第2話 視察

 清次郎が親環境厚生研究所の所長として就任した初日は、予期せぬ事故により大騒ぎになり、散々な結果となった。

 事態に収拾がつく頃、就任式の再開は無理と判断した総務課長は、相当疲れていた清次郎にその趣旨を伝えて今日のところはとりあえず官舎で休むことを提案し、限界に近い状態だった清次郎はその提案を受け入れて官舎で荷解きをしてから、その日は仕事と関わる全てを忘れて目を閉じた。

 そして翌日。

 延期された就任式もなんとか無事に終わり、役員の紹介が終わると研究部の人達は研究棟に帰った。

 しかし何故か研究部の課長級は第三研究科の課長という老人一人しか来ず、課長級の全員の顔を見ることは出来なかったのである。

 「まったく、こんな大事な時に抜けるとは勝手な行動にも困ったものですな本当に。研究部の連中は少し身勝手過ぎるところがあって毎回毎回苦労をさせていますよ、はい。いつも問題を起こすのは研究部の尻ぬぐいをしているのが誰なのか考えて欲しいもんです。あ、これは失礼。所長はまだご存知ないと思いますが、この研究所ではいつも研究部の連中が問題を起こしているもので、ほら、昨日の件も二研課長がやらかしたじゃないですか。だからいつもいっそいない方が助かると思っている実情です、はい」

 「いや、研究所に研究部がないと困るのでは?」

 「ははは!所長は本当にご愉快なお方ですな!ははは!」

 研究部の不参加に対して普段溜まっていた不満を思う存分に吐き出した総務課長だったが、清次郎がその言葉に含まれた矛盾を指摘するとごまかすように笑って話を流す。

 いったいなにが愉快だったのか清次郎にはわからなかったが、あまりも自然に流されたのでそのまま彼が仕切る通り次の日程に従うことにした。

 就任式の後に決められた予定は本館、事務部の視察。

 所長一行はまず大会議室から一番近く位置している情報課を訪れた。

 情報課の課長は小宮稲荷こみやいなりという男で、どう見ても三十は超えそうにない、背も高くないせいで案内役の本田より少し上くらいに見える若者だった。

 そんな彼が老人と中年の間、引き締まった顔で自分を情報課の課長と紹介した時には清次郎も驚いた。

 しかし本田とは違い、彼は有能で誠実な人材で、情報課に着くとすぐに清次郎の前に出て滞り無く説明を始めた。

 「情報課の仕事はその名前通り、この研究所の目的となっているF個体の情報収集と確報を担当しています。その業務上、職員達が研究所にいる時間は少ないのでご覧の通り情報課にいる人数は少ないです」

 総務課と同じくらいの広さを持っている情報課の中に二人しかいないことを滑らかに説明すると、清次郎はなるほどと頷く。

 「それにしても二人は少ない気がするんだけど、人手不足なのかな?」

 「いいえ、全員が有能な部下なので、今のところ活動に支障が出ることはないです」

 しっかりした彼の返事はまさに上司が望むような模範答案。そのことにまともな人間がいるか怪しんでいた清次郎が少し感動しているところ、警備課長の村井が話に入って来る。

 「人手不足じゃないならこっちの部下連れ出すのはやめて欲しいがな」

 村井は外国人でも皮肉だとわかるように嫌みな言い方で話す。

 それにビクッと反応した小宮は、少し苛立った雰囲気で反論した。

 「それは規定に載っている正当な要請なんですが何か?確保作戦は場合によって多数の人員を要求する作戦です。我々情報課の21人だけではどうしても手が足りないところがあるから警備課にフォローを要請できるように初代の頃から決まっていることに不満があると?」

 「お前、いま自分で手が足りないって言ってるぜ」

 「だからそれは場合によっての話で…!」

 二人の会話が口喧嘩に発展しそうになって、こういう荒事が苦手な清次郎があたふたしていると、意外にも総務課長が喧嘩を止めに入った。

 「やめなさい!所長の前でなんという醜態なんだね!」

 すると二人は睨み合うことをやめて互いにそっぽを向いた。

 今までのペラペラなお喋りおじさんとは違う威厳を見せる総務課長の姿に、清次郎は先ほどの紹介で総務課長が事務部長を兼ねているという話を思い出した。

 総務課長が事務部を総括する位置になったのは人脈ばかりのおかげではないかも知れないと、少し見直す。

 「いやはや、申し訳ない。この二人は役員の中でも若いもので、はい。でもまあ、人手不足は確かに深刻な問題ですな。特に事務部の方はどっちも大変な状況です。なにせ極秘施設というわけですからホイホイと新入りが来るわけじゃないですからな。いま現在この研究所にはおよそ300の職員がいて、そのうち160が研究部の職員で、所長直属の警備課が80人、事務部は60人しかいない現状です。警備課は人手がいるものだからまあ80人も少ないくらいですが、ろくな結果も出せていない研究部が全職員の大半を総取りするのはいかがなものかと!」

 しかしまた図々しい笑顔に戻った総務課長は脈絡もなく研究部を叱咤し出したので、清次郎の彼への評価はあまり変わらなかった。

 その隣で、静になったと思っていた警備課長がボソッと言った。

 「まあ、別に無能を見捨てるってわけじゃない。見栄を張るなってことだ」

 「誰が無能だと――!」

 「次、次行こうか!えと、広報課だっけ?」

 数分も持たずにまた喧嘩になりそうな二人に、今度こそ清次郎が入って二人を止める。

 ここにいることが喧嘩の火種になると思った清次郎は情報課を後にして次のところに行こうとした。

 「いや、でもまだ説明が……」

 「あ、それは後で資料と一緒にじっくりと聞くよ。視察で全部聞けるものでもなさそうだしね」

 それでも不安だった清次郎は視察が終わった部署の課長は業務に戻っていいと小宮に伝え、励ましの言葉と共に情報課から離れた。

 広報課長の飯田次郎いいだじろうはこれといった特徴の無い中年男性で、常にほころんだ顔で総務課長の後ろに付き添っていた。

 「広報課は我々研究所の対外活動を担当していて、常に研究所のためとなることを心して勤しむ素晴らしい部署です」

 どういうわけか広報課長の飯田の代わりに総務課長が案内を打って出た。

 だからとして説明する人を変えろのもおかしいと思い、清次郎はそれより気になっている事を指摘した。

 「いや、その、極秘施設がなんで対外活動を?」

 「ははは!またまた所長は本当にご愉快なお方で!まあ、この山奥だと言っても数キロ先には小さい村もいるわけですし、出入りする業者もいるわけなのでそれらを担当しているんですよ。たまに好奇心の強い人もいますしね」

 「それって広報課じゃなくても出来るのでは?」

 彼がその業務内容を軽く見ているわけではなかったが、それでも総務課の人員と広報課の人員が同じくらいなのに、それでいて人手不足を訴えているなら部署を統合して総務課の方で担当したほうがもっと効率的ではないかという考えからの言葉だった。

 まだ全貌を確認できていないので正解だとは言えないが、少なくとも総務課長が研究部の人員を減らそうと言ってるよりはまともだと思ったからでもある。

 総務課長は清次郎の言葉に表情を固くして沈黙したが、すぐに咳払いをした彼は真面目な顔で大事な秘密を漏らすように低い声で清次郎に話した。

 「実は、広報課は研究所の生産性に役立っている、無くてはならない大事なところなんです。いや、唯一な存在だと言ってもいい。広報課がなかったら生産性ゼロの役立たずの部署になっているはずですから!飯田くん、もって来たまえ」

 総務課長が広報課長に指示し、広報課長が広報課の職員に手招きすると、広報課の職員のひとりがえらく上品そうな箱を持って来た。

 総務課長の手から渡されたその箱を清次郎が慎重に開くと、その中には黄色い光沢の物体がその美しい姿態を見せびらかす。

 「チーズ?」

 「はい。それはもう素晴らしいチーズです」

 箱を開けてすぐに臭ってくるその独特な匂いで清次郎はその物体がチーズであることを言い当てた。

 「それは二研の研究の副産物だったんですが、どうやらすごい品質のチーズだったようです。広報課長の飯田くんがそのチーズの素晴らしさに着案し、高級ブランド化し、あらゆるところで営業活動を行った結果、今ではもう世界に名をはせている有名ブランドとして研究所の生産性を著しく上昇させたわけです!」

 得意気に物を語る総務課長の話をまとめると、つまり広報課はこのチーズの販促を担当しているということだったのだが、清次郎にはそれが自慢になるものなのか判断しかねた。

 ひとつ確かなことは、どれも清次郎が思っていた研究所のイメージとは違っているということだけだった。

 総務課長の熱弁が終わると清次郎は曖昧に頭を頷き、さり気なく次の視察に行こうと促した。

 その後、会計課と警備課、そして総務課の視察は問題なく終わって、本館の入り口で立っている清次郎の側にいるのは総務課長と、その部下の本田だけだった。

 残る視察の予定は現場、研究棟の視察だけ。

 「事務部の素晴らしい姿をみてご満足いただけましたかな?ははは!」

 無事に終わった視察を祝うかのように声を上げて笑う総務課長は、やがて少し困ったような顔で次の日程を思っている清次郎に望ましくない事実を告げた。

 「次の研究部の視察に関してですが、先ほど申し上げた通り事務部は人手不足の現状です。なのでわたくし、実はもう席を外してはいられないほどでありまして。誠に申しわない限りです。でも大丈夫です!すでに他の者に案内するように話してあるので」

 業務の忙しさに研究部の視察には同行できないという総務課長は深く頭を下げて清次郎に謝る。

 「いや、それなら別に大丈夫です」

 誰かに頭を下げられると落ち着かないタイプである清次郎が慌てて総務課長に頭をあげさせると、彼は最初からそうであったようにいつもの図々しい笑顔に戻って話を続けた。

 「おお、それはよかった。なにせこの研究所は常に人材不足なものだからどうしようかと!ははは。しかしなんと所長は懐の深い!もはや慈悲深さが仏のようで!いえいえ本当ですとも、はい。それでは今回も英一郎の奴が案内しますので、彼に付いて行ってください」

 「いや!その、出来るならあのアリサっていう女性に頼みたいのですが」

 自分を案内させる人として英一郎、甥の方の本田が選ばれたことに物言えぬ不安を感じた清次郎は、とっさに一番頼りになりそうな名前を口にした。

 しかし清次郎の提案に総務課長の反応は芳しいものではなく、さっきと同じような困った顔で清次郎に答えた。

 「いやー、彼女はただの総務課の職員なので研究棟の案内は無理かと。それにこう言っちゃなんですが、彼女がないと少々仕事に……申し訳ありませんな。まあ、英一郎の奴がちょっとだけ頼りないように見えるのはわかりますが、あいつもあいつで頑張ってると思いますよ、はい。ほら、英一郎!早く所長をご案内して差し上げろ」

 ちょっと離れたところでスマートフォンに見える端末をいじっていた若い本田は、名前を呼ばれたことに慌てて端末をポケットにいれて総務課長の手招きに従って駆け寄った。

 「はい!……えっと、どこ案内するんですか?」

 「……」

 その曇りなき純粋な目に、清次郎は穏やかな笑顔で懐に常備している胃薬に手を伸ばした。

 実は清次郎が官舎で目を覚ました朝方に、お義父さんであり、彼に甚大な影響を与える唯一な上司である長官から連絡があった。

 ベットに座って起きろうともせず、見慣れない部屋の違和感を噛み締めながら手に顔を埋めて現実逃避していた彼は、鳴り響く携帯をただじっと見つめていたが、携帯が鳴り続くほど自分が困るということをはっきりとわかっていたので、仕方なくそれを手に取った。

 『どうだ。所長としてやっていけそうか?』

 「それが、その――」

 『まあ、今のところは戸惑うこともあるだろう。だがお前ももう機関長の一人。弱音を吐いてる暇などないはずだ』

 「……」

 『それと研究所のことなんだが、どうやらこのことを知っている一部から反発があるようだ。彼らが言うにはまともな結果も出せない研究所などこの際に解体すべきだとぬかしている。実に愚かで不愉快だ。この研究所がこの国の未来の鍵を握っているということをなぜわからない!確かに設立して今まで目立つ成果を出してはいないが、解体などさせてたまるか!……まあ、お前が所長になったからはいい知らせが来ると信じている。頑張りたまえ。俺も再来月くらいに様子を見に行く」

 「あの……!」

 『失望させてくれるなよ』

 清次郎はまともに喋ることも出来ずに短い通話は終わった。

 一日の始まりから、清次郎は首が締まるような重圧感を抱えて就任式に出向いたのである。

 本田と研究棟に向かう最中にも、その重圧感は未だ清次郎に重くのしかかってきた。

 「これが研究棟です」

 本館から歩いて五分くらいに建ててある研究棟は、目安でも本館の三倍はありそうな面積を持もっていた。外からは分厚そうで質素な灰色の壁だけが見えて、本館に比べたら相当に味気のない外観の建物だったが、研究所マークだけは本館と同じく正面に大きく刻まれていた。

 「しかし相当な大きさだな……」

 広さだけなら東京ドームよりも広いのではないと思うほどで、研究所とはあまり親しみがない清次郎が圧倒されていると、本田が誇らしげに説明を加えた。

 「いやまあ、本命は地下で、地上の半分は研究とは関係ない体育館ですよ。それも結構本格的なやつです」

 「体育館?」

 「増築する時になんか職員の福祉が話題になったみたいで、ここで働く人って住み込みになるから健康を気遣って体育館を建てることにしたそうです。まあ、主に研究員のためとは言ってるけど、ここの研究員たちは運動好きじゃないから運動するのは警備課の人ばかりですけど。警備課には元スポーツ選手とかいるんで、すごいです」

 「はあ……」

 本田にしては珍しくためになる内部事情の話だったが、この時の清次郎は感心することもなく生返事を返すだけだった。

 この何気ない職員の生活に関する話こそ、部下を理解する必要がある管理職の役に立つはずなのだが、まだ所長という役職が慣れないためか、それともスポーツという彼とは縁がない話だからか、はたまた話をしている人物の問題か、清次郎は特に気に留める様子もなく、建物の中へと進む。

 研究棟の中に入ると、警備課と思わしき人が入り口で警備を務まっている姿が見えた。彼もまた昨日の大会議室で見た警備課の人のように武装をしていて、清次郎は気まずさを感じたが、研究棟の保安がそれほど大事なのだろうと自分に言い聞かせた。 清次郎がぎこちない笑顔で軽く会釈すると、警備の人も軽く頷いてみせた。

 昨日みたいに敬礼されるのかと思って心の準備をしていた清次郎は拍子抜けしたが、敬礼が警備課の基本ではないことに安心した。

 警備を通り過ぎて、長い通路を歩く清次郎は都会に初めて出た田舎者のように目をキョロキョロして周辺を見渡すが、研究棟の内部は外と同じくコンクリートの質感が漂う地味な内装になっていた。

 現代的といえば現代的だが、長官が冗談のように言っていた秘密研究所という言葉で、無意識のうちに研究所のイメージを映画にでも出そうな最先端の科学施設を想像していた清次郎は少し自分を恥ずかしく思った。

 「ええと、研究部には三つの課がありまして、それぞれ第一、二、三研究課というわかりやすい名前です」

 総務課長の言葉通り第一研究科に向かう中、本田は律儀にも案内の役目を果たそうと不器用だけど真面目に説明を始めた。

 「それぞれ一研は人、二研は人じゃない生物、三研は物が担当なんですが、一研だけヒト研って呼ばれてますよ」

 「人って……その、研究というのはどんな内容なのかな?」

 何か引っかかるものがあるようで、清次郎が詳しい説明を求めると本田はのんきに即答した。

 「まあ、ヒト研なら人体実験とかじゃないんですか」

 「人体実験?!ど、どういう…?」

「いや、僕は事務部なんで知りませんけど」

 物騒な言葉に動転していたことが大げさに思うほどの爽快な返事を返す本田に、清次郎はそれ以上問いただすことも出来ず、腑に落ちないまま本田の後ろを付いていった。

 そしてふたりが足を止めたのは地下に続くエレベーターの前。

 すでに一階に止まっていたエレベーターに乗って、地下へと向かう。

 本田が押したボタンがB1だったのでわざわざエレベーターに乗る必要もないのではと思った清次郎だったが、数字上ではB1と表示されていても、実際エレベーターが動くと結構深く潜っていることに気付き、階段では簡単にいけない深さだと気付く。

 それでも一応階段の存在に付いて本田に聞くと、非常用の階段はいるが普段は誰も使わないと答えた。

 「お……」

 エレベーターのドアが開き、二人に姿を見せた研究棟の地下は地上とは雰囲気がまるで違うもので、まずエレベーターを下りた二人をすぐ前を遮る厳重でそれらしいセキュリティードアが、清次郎に小さい感嘆をこぼさせた。

 まさに秘密研究所だなと、口では言えない感想を胸の中で噛み締めていると、本田が格好をつけるように懐からカードらしきものを取り出してセキュリティードアにスキャンさせた。のだが、

 「あ、また効かない」

 何か問題が起きたのかドアはびっくりともせず、本田はため息をついてドアの操作部にある呼出ボタンを押してどこかへ繋げた。

 「すみません、総務課の本田ですけど」

 『あいよー』

 清次郎はそれから本田がどうするのかと見ていたが、本田はそれ以上なにか喋ることはなく、しばらくすると、ドアのロックが外れる音が聞こえた。

 3秒足らずの会話で保安が解かれる瞬間だった。

 「え、今のなに?」

 「最近ここのドアが調子悪いんで。ここって山奥だから業者がなかなか来ないんですよね。なかなか来ないもんだから研究部で詳しい人が自分で直すそうですが、まだ直してないみたいですね」

 気にしない方がいいと肩をすくめて先に進む本田。

 本田が出した答えは清次郎が求めていたものとはまったく違うもので、まだ清次郎には言いたいことが山ほどあったが、セキュリティードアが閉じそうだったので急いで本田の後を追った。

 ふたりは一度課長室を訪れたが課長は不在だった。

 清次郎は困惑したが、本田は心当たりがあると次の場所へと移動したので、清次郎も仕方なく彼を追って第一研究科の通廊を歩いていた。

 地下の研究部は壁材も地上のようなコンクリートではない特殊な、丈夫に出来ている素材で、床も遮音シートのようなものが敷いており、ドアも殆どがカード認識形のセキュリティードアになっている上に、数々の安全施設や保安設備が目立っている、インテリアからしてどこぞの航空宇宙局以上の最先端施設の雰囲気を醸しだしていた。

 少なくともここを建てる頃には極秘施設という肩書にふさわしい予算が入ったのだろうと、清次郎が素人並みの感想を思っていると、ひとりの研究員が清次郎と本田を会釈して通り過ぎて行った。

 先ほどの話ではこの研究所の職員の大半が研究部の職員という話だったが、いまのところ滅多にその姿を目にすることが出来ずにいた。そんなにもこの地下の規模が大きいのかと、清次郎はますます研究棟の出来に感心する。

 概ねどのくらいの規模であるか気になった清次郎が本田に声をかけようとしたら、どうやら二人は既に目的地に着いたらしく、本田は目の前の部屋のドアをためらいなく開けて中に入った。

 「すみませんー、課長いますか?」

 分析室と書かれている部屋の中は清次郎にはわかりそうもない機材や資料で詰まっているところで、数人の研究員がそれぞれの机で仕事をこなしていた。

 その中でひとり、前髪を無操作に輪ゴムでまとめている女性が本田に反応した。

 「うーん?たしか総務課の。なんだ?先日請求した備品でも持って来たのか?」

 「え?そんな話聞いてないんですが」

 「ふざけんなよ!一週間前に申請出してんだぞ!事務部は遊んでんのか!」

 奥の机からひょいと顔だけ出した女性は本田を見るなりに業務の不手際を罵り始めた。

 いきなり怒鳴り出す彼女に清次郎は相当に戸惑ったが、罵られている当事者の本田はそうでもないらしく、肩をすくめては話を進める。

 「僕に言っても……それより新しい所長のヒト研視察です」

 「しょちょー?」 

 その言葉でようやく罵ることをやめた女性は、柔らかそうな首枕を着用したまま自分の椅子から起き上がって二人に近づいてきた。

 「ああ、所長か。そういえば死んだっけ」

 物騒な言葉を呟いて勝手に納得している若い女性が就任式に来なかった第一研究科の課長であると理解した清次郎は、彼女から事務部の役員から感じた不安とは違う類の不安を感じた。

 何せ明確な理由もなく就任式を欠席した人物。

 二研課長の白石は昨日の一件があるからある程度理解はできるが、彼女の欠席に関しては誰も明確な理由を聞いていないらしかった。

 多くの場合、そのような部下はかなりの問題を起こしたという経験を持っている彼としては、不安を抱かずにはいられないのであった。

 だがそんな不安を抱えていても、いま会ったばかり人に偏見を持つのは良くないと思い、清次郎は改めて自分を紹介した。

 「初めまして、昨日から親環境厚生研究所の所長となった神田清次郎です」

 「あ、どうも。一之瀬です」

 丁寧な清次郎の紹介に対して軽く頭を下げるだけで自分の紹介を済ましてしまうその女性、一之瀬清子は第一研究科の課長であると同時に、研究部の部長も兼職している研究部の最高責任者だった。

 一之瀬は研究者らしいというか飾り気のない彼女であるがそれでも若いことには変わりがなく、課長だけならまだしも研究部を総括して代表してることに、てっきり第三研究科の堀之内健三郎という老人が研究部の部長だと思っていた清次郎は相当驚いたのである。

 「視察かー。面倒くさいな……あ、いや気にしないでください。まあ、行きましょ」

 本田から視察に関しての一連の説明を聞いた一之瀬はすぐそばに清次郎がいることを気にも留めず、明らかに嫌な顔をした。

 その遠慮のなさ過ぎる態度に清次郎は軽く衝撃を受ける。

 偏見は持つまいと心していたが、次々とその偏見を増やすような行動を取る一之瀬の態度にはさすがにこたえるものがあった。今までに会ったこの研究所の人は誰もが一筋縄ではいかないような人達ではあったが、一応彼自身が所長という身分を持っているので蔑ろにされることはなかった。

 だが一之瀬は彼が所長だろうがなんだろうがお構いなしと自分の不機嫌を丸出しにして、何も言えずにいる清次郎を置いて分析室に残っている他の研究員に席を外すと伝えて先に出て行った。

 気の弱い清次郎がその言動に困惑して、本田に向かってへどもどしていると、出て行ったはずの一之瀬が戻ってきて首に着用していた首枕を取って自分の席に投げ出した。

 「行かないんですか?」

 まだ分析室の中で佇んでいた清次郎を見て、一之瀬は怪訝な表情で視察を急かすと、清次郎は彼女の言動を注意することも出来ずに彼女の後ろを付いて行った。

 「視察って言っても危険個体と分類されたのは面会不可ですから、見て回れるのは限られてますよ。それに二研と三研もあるから全部まわるなんて一日では足りないですし、こっちの任意でいいですよね?」

 「ま、まあ。一研課長がそう言うなら……」

 先を行く一之瀬は気後れなんて生まれから持ち合わせていないという風に、自分勝手に視察の内容を決める。

 その無礼とも言える態度に居心地の悪さを感じる清次郎だったが、彼女の言う事に間違ったことはないので特に異見を述べることなく頷いた。

 「まずは001かな。なにせこの研究所を立ち上げる原因となった個体だし」

 一之瀬は清次郎を見向きもせずに呟く。

 しかし彼女が他人を気遣わない掴みどころのない性格であっても、任された案内の仕事をちゃんとこなそうとする姿を見せているので、その点では誰かよりマシではないかと自分を納得させる清次郎。

 彼は今、性格も大事だけどやはり職場では業務能力を高く買うべきと密かに思っていた。

 その判断には彼の横に並んでいる青年の存在が大きかったが、本田は自分を見つめる清次郎の視線の意味をまったく理解していなようで、自分だけ食べようとしたガムをぎこちなく清次郎に譲ろうとする。

 「001って、F個体の?」

 清次郎はガムを丁寧に断って一之瀬の呟きに食い付いた。

 一之瀬は首が凝っているようで、首筋に手を当てて左右に動かしながら答える。

 「匙形物質遠隔整形特異点保持者、まあ、要するに超能力者ですね」

 「超能力者……」

 研究所に着く前には資料から、そして研究所の前で本田に聞かされているその存在がついに自分の前にその全貌を見せる瞬間が目前に迫ったことに、清次郎は言い難い興奮で鳥肌が立つのを感じた。

 昨日の一件でこの施設が非現実的な事象が実在する本物であるということは身を持って知らされた彼だったが、昨日のような事を国が極秘に指定したこの研究所の核心とは受け入れ難いものがあったので、この視察こそが彼に非現実を現実的に感じさせる意味を持っていた。

 ふと、清次郎は何かを思い出したように一之瀬に問いかける。

 「超能力者と言っても、要は人なんだろう?その、もしかして法とかに触れたりは……」

 清次郎が気にかけているのは、先ほど本田が何気なく口走った物騒な言葉。

 数十年を公務員として過ごして来た彼が、所長という責任が収束する立場になってしまっては、たとえ冗談まがいなことでも心配するのは無理でもなかった。

 だが一之瀬はそんな質問をされるとは予想していなかったようで、怪訝そうに振り向いた。

 「さあ?わたしはただの研究員なのでなんとも」

 自分の担当ではないと、模範的な社会的行動を見せる彼女に清次郎はデジャヴを感じる。

 「……はっきりとしない答えだが、本当に大丈夫なのか…?」 

 「まあ、公に出来ないから極秘施設なのでは?」

 事務的な答えに不安を覚えながらも、まさかと思って再三尋ねたが、返ってくるのは彼の願望を軽く踏みにじるような答え。

 その言葉を受け入れたくない清次郎は慌てながら反論しようとした。

 「いやいや、極秘だからって違法が許されるわけじゃないから」

 「それはこの研究所を建てた人に言うべきじゃ?わたしはただの研究者ですので」

聞く人によっては冷やかしに聞こえそうな言葉を遠慮無く吐き出す一之瀬からは、無駄な時間をかけさせてイラついているという包み隠されていない感情が全身から漂っていた。

 はっきりとした嫌みに清次郎は気後れしそうになったが、それでも自分が上司であることを盾になんとか話を続けさせた。

 「それはそうだが……でも、倫理的にもだな」

 すでに資料である程度の状況を把握しているはずの清次郎が、今更こんな話を持ち出すのは理にかなってないと思えるものだったが、資料と現実では受け取れる感覚がちがうもので、まだ2日目の清次郎にははいそうですと区切りをつけるのは難しいものだった。

 一方、一之瀬からすると、彼女自身はすべてを了承して研究所に入って、今まで上司に話していたものは全部研究と成果に関するものだったので、今の清次郎の言動には戸惑いより呆れている。

 「ここを倫理委員会か何かと錯覚してます?」

 「ぐう」

 「この研究所の目的は一般の常識では解釈も出来ない異常、こちらでは“特異点”と呼んでいる現象を保護及び管理、分析、研究することです。わたしはその目的のために上からの指示にしたがって研究するだけなので、文句があるなら上に言ってください」

 それ以上は答える気がないと、一之瀬はそっけなく前を向く。

 清次郎はその態度を咎めることも出来ずに、後ろ姿に問いかける。

 「上って、誰に…?」

 「そりゃ所長でしょ」

 それを聞いてようやく自分が責任と共に決定権も握っていることを自覚した所長の清次郎。

 その意味を噛みしめるように神妙な顔でしばらく沈黙した清次郎は、おずおずと尋ねた。

 「……か、解剖とかしちゃたのか?」

 「はあ?それぞれが唯一な個体なのに解剖してどうするんですか」

 相変わらず人を見下したような言い方だったが、清次郎はそれでも自分の質問が否定されたことに胸をなでおろした。

 だからと言って彼の懸念が払拭されたのではなく、ごく一部が消えただけで、もう少し問い詰めたい清次郎だったが、一之瀬にこれ以上しつこくすると何を言われるかわからなかったので、後の機会を伺うことにした。

 地下一階の全域を使っている第一研究科は、研究区画と管理区画に分けられていて、管理区画はまた一般区画と隔離区画に分けられていた。

 一研の管理対象であるF個体は隔離対象ではない個体なら一般区画の部屋を当てられて、清次郎はいま一般区画の一番奥、001という番号のプレートか掛けられている部屋を訪れた。

 研究所を建てる原因となったという、その起原を目の当たりにするという事実に、清次郎は興奮と恐怖で手に汗を握っている。

 そんな所長を後ろに、案内役の一之瀬がいよいよドアを開けてその中に潜められた研究所の秘密を解放した。

 「やあ、おじいちゃん。調子はどう?」

 「お、おお!……だれじゃっけ?」

 開放された部屋の中身はありふれた人の住居空間で、清次郎には見慣れている療養所のように見えた。そしてその部屋の中には、近所の町内会で見れそうの老人がひとり、壁に落書きをしている最中だった。

 頭に描いていた絵図とは何ひとつ合致しないその状況に、清次郎は手慣れた様子で老人をベットに連れて行く一之瀬に声を抑えて尋ねる。

 「このお方は……?」

 「管理番号001です」

 「なんか、随分とお年寄りに見えるが……」

 「そりゃこの研究所が建てられたのが50年も前だから当然でしょ」

 言い得ない拍子抜け感で眉間にシワを寄せる清次郎。

 そんな彼に構わず、一之瀬はそのまま老人をベットに寝かせた後、体の調子などを確認して、淡々と説明を始めた。

 「1970年、政府の情報当局が超能力者を題材としたバラエティ番組を作ろうとした地元の放送局から、本物の超能力者を見つけてしまったという情報を手に入れました。政府では当然まともに取り扱うつもりはなかったようですが、後に初代研究所長となる情報当局の偉い人の強い要望で情報の真偽を確認し、当時14歳だった超能力者を確保して研究所の設立するに至るんです。まあ、そこら辺は別にどうでもいい話ですからパス。要はその時確認された超能力者の超能力というのが実にわかりやすいもので、スプーンを曲げるというやつです」

 彼女はわかりやすさを優先してか所々を勝手に省略しながら説明をしたが、まったくもって部外者だった清次郎には少し不親切に思える程だった。だが彼女は出会ってから今までずっとその態度を立て通しているので、清次郎も特に文句を言おうとせず、頭を頷きながら話を聞いた。

 「まあ、現在に至るまでそういう、スプーンを曲げられるという輩は数多くあったし、そのトリックの解釈も一般に知り渡っているんですが、この001の場合はどんな環境の下でもその超能力を確実に発現させたので、疑う余地がなかったと。当時に確認されたことを要約すると、超能力者、つまり管理番号001のF個体が手に取った時点で“特異点”は発現する。特異点の発現は匙の形をしている物の首に当たる部分を曲げること。匙形の物質がどんな材質でも特異点は発現し、展延性に関係なく同じ角度に曲がる。この展延性に関係ないというのは、たとえそれがガラス製の匙だったとしても、壊れることなく“曲がる”ということです」

 理系に縁がない人でもガラスが曲がるということが普通ではないとわかるだろう。それは清次郎もまた同様で、彼はガラスのスプーンが曲がるという話に驚きながら一之瀬に問いかけた。

 「どうやってそんなことが?」

 「展延性は知ってますよね?金属結合や共有結合については?」

 説明するには相手の知識に合わせないとむしろ手間がかかると知っている一之瀬がそう聞くと、理系に弱い清次郎が申し訳なさそうに頭を横に振るった。

 それを予想していたのかどうか、一之瀬は小さくため息をついて彼に合わせた説明をした。

 「簡単に言うと、壊れずに曲がるためには少しずれても位置を保って互いを引き寄せる力が必要です。その力は電子が自由に動けるかどうかで決まるわけですが、ガラスはそんな力を出せる結合の仕方をしてないんです。だからそのありえない事象を調べるためにあらゆる観測機器で実験したんですが、その結果というのが、“そんな風になってしまった”です。まあ、要約しての話ですが、間違ってないので。詳しくはまとめた報告書を見ることですね」

 投げやりの説明だったが清次郎にはちょうどよかったので深く頷いた。

 「残る特徴は、その特異点の発現に一番重要なのは物質の形が匙であるということ。これは001の主観に強く頼るようで、様々な形で実験した結果、彼が匙として使えると思わないと曲がらないです。これも詳しい実験内容は報告書にまとめてますから」

 面倒くさいという彼女の気持ちが丸出しな説明だったが、それでも清次郎には研究所を理解するに大きな助けになるものだった。

 そこで一之瀬は一息を入れて、人を射抜くような目で清次郎を捉え、話をまとめる。

 「問題は、その時から現在に至るまで、研究結果がほぼ変わらなかったということですね。わたしがここに来た時にはアルツハイマーが進んでいたからもう実験はしてないんですが、報告書を読んで確認したのは、ただ匙の種類と機器を新しいものにして内容を増やしただけ。今になっては001に関わる研究員は療養施設の職員みたいになってるってことです」

 自嘲的に現状を伝えて、説明は一段落がつく。

 この説明だけで研究所のすべてを把握するのは難しくても、研究が芳しい状態ではないことは清次郎にも伝わった。

 「う、うむ……まったく成果なしと?」

 「ないです」

 潔い断言に清次郎は渋い顔をして唸る。

 すべての研究が結果を出せるものではないが、どうしても今朝かかってきた電話が気になる清次郎には、視察早々研究所の失敗と対面したくなかった。再来月にはここに来るという長官がこの研究所の実体をどれだけ把握していて、そしてどれだけの成果を自分に望んでいるのかはっきりしない現在、清次郎には時間も現状も、すべてが不安の種として心に重くのしかかっていた。

 「ま、まあ初期の研究がうまくいかないというのはよく聞くしね……」

 「……」

 それは激励というより、自分の不安を消したさに他の成功例での言い訳を一之瀬に促すものであったが、そんな所長の意図にまったく答える気はないように、実務職の最高責任者は無言を貫いた。

 そんな一之瀬の態度に、清次郎はどんどん不安になっていく。

 誰も意図していない沈黙が続いたが、静にベットで休んでいた老人が静寂を破った。

 「ご飯はまだかね?」

 ご飯をねだる老人の無邪気な視線に清次郎は何も言えずにうろたえるが、一之瀬は上司に対するよりも優しい音色で老人をなだめる。

 「はいはい食事にしましょうね」

 上手に老人をあやす彼女の姿を見る清次郎は、複雑な思いだった。

 そこでふと、本田の姿が見えないことに気付いた。

 「ん?本田君はどこに行ったの?」

 「この部屋に来てすぐトイレに行きましたが」

 案内役であるはずの本田がなぜ自分には一言もなかったのかと思いつつ、本田がいなくとも視察には何の問題もなかったことに気付いた清次郎は少し楽になった顔で一之瀬に言った。

 「次に行こう」

 次に訪れた部屋は001がいる部屋とは違い、ドアの開けてすぐ部屋が出るのではなく、取調室のように窓が付いている空間の向こうに個体の部屋が設けられていた。

 さっきとは違い隔離施設のような部屋の構造に清次郎は少し落ち着かない気分だった。

 窓から見える部屋の中にいるF個体は若い女性の姿をしていたが、一般人には見えなかった。

 「管理番号062。北海道の山奥で確保された個体です。正式名称は長耳形類似人類。まあ、部下の男子たちはエルフとか呼んでたような。あ、勝手に近づくと電気衝撃受けますよ」

 説明を聞いていた清次郎が向こうの様子を伺うために足を踏み出そうとした時、一之瀬がとんでもないことを言い出してのでそのまま固まってしまった。

 「やたらと男子がこの子を世話したがるので仕方なく」

 彼はそんな裏事情は真っ先に言って欲しいと思ったが、口には出さないで元の位置に戻る。

 その時、向こうの部屋で大人しく座っていたF個体はこっちの物音でも聞こえたのか、二人に向かって何かを叫んでるように見えた。

 声は聞こえずとも、その様子からして神経質的に見えることは確かだった。

 「$!#@!&$^$」

 「062は外見以上の危険はないんですが、隙あれば逃げようとするのでこの部屋を与えました」

 その説明からこの部屋の意味を納得した清次郎。

 しかしそれでも彼はまだその様子を無機質的に受け入れることは出来ず、罪悪感に似た感情を抱かずにはいられなかった。

 清次郎はそれを振りほどくように頭を振って他の質問に走る。

 「彼女はどういう、その、特異点?を持っているんだ?」

 まだ慣れない研究所の用語を使いながら情報を求める所長に、研究部長の一之瀬はこう言った。

 「特異点なんてないです」

 「……」

 思ったより随分と短い返事。

 いちいち驚くのも疲れてきた清次郎は無言で説明を要求する。

 「あえて言うなら彼女が確保された30年前から今まで外見がほぼ変わらなかったことくらいです。要は長寿ってことですね。しかし長寿と言ってもまったく老化がないわけでもないし、知られた生物の中でも寿命に関してはこいつより研究のしがいがあるものはいくらでもあります。人間の形をしているってのがせめての長所かな」

 一之瀬は面倒くさそうにしながらもしっかりとそのわけを説明する。

 しかし清次郎にはその内容に同意しかねるものだったので異論を唱えた。

 「いや、30年間姿が変わらなかったのはかなりのものでではないのか?不老長寿って、人間の原初的な欲望じゃないか。誰も老いたくないしね」

 「はあ。老化ってのはそんなに避けられない定めってもんじゃないんだけどな」

 ポツリとこぼした一之瀬の愚痴は清次郎の異義は相手するほどのことでもないという言い方だったが、彼がそれだけの言葉で納得できるわけもなく、彼女はいやいやと補説を始めた。

 「結論から言うと、老化はそうした方が遺伝子の生存に有利であるからそうなっただけで、初めから老化することが決められたいたんじゃないです。たとえば実験室にいる試験管が一年に50%の確率で壊れるとしましょ。するとこの試験管の生存率は2年くらいで個体数が2割以下になる指数的減衰を見せます。この試験管が子を産んで繁殖するとするなら、当然2年が経たない内にしたほうがいいわけです。事故死の危険があるから。生物もまた、寿命がないと言っても時間が経つほど指数的に死ぬ」

 整理できていない髪を掻きながら、一之瀬は清次郎が理解しているかどうかも確認せずに話を続ける。

 「次の話です。資源は限定されています。寿命がない個体も資源を消費して生きていく。ここで繁殖に資源を大きく当てると子孫の生存率は上がります。しかしその分は親個体は弱くなる。さて、繁殖の成功率を上げて一定時期以降を諦めた遺伝子と、繁殖にはそれほど投資できなかったけど自分に投資した個体。どっちが多く生き残るのかは考えるまでもないでしょ」

 専門的な話になってこんがらがって来た清次郎は、出来るだけ慎重に質問する。

 「う、うん……えっと、だからってその、今すぐに長生きできるわけじゃないんだろう?」

 話を理解したと思うには俗物的な質問だったが、一之瀬は特に気にすること無く答える。

 「長生きしたいならこんな使えない長耳よりナノマシーンに投資したほうが賢明ですね」

 仮にも自分が担当している研究分野なのに、他の研究と比べては蔑ろにするような言い方に、それは研究者とどうなのかと清次郎が思っていると、一之瀬が珍しく一言を加えた。

 「正直に言って、学会にヒト属の新しい種を発見したと発表したほうが有意義かと。まあ、極秘施設だからそれも無理ですけど」

 「だったらなんでここにいるんだ」 

 その一言はあまりにもぶっちゃけ過ぎて、清次郎はそう言わずにはいられなかった。

 そしたら一之瀬は少しの間考えるふりをして、こう言った。 

 「一時期というか、研究科への予算割り当ては保有個体数が絶対的だったので。とにかくそれらしいもんは全部集めた感がありますね」

 彼女によって明かされた事実というものはまた生臭い話。

 清次郎は手で顔を覆いながら一之瀬に聞いた。

 「……そんな個体がどれだけいるのかな」

 「今は随分と減ったんです。目立ったF個体の情報もないらしいし、個体は減りっぱなしですから」

 「減るって?」

 「まあ、死亡、消失、脱走。色々ありますから」

 「脱走?!」

 思わず声を上げる清次郎。

 「主に二研で起こることですよ。あ、そういえば最近こっちにも脱走したのが一人いたな」

 「え」

 次々と明かされる衝撃的な事実に、清次郎の方がついて行けずに口を開いて固まってしまう。

 一之瀬はずっと自分を見つめてくる清次郎の視線はさすがに無視できなかったのか、彼女も清次郎を見返すが、その視線に人への思いやりは一欠片もこもっていない。

 「な、なんでそんなに落ち着いているんだね…?」

 やっと衝撃から戻った清次郎が彼女の態度を責めるつもりでそう聞いたが、一之瀬はまったく悪びれた様子もなく答える。

 「確保と回収は情報課の仕事なんで」

 そしてそれ以上エルフについて聞いてこないものを勝手に関心がないと判断した一之瀬は、次に向かうべく部屋を出ようとした。

 「まあ、危険な特異点でもなかったし、大丈夫でしょ」

 なんとか衝撃から回復した清次郎は視察という当面の仕事に集中することで気を紛らすことにした。

 そうやって一般区画の通路を二人が歩いていると、向こうから白衣が近づいて来ることに気付いた。

 「こ、こんにちは」

 少し背が低いその白衣の主人は、昨日の就任式で大騒ぎを起こした張本人である第二研究科の課長、白石小森だった。

 清次郎に頭を下げて挨拶した白石は、用があったのは一之瀬のようで、ゆっくりと彼女に近づいた。

 「あ、あのね清子ちゃん……ぜ、086の貸し出し、まだ来てないんだ……」

 「あん?申し込みしたならそのうち届くんじゃないの」

 二人の会話は職場の仲間というよりは個人的に付き合いがあるような間柄に見えた。

 「ひ、一月前にしたけど……」

 「こっちも忙しいんだよ」

 どこかで似たような場面を見た気がする清次郎だった。

 「そ、それとね、パンピーが暴れてるから、て、手伝って欲しいけど……」

 「はあ?なんでわたしが。あいつとやれよ」

 「きゅ、休暇たから」

 二人の会話はまだ詳しい内情を知らない清次郎にはよくわらない話だけで、口をだすことも出来ずにただ見守っていると、一之瀬が急に不機嫌になって舌を打つ。

 「……ちっ、戻ったら休暇全部なくしてやる」

 それから一度振り向いては、

 「すみません、用事が出来たんで」

 それだけの言葉を残して白石と共に去って行った。

 「……」

 清次郎はそうやって研究棟の中に一人残される。

 それはあまりのも唐突な展開で、ただ二人の会話が終わることを待っていた清次郎は彼女達が去って弱10秒後に事態を把握した。

 あまりにも堂々と去って行った彼女を呼び戻すことも出来ず、しばらくその場で呆然と佇んでいた彼は、やがて一人の名前を口にする。

 「……本田君?」

 誰もいない通廊に切なげな声が響いたが、その声に返事する音はなかった。

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