第9章 ひまわり
第24話 再起動
萩生田は管制ルーム壁面に埋め込まれた、4枚の大型モニターを見つめていた。
画面内の表示は、この部屋に入ってきた時からずっと変わらず、起動準備中を示す数字の羅列が瞬いている状態だ。
「下村、まだか?」
萩生田が声を掛けた。
「そう急がせるな、ここの設備はIMLと違って、もう十年以上も前の骨董品だ。そんなに早くは無理だよ」
下村が話す間に、起動準備の進捗を示す数字が90%を越え、画面が一瞬暗転した後に、気象関係のデータ表示に切り替わった。
ようやくシステムが起動したのだ。
画面にはサーバーから呼び出された地図データが現れ、次にモニタリングポストから得られる気圧、風速、風向と一つずつデータ表示が重なった。
ひまわりからの画像は、“Loading”という表示が点滅している。
「どうしたんだ? ひまわりの画像が、まだ表示されないぞ」
「ここのアンテナは口径が小さいから感度が低いんだ。
データ補償をしながら受信するので時間が掛かる。もう少し待ってくれ」
3分ほど経ったところで、画像が表示された。
「下村、画面がぼやけているぞ。どういう事だ?」
萩生田の目の前にあるひまわりの画像は、ピントの外れた写真のように輪郭が曖昧で、とてもホンファの姿を特定できるものではない。
「おかしいな」
下村もすぐに異常に気付き、「確認する」と言いながら、手元のキーボードを叩いた。
下村はこれまでの人生の半分以上を、ひまわりと一緒に過ごしてきた人間だ。
システムの隅々まで知り尽くし、目を瞑っていても、どこに何の操作キーがあるかが分かっている。
操作ミスなどは絶対に有り得ない。
下村は画面に表示されている、一見無意味にも思える数字の変化を目で追った。
「光学レンズのフォーカスがロックされている。オートもマニュアルも全く反応しない」
下村が叫んだ。
「IMLのサーバーだけではなく、ひまわり本体にまで手を付けていたのか」
萩生田は唸った。
「随分と用心深くやったものだな」
「赤外線センサーの方はどうだ? そちらにもホンファの形状と目は映るはずだが」
「駄目だ、そっちも低い解像度にロックされてしまっている」
「ひまわりのマスター電源を一旦切って、再起動してみてくれ!」
「もう試した。電源関係の制御もロックされている」
もう打つ手がないのか?
萩生田と下村は言葉を失い、茫然とその場に立ちつくした。
※
沈黙を破るように、アイリーンのスマートフォンの呼び出し音が鳴った。
NSAからの着信だ。
「はい、アイリーンです」
「大統領からICBM発射の承認が下りた。ミスター萩生田に代わってくれ」
マイヤーズの声だった。
アイリーンは自分のスマートフォンを萩生田に手渡した。
「ミスター萩生田、大統領が決断されました。ロシア、中国の承認も既に得ています。核爆発の影響がある日本、韓国にも通達済みです」
「発射時間は?」
「この電話を切ったら、すぐに大統領が発射命令を出します。
その後10分で準備は全て整いますから、発射予定時刻は今から約10分後という事になります。着弾地点を指示してください」
萩生田は腕時計に目を落とした。
「実は今、相手の妨害工作によって、気象衛星からの画像が途絶えています。発射準備完了の状態のまま待機をお願いします。
タイムリミットまではあと50分ある。その時間以内に必ず着弾地点を指示します」
「ぎりぎりですね」
「何とかするしかありません」
マイヤーズからの電話が切れた。
※
「下村、あと50分以内に着弾地点を算出しなければならない」
萩生田が言った。
「どうやってやるんだ? ひまわりは使えないぞ」
下村が叫ぶように答えた。
「何か他に方法があるはずです」
アイリーンが下村に声を掛けた。
「もう出来る事は全てやりつくした。”ひまわりの代わりは、ひまわり”、その奥の手さえ封じられてしまった」
下村は絶望したように、首を横に振った。
「待てよ」
萩生田の脳裏に何かが閃いた。
「下村、もう一つだけやり残していたことが有ったぞ」
「何だと!」
「ひまわりの代わりは、ひまわりという事だ。今使えないのはひまわり14号だ。13号を試してみよう」
「13号は退役してもう8年にもなる。
システムが完全に死んだ訳では無いが、あれは電源系統に致命的な問題があって運用を停止したんだ。
動く保証は無いぞ」
「とにかく、起動信号を送ってみてくれ。もう我々にはそれしか望みが無い」
※
ひまわり13号は、気象庁が2035年に打ち上げたものだった。
日本だけに止まらず、アジアや環太平洋の多くの国々に気象情報を提供する役割を負っていたが、運用から4年後に原因不明のトラブルに見舞われた。
太陽電池とバッテリーに重大な障害が生じたのだ。
元のスペックへの復旧は絶望的。
そしてひまわり13号は、14号、15号の打ち上げと同時に、退役が決まった。
退役直前のひまわり13号は満身創痍。
発電効率が50%以下に低下していた上に、常に過放電の状態であったため、バッテリーに設定された放電深度を下回り、観測機能が停止してしまう事もしばしばだった。
障害の程度が酷かったため、その後バックアップ衛星として活用されることも無かった。
人工衛星は宇宙空間で常に強い宇宙線の放射を受け続け、また大気に守られていないために、急激な温度変化にさらされる。
太陽を向いた側は灼熱で、影の側は極寒という厳しい環境だ。
当然ながら、地球上よりも早く劣化が進む。
退役から8年が過ぎ、ずっと放置されたままのひまわり13号は、当時よりも一層、コンディションが劣化していると考えて良いだろう。
わずかに救いなのは、放熱装置やヒーターが、衛星の制御部とは別系統で動いている事だ。
メインの電源を切っているときも、これらが自律的に動き続けるので、衛星に搭載されている機器の環境は最低限担保されている。
真空中にあるために、酸化による電子回路の腐食は起きていないはずだ。
※※※
下村が起動キーを回して、ひまわり13号に電源を投入すると、地球から遥か36000km離れた上空では、メイン基板にハンダ付けされた1個の赤いLEDが点灯した。
衛星の製造時に、動作検証をするために付けられたものだ。
もう誰もそれを見る事の無い小さな灯りは、真っ暗な密閉ケースの中に小さく浮かんだ。
続けてサブ基盤に付いている16×16個の緑色のLEDが、不規則に明滅を始め、急に辺りを明るく照らし出した。
しばらくすると、通電によって電磁式のリレー装置が動きはじめた。
ひまわりでは宇宙線の放射線による誤動作を避けるために、半導体のソリッドステートリレーは使われていない。
宇宙空間なので音は伝わらないが、地球上であったならば、電磁接触型特有のカチカチという小気味よい音が、響いていたはずだ。
もしも誰かが、ひまわり13号の中を覗く事ができたならば、小さな電子部品達が、まるで久しぶりの目覚めを、楽しんでいるかのように見えたことだろう。
システムが一通りの動作確認の儀式を終えると、ケース内は元の赤い小さな光と、時折散発的に光る緑色の光だけになった。
※※※
「動いたぞ」
下村が声を上げた。
「どんな状態だ?」
「8年寝ている間に、バッテリーは満タンになっている。ただし、元々の蓄電性能が保てていない状態なので、いつまで持つか分からない」
「動かせるか?」
「これからやってみる。まずはレンズが180度違う方向を向いているので、姿勢制御を掛ける」
下村がプラズマエンジンに点火すると、ひまわり13号はゆっくりと回転を始めた。
「あと3分で回転停止だ。しかしバッテリーの劣化がひどい。先程一度エンジンを噴射しただけで、電力残量が半分近くまで減った」
「撮影はできるのか?」
「カメラが壊れていなければな。
しかし、ひまわりの回転を止めるためにもう一度エンジンを噴射し、それから姿勢を整える必要がある」
「何か問題があるのか?」
「残りの電力では、カメラのシャッターは切れたとしても、データの送信は厳しいかもしれない」
「それじゃ話にならんだろう。なんとかしろ」
下村はメモ用紙の上で、電力消費の計算を走り書きした。
「姿勢を微調整するのをやめよう。ひまわりには静止信号を投げるだけにする。撮影は一発勝負だ」
下村は意を決してそう告げた。
「無茶だ。地球から36000㎞も離れているんだぞ。慣性で方向が数度ずれるだけで、ホンファがカメラの視界に入らなくなる」
「それ以外にバッテリーを節約する手段はない。ひまわりの技術力は日本の製造業の頂点だ。信じるしかない」
下村が静止信号を送ると、ひまわりは再度プラズマエンジンを点火して、回転速度を減速しはじめた。
仰角を表すデジタル表示は、整数桁はゼロになり、小数点以下の数字が、上の桁から順にカウントダウンしていく。
やがて数字は、小数点2位以下の数字を残して静止した。
「萩生田、今だ、お前がシャッターを切れ!」
下村が叫んだ。
※
萩生田のボタン操作と同時に、衛星軌道のひまわり13号はカメラのシャッターを切った。
CCDに焼き付けられた画像は、衛星側では何も処理を加えることなく、生データとして送信される。
データのダウンロードが進むにつれ、下村が見つめているモニター画面では、ひまわりの電力が急速に低下していくのが見て取れた。
「何とかあと少しだけ踏ん張ってくれ」
下村がそう口に出した瞬間だった。
ひまわりの電源は急に喪失し、90%弱のデータを読み込んだところで信号は途絶えた。
画面内には“Data Error”という表示が赤く点滅している。
「何ということだ、ここまで来ていながら」
萩生田は天を仰いだ。
「私に触らせてください」
口を開いたのは、アイリーンだった。
「ひまわり13号は、14号と同じMTSAT―5のフォーマットに準拠していたはずです。
だとすると、受信後のデータ処理と伝送効率を考慮して、北極から南方向に10個のセグメントに分割されているはず」
「それが何を意味するんだ?」
「データのヘッダー部に手を加えて、読み込めていない可能性のある9個目と10個目のセグメントを無視させれば、データの表示は可能になると思います。
ホンファは北半球にいるので、南半球のデータ欠損は問題ありません」
「君に出来るのか?」
「お話ししたはずです。私は大学で情報工学を専攻していました。
むしろ秘書よりもこんな仕事の方が性に合っています」
アイリーンは端末の一つに向き合い、キャッシュに一時保存されているひまわりのデータを、そのままバイナリエディタで開いた。
データ量は膨大だが、触る場所はただ一カ所だ。データの前半部に一通り目を通すと、すぐにその場所は見つかった。
アイリーンは16進数で10を表す“A”を“8”に書き換えてファイルを閉じた。
「これで試してみて下さい」
アイリーンの言葉に、萩生田がデータのリロード処理を行うと、画面にはホンファの画像が表示された。
南氷洋から下が欠損しているが問題は無い。
「アイリーン、これで大丈夫だ。アニルにこのデータを送ってくれ」
「わかりました」
萩生田が腕時計を確認すると、もうマイヤーズに約束した50分が迫っていた。
※※※
吉松は急な斜面を、下草の上を転がり落ちて行った。
途中で木の切り株にしたたかに右膝を打ちつけてしまい、そのままでは、走るのはもちろんのこと、歩く事さえもままならない。
木立の隙間を縫って、マグライトの光が見えた。
あの男女が自分を探しているのだ。
幸いにも向こうは暗視スコープを身に着けていない。
もしもそれがあれば、赤外線を発する人間の姿など、瞬時に発見されてしまうだろう。
吉松は音がしないように、右足を下から順に動かしてみた。
足首は大丈夫だ。
しかし、膝を曲げようとほんの少し力を加えただけで、膝から腿にかけて恐ろしいほどの激痛が吉松を襲った。
骨折しているかもしれないし、もしそうでなくとも酷い捻挫であるのは間違いない。
――ついてない――
吉松は思った。
しかし幸い吉松が投げ出された場所は、腰の丈ほどの高さの下生えの中。
向こうからは体が見えないはずだ。
気配を殺して、ここに腹ばいになり、運よくやつらが自分を見過ごすことに期待するしかない。
――せめて拳銃の携行命令がでていたら、一矢報いてやれたんだが――
頭の片隅でそんなことを考えながら、吉松は薄い可能性に全てを賭けることに決めた。
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