232・進化の最適解
親指。
または大指、母指、
手の場合は掌を地面に向けたときに、足の場合は直立したときに、一番内側に位置する指であり、一般的に指の中で一番太い。
そして、人間の親指には、他の生物の親指にはない、いくつかの特徴が存在する。
指の向きと、筋肉だ。
人間の親指は、他の四本の指と向き合うように配置されており、前面にある
以上の理由から、人間は他の生物よりも格段に器用にものを掴み、摘まむことが可能なのだ。
親指を曲げる。
親指の指先だけを動かす。
親指と他の指の腹を合わせることができる。
当たり前のことのように思えるだろうが、この動作を可能にする骨格と筋肉を有するのは人間だけだ。この骨格と筋肉を持たない他の生物は、どんなに頑張っても指のつけ根しか曲げることはできない。
バーサクコング――ゴリラの手を模して造られたかの者の手。その親指は、人間のそれと比較して、明らかに短く、他の四本の指に対して対向できない構造であった。そして、長母指屈筋と短母指伸筋の二つは備わっていない。
才能の問題ではない。
膂力の問題でもない。
かの者の親指は、そもそも人間と同じようには動かせないのである。
「その親指でできるのは握るまで! その手じゃ何も掴めない! だからお前は取りこぼす! 武器も! 勝利も!」
「――っ!?」
親指!? たったそれだけの差で!?
驚愕に見開かれた双眸でかの者が語る。ゆえに狩夜は、特別な親指を有する人間という生物は、持たざる生物にこう答えた。
「ああそれだけだ! たったそれだけの差が、人間っていうくそ弱い生き物を、万物の霊長なんていう御大層な立場にまで押し上げたんだ!」
物を器用に掴み、摘まむことのできる手。その手から、星の数ほどの道具が作り出された。
それら道具を用いることで、鋭い爪も、牙も、毛皮も、尻尾もなくした脆弱な生き物は、地球という星の生態系の頂点に、今なお君臨し続けている。
連綿と続く生物の営み。その中で、人間だけがたどり着いた進化の最適解。
それこそが、特別な親指。
ときに繊細に、ときに軽快に、ときに奇抜に、ときに力強く動かすことのできる、一本の指なのである。
「おおぉおぉおおぉ!」
霊長類、その中でも人間だけの特権である特別な親指に力を籠めながら、狩夜はダーインスレイヴを振りかぶる。そして、キルフーフの斧を手放した今が好機とばかりに、かの者へと切りかかった。
迫りくる絶対切断の刃に対し、かの者は回避と戦況の立て直しを図る。
左後方に向かってステップを踏み、体を斬撃の外に離脱させながら、地面に突き刺さったキルフーフの斧のもとへと、最短、最速で向かう。
身体能力にものをいわせて狩夜を引き離し、再びキルフーフの斧を握り締めるかの者。次いで、先ほどのような失敗は二度としないとばかりにキルフーフの斧を頭上に掲げ、再度希望峰を暴風で包み込もうとした。
が――
「――?」
キルフーフの斧、完黙。
どれほど待っても、その魔法武器から風が放たれることはない。
己が武器の異変に気づき、かの者が視線を上げると――
「――っ!?」
円形の刃の中心を貫き、宝玉に深々と突き刺さるドヴァリンの角の一部が、目に飛び込んできた。
そう、狩夜はかの者がキルフーフの斧を手放すと同時に、極力目立たぬよう今できる最小サイズで分離させたドヴァリンの角を動かし、風の発生源たる宝玉の破壊を秘密裏に実行。すでに成功させていたのである。
「――ガ!!」
自身を守護する風の守りが永遠に失われたことを理解し、心理的衝撃に呼吸を乱した次の瞬間、ある必然がかの者を襲った。
それは、大気中のマナを吸い込んだことによる弱体化。
キルフーフの斧から発せられる風が消えた今、希望岬は魔物にとって、ただ呼吸するだけで肺を焼かれる地獄に他ならない。
苦痛に歪む表情。回を重ねるごとに乱れる呼吸。脱力し、小刻みに震える体。
それを見て取った狩夜は全力で地面を蹴り、かの者へと肉薄。ダーインスレイヴを上段に構え、かの者の頭部目掛けて即座に振り下ろした。
宙に描かれる漆黒の虹。つい先ほどまでは、それを軽々と避けていたかの者であったが――
「――っ!?」
「遅い!」
弱体化し、苦痛という名の鎖に束縛された今の体では、同じことはできなかった。
頭部への直撃を避け、即死こそ免れたものの、漆黒の虹は
かの者の左腕が、キルフーフの斧と共に宙を舞う。
「ガァァアァァァアァァアァ!!!!」
絶叫。
〔
右腕に続き、左腕をも失ったかの者であったが、二度目であるがゆえに、立て直しは早かった。
バックステップを踏み、追撃を放とうとしている狩夜から距離をとった後、即座に反転。東に、ミズガルズ大陸の奥地に向かって、脇目も振らず駆け出した。
この場所では勝機はない! マナのない場所まで移動しなければ!
そう言いたげな顔で、かの者は走る。狩夜は「させるか!」と叫び、すぐさま後を追うが、弱体化したとはいえ相手はミリオン級の魔物。ただ真っ直ぐに走ることだけに集中すれば、狩夜よりも速い。互いの距離は縮まるどころか、徐々にだが確実に開いていく。
「ダメだ、追いつけない! マナの枯渇した環境での追撃は僕だけじゃ無理だ! このままじゃ――」
逃げられる。
そう言葉を続けようとした瞬間、狩夜とかの者の進行方向上に、緑と白の影が飛び出した。
「――っ!?」
「フロ――!」
そう、それはフローグ・ガルディアス。
かの者の攻撃で、揚羽、紅葉と共に戦線から離脱した最強の剣士が、不屈の精神で立ち上がり、傷だらけになりながらも帰ってきたのである。
かの者の前に立ち塞がったフローグは、両脚を何倍にも膨張させて地面を蹴り、跳躍。右拳による渾身のカエルパンチを、かの者に向けて繰り出した。
マナによる弱体化で敏捷だけでなく反応速度も著しく低下。両腕を失い、ただ真っ直ぐに走ることだけを考えていたかの者に、ミリオンの開拓者から放たれた攻撃を避ける術はなく――
「ガ……」
その顎を、下から豪快にかち上げられた。
両足が地面から離れ、放物線を描くように背中から地面へと倒れていくかの者を見つめながら、狩夜は背後に展開していたドヴァリンの角を一斉に動かす。
空中を駆け抜けたドヴァリンの角は、かの者の胸、腹、脚に突き刺さり、空中に磔にした。
そして、フローグの「やっちまえ!」という視線に後押しされながら、狩夜はダーインスレイヴを大上段に振りかぶり――
「ぜああぁぁあぁああぁ!」
かの者の体を、文字通り一刀両断した。
決着。
親指一本の差が勝敗を分けた、野生の天才との死闘は、こうして幕を閉じた。
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