第3話 改革
研究所の一日は所長室に各課長が集まって朝礼をすることで始まった。
清次郎が所長と赴任する前までは所長は空席だったので朝礼は代理の総務課長の任意で省略されていたが、空席が埋まったいま、研究所は元の日程通りに一日を始めることになった。
「では本日の朝礼を始めます。まずは総務課から――」
朝礼は各課長からの報告を聞いてそれから所長の言葉を聞くという基本的な流れになっていた。
課長達からの報告は初の朝礼だからか、特に問題のない無難な内容だけだった。
「――とまあ、三研からは以上じゃよ」
事務部から始めて、最後に三研課長の堀之内が報告を終わらせると、所長室はそのまましばらく静寂が流れた。
「いかがなさいましたかな?」
所長からの言葉を待っていた総務課長が沈黙を維持する清次郎に何か問題でもあるのかと聞くと、清次郎はやっと顔を上げて課長達に反応した。
「あ、はい。報告ありがとうございます。えっと……実はですね、昨日の視察で思ったんですが」
昨日の研究部の視察の途中、一研課長の一之瀬がいきなり案内役を放り出したしまい、ひとり研究棟に残された清次郎はなんとか本田と再会して本館へと戻ることが出来た。
そのおかげで研究部の全部を見て回ることは出来なかったが、清次郎は十二分に研究所の実態を把握できたと思ったので、そのまま所長室に戻ったのである。
そして彼は総務課を経由して事務部と研究部両方の大量の資料を要求し、一日中それを読みながら考え事に耽けて、今日に至る。
「この研究所は、ちょっと改善が必要なのかと、思うんですが」
やや慎重な言い方で、新しい所長となった清次郎は改革を語った。
彼にとってはこの研究所のすべて、直接見て感じた現状と、今まで積み重ねてきた資料をから確認できた事実というものが、迫ってくる長官の訪問に対しての不安要素でしか思えなかった。
長官が望んでいる姿がどんなものであれ、今の姿ではないことだけは確信が持てたので、清次郎は門外漢の立場でも果敢に変革を口にしたのである。
だがその言葉に課長たちはざわめく。
「改善、とは?」
総務課長がいつものノリも忘れて清次郎に言葉の意味を尋ねる。
外部から来たリーダーが着任して早々変化を言い出すというのは、既存の部下たちには決して好ましいものではなかった。組織の歴史が長ければ長いほど、慣性が強いものであるため。
「まだはっきりとした案はないんですが、それは皆さんとこれから話し合って――」
「それは研究部だけ、でよろしいので?」
総務課長は清次郎の言葉が終わる前にその内容を断定しようとした。
変革に驚いたのは同じであってもそれが研究部に限られた話なら問題ないというスタンスということだろうが、もちろん清次郎の考えは総務課長とは違っていた。
「いや、研究部だけの話ではなく、全体的に見直すべきかと」
「何を仰るんです!事務部はこの研究所の生産性を生み出しているんですぞ!無能な研究部とは違い、こっちにはなんの問題もないと、所長もご了承頂けてはありませんか!」
期待を裏切る返事に総務課長は顔色を変えて反発する。
反発と言っても個人的な研究部への反感を乗せただけのもので、無視して進めることも出来そうなものだが、清次郎はなるべく穏やかな態度で理由を上げた。
「そのチーズの販売事業もあまりよろしくないと思ってますが」
「なんと?!それはどういうことですか所長!我が研究所の唯一な収入源であり、生産性の指標となっているチーズ事業にいったいなんの問題が!」
「いや、だってここ極秘施設ですし、なるべくそういうことは……」
清次郎からすれば総務課長が誇るそのチーズのブランド化と販売行為は他の数多い問題点と同じように思われるものであった。
だが総務課長はその指摘にめげず、力んで事務部とその誇り高き事業を擁護した。
「そのような心配などまったくいらないと今のこの現状が証明しているではありませんか!あまり慎重になって見逃してしまう事もありますぞ!」
「は、はい。まあ、意見はわかりましたから一旦落ちていてください」
いつものようないやらしい笑顔を忘れて手を振るいながら力強く主張するその勢いに呑まれた清次郎はそれ以上強く出ること無く、とりあえず彼を落ち着かせることを優先した。
「こほん、失礼致しました。わたくし、事務部を思うあまりに不相応にも熱弁してしまいましたよ、はい。どうかお気になさらず。ははは」
総務課長自身も少し興奮していたことを自覚したのか、声を荒げたことなどなかったように笑顔に戻って、大人しく下がった。
それを見た清次郎はほっとした気分で話を続ける。
「他に改善が必要だと思ったのは人員の問題ですね。警備課と情報課も問題があるようですし、広報課のことも考えて、部署の調整を考えてみるのも――」
「統廃合ですと?!」
またしても清次郎言葉を切って大声を出したのは総務課長だった。
あまり刺激しないようにと気を使った清次郎の配慮も意味を為さず、総務課長が藪をつついて不安を煽った。
「いや、統廃合とまでは――……あるかも知れませんけど」
「そんなことになったら業務に甚大な影響を与えますぞ!」
「だからそういうことも考慮してこれからのことを考えて行こうとのことで、何も今すぐどうこうって話ではないんですが……」
「こほん、わたくしはただ研究所の万が一を考えてですね、はい。ははは」
同じやり取りの繰り返す二人。
このやり取りだけを見るならただ総務課長と清次郎の葛藤に見えるが、後ろにいる課長達が総務課長と同じ意見を持っていることは清次郎にもわかっていた。
最初からある程度の反発があるということは予想していたが、それでも改善せざるを得ない現状に自覚がこれほど
「あと気になったのは、部署間の疎通というか、手続きで渋滞があるようですが、そこも見直す必要があるのではないかと――」
「いまこの研究所のあるゆる業務形式は数十年を経たて最適化されているもので、それを無闇にいじると余計な混乱が起こる可能性が高いですぞ!」
「……」
ことごとく声を上げる総務課長に嫌気が差す清次郎だったが、彼も根拠の無い話をしているわけではないので即座に意見を却下することも出来なかった。また、彼らの反発をある程度抑えないと研究所の改革を進めることは難しいということもよくわかっていた清次郎は、ここで断固とした態度で彼を下がらせるよりは、まだ触れていない研究部への話を済ませるために事務部のことはスキップすることにした。
「あー、研究部の方は、そのなんというか、まだ全部の資料を呼んだわけじゃないですが、あまり成果を望めない個体をいくつが見つけたんですが、これらが成果を出せる見込みはあるんですか?」
「ないです」
研究部への質問は一研課長である一之瀬が答えた。
シンプルで短いその答えは昨日に清次郎が経験した彼女そのもので、清次郎は彼女の性格が一日で変わらなかったことをすごく残念に思った。
「それでは少し選別して、見込みが無い個体は解放したほうが……」
「しかしだな、そうなると研究部の予算がかなり混乱してしまうんじゃが」
今度は三研課長が答える。
この中で一番の年長者である彼は、整理されていない白髪でも隠し切れない貫禄を感じさせ、突き刺さるような鋭い視線で清次郎を見つめていた。
「予算は……皆さんが納得出来る方向で調整するほかないでしょう」
「は!ワシの膀胱はまだ元気じゃ!」
「……」
三研課長とはまだそれほど会話を交わしていない清次郎は、三研課長の貫禄を尊重して真摯な態度で彼の疑問に答えたが、今の彼では到底理解できない返事を返されてしばらくの間固まったが、正確には停止したという方が適合な表現だった。
「何じゃ?またなんか脱走したのか?」
三研課長が困らせたのは清次郎だけではなく、他の課長達も反応に困って沈黙していると、老人は気まずい空気の理由がまったく見当がつかないときょろきょろと辺りを見回して原因を探そうとした。
「あの……」
「あ、たまにです。仕事には支障はないのでご心配なく」
清次郎がようやく彼の言動について説明を求めると、研究部を目の敵にしていた総務課長が庇うように弁明して清次郎を安心させようとした。
その言葉に納得はできなかったが、あまり老人を責めたくなかった清次郎が釈然としない顔で頷くと、情報課長の小宮が声を上げた。
「所長、選別の件について情報課から言わせてもらうと、個体の解放はそれだけこの研究所を露出させることになるので控えた方がいいと思いますが」
「ううむ……それは――はい、それも考慮するべきですね」
情報課長が持ち出した話は清次郎の改革案の隙を指摘するものだった。
清次郎は一瞬戸惑うも、情報課長の誠実な態度を嬉しく思い、彼の指摘を受け入れた。が、
「選別するなら除外される個体を処分するのが問題が残らないのでおすすめです」
「いやいや!処分はないから!なに物騒なこと言ってるんだ!」
思ってもいなかった物々しい解決策を出す彼に清次郎は仰天した。
だが驚いたのは清次郎だけで、他の人はそんな清次郎の言動がよくわからないという怪訝な視線を送るだけだった。
その視線に気付いた清次郎は、この認識の差に少し肌寒いものを感じながら課長達に向けて話した。
「そのですね、F個体の待遇に関して皆さんと私の間に温度差があるようですが、もう少し人道的な方向で……」
「人道的って、人間でもないものに何を仰るんです」
総務課長は清次郎の理屈がわからないと、呆れたように聞き返した。
「いや、数は少なくとも一般市民だったひともあるんでしょう?!それとたとえ動物だとしてもあまりひどいことは――」
「動物を持ち出したら世界中の生体研究の殆どがダメになりますが。それともあれですか、ネズミは可哀想でもないけど他の動物は可哀想という?」
今度は一研課長の一之瀬が清次郎をバカにするように嫌味を言った。
「……だったら人だけでもいいからもっと大事にしてください。この研究所って研究だけではなく管理の役目もあるんでしょう?」
四方からの飛んでくる課長達の耐え難い攻勢をなんとか耐えてみせる清次郎。
気の小さい彼を知っている者が見るとかなり無理していると思うだろう。
清次郎自身は長年の公務員生活から付けた耐性が少しは役立っているのかも知れないと思っているところだった。
「それは個体達の便宜を図るということですかな?となると金が掛かることになりますが」
「その分の予算は私が言ってみますから」
「それならわたくしから言う事はないですね。研究部の方はどうです?」
清次郎が予算に関する責任を持つと言い出すと、総務課長はあっさりと身を引いて研究部の連中へと矛先をそらした。
「物って人権があったんじゃけな?」
特に異議はないとの意を伝える三研課長。
その以前に気が確かであるか気になる清次郎だったが、異議を唱えなかっただけでもありがたいものだったため、その件には触れないことにした。
「わ、わたしは、い、いつも大切にしてます……」
二研課長は自分の答えを待っていると気付いてますますうろたえながら答えた。
清次郎はいつも挙動不審に見える彼女の方がむしろ一般人に近い感性を持っているのではないかと、自分の性急な評価を見直した。
「所長の命令は聞きますよ。チッ」
最後に意見を出した一研課長も異論はなしと清次郎に伝える。
清次郎は彼女の舌打ちがとても気になったが、それでも反対してくれなかったことに感謝して次の話に進むことにした。
「はい、ではとりあえずこの件はここまでにして次の話にいきましょう。これはさっき言った話の続きですが、研究部も人員と部署の――」
それから数十分に渡って、清次郎は自分が思っていた問題点とそれに関する改善案を言い出したが、どれも課長達の呼応を得ることは出来なかった。
清次郎が問題を指摘してそれを改善するべきと言うと、課長達の誰かがあれこれと難癖を付けてぐだぐだと何度も同じことの繰り返すだけ。
最後には誰も口を開かず静寂だけが場を支配していた。
相当疲れた顔の清次郎。
彼は何度も胃薬を飲もうと思ったが、あえて薬を口にせずに焼けるような胃の痛みに耐えていた。
課長達の顔にもうんざりした気配が滲み出てくる頃、思い切った顔をした清次郎が一言だけ残して、その日の朝礼を終わらせた。
「……実は上部に頼んで信頼できる外部専門家から助言を貰ってみようと思ってまして、すでに連絡はしているので明日にでもここに来れそうです。明日また、話しましょう」
・
・
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朝礼を終わらせた課長達が所長室から出てすぐ、総務課長が歩みを止めて他の課長達を呼び止めた。
「少し、わたくし達で話す必要がありますね。小会議室で集まりたいと思いますが、一研課長?」
総務課長が言葉を省いて意見を聞くのは一之瀬が研究部を代表しているため。
しかし総務課長が研究部を目の敵にしているのと同じく、一之瀬もまた総務課長という人物が好きではないようで、彼が声を掛けた時には思いっきり嫌な顔をして見せたが、総務課長の提案には彼女もまた思うところはあるようで「いいよ」という短い答えで提案を受け入れた。
そうやって、新しい所長の初の朝礼を終えた課長達は、自分たちの話が所長に耳に届くことのない場所へと赴いた。
課長一行が入った小会議室は、小とは言っても数十人が入れる部屋なので8人の課長が入ってもまだ広い空間を余らせていた。
この部屋は会議室という名前をしているものの、所長室から離れているために課長級との話がある時は所長室内で済ませるし、大人数は大会議室を使っているので今までにその名に相応しい業務が行われたことがない。
その故に小会議室の中には安楽そうな二つのソファがテーブルを挟んで中央に並んでいて、まるで休憩室のような雰囲気を漂わせていた。
正確に言うと、普通の職員達ではない課長達の休憩室であった。
そして小会議室の中には休憩室らしくコーヒーポットなども用意されていて、課長達はじゃんけんでコーヒーを淹れる人を決めてから席に座った。
「少々困りましたな。長官の縁者と言うからどんな方かと思えば、まさかあんなことを言い出すとは。政権が変わって人選も変わるのは心得ていたつもりですが、あまりにもひどい。これは対応せざるを得ない由々しき事態です」
総務課長が左側のソファに座ると自然と会計、広報課長も左側に座り、研究部の課長達は反対側に座る態勢となった。情報課長と警備課長はソファには座らず、村井は腕を組んで課長らを眺め、小宮は左側のソファの横に立って話を聞いた。
「大体まだよくわかりもしないのに初日から改善を云々すること自体、所長としてあるまじき発言です。いったいこの2日で何を把握したというのか」
「だからこそ外部の専門家を呼ぶことにしたのでは?」
総務課長のとなりに座っている会計課長、
ただ、彼は無意識的に自分の少し広い額を撫でる癖があり、その点が人間性を浮き彫りにするのか、現在の部下たちは竹内に好感を持っていた。
「それです!わたくしには一言の相談もなくいきなり外部からの人材を招き入れるとは、非常識にも程がある!ここが保安が第一にしている施設であることをお分かりになってないとしか思えない!いや、所長自らも広報課に言いがかりをつける時に保安を持ち出したはずなのに、なんて身勝手な!」
総務課長は竹内が所長の最後の言葉を換気させると、そのことを待っていたかのように興奮して散々なことを口走った。
「事実上、監査になりますね」
「……」
核心をつく会計課長の言葉にその場にいる全員が口を噤んで深刻な顔になった。
この研究所、親環境厚生研究所という機関は極秘施設というその質から、監査という行為が行われたことがなかった。すべては内部で決めて、内部で終わる。
もちろん研究所が本当に誰にもタッチされずに好き勝手やって来たわけではなく、研究所に関わった様々な人物によって時折牽制されて来たのだが、今この場にいる課長達の中ではそういった経験を持つのは一番長い勤務経歴を持つ三研課長の堀之内だけだった。
「外部専門家ね……」
一之瀬が所長の言葉を思い出して呟く。
実務を担当している立場からして、外部から来た専門家ということに敏感に反応しているようにも見えた。
「この件は研究部でも軽視できないはず」
一之瀬が話に参加して来たことに、総務課長はそれとなく同意を求めた。
普段はいがみ合っているこそ、ここは同じ感情を共有してスムースに話を進めようとする魂胆だったが、一之瀬は無頓着な態度を見せる。
「いや、こっちは特に。所長がやるってんならどうしようもないし」
「このままでいいと?」
「組織ってものがそう簡単に変わるわけでもないし、新しい所長が来たからにはこんなこともあるんじゃない?」
「ならばなぜここに来たんだ」
自分が望んでいた会話をしてくれない一之瀬に、総務課長はだんだん表情が固くなっていく。
しかし依然として一之瀬は誰かの機嫌を伺うことなく、自由気ままに言いたいことを口走る。
「仕事前にコーヒーを飲みに来ただけ。……するっ、ちょっと苦いな」
一之瀬はその言葉を証明でもしようという風に、湯気が立つコーヒーを少し口にしては顔をしかめた。
そして何気なく、総務課長に向けて意味ありげな言葉を掛けた。
「まあ、そっちは困ってるように見えるね」
「……何が言いたいのかね」
自分を試すような言い方に些か不快感を示す総務課長。彼女の意図を図ろうと視線を巡らすが、一之瀬はお構いなしに話を続ける。
「わたしから出来る話はないんじゃない?会計課長、砂糖取ってくれる?」
「ちょっと待て。何を知っている」
総務課長は少し焦りながら一之瀬の言葉を止める。
明らかに彼女の言葉の何かが総務課長の弱点を突いたように見えたが、それが何であるかは他の誰もわからなかった。
他の課長達は、そもそも二人が一体なにを話しているのかわかるはずもなく、ただ二人の会話を黙って聞いているしかなかった。
「何かあるの?」
「いや」
「そう」
「……」
雲をつかむようなやり取りの後、奇妙な沈黙が流れる。
総務課長は一之瀬を睨んだが、彼女は自分のコーヒーを気楽に飲んでるだけ。
やがて総務課長が、決心がついたように口を開く。
「昼前に話を済ましたいものだ」
「話には付き合うよ」
二人にしかわからない結論を出してこの会合の前哨戦が終わる。
当然のように他の課長達は疑問を示したが、一之瀬と総務課長どちらも回りに対する説明をする気はないらしく、総務課長が強引に話を本題に戻させた。
「……それで、明日のことですが、わたくしは一度この研究所がどのようなところであるかを示す必要があると思ってます。この研究所が外部の輩が気軽く判断できるところではないということを知らせて、なお所長が誰を頼るべきかをわかって貰わないと」
総務課長の主張に他の課長達は無言で肯定する。
研究部からも特に異見を出して来てないが、ただひとり、情報課長の小宮は総務課長の話に口を挟んで来た。
「示すって、どうやってですか?」
「それはもちろんわが研究所を研究所たらしめるモノを使ってだよ」
「ちょっと待てください、まさかF個体を使うと言ってるんですか!?」
小宮はそのような事態までは想定していなかったようで、総務課長の提案の危険性を指摘する。
「危険過ぎます!今までF個体の暴走で散々な結果になった数々の事故を忘れたんですか?!」
「小宮くん、だからこそ我々が専門家なんだよ。数十年に渡って蓄積された経験と知識を持ってすれば、何も問題はない。君もまた同じではないか。さて皆さん、何かいい考えはありますかね?」
総務課長は自信に満ちた言葉で小宮の懸念を払拭させて、本題に戻り他の課長達に自分の案を実行するアイデア求めた。
「就任式で暴れた“魔王”を使ってみるのは?」
会計課長の竹内がつい先日起きた事故を持ち出す。
その時の大騒ぎの衝撃はここにいる大半に深く刻まれているので、なかなか有用なアイデアだと思われたが、総務課長の気に召すアイデアではなかったようで、彼は少々考えるふりをして疑問の声を出した。
「こちらの思惑通りに制御するのは少し困難ではないのかね」
「あ、あの、いま残っているハエちゃんは、発現していない子たちだけです……」
人外の生物を担当する第二研究科の課長、白石小森が総務課長の懸念が無意味であると現状を伝えた。
特異点以外の生物的特徴は普通のハエと変わらない管理番号089の場合、個体の子孫の中で極稀に同じ特異点が現れる事を確認して以来は繁殖させることで個体を維持しさせて来た。
しかしここ数ヶ月の間に特異点が発現したのは先日の騒動を起こしたその2匹だけで、その個体らはその場で処分されたのである。
朝礼で報告すべき事実であるが、言葉が足りない彼女は報告書だけで朝礼を済ませているので他の課長達に伝わっていなかったのである。
「……“忍者”はどうです?彼なら友好的だし協調を求めても応えてくれるはずです」
意外にもアイデアを出してきたのは情報課長の小宮だった。
先ほどの反発を考えると積極的に参加するその姿が怪訝そうに見えるはず。しかしこれは総務課長の説得が功を奏したわけではなく、彼の正確に起因するものだった。 小宮は至って真面目な正確なので、どんな形であってもこの会合に参加している自覚している以上は求められた期待には応えようとする人物である。
しかし彼の誠実さとは別に、総務課長は今回のアイデアも不満そうに呟いた。
「ふむ……インパクトがちょっと……。ただのイタズラになりかねる」
物足りなさを感じて総務課長が唸る。
そんな姿を他人事のように見ていた一之瀬だったが、忍者という個体が彼女の管轄であることから、それとなく話に加わった。
「まあ、あれも特異点にしてはちょっと物足りない感じだから。というか、インパクトを求めるなら、“ラッパ”でも吹いてみる?」
彼女の提案に総務課長はいまいちピンと来ない顔で考え込む。
課長ともなれば研究所が管理する大半のF個体についての知識と経験をある程度持っているが、やはり事務部と研究部では把握している情報の量が違うため、彼女が言い出した個体については名前くらいしか思い出させるものがなかったためだ。
そんな総務課長を見ている一之瀬は、微かにニヤついて、邪悪な感じさえした。
「……危険ではないのかね?」
「安全ではないな」
「制御はできるのか?」
「できない」
「そんなものはダメに決まってるじゃないか!」
総務課長はふざけてるようにしか思えない彼女の答えに、当然のように却下を下す。
「あ、そう」
しかし一之瀬はそれなりに本気のアイデアだったようで、問答無用で却下されたことに舌を打ち、つまんなさそうな顔でコーヒーを啜る。
それからというものの、なかなか会議が進展を見せずにみんなが無口で悩み始める頃、最初にアイデアを出したまた手を挙げた。
「ちょっと聞いてください。結構よさそうなものが思い浮かびました」
竹内は発言権を得て、新しいアイデアを語り出す。
「確か去年の今頃だったはずです。運動会がありましたよね?そこで三研課長が場を盛り上げるとか言って持って来たもの、覚えてますか?」
皆が共有している記憶を呼び覚まそうとする竹内。
それにどうやら彼が提案したいアイデアはその記憶の中にあるらしく、第一にそれを思い出した総務課長が何かを悟ったように声を上げた。
「“ボードゲーム”!」
弱一年前、職員達のモチベーションの向上、コミュニケーションの活性化などを目的とした運動会を前任所長が開いた。
一時期は廃止されていた行事だったため職員達はいやでも浮ついていて、その中でも三研課長の堀之内は異常なノリで騒いていた。
彼は運動会の種目を決める会議でなぜかボードゲームを強く押し、老人の強い要望を蔑ろにすることができなかった他の課長達はそのまま種目を決めた。
そして問題の当日、老人が自信満々と持って来たのは三研で管理していたF個体の一品だった。
その個体は現在の課長達が研究所に来る前からいる個体のひとつで、あまり研究されていなかったので存在感が薄く、たったひとりを除いてその正体に気付いたものがいなかったため、そのまま運動会は開かれ、そして凄まじい惨状で幕を下ろした事実があった。
その時のことを思い出した総務課長はなるほどと頷く。
「確かにそれならインパクトもあるし、制御も完璧に出来るはず!さすがは会計課長!いい考えです!」
事件の後、当然のように注目を浴びたF個体は最優先としてその特異点に対する対策が研究され、制御自体は難しいものではないと明かされていた。
「それではその方向で方針を決めると?」
総務課長が肯定的な反応を見せたことに、竹内は自分のアイデアを採用するのかという確認を取る。
すると総務課長は満面の笑みで首肯し、ふたりの中年はお互いを見てしばらく気持ちよく笑うのであった。
「俺としてはあんまり大事にはして欲しくないんですけどね……それで、そのボードゲームで何をどうするつもりですか?いつも苦労するのは警備課なんで、無茶は勘弁してくださいよ」
会議を聞いているだけで消極的ではあるけどこの会合に同意しているということだが、他の課長達とは違いあまり関心を示さなかった警備課長の村井。
だが話が具体化し始めると自分の警備課にも影響を及ぼすことを知っていた彼はその懸念を総務課長に伝える。
「まあまあ、そんなに心配することないでしょう。実は会計課長の話を聞いていい考え思い浮かんだものでね」
総務課長は得意気な顔になって、所長と外部人物にこの研究所を“知らしめる”具体的な考えを語り始めた。
そして十数分後、それぞれが納得いくところまで計画が調整され、こんなにも早く結論が出たことに総務課長とその一味が満足気にお互いを褒め合っていると、コーヒー持ったまま眠ったのではないかと思っていた三研課長が口を開いた。
「いまさらなんじゃが、ちょっとやり過ぎではなかろうかのう」
老人の心配に、総務課長は穏やかな口調で答える。
「これは所長のためでもありますよ。早くこっちに慣れてもらわないと」
・
・
・
「所長、お茶です」
朝礼が終わって一時間くらい経った頃、総務課のアリサがお茶を持って所長室を訪ねた。
「ああ、ありがとう。……そのお茶はありがたいんだが、なんで君が?」
考え事に耽けていた清次郎は彼女がお茶を渡すと反射的に感謝して受け取ったが、彼女にお茶を淹れて欲しいと言った覚えはなかったのでアリサがお茶を持って来たことを少し不思議に思いながら聞いた。
「総務課が所長室から一番近いので、いつもアタシがお茶を淹れています。何かご不満でも?」
「いや、不満というわけでは……」
しきたりのようなものだとアリサが説明すると納得する清次郎だったが、昨今の組織社会ではこのようなことがセクハラになりかねないことを知っているので素直に喜べないのが彼の性だった。
しかし特にそれを口にする勇気もなく、お茶を啜る音だけが所長室に響く。
「何か悩みでも?」
清次郎の様子があまり良さそうではないことを見て、自然にその訳を聞くアリサ。
それがお茶やセクハラなどのことではなく、彼女が部屋に入って来る前から抱えていた悩みに対する質問だと気付いた清次郎は、余計な心配を掛けたと反省しながら何もないとごまかす。
「いや、うん、なんでもないよ。ちょっと疲れてね……」
しかしそれが本当になんでもないということではないことを、この有能な女性にはすぐにわかったのだが、所長がいいたくないものを無理に聞き出すのは無粋と思ってそのまま所長室を立ち去ろうとした。
けれどドアを前に一度だけ振り返った彼女は、未だ悩ましい顔をしている清次郎に励ましの言葉を伝える。
「所長、何かお困りならいつでも言ってください。所長を補佐するのがアタシ達の仕事ですから」
そんなアリサの言葉を聞いた清次郎は、初日の初めて彼女を見た時と同じような顔でアリサを凝視する。
何気ない一言ではあるが、彼には何よりも必要な一言だったのだ。
「……アリサ君、ちょっと聞きたいことがあるのだが」
春日の雪みたいに溶けていく心に感動を覚えながら、清次郎は彼女を呼び止めた。 それから所長は上司の威厳など脱ぎ捨てて彼女に自分の中の物を打ち明ける。
「実はだな……」
清次郎は先ほどの朝礼で起きたことを一から語り始めた。
自分が上層部からどんな圧迫を受けていて、この研究所を見て何を思って、課長達はどんなものであったか。
そして最後に課長達に自分がどんなことを言っていたのかも。
外部の専門家を招き入れて、この研究所を根本から改革する。
実はそう言ってはいたものの、それは清次郎が課長達の切りがない反発と少し目に余る態度に一矢報いるために即興的な言葉であって、外部の専門家はおろか、長官にさえまだ何も言っていなかった。
それなのについカッとなって訪問が明日だと時間まで指定してしまったのを清次郎はすごく後悔していた。
普通に考えて、時間を伸ばすとか事実を告げると終わる問題だが、清次郎は明日になった自分の言葉が実現されなかった場合、それ以降はこの研究所に関して所長として出来ることが何もなくなりそうな予感がしていた。
「……」
話を聞き終わったアリサは、少しの間考えるふりを見せる。
悩みを打ち明けて気が楽になった清次郎。
しかしそれも長くは持たず、すぐtにはっとなって自分が一体何をしてしまったのか気づいて驚いた。
いくら彼女に救われたような気持ちになったとは言えど、彼女もまた総務課所属の職員。あの総務課長の部下である。
そんな彼女に先日ここに来たばかりの自分が持つ課長達の不満や自分の弱点を暴露してしまうのは自爆でしかないし、いくら清次郎でも数十年の公務員生活をして来た経験からそんなことはわかっていることだった。
なのになんで自分がなぜこうもあることないこと全部喋ってしまったのか彼は自分でも理解できず、慌てて自分の失態を挽回しようと考え込んでいるアリサに声を掛けた。
「あ、あの、アリサ君?今の話は――」
「……所長が頼れるような人物を知っていますが、紹介しましょうか?」
「特に深い――え?」
しかしアリサは、清次郎がまったく予想していない返事を返した。
「明日にこの研究所を客観的に分析してくれるような専門家が必要なんですね?それが出来る人物を紹介しますという話です」
あまりにも都合が良すぎる提案にどう反応していいかわからない清次郎。
「えっと、なんというか……」
「心配には及びません。このことは課長には言いませんから」
アリサはそんな清次郎の心の内も察することが出来たようで、的確に清次郎の心配事について安心させるために言葉を掛けた。
しかし人の言葉というのは形がないもので、清次郎はその言葉を鵜呑みにすることが出来なかった。先ほどペラペラと悩みを打ち明ける前にそんな態度を取ったら良かったものではあるが、今更言っても仕方がない。
アリサはそんな彼の様子を見て小さく肩を竦めて、少し言い方を変えた。
「そのついでって言ってはなんですが、その人を紹介する代わりにアタシは明日に休暇を出してもよろしいでしょうか」
つまり一種の取引の形を取ろうという話。
利害関係ならただの言葉よりもまだわかり安いものであるため、彼女の選択は正しいものに見えたが、清次郎は未だ信じ切れずにいる様子で返事を渋っていた。
「はあ……あのクソ肥満タヌキはアタシも快く思ってないんです。このまま明日あのいやらしくゲスい笑顔が得意気になるところを見たいんですか?」
アリサは仕方がないという風に溜息をついては、その端麗な容姿からは想像し難い悪態をしれっと並べた。
清次郎はそんな彼女の言動に呆然としたが、簡潔でありながらもかく強い感情が圧縮されているその言葉は清次郎に初日の彼女の様子を思い出させて、十分な信頼感を与えた。
「……その、よろしく頼んでいいかな?」
「任せてください」
二人は握手を交わした。
そしてアリサは後ほど本人から連絡を入れさせると言い残して部屋を出て行った。
アリサが出て行くことを見つめる清次郎はこの場で起きた一連の事態を振り返してみたが、やはりなぜこのようなことになったのか理解できなかった。
これを狐につままれたと言うのかと首を傾げて、彼は明日に備えて業務に戻った。
親環境厚生研究所 なまけもの @nokun
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