると、まちがいなく気持ち悪がられる。中学のときは『悪魔君』だの『魔太郎』だの『ムーの一族』だの、好き放題呼ばれた。だから高校に入学してからは、ひたすらそんなものには興味のないふりをしている。その反動でこの店に来たときは、オカルトのことをしゃべりまくる。黄泉子さん仕事ってこともあるんだろうけど、もともとそういうことが好きらしく、興味津々で聞いてくれた。だから僕と彼女はすぐに親しくなっていった。もちろん、彼女は僕を男として意識などせず、弟のように思っているだけなのかもしれないけど。

 それでも黄泉子さんはいまや僕にとってはなくてはならない存在だ。

 だけど、いや、だからこそ、僕は今回のことだけは黄泉子さんに知られたくなかった。

 僕の探しているのは、悪魔召還の物語でもなければ、それをテーマにしたノンフィクションでもない。どうやれば悪魔が召還できるかを事細かに書いたマニュアル本だ。

 いくらオカルト的なことに興味があっても、僕がマジで悪魔を呼び出そうとしていると知ったら引くだろう。黄泉子さんはオカルト好きな反面、意外と人なつっこいし、明るい一面も持っているから、なおさら悪魔を本気で召還するようなやつは受け付けない気がする。

 ひょっとしたら杞憂かもしれないけど、黄泉子さんを失いたくないからこそ、どうしても最悪の事態を想定してしまう。

「ごめん、悪魔が好きな人はちょっと……」

 中学のとき、好きだった女の子に告白したとき、そういわれて、青い顔で走り去られたことがトラウマになっているのかもしれない。

 黄泉子さんにだけは不気味なものを見る目で見られたくない。

「で、なんの本を探しているのかな?」

 黄泉子さんは湖のように澄み切った目に好奇心をありありと浮かべ、質問する。

 一瞬、僕の頭はどういいわけするか、コンピューター並みのスピードでシミュレーションした。しかしどう考えても、好奇心丸出しの黄泉子さんを欺くのは難しい。

 それにここまできて、変に隠そうとするのはかえって不自然なような気もする。僕は覚悟を決めた。

「実践悪魔召還法完全解説書」

 黄泉子さんは予想に反し、にかりと笑った。

「さっすが、優くん。じつはあたしも経験があるの。だけどあれって何度やっても出てこないんだよね」

 僕は黄泉子さんを完全に見くびっていた。彼女は悪魔を実際に呼び出すことを気味悪いと思うどころか、実践した先輩だった。それもチャレンジしたのは一回ではないらしい。

「じゃあ、黄泉子さんもそういう本を持ってるんですか?」

「うん、その本じゃないけどね。だけどあたしの持ってるのはダメ。いんちき本。だって書いてある通りにやっても、悪魔どころか、ねずみ一匹出てこないんだよ。信じられないって、まったく」

 そういって、苦笑いした。

「じつはさあ、優くんにもまだいってなかったけど、あたしオカルトサイトを作ってるの。見る?」

 黄泉子さんはちょっと恥ずかしそうにいうと、スマホを取り出し、『黄泉子の部屋』というタイトルのサイトを呼び出した。

『あたしはオカルト大好きな黄泉子(星座は乙女座よ)。このサイトではあたしが経験したいろんなオカルト関係のことを紹介するからね。「魔女の棺」っていうオカルトショップでバイトしてるから、興味がある人は会いに来てよ』

 プロフィールにはフルネームこそさらしていないけど、生年月日までしっかり書いてある。大胆不敵な人だ。

 さらにはタロット占いを実戦しての的中率とか、オカルト伝説の紹介とか、悪魔召喚しようとして失敗した話とか、いろんなレポートが載っていた。もっともひとつひとつ読んでいったわけじゃないけど。

「おもしろそうなサイトだけど、どうして今まで内緒にしてたんですか?」

「だ、だってさ、いくらオカルト好きな男の子でも、じっさいに悪魔を呼び出そうとした女の子って、なんか引くでしょ? 優くんには嫌われたくなかったんだ」

 黄泉子さんは、ちょっと上目づかいになりながら、頬を赤く染めた。なんのことはない。僕と同じことを考えていたらしい。

 もっとも、僕らはこれでほんとうの意味で同士だ。

 だけど、僕に嫌われたくなかったっていうのは、どういう意味だろう? なんかすこし期待しちゃうんだけど、いいんだろうか?

「まあ、そういうわけだからあたしもその本に興味あるなあ。だってなんとなく使えそうなタイトルじゃない、それ?」

 黄泉子さんは妙に嬉しそうだ。

「もう、店長ったら、あたしに内緒にしてるなんて、許せない」

 今度は頬をふくらませる。

「さあってと、優くん、なにをぐずぐずしてんの? 手分けしてさっさと探しましょう」

 黄泉子さんは妙に張り切って、仕切りだした。勝手に分担を決めると、ランプ片手にさっさと探し始める。

 僕は悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなった。ことオカルトに関しては、どんな突拍子もないことをやっても、黄泉子さんに嫌われることはけっしてないらしい。なんて懐が深いんだろう。中学時代の女たちは爪の垢でも煎じて飲ませてもらえばいいんだ。

「ところでさっ」

 黄泉子さんは本を探しながら悪戯っぽい声でいう。

「悪魔呼び出してどうするの?」

 来た。当然来るべき質問が来た。僕が逆の立場だったらば、絶対に聞くだろう。

 なぜならば、意味もなく悪魔を呼び出そうとするやつ、しかもそのためにこんなところで悪魔の本を必死で探すやつなんているわけがないからだ。

「黄泉子さんはどうだったんですか?」

 とりあえず、矛先を黄泉子さんに向ける。黄泉子さんがいわなければ、僕も秘密ということでかまわないだろう。

 黄泉子さんは僕のほうを見ると、照れ笑いしながらいう。

「いやあ、あたしの場合は純粋に悪魔の力が使えるようになりたくってさ。悪魔と契約すれば人の心を読み取ったり、動物を操ったりできるかなって思って」

 もっと色っぽい理由、あるいはダークな理由を想像していたが、まさしく純粋なオカルトおたく以外は考え付きそうもない理由だ。そういえば、黄泉子さんとはよく魔力とか超能力の話題で盛り上がっていた。

 それにしても魔力が使えるようになるために、悪魔を呼び出そうとするとは……。

 新月黄泉子、まさに恐るべし。

「で、優くんは?」

 作戦は大失敗だった。黄泉子さんに答えさせて自分は知らないというのはさすがにまずいだろう? かといって、「ほんとうに召還できるかどうか実験してみたかった」では納得してくれそうにない。

 僕は正直にいうことにした。

「じつは中学時代の同級生に頼まれたんです。探偵みたいなことを」

「た、探偵? 優くんが?」

 黄泉子さんは噴きだした。

「笑わないでください。その子の友達が怪しいやつにつけ狙われてて」

「へえ?」

 黄泉子さんの目がきらっと光ったような気がした。

「で、どんな子なの、その友達って? っていうか、女の子?」

 黄泉子さんは心の奥底まで見抜くような瞳で見つめる。

雛祭響子ひなまつりきょうこさんというクラスメイトで、一年生ながらインターハイ出場を期待されているテニス部のエースなんですが……」

「ふ~ん、それで?」

 黄泉子さんはみょうに真剣な目つきだ。

 ひょっとして、僕と響子さんの関係を疑ってるんじゃないのかって思えるほどだ。もし、嫉妬してくれているんなら、嬉しいけど。そもそもどうして女の子だってわかったんだろう? なんか、顔に出てた?

 もっとも、僕は彼女をかわいいとは思うけど、それだけだ。会話だってほとんどしたことがない。

「で、そのつけ狙ってる怪しいやつってのは?」

「それが、ただの変態じゃないみたいなんです」

「つまり、どういうこと?」

「吸血鬼なんですよ」

 僕がそう断言すると、黄泉子さんは目に涙を浮かべて笑った。

「なるほどっ、それで優くんの出番ってわけね。つまり、優くんはその雛祭さんを吸血鬼の魔手から守るために、悪魔の力を借りようとしてるんだ?」

「そうです。相手が吸血鬼だったら警察だってなんにもできませんからね」

 僕はすこしむっとしながらも、そう答えた。他の人ならいざ知らず、黄泉子さんに馬鹿にされたように笑われるのは心外だ。どう考えたって、僕の理由のほうがまともだと思う。

「もう、そんな面白そうな話、どうして今まで黙ってたのよ?」

 ぱーんと軽く頭をはたかれた。

「黄泉子さんを巻き込みたくなかったんですよ」

「優くん、君、すこし水臭すぎっ。そういうことをあたし以外の誰に相談できるっていうのよ?」

 たしかにそうかもしれない。他の人に相談しても馬鹿にされるだけで、誰も信じないに決まっている。警察だって相手にしない。せいぜい「ストーカーの正体がわかったら知らせてください」っていうくらいだろう。

「それで、どうして相手が吸血鬼だってわかったの?」

 黄泉子さんはここに来てからずっと好奇心の塊のようだったけれど、今はその絶頂だ。体全体から好奇心丸出しオーラを発している。

「その話はあとにして、とりあえず本を探しませんか?」

 こんな暗い部屋で、吸血鬼の話なんかしたくない。どのみちここまで話してしまったら、黄泉子さんが引くとは思えないから話すしかないけど、まずは目的の物を探し出しここから出たかった。

「それもそうだよね」

 黄泉子さんはそういうと、作業に戻る。僕もふたたび本の背表紙に目を向けた。

「あ、これじゃない?」

 しばらくするとすこし離れた本棚をあさっていた黄泉子さんが叫んだ。

 そばに行ってランプで照らす。たしかにびっしり並んだ古い本の背表紙のひとつに『実践悪魔召還法完全解説書』の文字が……。

 手にとってみる。古い羊皮紙の表紙は手垢で薄汚れていた。タイトルの下には魔方円と思われる、六芒星を囲んだ三重の円が描かれている。

 著者の名前は書いていない。かわりに訳者の名前として魔樹神一郎まきしんいちろうの名前が記されている。もう故人だけど、日本の有名なオカルティスト。とくに悪魔召喚の研究者としては第一人者だった人だ。魔樹は長年ヨーロッパの文献を研究し、著者不明だけどもっとも信頼性のある文献としてこの本を翻訳したらしい。まあ、店長がそういっていただけだけど。

 ページを開いてみる。黴の匂いが鼻に突いた。紙は薄茶色に変色していた。よほど使い込まれているらしく、開くときに指のあたる部分は黒ずんでいる。

 目次を開いた。


第一章 悪魔の歴史

第二章 悪魔召還の実例

第三章 悪魔召還の方法

第四章 悪魔召還の注意


「これだ、間違いない」

 僕は叫んだ。

 黄泉子さんと顔を付き合わせる。赤みがかった炎に照らされた彼女の美しい顔には、獲物を見つけた猛獣を想像させる笑みが浮かんでいる。

 僕は本を小脇に抱え、黄泉子さんとともにランプを片手に、階段を上がった。


   2


「探し物は見つかったかな、優くん?」

 上の階に上がるなり、店長が快活にいった。百八十近い長身に、黒のタキシードを身につけ、目だけ隠す白いマスクをしたオールバックといういでたちで、毎日違ったマスクをしているけど、その素顔は僕も知らない。

「ええ、この通り」

 僕は持ってきた本を見せる。

「よかった、よかった。ほんとうにあるかどうか、じつをいうとあまり自信がなかったんだよ。二、三年前に、中学生くらいの女の子に一冊売ったのを思い出してね。もう一冊自分用に取っておいたかどうか、いまひとつ思い出せなかったんだ」

 そういって、店長は高らかに笑う。

「だけどその本こそ、今では絶版になってるけど、魔樹神一郎が自信を持って紹介した本であることは間違いないよ。なにせ絶版になった理由が、十年前、これを使った若い女性がほんとうに召喚に成功して、魔力で恋人を寝取った女を殺したっていう噂だからね。しかも希少本だ」

 眉唾の話だけど、僕は信じることにした。

「店長、こんなすごい本があることを、今まであたしに黙ってたなんてひどいじゃない?」

 黄泉子さんがすこし怒った口調で問いつめる。

「はははは、そうだね。だけど君は前に召喚に失敗してそういうことはもう信じてないのかと思ってたよ」

「まさか。あれはやり方が悪かっただけ。ちゃんとした方法でやれば悪魔だって出てくるに決まってるっ!」

「う~ん。やっぱりそう思ってたのかい? そうだとは思ってたけど、仕事そっちのけでそっちに夢中になられても困るしね」

「ああ、ひっど~い」

 黄泉子さんは可愛く頬をふくらませる。

「ちょっと、ここで見せてもらっていいですか?」

「いいとも、いいとも。幸か不幸か、他にお客さんは誰もいないしね」

 この店で売られているのは、オカルト関係の書物、タロットカードなどが主だけど、他にも魔術用の剣だとか、魔方円を描いた布、蝋燭、聖杯、鏡、水晶玉などが商品として扱われている。それらがワンルームマンション並みに狭い部屋三面の棚に、ほとんど無造作に並べられ、部屋の中央には丸テーブルがふたつ置かれてある。ただ物を売るだけでなく、お客と心ゆくまで話をすることがリピーターを増やす、というのが店長の方針だそうだ。そのためには椅子とテーブルは必需品らしい。

 もっとも椅子もテーブルもこの店にふさわしい作りで、黒い木製の年代物で、椅子の背もたれにはタロットの『悪魔』だの『死神』だの不吉なカードの絵柄が彫り込まれている。

 黄泉子さんは地下に通じる床の扉を開けるためにどかした商品棚を、ふたたび扉の上に戻すと、僕と一緒にテーブルのまわりの椅子に座った。

 細かいことは置いておくとして、とりあえず、第三章の「悪魔召還の方法」のページを開いてみる。

「う~ん、なんか本物っぽいよね」

 黄泉子さんが本を覗き込むなり、いった。偽物にだまされた経験があるから、そういうことには敏感なのだろう。

 第三章の一ページ目には、いきなり魔方円の図が載っていた。この本の表紙に載っているものと同じだ。六芒星を囲んだ三重の円。その円の間にはなにやら解読不能の文字が刻み込んである。円の周りには小さな五芒星がちりばめられ、その合間には蝋燭が置かれてある。魔法円の中には聖剣。正面には魔鏡、その脇には聖杯が配置されている。

 書いてあることを要約すると、大体こんな感じだ。

 魔方円は悪魔から身を守るため。この中にいる限り、悪魔に敵意があっても攻撃することはできない。聖剣は万が一悪魔が予想外の攻撃をしたとき退けるためにある。

 基本的に、呪文を唱えると、悪魔は魔鏡を通じて現れる。悪魔になにかをさせるには、願いに応じた契約をすることになる。必ずしも魂を奪われるわけではない。しかし、契約により、行動は制限されることになる。

 呼び出される悪魔の名前はデデルコとデデリカ。

 ふたりとも若い美女の姿をした悪魔で、いつも一緒に行動するらしい。この本によると、かなり高級な悪魔で、強い魔力を持つ。イラストを見ると、たしかにふたりとも美しい。長い黒髪を持つデデルコ、そしてまだ少女といっていい年齢のデデリカ。ともに全裸の姿が描かれている。いずれも愛らしさからはかけ離れた、恐ろしさと紙一重の美しさだ。

 さらにそのあとにはほかの悪魔の呼び出し方が何通りか書いてある。だけどデデルコとデデリカに比べてどれも召喚する条件が厳しい。とくに一番最後に書いてあるレギオンなんとかという悪魔を呼ぶには、十代の乙女座の処女を生け贄にささげるとか書いてある。しかもその生け贄は悪魔の存在を信じるものでなくてはならない。

 いったい誰が呼び出せるっていうんだ、そんなやつ。

「ねえねえ、いつやるの、これ?」

 黄泉子さんが目をらんらんと輝かせながら聞いた。

「え、まさか、黄泉子さん、参加するつもりじゃ?」

「なに? 優くん、こんな面白いイベントやるのにあたしを外す気? いつからそんなに性格が悪くなったの? そんなやつはこうしてやる」

 黄泉子さんは、頬をふくらませながら、ぺしぺしと僕の頭をはたいた。

 あたしを外すもなにも、ひとりでやるつもりだった。誰もこんなことに巻き込みたくはない。

 僕がそのことを伝えると、黄泉子さんは笑った。

「なにをいまさら。もうじゅうぶん巻き込まれてるって。ここで知らんぷりされると、この高ぶった気持ちをどこにぶつけたらいいの? だいいち、魔鏡だの聖剣だのこの店で買うんでしょう? アフターケアが必要よ。危険なものを売りつけて知らんぷりっていうのは、商売でやっているものとしてあんまりでしょ? ねっ、店長?」

 黄泉子さんが勝手な主張をする。

「わははは、そうだね、黄泉子くん。よくわかってるじゃないか?」

 話を振られた店長は、能天気な台詞を笑いながらいった。

「でも、僕の個人的な理由で、黄泉子さんを危険な目に合わせるのは……」

「ほう? このあたしにナイト精神を発揮してくれるんだ? でも平気だよ。あたしはこう見えてもこういう事件に関しては君よりもずっと修羅場を踏んでいるし」

 黄泉子さんは、腕を組み、ふんぞり返りながら、鼻息を荒げる。

 悪魔は呼び出そうとしたけど、失敗したんじゃなかったっけ? それなのにどうして修羅場を踏めたんだろう? そう突っ込みたかったがやめておいた。

「それに優くん。君はどうしても黄泉子くんの協力が必要なんじゃないのかな?」

 店長が意味深なことをいう。

「必要な道具の中には、ここで買えないものだってあるじゃないか。たとえば、ほら、『処女の月経の血を混ぜ込んだ香』。君はこんなものをどうやって調達する気だい?」

 指摘されるまでまったく気づかなかった。読み落としていたらしい。しかも、『その日流れ落ちた新鮮な血』などという生々しい装飾語がついている。もっとも召喚条件が緩いと思われた悪魔を呼ぶのにもこんなものが必要だったとは。……まあ、生け贄になってくれる人を探すよりはましだが。

 とはいうものの、もちろん僕に処女の月経の血なんてものを調達する当てがあるわけもない。そんなものをクラスメイトに頼んだ日には、次の日からどんなあだ名で呼ばれるか考えただけでも恐ろしい。とにかく特Aクラスの変態扱いされるのは間違いない。かといって理由を説明するわけにもいかない。悪魔を呼び出すのに必要だからなどといったが最後、どう考えてもSクラスの変態扱いに昇格してしまうのは確定だ。

「つ、つまり、店長は、この月経の血を、その……、黄泉子さんに……」

 ちらっと見ると、黄泉子さんは真っ赤になっている。それこそトマト並みに。

「あ、あの、……、黄泉子さんって、そもそも、処女……」

「バカぁ!」

 いきなり殴られた。グーで。

「い、いや、だって、黄泉子さんって美人だし、彼氏がいたって……」

「いい? この際だからいってあげる。あたしは処女。ばりばりの処女。なんか文句ある?」

 いえ、ありません。これっぽっちも。っていうか、いろんな意味で、やったぁあ!

「ねえ、答えて。あたしのことをヤリマンとでも思ってたの?」

 黄泉子さんは僕の襟をつかんで、振りまわす。白い肌が真っ赤に染まっているのは、羞恥のせいか、それとも怒りのためか?

「そ、そんなこと思ってるわけないじゃないですか? 黄泉子さんは僕の女神です。処女に決まってます」

 心にもないこと……、いや、ある意味、本音に近い台詞が口からつい飛びだした。

「あら、……そこまでいうなら、許してあげよっかな?」

 みょうに恥ずかしそうな表情でくねくねしだす。

「まあ、黄泉子くんがオカルトの話をして逃げない男は優くんだけなんだ。見すてないでやって」

 店長が助け船がつもりか、そんなことをいう。

「ひっど~い」

 黄泉子さんが店長をぽかぽか殴った。でもそれって、僕にも黄泉子さんの彼氏になるチャンスがあるってことでしょうか?

 もっとも、今はその前に聞くことがあった。

「で、でも、その……、かんじんな、血をいただけるんですかっ?」

「は……はぅっ」

 僕も精いっぱいの勇気をふりしぼっていったんだけど、黄泉子さんにもこの質問は、きつかったらしい。

「し、しかたないでしょ? で、でも、いっておくけど、あたしって、ほんとはそんな女じゃないないのよ。……わかってる?」

 そのひと言で、心臓がばくばくいって、頭がスパークしてる。

「わかってますって、黄泉子さん。黄泉子さんはそんな女なんかじゃありません!」

 そんな女って、どんな女だっ!

 もっとも、黄泉子さんは、そんな意味不明な言葉にも、なぜか嬉しそうだ。

 まあ、それはそうとして、もうひとつの問題があることに気づいた。

 この本には悪魔を呼び出すときには、体を清めたのち、全裸で魔方円に入ると書いてある。

「あ、あの……、黄泉子さん。もし、ふたりで悪魔を呼び出すとなると、ふたりで全裸のまま、魔法円に入ることになりますけど……」

「ひゃ……ひゃおっ?」

 こっちはさらに衝撃的らしかった。黄泉子さんはさらに赤くなり、顔から湯気が出てるんじゃないかと思った。

「やっぱ、やめときます?」

 僕はある意味、心にもないことをいった。

 正直、怖い。ほんとにそうなったらどうしようって気もある。でも、すごく残念な気もする。

「やめないっ!」

 一瞬の間のあと、黄泉子さんは眉をつり上げていった。

「優くんはいやなの?」

 いやと聞かれれば、いやなわけはない。なにせ、狭い魔法円のなかで、あこがれの美女と、素っ裸のまま寄りそいあうわけだ。いやなわけはないだろう。

 ただ、ちょっと自信はないぞ。いろんな意味で……。

「黄泉子さんは……平気なんですか?」

「平気……じゃないけど、だいじょうぶ。恥ずかしいけど、優くんなら……平気」

 矛盾しつつ、意味深な台詞を吐く。

 どういう意味だ? と問い詰めたいところだけど、よほど信頼されているということで強引に納得した。男として相手にされていないとは思いたくない。

「じゃあ、僕も平気です」

 ほんとはもちろん平気じゃない。そんなことになれば、鼓動が爆発しそうになって悪魔召還どころではなくなるような気がする。いや、むしろ悪魔召還に関する緊張が、そっち方面の緊張で気が紛らわされていいかもしれない。なにしろ僕は強がってはいるものの、悪魔を呼び出すことをじつは異常に怖がっているのだから。

 僕はほんとうは黄泉子さんに助けを求めていたんじゃないんだろうか?

「じゃあ、……決まりだね」

 黄泉子さんは恥ずかしそうに微笑んだ。

「でも、そういうことなら、悪魔を呼ぶのは一週間ほど先かな」

「え? それはどうして……」

「優くんのエッチ!」

 またパンチが飛んできた。

 それを食らってようやく理解した。つまり黄泉子さんの生理が始まるのがそのくらいということだ。べつにどうということもないんだけど、そんなことを宣言されたことはないのですこしどきどきしてしまう。

 もっともどきどきしてそうなのは、黄泉子さんもいっしょだ。明らかに呼吸が荒い。それを隠すようにいう。

「よし、悪魔召還の話はそれでいいよね。じゃあ、話してもらおうかな?」

「なにを?」

「決まってるじゃない。吸血鬼の話よ」

 まあ、ここまできたら話さないわけにもいかない。どうせ、一週間は悪魔を呼べないのだから、それまでは黄泉子さんと吸血鬼の正体を検討してみるのも悪くないかもしれない。

 僕は黄泉子さんに話すために、すこし前のことを思い出した。


   *


 五月の中旬、つまり今から一週間ほど前のことだった。

 僕は昼休み、隣のクラスの林田めぐみさんに屋上に呼び出された。彼女は中学の同級生で僕のオカルト好きを知っている数少ない女の子だ。彼女はそういうことが大嫌いらしく、僕のことを悪魔小僧だのオカルトキチガイだのとののしり、先頭を切っていじめたやつだ。高校に入ったあと、僕がオカルト好きをひた隠しにしてるのも、こいつのせいだといっていい。

 まわりの男子の評判では美人ということになっているけど、僕はそうは思わない。猫のようにきつい目と天然パーマでゆるいウエーブがかかった短い髪が大嫌いだ。いや、むしろ彼女が嫌いだからそういう目や髪が嫌いなのかもしれない。性格的にも、わがままでおしゃべりな女で、彼女が同じ学校になったと知ったとき、同じクラスにならなかったことを僕は心底神に感謝していたくらいだ。

 だから僕は、ほんとうは彼女の呼び出しになんか応じたくなかった。だけど彼女を怒らせると、響子さんにあることないこと吹き込まれる恐れがある

 屋上には他に誰もいなかった。晴れていれば別だけど、きょうはどんより曇った空で、小雨がぱらついている。そのうち土砂降りになるかもしれない。こんな日には誰も屋上に出ようなどとは思わない。

「話ってなに?」

 僕はそっけなくいった。

「あんた、響子のクラスメイトよね。知ってるでしょ、響子のこと?」

 もちろん知っている。クラス一の美少女と評判の子で、テニス部のエースとか。そういえば、林田さんもテニス部だ。

「それが……なに?」

 正直、ほんとうにわからなかった。

「あんた、響子が好きでしょ?」

「は?」

 本気で予想外の展開に。まあ、もちろん、かわいいとは思うけど、それ以上の感情はない。

「誰に聞いたか知らないけど、それは誤解だよ」

 林田さんは一瞬考えたあと、続ける。

「ま、いいわ。そういうことにしといてあげる」

 だいたい、もしそうだったらどうする気だったんだろう。まさか、仲を取り持ってくるはずもないし……。そうか、邪魔にしにきたんだ。

 ようやく、彼女の目的がわかった気がした。僕が響子さんとつき合うのが気にくわないんだ。もっともそんなことはありえないけど。

「あんたオカルト野郎だったわね?」

 いきなりの斜め上からの攻撃に、思わず噴き出しそうになった。

「今じゃ、普通の生徒のふりしてるらしいけど、中身変わってないんでしょう?」

 それが響子さんといったいどういう関係があるんだ?

「だから、構えないで。あんたのそのオカルトおたくを見込んで頼みがあるのよ」

「頼み?」

 信じられなかった。彼女が僕に頼みごとなどしたことがない。なにしろ中学時代ときたら率先して、ただでさえ大きな口をめいっぱい開いてつばを飛ばし、僕をののしった女なんだから。

「響子が吸血鬼に狙われてるのよ」

「吸血鬼?」

「なによ、その反応は? まさかあんたまで吸血鬼の存在を信じないなんて、一般人のようなことをいうつもりじゃないでしょうね。あんたは根っからのオカルト好きで、親が死んでも治らないのよ。あたしにはすべてお見通しなんですからね」

 林田さんはただでさえきつい眼を吊り上げながらいった。中学時代とまるで変わっていない。

「いい? あたしが特別にあんたをオカルト探偵に任命してあげるわ。しかも依頼はあんたの大好きな響子を吸血鬼から守ること。よだれが出るくらい嬉しいはずよ」

 だからちがうって。

 もっとも、響子さんがかわいい子なのはたしかだし、おいしい状況かもしれない。でもそれは僕に吸血鬼と戦う力がある場合だ。

「とりあえず、その吸血鬼ってなんのこと? なにがあったわけ」

 僕はとりあえず聞いた。響子さんのことも気になったし、吸血鬼というのもたしかに興味がそそる。そのことは否定しない。もっとも林田さんの話など限りなく嘘くさいのだが。

 林田さんは満足げに肯くと、話を始めた。

「三日前、夕方から雨が降ったでしょう? 響子は部活が終わって家に帰る途中、フード付きの黒マントで体を隠した小柄な男にあとをつけられたのよ。そいつが吸血鬼よ」

「まさかそいつに襲われたの、響子さん。ひょっとして噛まれたとか?」

「響子がそいつに気づくと、逃げたらしいわ」

「じゃあ、なんで吸血鬼って決めつけるわけ?」

 僕は当然の疑問を口にした。

「響子が顔を見たのよ。見たっていっても、フードで隠れてたから、口元だけらしいんだけど、青白い顔で牙が生えてたらしいわ」

 吸血鬼っていうのは、それだけの根拠なのか?

「だからあんたはきょう、響子のあとをつけて彼女を護衛するのよ。あんただったら吸血鬼の退治の仕方くらい知ってるんでしょう?」

 相変わらず無茶苦茶をいう女だ。はっきりいって、十字架とか太陽の光に弱いとか、心臓に杭を打ち込むと死ぬとか、子供でも知ってること以外の知識はない。僕に吸血鬼と戦って心臓にくいを突き刺せとでもいいたいのだろうか、この女は。

「響子さんには僕があとを付けるのって知らせてるの?」

「知らせるわけないでしょ? 響子は一見脳天気でそれでいて気が強そうだけど、しょせん十六歳になったばかりの女の子なのよ。相手が吸血鬼だと思えばノイローゼのふたつやみっつ起こすわよ。だからあたしは響子には、心配させないように、『たまたま通りかかったストーカーだよ』っていってるんじゃないの。それなのに、あんたみたいなオカルト野郎を関わらせたって知られたくないのよ。わかるでしょ?」

 ちっともわからんといいたかったが、いえる雰囲気ではない。

「だいいち、あんたオカルト大好き少年だってことが響子にばれてもいいわけ?」

 いいわけがない。つまり、林田さんのいうとおりにするのがベストだ。

「だけど、そいつが現れるまで毎日つけるわけ? あとで響子さんが知ったら怒るよ。そんなことしていいの?」

 僕はそれが心配だった。何日もあとをつけ回したのが響子さんにばれたら、僕の青春は終わる。僕自身がストーカー扱いされる。それどころか、そのマントの男すら僕のせいになるのではないか? もしそう疑われたら、賭けてもいいけど、林田さんは知らんぷりするに決まってる。

「許す。ストーカーまがいのことをしても、あたしが許す。それに何日もつける必要はないから。きっとあいつは雨の日に現れるのよ。だからきょう出る。そうに決まってるわ」

 勘以外になにか根拠でもあるんだろうか?

 口にはしなかった。そんなものがあるわけがないからだ。

「僕ひとりでそれをやるの? 林田さんは?」

「あたしはきょう、用があるのよ。それにそいつが本物の吸血鬼だったらどうすんのよ? 怖いじゃないの」

 まったく身勝手な女だ。だけど僕は引き受けることにした。理由はよっつ。

 ひとつ、純粋に響子さんが心配だったから。

 ふたつ、その吸血鬼に興味があったから。

 みっつ、正義という大義名分を背負って、響子さんのあとをつけれるから。

 よっつ、うまくいけば、ヒーローになって彼女に惚れられるかもしれないから。

 数が大きくなるにつれ、本音に近づいていくという気がしないでもない。僕はべつに響子さんに恋してるわけじゃないけど、惚れられたらとうぜん悪い気はしない。っていうか、喜んでつき合っちゃうと思う。

 怖くないといえば嘘になるけど、どうせそんなやつが出るわけがないという気もしていた。林田さんのことだから、響子さんの話を十倍くらいに膨らませているに決まっている。

 そう、僕はこの時点で、林田さんの話の信憑性をかなり疑っていた。そうでなければ、びびって逃げたかもしれない。

「わかった。とりあえずきょう、彼女のあとをつけてみるよ」

 僕がそういうと、林田さんは満足そうに肯く。

「じゃあ、あんたのスマホ貸して」

「え、なんで?」

「あたしのケータイ番号とメールアドレスを入れといてあげる。報告してもらわなきゃならないからね」

 林田さんは僕からスマホを奪い取ると、勝手に番号を打ち込んだ。それどころか中に入っている番号リストに勝手に目をやる。

「なんなんだよ?」

「なによ、あんたの番号を知りたかっただけよ。あたしから連絡を入れることだってあるんだから。べつにあんたに彼女がいるかどうかなんか気にしてるわけじゃないからね。誤解しないでよ」

 妙に怒った口調でいうと、スマホを僕に返した。


 放課後になっても雨は降り出さなかった。響子さんは部活のため、テニスコートに向かう。

 とりあえず、することがなかった。まさかテニスコートの金網に張り付いて、練習を見ているわけにもいかない。ひょっとしてきょうは出番がないかもしれない。

 僕は図書室で時間をつぶした。部活が終わったら林田さんがスマホにメールで知らせてくれることになっている。

 五時を回ると、いきなり滝のような雨が降ってきた。僕はいそいで図書室を出る。下足室で靴をはきかえ、傘を差して外に出るころ、スマホにメールが入った。林田さんから練習終わりの合図だ。

 僕は雨の中、テニスコートの側まで行った。さいわいもう誰もグランドに出ていなく、僕のことなど誰も見ていなかった。テニスコートから大量の生徒たちが出てくる。僕は見つからないように更衣室の外壁の影に隠れながら、彼らを観察する。響子さんの姿はなかった。

 更衣室の中から声が聞こえた。響子さんの声だ。

「ええええええええ。めぐみ、一緒に帰ってくれないの? なんて冷たいやつなの?」

「だいじょうぶだって。そいつがきょうも出るわけないよ。たまたま変なやつにあとをつけられただけだよ。あの日以来出てないんでしょう?」

 一緒にいるのは林田さんだ。おそらくふたりで残っているのだろう。

「そうかもしれないけど、べつに一緒に帰ってくれたっていいでしょう?」

「ごめんごめん、悪いけどきょうはデートなのだ」

「ひょわわぁ。あたしの命よりもデートのほうが大事なわけ?」

「だから死なないって」

 僕のスマホが鳴った。メールだ。見ると林田さんから。

『準備OK?』

 僕はOKと返した。

「ちょっとめぐみ、誰にメール送ってんのよ?」

「えへへ~っ、秘密」

 そんなことをいいながら、僕のメールを読んだようだ。

「じゃ、あたし帰るから」

 その直後、林田さんが出てきた。僕の姿を確認すると親指を突き出す。そのまま校門を駆け抜けていった。

「もう、めぐみったらぁ」

 あとから響子さんが頬を膨らませながら出てきた。怒った顔もやっぱりかわいい。

 相変わらず白いセーラー服にポニーテールが異常なほどよく似合っている。この子供っぽい顔と小柄な体つきでテニス部の実力ナンバーワンなんだから、よくわからない。

「ま、いいか。いくらなんでも雨の日にだけ出る吸血鬼なんているわけないもんね」

 ツンと尖った鼻をぷっくりとふくらませると、自分にいい聞かせるようにいった。強がっているのか特に怖がっているようにも見えない。まあ、もともとのん気そうな性格をしているといえばそうなんだけど。

 響子さんはテニスコートのフェンス戸に南京錠を掛け、戸締りすると、縮こまりがちだった体をしゃきんと伸ばし、てくてくと歩き出した。そのまま、学校を出て駅に向かう。僕は気づかれないように距離を置いて彼女をつけた。

 彼女はふっきれたのか、後ろを振り向きもしなかったけど、仮に振り返っても問題はないだろう。顔は傘で隠れるし、学校の制服であるノーマルのガクランを着ている分には、ちっとも怪しくはない。下校する生徒としてはごく当たり前の格好だ。彼女が恐れているのは、黒マントで身を包んだ男。吸血鬼というよりは魔法使いのような格好をした男なのだから。

 駅に入ると、響子さんを見失わないように注意しながら電車に乗り込んだ。気づかれないように一車両ずらして乗った。満員じゃないけど、わりと混んでいて彼女に気づかれることはなかった。そしてさいわいなことに、僕のまわりに知ったやつはいなかったので、変にあやしまれることもなかった。僕の家は正反対の方向なので、知ってるやつがいれば、「おまえなんでこれに乗ってる?」と聞いてこないとも限らない。響子さんを尾行しているのがばれたらかなりまずい立場になる。

 彼女はつり革につかまり、最初にくりっとした大きな目で、睨むように周りを見回しただけで、あとはとくにまわりに気を使っている様子はない。その表情にも怯えは浮かんでいなかった。

 僕はすこし安心した。林田さんがいうようなことにはなりそうにない。

 ヒーローになるチャンスだけど、もしほんとうにそんなやつが目の前に出てきたら、僕にはどうしようもないだろう。

 そんなことを考えているうちに、響子さんは電車を降りた。最寄りの駅に着いたらしい。

 僕は気づかれないように、すこし間を空けて降りた。雨は相変わらずだし、いつの間にか薄暗くなっていた。

 響子さんは階段を上り、改札口に向かう。

 ここでは傘で顔を隠すわけにもいかないので、かわりに学帽を深く被った。さいわい、うちの高校では「男子は学帽を被って登下校するべし」という校則がある。しかもけっこうみんな守っていた。

 それでも慎重を期し、距離を置いた。

 僕は改札を抜けると、彼女の姿を追う。駅の出口は小さな商店街に直結していた。アーケードにはなっていないので、雨はまともに被る。このあたりは人通りも多く、傘のせいで僕は完全に人ごみにまぎれることができた。

 その時点でほとんど緊張感はなくなっていた。あるとしたらそれは吸血鬼に出会うことではなく、尾行していることが響子さんにばれないかどうかということだ。もともと、吸血鬼がきょう襲ってくるという根拠はなにもない。前回出たのが雨の日だったというに過ぎない。前回はたまたますこし頭のおかしいやつが響子さんの前に姿を現しただけというのが真相だろう。少なくとも、ここ数日付きまとわれていたわけではないらしいので、きょう現れる確率は低い。

 だけどそう思えたのは商店街を抜けるまでだった。明るかった商店街の外はとたんに暗くなる。彼女の家はわりとへんぴなところにあるらしい。

 細い道の両サイドはブロック塀が続き、街灯の数は多いとはいえない。人通りも急激に減った。僕は急に不安になった。

 もし、ここでほんとうにそんな危なそうなやつが出たら、僕は響子さんを守れるんだろうか?

 自慢じゃないけど、僕は格闘技や武道をやる人間からはかけ離れている。それどころか球技や陸上競技ですら大の苦手だ。そもそも小柄でどちらかというとやせている僕は体力がない。お坊ちゃんヘアでおとなしめの顔はヤンキーのターゲットにこそなれ、相手を威嚇する能力はゼロ。

 戦闘能力という点では、むしろテニス部のエース響子さんのほうが上だろう。

 少なくとも逃げ足は彼女のほうが速いに決まってるし、彼女がラケットで思い切りぶん殴れば、相手はひるむに違いない。人間ならば。

 そんなことを考えているうちに、響子さんは急にきょろきょろと後ろを気にしだした。いいかげん、僕があとをつけていることに気づくかもしれない。だけどどうやら彼女が気にしているのは黒マント姿の吸血鬼だけらしく、こっちのほうを見ても、僕にはまるで無関心だ。

 雨はさらに強くなっていく。ズボンのすそは濡れ、傘を叩く雨音は耳障りなほどだ。

 響子さんは不意に足を止めた。

 そいつはいきなり現れた。

 後ろからではなく、前から。

「きゃあああああ!」

 響子さんは叫び声を上げると振り返り、僕の方向に走ってくる。

 僕にも見えた。そいつが。

 ちょうど街灯の真下に立っていて、その姿がはっきりと見える。

 大きくはない。どちらかというと小柄だ。そいつが黒いフード付きのマントを羽織って立っている。街灯がなければその姿は闇にまぎれてしまうだろう。マントが体全体を覆っているのでその下はどんな格好をしているのかはわからない。顔はフードを深く被っているせいで口元しか見えない。遠くてよくは見えないけど、青白いが滑らかな肌。男か女かはよくわからないけど、もし男ならばまだ若い。中学生か高校生くらいだ。

 口元から牙が見えたような気がする。

 そして一筋の赤い血の筋が垂れているように見えるのは気のせいか?

 たしかにまともじゃない。まがまがしいオーラを全身から発している。

 いきなり響子さんが僕にぶつかった。

 倒れた僕の上に響子さんが乗る。その顔がまじかにせまる。

「ご、ごめんなさい」

 彼女はそういうと、走り去った。僕の顔をしっかり見たはずなのになんのリアクションもない。暗くてわからなかったのかもしれないけど、きっと目では見えていても、頭には入らなかったんだと思う。

 吸血鬼の口元の端はゆっくりと上がる。笑っている。

 悪魔の笑みを浮かべながら、そいつは背を向け、ゆっくりと立ち去っていく。

「ま、まて」

 僕は死に物狂いで勇気を振り絞った。

 怖くて怖くてたまらなかったけど、立ち上がるとそいつに向かって走った。

 吸血鬼は角を曲がった。

 僕は必死で走る。角を曲がって数メートルも走ると、道は大きな通りに出た。

 そこは明るいし、人通りも多い。だけど吸血鬼の姿はどこにもなかった。

 やつは一瞬の隙に消えた。


   *


「ふ~ん? でもそれだけじゃ吸血鬼の仕業とはいいきれないよね」

 僕の説明が終わると、黄泉子さんはすこし不満そうにいった。

「すこし頭のおかしいストーカーの可能性のほうが高いと思うけど」

「で、でも、消えたんですよ」

「あま~い」

 黄泉子さんはウインクしつつ、人差し指をゆらした。

「目の前で煙のように消えたわけじゃないでしょう? 目を放した隙に、マントを脱ぎ捨てたら通行人にまぎれちゃうって」

 僕はすこしがっかりした。黄泉子さんがまるでオカルトなんか信じない人と同じようなことをいうからだ。

「黄泉子さんは悪魔は信じるくせに、吸血鬼は信じないんですか?」

「信じないわけじゃないけど、今の日本に出てくるのはちょっとね。やっぱり吸血鬼は中世のヨーロッパが似合うのよ」

 たしかにヨーロッパと違って、日本じゃ吸血鬼の影は薄い。

「いい? あたしはオカルト的なことを頭から否定する人は大嫌いだけど、かといってオカルト的なことならばなんでも無条件に信じるほど馬鹿でもないの。でも探ってみる価値はありそうね」

 黄泉子さんは目を細め、嬉しそうな顔でいう。

「探るって、どうするつもりですか?」

「決まってるでしょ? 雨の日にその響子ちゃんのあとを、またつけるのよ。やっぱり自分の目で見ないことには判断できないもん」

「そいつがただのストーカーだって証明するつもりなんですか?」

「なにいってるのよ。そいつがほんとうに吸血鬼だったらどんなにいいとあたしが思ってるかわかってる? 吸血鬼と対決して、そいつを倒すために悪魔と契約。う~ん、なんて素敵なのっ!」

 そういう黄泉子さんの目はうっとりしている。

 オカルトマニアのディープさという点で、僕はかないそうにない。

 それに黄泉子さんの気持ちはわからないでもないけど、狙われているのが響子さんである以上、そいつがただの人間のほうが僕はありがたい。だけど僕にはあれがただの人間だとはどうしても思えない。僕には霊感もないけれど、あの体から滲み出すまがまがしさは人間のものではないと思う。

「ポイントは雨ね。雨の日にしか動けない妖怪魔物の類っていうのが存在するのかな? 店長、そういう吸血鬼や黒マントの妖怪って知ってる?」

「残念ながら聞いたことないねえ」

 店長がレジカウンターの中で首をかしげながらいった。

「だけど人間ならどうして雨の日にばかり出るんです? 変じゃないですか」

 僕は疑問をぶつけた。

「う~ん。可能性として、雨の日にスイッチが入るのってのはどう?」

「スイッチ?」

「つまり、普段は一般人と変わらない生活をしているのかも。だけど雨が降ると悪魔のような心がわきあがってくる。あるいは多重人格の場合、雨によって危険な人格に変わるとかさ」

 黄泉子さんはまるでサイコミステリーの探偵のようなことをいう。そういえば、そういう方面も大好きな人だった。

 放っておけば、幼少時の雨の夜に見た殺人がトラウマになって、雨の日には殺人鬼に変貌するとかいい出すに決まっている。

「却下、あれは絶対に人間じゃない」

 僕はすこしむきになっていった。

「うん、もちろんそっちのほうがベターなんだけどね」

 黄泉子さんはぺろっと舌を出した。

「タロットで占ってみる? そいつが人間か、魔物かさ」

 黄泉子さんはにこにこ顔で、どこからともなくマイタロットを取りだした。ついさっきまでミステリー小説の探偵みたいなことをいってたくせに。

「い、いや、占いでどうこうって話じゃないですから」

「またあ、常識人みたいなこといって」

 そういって、僕のほっぺをつんつんする。

「っていうか、当たるんですか? 黄泉子さんの占い」

「う~ん、ま、当たんないかな?」

「じゃあ、意味ないじゃないですか?」

「ちぇっ」

 黄泉子さんはしょぼーんとしてタロットカードをしまった。

「それでその響子ちゃんはその後どうなの?」

「次の日、学校休みましたけど、そのあとはちゃんと出てきてますよ。表面的には元気そうに見えますけど、心にはそうとうダメージを負ってるはずです」

「ふ~ん、けっこう気が強いんだね」

「だから心配なんですよ」

 ほんとうは怖くて仕方がないはずだ。だけど弱みを見せようとしない。ひとりで恐怖と戦っている。だからこそ助けが必要なんだ。

「ねえ、優くんって、ひょっとして、その響子さんが好きなの?」

 黄泉子さんは神秘的な瞳で、嘘ついてもばれるからね、といわんばかりに聞いた。

「ま、まさかっ!」

 僕の好きなのは黄泉子さんです、とはいえなかった。

「ふ~ん? ま、いいか」

 黄泉子さんは意味深な笑みを浮かべると、スマホを取り出した。

「あしたの午後は雨になるって」

 天気予報をサイトでチェックしたらしい。もっとも僕もそのことはすでに確認していた。

「彼女、あした学校に出てくるかな?」

 たぶん出てくる。響子さんは前向きだ。僕はそういった。

「じゃあ、あしたはふたりで響子ちゃんを尾行しようよ」

 黄泉子さんの口元は緩んでいる。心底吸血鬼狩りが楽しいんだろう。

「黄泉子くん、これを持っていくといい」

 店長は奥のほうから一本の細身の剣を取り出した。刀身がまっすぐなところを見ると日本刀ではない。西洋の剣のようだ。銀の鞘にはグリーンとブルーの輝く小さな石がちりばめられている。ひょっとして本物の宝石なのだろうか?

 黄泉子さんはそれを受け取ると、鞘から剣をすらりと抜いた。剣は両刃のものだけど刃はつぶしてあるようだ。

「刀身を見てごらん」

 十字架が刻んである。

「刃はつぶしてあるが、悪魔を退ける聖剣だ。そいつが本物の吸血鬼や悪魔の類なら守ってくれるはず」

「ありがとう、店長」

 黄泉子さんは笑顔でそういうと、立ち上がり、剣を振るった。ひょぉぉおおん、という小気味より風きり音が耳に響く。

「相手が人間でも役に立ちそう」

 片手で剣を持った姿が様になっていた。そういえば、振るった剣の切っ先は速くて見えないほどだった。フェンシングでもやっていたのだろうか? たしかに刃はつぶしてあるといえ、黄泉子さんが使えば強力な武器になりそうだ。

 それにしても今まで黄泉子さんは、オカルト大好きで物静かな人だとばかり思っていたけど、それは僕の勝手な思い込みだったようだ。

 彼女に関する謎がまたひとつ増えた。

「優くんはこれを持っていくといい。お守りだ」

 店長は銀の十字架と聖水入りの小瓶を渡した。


   3


 天気予報は当たった。

 そして響子さんは学校に出てくるだろうという僕の予想も当たった。

 午後の授業に入り、雨が降り出してくるとさすがに彼女の顔はこわばった。きっと授業なんて上の空なんだろう。もっともそれは僕にしたところで同じだった。

 つまらない授業の間、僕はずっと考えていた。もし、あいつが吸血鬼なんかじゃなくてただの人間だった場合のことだ。

 あいつはなぜ響子さんが来る時間をわかっていたんだろうか?

 一度だけなら、たまたま通りすがりの響子さんが出くわしただけなのかもしれない。だけど二度のこととなると、偶然というにはすこし苦しい。もしきょうも出るのなら偶然ではありえない。あいつは響子さんを付けねらっているということになる。つまり計画的だってことだ。しかもなぜか彼女の行動が筒抜けになっている。

 あいつだって雨の中、響子さんが来るのをずっと待っていたとは思えない。

 だけどそう考えると、黄泉子さんの推理は外れる。つまり、雨の日にトラウマがある頭のおかしい男が、雨の日になるとスイッチが入って人を襲うっていうのは間違いだ。

 なぜなら雨の日の発作的な犯行と、計画的な犯行は同時になりたたない。

 じゃあ、犯人の目的はなんだ?

 響子さんを脅かすだけで、こんな手間の込んだことをするんだろうか?

 もし殺すつもりだったら、通りすがりの変質者を装ったほうがいいに決まっている。

 やるなら最初のときに、殺すはずだ。

 どうしてわざわざ二度までも響子さんの帰り道に待ち伏せしたのに、顔見せだけして逃げたんだ?

 それじゃあ、犯人、もしくは共犯者が身近にいるかもしれないという疑いを持たせるだけじゃないか?

 おかしい。

 それとも僕はあいつが吸血鬼だと思い込みたいばかりに、ただの人間である可能性を、理屈をつけて消し去りたいだけなんだろうか?

 あいつが雨の日だけに現れる魔物の類で、理由はわからないけど響子さんを付けねらっているとしたら矛盾はない。魔物だからこそ響子さんがどういう行動を取るか手に取るようにわかる。そう思いたいだけなんだろうか?

 頭が混乱した。

 もう余計なことを考えるのはやめだ。あいつは僕の中では吸血鬼でいい。ほんものの魔物、妖怪の類だ。だからこそ僕は悪魔を召還する。それでいいじゃないか。

 いまごろ、黄泉子さんは学校の外で張り込んでいるはずだ。前回に引き続いて、僕が直接尾行するのはばれやすいということで、黄泉子さんがすぐあとをつけ、僕は先回りする作戦をとる。響子さんの写真はさっきスマホについているデジカメでこっそり撮って、黄泉子さんのスマホにメールで送っておいたから間違って別の人を尾行することもないだろう。

「きょうはここまで」

 大声で授業をしていた熱血系中年教師は叫ぶように授業の終了を告げると、教室から出て行った。つまり放課後になった。

 外は土砂降りだし、テニスどころではないだろう。響子さんはどうするつもりだろうか?

 僕は密かに彼女を観察した。午前中は明るくふるまっていた彼女の顔は明らかに曇っている。いつものきらきらとした瞳の輝きは見る影もない。無言で鞄を手にすると教室を出た。

 僕はすこし間を空けて、やはり教室を出ると、そのまま尾行した。

 彼女は三年生のいる四階に上がった。そしてそのうちの教室のひとつを尋ねる。出てきたのは長身で筋肉質な色男、テニス部のキャプテンだ。沖田とかいう先輩で、けっこう区内では有名な選手らしい。なんでも中学時代は暴走族に関わっていて、グレてたけれどテニスをやって更生したっていう噂だ。もっとも未だにそういう連中とつきあいがあると陰口をたたく人もいる。いずれにしろけんかは強いはずだ。

 響子さんはしばらく沖田さんと話をしている。そのうちもうひとり、坊主頭のいかつい男が出てきた。そっちはたしかボクシングをやっている高木さんだ。部活にはボクシング部がないのでジムに通っているらしい。

 ふたりは教室を出ると、響子さんとともに階段を下りていく。おそらく響子さんはキャプテンの沖田さんに吸血鬼のことを相談したんだろう。そして沖田さんは快くボディガードを承諾した。ついでに友達の高木さんにも力を借りたというところだろう。

 こういうとき、女は弱そうな男を相手にしない。

 下駄箱のある位置は一年と三年では違うので、響子さんは外で彼らと合流した。僕も適当な距離を置いて見守る。

 スマホで黄泉子さんに電話した。

「今、響子さんが出ました。ボディガードに男ふたりつけてます」

『へえぇ、やるじゃない。優くん、君にはお鉢は回ってこなかったの?』

 痛いところを突く。僕は無視した。

「見失わないでくださいよ、黄泉子さん。じゃあ、予定通りに」

「あ、怒った? ごめん、ごめん。ちょっとからかっただけだよぉ。優くんは今のままでいいの」

「もういいです」

 すこし怒った声でそういうと、電話を切った。僕はそのまま距離を置いて歩き出す。滝のような雨が傘に当たり、耳障りなほどだ。

「あんたきょうも尾行するつもりなの? もういいわ」

 いきなり後ろから声がした。振り返ると林田さんが傘を片手に立っている。今の会話を聞いていたのだろうか?

 ただでさえ鋭い目つきにすこし怒りの色を浮かべている。

「もうあんたになんかぜんぜん期待してないから。ちゃんと別の手を打っておいたから安心して手を引いて。あんたじゃ大怪我でもするに決まってる。そうなったら、あんたみたいな人にだって悲しむ人はいるんでしょう?」

 あの三年生ふたりを動かしたのは、林田さんらしい。前回の失敗で完全に僕を見限ったようだ。

「沖田さんたちは林田さんが動かしたのか? だけどあの人、暴走族と付き合いがあるっていう……」

「ばっかじゃないの、あんた。沖田さんがグレてたのは昔の話よ。変な噂を鵜呑みにしないで。今じゃ模範的な優等生でとってもいい人よ。それにボディガードをやるなら、いざとなったら喧嘩くらいできないとだめ。あんたみたいなのじゃ話にならないわ」

 彼女のいうことにも一理あるけど、僕は手を引くつもりなんてこれっぽっちもない。もっともそんなことで林田さんといい争うつもりはなかった。

「もちろん手をひくさ。僕はあんなこともうこりごりだよ。だから人に頼んだんだ」

「人に?」

 林田さんは不審げに僕の顔をのぞき込む。

「オカルトショップの店員さ。僕なんかよりもずっと頼りになる」

「オカルトショップの店員ですって?」

 声が心持ち大きくなった。

「誰だか知らないけど、沖田さんたちの邪魔はさせないでよ」

 例の猫のような意地悪な目で僕を威嚇する。

「あんたみたいなオカルト野郎が役に立つとすこしでも考えたあたしが馬鹿だったわ」

 彼女は人の心を切り裂くかみそりのような捨て台詞を残して立ち去った。きょうも人に任せるだけ任せて、自分は危険なところに立ち入らない、もしくはデートなんだろう。なんて女だ。地獄に落ちるがいいさ。

 僕が心の中で林田さんをぼろくそになじっている間、響子さんたちは学校の外に出た。僕もすこし間を置いて校門に向かう。校門を出てすぐの歩道に黄泉子さんの姿が見えた。きょうは黒いパンツにシャツ、それに黒いジャケットを羽織っている。差している傘はもちろん黒だ。そして細長い円筒の図面ケースを背負っている。建築科の学生のようだが、中に入っているのは図面ではなく、もちろん例の聖剣だ。

 黄泉子さんは僕の姿を見つけ、ウインクすると、何気なく響子さんたちのあとをつけだした。

 それを確認すると、自転車置き場へ行った。いつもは電車通学だが、きょうに限っては自転車で来た。そうする必要があった。僕の役回りは、あらかじめ駅に先回りして、見晴らしのいい位置を確保することだからだ。

 学校から駅まではすこし歩くし、あそこにいくのには電車を使うよりも自転車の方が速い。飛ばす必要があるので、カッパを着た。傘は差していられない。

 緊張してきた。

 ガクランのポケットにある銀の十字架と、聖水の入った瓶を握り締めると、自転車のペダルを思い切り踏んだ。


   4


 僕は自転車をこの前あいつを見たあたりでとめた。とりあえず先回りに成功したようだ。

 相変わらず人気の少ない所だけど、前回と違ってまだ明るいのが救いだ。

 スマホが鳴る。メールの受信音だ。送信者はもちろん黄泉子さん。傘の柄を首に挟みながら文面を読む。

『もう駅に着く。そっちはOK?』

 僕は文面を打つ。

『こっちは着いてます。今から準備します』

 送信すると、スマホをしまい、まわりを見渡す。

 緊張感が走る。さいわい目に見えるところにあいつはいない。僕はポケットから十字架を取り出すと握り締めた。

 手が濡れているのは雨のせいばかりじゃない。ぐっしょりと汗をかいている。

 僕は勇気を奮い起こして、近くのビルの非常階段を上った。ビルといっても四階建ての小さなビルだけど、このあたりでは、ここ以外は小さな建物ばかりだ。そのまま非常階段の一番上を陣取った。ここからなら周囲が見渡せる。

 つまり僕は黄泉子さんの目になるわけだ。

 異変があったり、やつが逃げたりした場合僕がそれをスマホで指示する作戦だ。

 まもなく響子さんたちと黄泉子さんは来る。僕は怪しそうなところを見下ろし、吸血鬼を探した。とりあえず目に付くところにはいない。鞄から双眼鏡を取り出すと、怪しそうなところをたんねんに調べていく。もちろん建物や塀の死角になって見えないところもあるけど、それは仕方がない。

 スマホが鳴った。今度は通話のほうだ。

『商店街を抜けるところよ。すぐそっちにいくから』

「ここから見えるところに吸血鬼はいません」

 僕は答えた。通話は切らない。オンにしたままだ。

 まもなく男がひとり、それから女がひとり、すこし離れてもうひとり男が歩いてくる。傘で顔は見えないけど、着ている制服といい、タイミングといい、響子さんとお供のふたりに違いない。その証拠にすこし後ろを歩いている女の人が傘から顔を出し、僕に合図を送った。もちろんその人は黄泉子さんだ。

 体格から考えて、前を歩いているほうが高木さんだろう。つまり、後ろにいるのは沖田さんということになる。

 どうやら沖田キャプテンは相手をおびき出して捕まえようとしているらしい。だからとりあえず腕に覚えのある高木さんがすこし前を歩き、前方を注意する。響子さんを挟んで後ろに沖田さんがあとをつけて、なにかあった場合は挟み撃ちにするつもりなのだろう。

『次の曲がり角はだいじょうぶ?』

 スマホを通じて黄泉子さんの声が届く。

「だいじょうぶです」

 少なくともここから見えるところにあいつはいない。もし電柱の影にでも隠れているにしろ、動きがあればすぐにわかる。

「ひょっとして、今回は休みなんじゃ?」

『油断しちゃだめ』

 そもそも僕はあいつに出てきて欲しいのだろうか? それとも出てきて欲しくないのか?

 響子さんのことを考えたら、相手はただのストーカーで、沖田さんたちにとっ捕まえられるのが一番いいんだろう。沖田さんはヒーローになって、響子さんは彼に首っ丈。事件は解決。彼女の顔には以前以上の笑顔が戻るはずだ。

 僕はほんとうにそんなことを望んでいるのか?

 どう考えてもそんなことは望んでいない。

 響子さんとあの色男の沖田さんがくっつくのがおもしろくないんだろうか?

 違うような気がする。

 たしかに響子さんはかわいいとは思うけど、それだけだ。僕が好きなのは黄泉子さんなんだ。そんな理由じゃない。

 僕はきっと悪魔の力を借りて、吸血鬼と対決したいんだ。

 悪魔を呼ぶのは怖いけど響子さんを守るためには仕方ないと思っているのは建前だ。本音では悪魔と出会いたい。理屈ぬきで悪魔の力を得たい。

 心の浅いところでは、響子さんを救いたいとか思っていても、心の奥底では吸血鬼に、男ふたりを蹴散らし、黄泉子さんの聖剣攻撃すらものともせずに響子さんをさらっていって欲しいんだ。

 そして悪魔の力を得た僕が吸血鬼に勝利する。

 つまりヒーローになりたい。

 響子さんの気を引きたい? ……いや、ちがう。黄泉子さんにふさわしい男だってアピールしたいんだ。

 僕は自分の心の奥に眠るゆがんだ欲望に気づいたとき、自分自身を嫌悪した。

 ぴしっ。

 耳障りな音とともに、学ランのポケットがじんわり濡れた。

 雨じゃない。手を突っ込んでみると、聖水を入れた瓶が割れている。

 不吉な予感が走る。

「きゃあああああ」

 ヒステリックな響子さんの叫び声が耳を劈いた。

「出たぁ」

 僕は耳を疑った。

 気づかなかったからだ。僕は肝心なときにくだらないことを考えて、あの吸血鬼野郎の姿を見落としたのだろうか?

 彼女はあとずさりながら、狭い路地を指差す。たしかにあそこはここからじゃ良く見えない。やつがいたとしても塀の陰に隠れるからだ。

 前後からボディガード役のふたりが響子さんのもとに向かう。黄泉子さんもそれを追う。

「ぐああああ」

 男の叫び声が聞こえる。

「なにがあったんですか、黄泉子さん」

 僕はつながりっぱなしのスマホに叫んだ。

『テニス部のキャプテンが……』

 いったいなにが起こったんだ? ボクサーの高木さんは路地に入った瞬間に絶叫した。そのけたたましい叫び声に混じって黄泉子さんの声が聞こえる。

『テニス部のキャプテンが、苦しんでる』

 いざとなったらまったく頼りにならない男たちだ。

 しかし次に黄泉子さんが告げた言葉に僕は固まった。

『……しかも宙に浮いたまま』

「なんですって?」

 ボクサーの高木さんが傘を投げ捨て、悲鳴を上げながら逃げ出した。

 かわりに黄泉子さんが図面入れから剣を抜き、路地の中に駆け込んだ。

 僕の視線は彼女を追う。だけど塀の陰に隠れた。

 スマホを通じて、なにか重いものが落ちるような音が聞こえた。おそらく宙に浮いた沖田さんが地面に落ちたに違いない。

『いない、あいつがいない』

 黄泉子さんが叫んだ。

『しかも、この先は行き止まりよ。どこに消えたの?』

 そんな馬鹿な? そう思ったが、位置が悪い。ここからじゃ見えない。

 響子さんはどこだ?

 僕は双眼鏡で彼女の姿を拾えないことに気がついた。

 逃げた?

 僕は双眼鏡を離し、あたりを見回す。逃げ去った臆病ボクサーが走っている姿は目に入った。しかしその周辺にはいない。それどころか反対側にも彼女らしき姿はなかった。

 ま、まさか?

 消えるはずはない。逃げたんだ。そう信じ込みたかった。

 もう一度、彼女がいたあたりを見る。

「あああ」

 僕は叫んだ。いた。いたのだ。

 ただしそれは響子さんじゃない。例の黒マントで身を隠した吸血鬼だ。

 そいつは路地の中に入っていく。

「黄泉子さん、やつは外にいる。そっちに向かった」

『なんですって? そんな馬鹿な』

 次の瞬間、黄泉子さんのくぐもった叫び声が聞こえる。

 それを最後に声は途絶えた。

「黄泉子さん?」

 僕は階段を駆け下りた。怖かったけど、このまま放ってはおけない。やつの姿を見失うかもしれないけどそんなことをいってる場合じゃない。

 現場に向かって全速力で駆けた。

 まさに僕が心の奥底で望んだとおりになった。

 男たちは蹴散らされ、黄泉子さんまでやられ、響子さんはさらわれた。

 僕は一瞬とはいえ、そんなことを考えてしまった自分自身を呪った。

 路地に駆けつけたとき、吸血鬼はいなかった。

 現場にいるのは、地面に倒れ、ずぶ濡れになった黄泉子さんと沖田さんのふたりだけ。傘は開いたまま放り出され、鞘から抜かれた剣は彼女の側に転がっている。

「黄泉子さん?」

 彼女を抱き起こしてゆする。とりあえず、見たところ外傷はなさそうだ。

「だいじょうぶよ、心配しないで」

 黄泉子さんはゆっくり目を開けると、弱い口調でそういった。目はすこしうつろだけど、さいわいなことに、たいした怪我はなさそうだ。沖田さんのほうは知らないけど、どうでもいい。

「優くん、あいつやっぱり君のいうとおり、人間じゃなかったみたいね」

 黄泉子さんは震える唇でそういった。


   5


 夜も静まったころ、僕のスマホが鳴った。

『来たよ~っ』

 黄泉子さんだ。僕は二階にある自室の窓を開けると外を見下ろす。スマホを持った黄泉子さんが道に立っていた。黒のジーンズにトレーナー、スニーカーさえ黒っぽい色だ。

 僕は静かにベランダに出ると、用意しておいた縄梯子を下ろした。

 夜中に玄関から入れるのはまずい。両親にばれればいいわけ不可能だ。

 黄泉子さんは案外楽しそうにはしごを上ってくる。誰か近所の人に見られれば、あそこの家の息子は夜中に女を引っ張り込んだとすぐに噂になるだろうけど、そんなことをいってる場合じゃない。響子さんが悪魔にさらわれた以上、一刻の猶予もならない。

 そう、けっきょく響子さんはきょう学校に来なかった。

 きのう、彼女がいなくなったのは逃げたからだと思いたかったけれど、それはかなわなかった。あの吸血鬼に連れ去られたとしか考えられない。

 林田さんの話では沖田さんは意識不明のまま入院したそうだし、高木さんは部屋に閉じこもったままらしい。

 事件はまだ表面化していない。僕はあのとき、警察には知らせずに黄泉子さんを抱えて現場から逃走した。こっそりあとをつけていたのもまずいし、怪しげな剣を持っていたのも致命的だ。僕と黄泉子さんのオカルト好きもすぐばれるに決まっている。条件が悪すぎた。僕たちが疑われるのは火を見るよりも明らかだった。

 もっとも警察がこの事件のことを知らないわけじゃない。高木さんから事情を聞いた林田さんが通報したからだ。だからほんとうは担任や校長たちは事件のことを知っているはず。なにもいわないのは、身代金目的の誘拐を疑った警察から口止めされているんだろう。

 林田さんも警察から口止めされたらしい。僕のことは警察にもいってないらしく、「あのことは誰にもいっちゃだめ」と林田さんから釘を刺された。

 もっとも警察が動いてるとしても、それは気休めでしかない。

 犯人が人間でない魔物である以上、警察になにかができるとはとても思えない。僕たちが自分で解決するしかない。

 つまり、悪魔を召還してその力を借りるということだ。

 さいわいきょう必要なアイテムが全部そろった。黄泉子さんの月のものが予定よりも早く来たらしい。学校で黄泉子さんからその連絡をもらったとき、今夜決行することに決めたというわけだ。

「すこしくらいなら喋ってもだいじょうぶだよね?」

 黄泉子さんが部屋に入るなり、小声で聞いた。

「ええ、もう両親は寝てますし、二階は僕の部屋だけですから」

 どのみち悪魔召還には呪文が必要だし、喋らないわけにはいかない。どたばた音を立てない限りだいじょうぶだろう。

「準備はできてるみたいね」

 黄泉子さんが部屋を見渡しながらいう。

 とりあえず散らかっていた部屋は極力片付け、床にじゅうぶんなスペースを確保した。もちろん魔方円を設置するためだ。カーペットに直接書くわけにはいかないので、二メートル角ほどのビニールシートにマジックで書いた。もちろん例の本から書き写したんだけど、かなり複雑なので手間取ってしまった。何回も見直したから、一応間違いはないと思う。

 広げた魔方円の上には、本の挿絵の通りに蝋燭を立てている。さらに黄泉子さんが持っていた聖剣を魔法円の中に置き、魔方円の正面の壁には『魔女の棺』で買った魔鏡を設置してある。

 そして例の本『実践悪魔召還法完全解説書』は、第三章、悪魔召還の方法が開かれて魔法円の中に置かれている。

 僕はあれからこの本の必要なページをすみからすみまで熟読した。さすがに呪文までは空でいえないが、手順は頭の中に叩き込んである。

「あ、あの、例のものは?」

 僕はすこし遠慮気味に黄泉子さんにいった。黄泉子さんはすこしだけ顔を赤らめてバッグから取り出す。小指ほどの小さな瓶に入った血。微量とはいえ、この儀式に欠かせないアイテムだ。

「あんまり……見ないで、バカ」

「ご、ごめんなさい」

 やはり、黄泉子さんも自分の月経の血をまじまじと見られたくはないらしい。

 瓶の蓋を開け、用意しておいた香炉の中に入れる。その中にはじゃ香、僕の髪の毛、油など指定された他の材料はすでに入っていた。

 マッチで香炉に火を放った。油が燃え、麝香の香りに血や髪の毛が燃える異様な匂いが混ざり部屋に充満していく。ついでにそのマッチで魔法円の周りに立てた蝋燭に火をつけていく。

「じゃ、じゃあ、黄泉子さん、心の準備いいですか?」

 僕は喉をごくりと鳴らしていった。なぜなら悪魔召還の儀式をおこなうには全裸で魔法円に入ることとちゃんと書かれてあるからだ。黄泉子さんだって当然わかってる。

「う、……うん」

 黄泉子さんの顔がこわばってきた。なんだかんだいって、黄泉子さんにとっても、僕の前で裸になることは一大決心がいるらしい。

「ま、待って、先に電気を消します」

 蛍光灯の明るい光で、黄泉子さんの生まれたままの姿を直視するのはさすがに気が引けたし、まともに自分の裸を見られるのも恥ずかしい。電気を消すと、足元の蝋燭の明かりだけがすべてになった。

 僕は覚悟を決めると、一気に服を脱ぎ捨てた。

 黄泉子さんも服を脱いでいく。黒のショーツとブラだけになった。下からのやわらかい光が黄泉子さんの体のふくらみを強調していく。

「もう。恥ずかしいから……そんなに見ないで」

「だ、だって、黄泉子さんの体があまりにも、その……魅力的で」

「も、もう……、優くんったら」

 黄泉子さんが照れと恥じらいと色っぽさがミックスしたような声でいう。

「ご、ごめんなさい」

 僕は謝ったが、それは酷というものだろう。自慢じゃないが、僕はばりばりの童貞くんだ。もちろん美女の生身の裸など一度たりとも見たことがない。

 黒い下着が床に落ちるのが見える。思わず黄泉子さんの体を盗み見た。

 薄暗くて細かい部分こそわからないが、完璧といえる体だ。

 全裸のビーナスがそこにいた。

 さらに部屋に充満した麝香や血の燃える匂いが僕の理性を狂わせようとする。

 しかしそんな状況にもかかわらず、僕の息子は暴れなかった。なさけないことにびびっている。

 心臓が爆発しそうだ。これほどまでに高まったことは生まれて初めてだ。

 裸の黄泉子さんがそばにいるから? それともこれから悪魔を呼ぶためか?

 ええい、もちろん両方に決まっている。

「ま、まず、この魔方円の中に座ってください。僕と隣り合わせになるように」

 僕はなるべく黄泉子さんの顔以外のところは見ないようにして話した。

「う、うん。こっち見ないでね、優くん。……ぜったいだからね」

 僕の隣に正座する。狭い魔法円のことだから体が密着した。

 ぴくっと、黄泉子さんの体は反応したが、それは一瞬だけだった。

 肌ごしに黄泉子さんの体温が感じられる。

 真っ正面に魔境があるから、見ないようにしても自然と黄泉子さんのからだが目に入る。完璧にプロポーションの白い裸身が、軽く汗ばみ、桃色に上気していた。黄泉子さんもとうぜんそのことに気づいたらしい。

「いや~ん」

 端正な顔が羞恥に染まり、大事なところを両手で隠す。

 体中の血が逆流しそうだが、それでも僕の分身はうなだれたままだ。苦行で悟りを開いた修行僧を息子に持つ親の気分だ。

「一緒に剣を握ってください」

「う……うん」

 ひとつの剣をふたりで握った。剣先が震えている。緊張しているのは黄泉子さんも同じらしい。僕は開いた本の呪文の部分を指差すと、黄泉子さんに告げる。

「今からこの呪文を一緒に唱えていきます。いいですね?」

「わ……わかった」

 声がこわばっているのは僕だけじゃなかった。

 僕らは剣を魔鏡にかざしながら、呪文を口にする。

「エコ・エコ・デデルコ。エコ・エコ・デデリカ。デデル・デルデル・デデルコ・デデリカ。デデル・デルデル……」

 怪しげな呪文を唱え続けると、だんだん体が熱くなっていく。しかし心はそれと反対に氷のように冷たくなっていく感じだ。

 これは本物だ。

 僕は本能的にそう感じた。

「……偉大なる悪魔、デデルコとデデリカ。魔界よりここに来たりて、我に力を貸したまえ」

 召還の呪文をすべて唱えきった。

 まわりの蝋燭の炎が強まり、昼間のように明るくなる。しかしそれは一瞬のことだった。今度は炎は消え入りそうになる。その後、徐々に力を取り戻し、最初の明るさに戻った。

 だがなにか異様な感じがする。まわりの雰囲気が召還を始める前と明らかに違う。

 なにがどう違うかは言葉ではいい表せないけど、とにかく違う。

「来るっ」

 黄泉子さんの声はふるえていた。彼女もなにかを感じ取ったのだ。

 前方から異様な気配を感じた。

 鏡だ。魔鏡からだ。

 僕は鏡を見つめる。もちろんそこには剣を握った僕と黄泉子さんが写っていた。

 鏡に映った映像がゆがむ。まるで水面に石を投げつけたように。

 その波紋が収まったとき、そこに写っているのは僕と黄泉子さんの姿じゃなかった。

 ふたりの美少女。

 ひとりは腰までありそうな黒髪で、通った鼻筋、ふっくらとした赤い唇が妙にエロい。目は切れ長というよりカミソリのように鋭く、瞳は燃えるように赤いのが印象的だ。美少女というより美女が正解かもしれない。黄泉子さんに負けないくらいのプロポーションを黒いレザーのボンデージファッションで包んでいた。肩から肘までは露出しているが、その先には長い手袋。脚は編みタイツでひざより下はロングブーツだ。なぜか頭には軍帽を被っている。まあ、一言でいえば女王様? もちろんロイヤルファミリーとは別の女王様だ。

 もうひとりは完全な少女で、どう見ても僕よりも年下だ。背は低く、体も華奢、くるくる縦ロールした金髪、顔立ちはロリコンが泣いて喜びそうな愛らしい顔。ちょこんと小さな鼻と口、ただ目だけは西洋人としてもかなり大きく、瞳の色は金色で、あどけなさとともになにもかも見透かしてしまうような怪しげな輝きを放っている。服装は真っ黒なワンピースだけれど、スカートは膝までぶわっと広がったもので血のように赤い色のフリルが何段もついている。

 本のイラストで見た姿とはだいぶ違うけど、SMの女王様がデデルコ、ゴスロリがデデリカのはず。

 魔鏡が砕け散った。同時にふたりは鏡の外に飛び出す。

 これは夢でもなんでもない。僕は本物の悪魔を目の当たりにしている。

「ふん、なかなかいい生け贄の女じゃないか」

「え?」

 僕はデデルコがいった言葉をよく理解できないでいると、デデルコはいきなり入れないはずの魔法円の中に入り込み、黄泉子さんの唇を吸った。

「むぐうぅうう……」

 黄泉子さんは聖剣を僕の手から奪い、デデルコをばしばし叩いて反撃するが、まったく効き目がない。

 魔方円も聖剣もなんの効力も発揮しない。

 ついにデデルコが黄泉子さんを押し倒したので、僕はようやく我に返り、叫んだ。

「ち、違います。その人は生け贄なんかじゃありません。事件の当事者です」

「なんだ違うのか。ちっ、まったく気が利かないやつだな。生け贄くらいちゃんと用意しておけ」

 デデルコは眉の間にしわを寄せ、忌々しげに吐き捨てると、ようやく体を離した。

 まったくなんてやつだ。よりによって黄泉子さんをいきなり押し倒すとは。

 そもそもこの本には生け贄を用意しろなんてひと言たりとも書いていない。

 そんなことより黄泉子さんの目がとろ~んとしているのは気のせいだろうな?

 それともいいのか? 悪魔のキスは最高なのかぁああ?

 僕は叫びたいのをぐっとこらえた。

「あなたの望みはなんなんですか?」

 黄泉子さんが生け贄でないと知って、めっきり不機嫌になって黙り込んだデデルコにかわり、デデリカは舌足らずな喋り方で問いかけた。天使のような笑顔を浮かべながら。

 僕はこれまでのいきさつをすべて話した。

 吸血鬼のこと。僕らがそいつを目の当たりに見たこと。そいつが人間の体を宙に浮かせ、響子さんを連れ去ったこと。

 気のせいか、話を続けているうちに、デデリカの大きな目が輝いていくような気がする。

 とりあえずの説明が終わった。あとは僕の願いを伝えるだけだ。

 そうだ。僕は吸血鬼以上の魔力が欲しい。そのためには魂だってくれてやる。

 僕はそのくらいの覚悟でこの儀式に挑んだ。この悪魔がなにをいっても受け入れるつもりだ。

「だから僕は……」

 その思いを口に出そうとしたとき、デデリカは手でそれを制した。なぜかとっても嬉しそうな顔だ。

「うふふ、わかってます、わかってますとも。そこまでいわれればなにをして欲しいかは聞くまでもありませんね」

 だけど次にデデリカの口から飛び出した言葉は僕の予想を裏切った。

「あたしたちに探偵をやって欲しいんですね。えへっ、喜んでやりますよ」

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