063・聖域

「常々思うんだけどさ、そのプリティな体のどこにそんなに入るわけ?」


 ものの数分でワイズマンモンキーの群れを食い尽くしたにもかかわらず、特に変わった様子のないレイラの姿を背中越しに見つめながら、狩夜は呆れたように問う。するとレイラは「プリティだなんて~」と言いたげに両手で顔を覆うと、全身をくねらせた。


 背中に張りつかれながらそれをされると、かなりこそばゆい。狩夜は変な声が出ないよう気をつけながら、こう言葉を続ける。


「まあ、別にいいけどね。ワイズマンモンキーの肉は食用に適さないらしいから」


 筋っぽくて、煮ても焼いても食えたもんじゃないとのこと。打ち捨てるしかないその肉をレイラが処理してくれるというのなら、願ったり叶ったりだ。


 強い、速い、賢い、食べられないの四拍子。ワイズマンモンキー、つくづく人間にとって迷惑で、うまみの薄い魔物である。


「それはさておき……」


 狩夜はこう呟きながらワイズマンモンキーに対する考察を切り上げ、眼前に聳える峻険な岩山を見上げた。そして、見上げながらスクルドに尋ねる。


「この山の向こう側に聖域が——世界樹があるんだよね?」


「はい。ここまでくれば、もう私の案内は不要ですね。後はこの山を乗り越え、聖域に入り、聖獣を打倒するだけです」


「山頂に結界があるって聞いたけど?」


「ありますが、異世界人であるオマケと、勇者様にとってはないも同然です。決められた入口等もありませんので、このまま真っ直ぐ進めば聖域に入れますよ」


「真っ直ぐ……か。むしろ垂直って感じなんだけど……」


 生きとし生ける者、それら全てを阻むかのごとく立ち塞がる物理的障壁を前にして、狩夜は思わず苦笑いを浮かべた。


 まさに絶壁。正直、決められた別の入口があって欲しかったと、心底思う光景である。


 幸いなことに取っ掛かりは多いので、プロのロッククライマーなら普通の人間でも登れそうだ。これより険しい断崖絶壁なら、地球にもあるだろう。


 普通の人間にも登れるのだから、ソウルポイントで強化された狩夜に登れないはずはない。はずはないが、聖獣との戦いの前に体力を消耗するのは愚策だ。なにより、間違いなく登り切る前に夜になる。

 

 やはりここは——


「先生、お願いします!」


 迷いの森と同じく、レイラの力を借りるとしよう。


 狩夜の言葉にコクコクと頷いたレイラは、右手から蔓を伸ばし、山頂へと伸ばした。


 蔓の先端を山頂付近に突き刺した後、二度ほどそれを引っ張り、簡単には抜けないことを確認。次いで、レイラは蔓の収納を開始し、狩夜の体を宙に浮かせる。


 狩夜の体は、レイラ、スクルドと共に、負担がかからない速度で上昇を続け――


「到着」


 何事もなく山頂へと到達。その両足を岩山の頂上に乗せた。


「……凄いな」


 結界と思しき光の幕。そのすぐ手前で足を止めながら、狩夜は率直な感想を口にした。


 まず目に飛び込んできたのは、やはり世界樹。開けた場所であるならば、ユグドラシル大陸のどこであっても見える世界樹であるが、間近で見ると(まだ幹まで十キロ以上離れているが)改めてその大きさに圧倒される。


 ユグドラシル大陸で、間違いなく一番高い山の頂上にいるというのに、狩夜の立ち位置は世界樹の半分もない。上を見上げれば、結界のすぐそばにまで延びた世界樹の横枝と、青々とした葉が見える。その葉を掴もうと、思わず手を伸ばしてみたが——届くわけがなかった。世界樹の大きさと、自身の矮小さを感じ、狩夜の口から息が漏れる。


 手を下ろした狩夜の目に次に映り込んだのは、世界樹を中心に広がる聖域。その全様であった。


 世界樹を取り囲む岩の山脈。今まさに狩夜が立っている場所の内側には、なんと大地が無かった。直径五十キロはありそうな円形の空間は、一面が世界樹の根に埋め尽くされており、土の姿がどこにも無い。もちろん、他の動植物の姿も。


 聖域は、完全に、この上なく、非の打ち所がないほどに、世界樹のためだけの空間であった。


「これは……クレーターなのか?」


 聖域を見回しながら、狩夜は言う。


 大昔にできたクレーターの中心に、世界樹が生えている。そう考えると、聖域の形状やら、円形の山脈やらの説明がつく気がした。


 だとするならば、大昔に――それこそ数十億年前にここに落ちてきて、この巨大なクレーターを形成したのは、世界樹の種ということになる。


「世界樹は、宇宙からこの星にきたのか?」


 世界樹を取り巻く状況からの推測であるが、間違いないように思われた。そしてこの推測は、イスミンスールの創世記の一日目、生き物のまったくいない闇の世界に、造物主たる世界樹、その種が天から落ちてきた――という記述にも合致する。


 しかし、そうなると——だ。その種の大元である別の世界樹が、どこか別の星にあるということに——


「どうしましたオマケ? しっかりしなさい。目的地は目の前ですよ? まさか、今になって怖気づいたとは言わないでしょうね?」


「あ……うん。ごめん、ちょっとぼーっとしてた」


 スクルドの訝し気な声に、狩夜は「いけない、いけない」と頭を振り。別の星にまで飛びかけた思考を引き戻す。


 今は別の星だの、世界樹がどこからきただのを気にしている場合じゃない。目前にまで迫った聖獣との戦いに集中しなければ。


 狩夜は大きく深呼吸をして、気持ちを切り替える。次いで、全身を軽く動かし、体の調子を確かめた。


 どこにも異常は見当たらない。ベストなコンディションである。


「ん、もう大丈夫。いこうか」


 この言葉にレイラはコクコクと頷き、スクルドは「ええ」と答えた。狩夜は同行者の同意の元に前進し、結界である光の幕を通り抜け、聖域へと足を踏み入れる。


 世界樹の第二次防衛ラインである結界。それを通り抜けるとき、何かしらの抵抗があるかとも思ったが、別段何も感じなかった。事前情報通りであることに安堵しながら、狩夜はそのまま直進し、先ほどまでの断崖とは違う、なだらかな岩肌の斜面を下っていく。


 口と鼻から吸い込む聖域の空気は、外界のものと大差なく、マナが濃いようには感じない。やはり世界樹は、【厄災】の呪いによって、大気中に直接マナを放出できないようになっているようだ。


 聖獣との戦いの最中、息を吸うだけで体力が快復するという、なんとも都合の良い展開を少し期待していたのだが、どうやら無理らしい。


 ほどなくして斜面は終わり、登山靴越しに伝わる感触が変わった。狩夜は今、世界樹の根の上に、世界の中心に立っている。


「酷い……」


 世界の中心で口にした、初めの一言がこれだった。


 遠目ではわからなかったが、近づいてみれば一目瞭然。聖域の中を埋め尽くす世界樹の根は、どこもかしこも傷だらけだった。無差別に、無計画に、無遠慮に食い荒らされ、内側がむき出しになっている。


 このままでは不味い。この傷を放置すれば、確かに遠からず世界樹は枯れるだろう。


 素人目でもそう断言できるほどに、世界樹は傷ついていた。


「自己再生が全然間に合っていない! これだけの傷、いったいどれほどの苦痛を!? これをずっと……ずっと一人で?」


 狩夜の胸の中で、スクルドが悲痛な声を上げた。勝気な印象を受けるその両目から涙が溢れ、狩夜のハーフジップシャツを濡らしていく。


「ああ……ああ、あああぁあぁ、姉様ぁ! 姉様ぁあぁ!! すみません! 私、何も、今の私には何もできな……酷い、酷い!! すみません! すみません姉様ぁあぁ!!」


「スクルド……」


 泣いている。誇り高い女神が、歴戦の戦乙女が泣いている。その姿を見つめながら、狩夜は両の手を握り締めた。


 害獣被害で泣いている人がいる。動物に肉親を傷つけられ、泣いている女の子がいる。


 猟師だ。猟師の出番だ。原因である害獣を仕留め、被害の拡大を防ぎ、この涙を止めることが猟師の役目だ。


 世界を滅ぼす害獣を仕留める強い猟師が、この世界には必要だ!


「レイラ! 聖獣を探そう! 世界樹を、ウルド様を助けるんだ!」


 事態の深刻さを再確認した狩夜は、首を回して背中を覗き込む。そして、レイラの顔を見つめながら、口を動かし続けた。


「僕たちの手で必ず――」


 聖獣を倒そう。勢いのままにそう言い切るはずだった言葉を、狩夜は止めた。止めざるを得なかった。


 声をかけた狩夜を一瞥もせず、今まで見たこともない真剣な表情を浮かべながら、聖域のある一点を注視するレイラの姿が、自身の視界に飛び込んできたからだ。


 狩夜は口を動かすのをやめ、無言でレイラの視線を辿る。


 レイラの見つめる先には、成長途中で地表から飛び出し、陸橋のごとくアーチを描く、一際太い根があった。


 そして、その根の上に、太陽を背にこちらを見下ろす、獣の影がある。


 細く、長い、四本の足。短い尻尾。なにより特徴的なのは、天を突くかのように頭から突き出た、物々しい二本の角。


 鹿だ。あのシルエットは、鹿以外にあり得ない。


「——っ!」


 泣いていたスクルドも顔を上げた。そして、こちらを見下ろす鹿の姿を、親の仇を見るような目つきで睨みつけながら、その名を叫ぶ。


「ドヴァリン!!」


 その呼びかけに答えるように、鹿は根を蹴り、狩夜たち目掛け躊躇なく飛び掛かってきた。

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