親環境厚生研究所

なまけもの

第1話 赴任


 「ようこそ、ここが親環境厚生研究所です。私は所長の補佐を務まる総務課の本田です。これからよろしくお願いします」

 村里からほどほど離れたとある山奥に、周りの深緑とはまったく似合わない現代的な建物が何棟も建っている。

 建物の正面にこれみよがしに大きく刻まれた親環境厚生研究所というマークは、お世辞にも洗練されたとは言えないが、そのインパクトだけは確かで、初めて見る人なら誰しも頭の中でその名前を刻まれる。

 いま本田と名乗った青年が迎える顔色のわるい中年もまた、そのうちのひとりだった。

 「その、ここが、本当に?」

 要領を得ない男の言葉に、青年はまるでその言葉を予想していたとでも言うように、少し笑いながら答えた。

 「まあ、初めて来る人はみんなそう思いますよ。でも本当です。ここには超自然的なモノも、化け物みたいなモノも、都市伝説の呪われた道具みたいなモノも、全部まとめてあります。ここはそういうモノを研究するところですから。そして今日から、あなたがその研究所の所長となったんですよ」

 普通に聞いてはただの冗談にしか聞こえない青年の言葉なのだが、顔色の悪い中年の男は嘲笑も疑問もなく、不安そうに頭を頷いた。

 そしてそんな男に反応するかのように、研究所の奥から爆音のような音が二人の耳を強打する。

 「!?」

 「びっくりした……あ、大丈夫です。たまにあります」

 明らかに安心できない青年の慰めに、男は増々顔色を悪化させる。

 「なんで私がここに……」

 自分の足で来てはしまったが、そう呟かざるをえない自分の境遇を呪いながら、男はこれから起きることに不安を感じずにはいられなかった。

 神田清次郎は国家公務員であり、政権の要といえる組織の中に自分の席を置く官僚であった。

 四十路にしては上出来といえる肩書を持っているが、いま机の上で黄昏れている彼の顔はその肩書を得るに相応しいエリートの鋭い顔でも、自分の成功を満喫している勝利者の余裕のある顔でもなかった。

 どちらかと言えば仕事に燃え尽きた、憔悴した定年のそれに似ている。

 そんな生気のない顔で、しばらく鳴り続ける電話の音をただ呆然と聞いていた彼はため息をつきながら受話器を手にした。

 「はい、神田です」

 何を言われているのかは電話をしている本人じゃないとわからないが、清次郎の顔がまったく晴れること無くむしろ曇っていくばかりであることから察することはできる。

 電話を取っていくらかの時間が過ぎる中で、清次郎が発した声ははいとか、それはとかの続かない言葉だけで、部屋の中は以前として静なままだった。

 ただ最後に清次郎が受話器を電話に戻そうとした時、

 『これは、責任問題ですよ』

 と言っていた野太い声が部屋に響くだけだった。

 「はあ……」

 またしてもため息をつく清次郎。

 実はこの数時間の間、電話が掛かってきたのは数十回を超える。その中身は全部が全部、清次郎にとってため息の出るものしかない。

 そんな彼を労る暇もなく、彼の机にある電話は無神経にもまた鳴り始めた。

 「はい、神田です」

 もはや機械的に受話器を手に取った清次郎。しかし彼のその無心な顔は長く続かなかった。

 「あ、長官!お疲れ様です」

 長官、それは公務員である彼にとっては天にも等しい存在。電話をする清次郎は自分も知らないうちに姿勢まで正していた。

 意図していないところでも人に影響を与える。それが権力であり、それだけの権力を電話の向こうの人間は持っているということだった。

 「ええ、まあ特には……はい?」

 清次郎も下に人を持つ肩書ではあるが、所詮は中間管理職。頂点の間近に身をおく人とは比べ物にならない。受話器を握ってるその手は時折震えて、あきらかに緊張していることを表した。

 「今からですか?……いや、そんなことはありませんが」

 しかし中間管理職の悲しいさだめを除いたとしても、清次郎の態度はすこし畏まりすぎてる感を拭えない。

 なにせ大衆の目が一番恐れられる時代。万が一の時のために私生活でも脱権威を身につけている政治家が少なくはない。

 しかしたとえ今の話し相手がそういう人物だったとしても、清次郎の態度が変わることはない。これは清次郎の個人的な問題とつながっているため、仕方がないものだった。

 「あ、はい。わかりました。いえいえ、そんなことは。はい、もちろんです」

 精一杯引きつった顔で快い承諾をするという奇芸を見せる清次郎。

 その顔を見るだけであまり気が進まない話をされたことを推測できる。

 「はい。それでは後ほど」

 短い会話で話を終えた清次郎は、受話器を戻して、これまたさっきよりも大きいため息をつき、席から立ち上がった。

 それからハンガーに掛かっている服を取って、部屋を出て行く。

 と思ったらすぐ部屋に戻って来ては、机の上に置いてけぼりだった携帯を取ってポケットに入れてから目的地に向かった。

 途中、彼の部下が挨拶しながら話を掛けてきた。

 「あ、部長、あがりですか?」

 「ああ、ちょっと約束が出来てね」

 「そうですか。でも大丈夫ですか部長?いま結構大変なんじゃ?」

 まだ若く見えるその部下は、普段から気兼ねなく清次郎に雑談してくるような男だったが、しかしそこにはまったく遠慮というものがなく、ただ話題性があればなんでも話してしまうような青年で、清次郎にとってはあまり親しみを感じられない男であった。

 「私が言うのもなんですけど、こういう時は誠実さ?とにかく憎まれないようにするのが――」

 清次郎の性格上からして、どれだけ遠慮がなくても強く当たれなかったのが原因であるかもしれない。

 しかし清次郎が黙認したとしても彼の言動は無礼であることが確かなのでで、保守的な公務員集団では問題視されそうなものだが、実際彼の言動を問題視する人はいなかった。

 要は今の彼の言動は清次郎だけへのものだということだった。

 その事実を清次郎もよく知っているが、だからと言って何か手を打つ気力も、方法もない清次郎にできるのは、

 「山崎くん……頼むから明日にしてくれ」

 こうやって適当にあしらって彼を敬遠することだけだった。

 中間管理職には悩みが絶えないと思いながら、清次郎は道を急いだ。

 「こうやって会うのは久しぶりじゃないか」

 一見にも普通の人とは縁がなさそうな料亭。その中にいる個室のふすまを開けて清次郎が部屋に入ると、豪華な膳立ての品々と共に、豪快そうな声で迎える人がいた。

 「は、はあ。ご無沙汰してます、長官」

 長官と呼ばれたその男は、還暦を超えたにも関わらず、人を射抜くような鋭い視線と一緒に、普通の人ではつい怯んでしまうほどの貫禄を出していた。

 シワのひとつひとつに一般人では想像もできない経験と能力が潜んでいるとでもいわんばかりのエリートのオーラが常に身を纏っている。

 清次郎にしてはもっとも相手にしたくない人だった。

 「なにをかしこまっている。業務外では普通にしていろと言ったはずだが。家族だろう?」

 席に座ってもどこかぎこちない清次郎を見て長官がそれを指摘する。

 「は、はい。……お義父さん」

 そう言われた途端、長官の眉毛がびくっと動いて少し不機嫌な顔になる。

 清次郎は心の奥底でいったいどうしろと言うんだ、と叫びたがったが、もう何年も続くやり取りなので、多少はなれている。ただし、長官の不機嫌はいつも本物であった。

 お義父さんという言葉から分かるように、清次郎は長官の娘と結婚した婿である。

 その娘、今は清次郎の妻である女性は本当にやさしく綺麗な女性で、大学の同窓会で再会したふたりは、一昔前の男女のような奥ゆかしい愛情を育てては、ついには結婚まで思うようになる。

 しかし当時、彼女はあまり家のことを喋りたがらないので、清次郎は将来、自分の義父になる人がどんな人物かはまったく知らなかった。

 最初に会ったのは結婚の意思を固めてそれを伝えようと彼女の家に訪れた時。

 もちろんその頃は長官は長官ではなかったが、それでも清次郎は近づくこともできない肩書を持っていた。それに比べ清次郎はキャリア組の国家公務員とはいえあまり有望ではなく、むしろ近いうちにやめてしまいそうな人物順位の三本指の中に入る人材で、しかも長官とは関係が薄い省庁で身を置いているしがない男だったので、当然のように長官は自分の娘と清次郎が近づくことを心よく思うはずがなかった。

 それ故に最初の出会いから何年かは清次郎にとって地獄のような日々だったが、しかし娘の意思確固たるもので、何とかふたりの結婚は成し遂げられ、娘を愛する長官はそれを無視することもできなかったため、今に至っている。

 「なんかごちゃごちゃしてるそうだな」

 いきなり振られた話題は清次郎が今もっとも考えたくない話題だったが、ある程度覚悟はしていた清次郎は手慣れた動作で頭をさげる。

 「はい……不甲斐ないばかりで申し訳ありません……」

 「聞けばまったく下らんことで騒ぎ立てているじゃないか。いったい何をしているんだ」

 清次郎がつい反射的に謝罪すると、それこそ不快だという顔で清次郎を問い詰める長官。

 それに何も言い返せない清次郎だが、ことが下らないというのは彼ににもわかっていた。ただそんな下らないことででも大事にしたがる人がいるというのが、彼が抱えている根本的な問題だった。

 苦難で満ちている清次郎を見ていた長官は、ふん、と鼻を鳴らして持っていた徳利を戻した。

 「まあ、それはこっちが何とかしてやる。それよりだ、お前もそろそろ重責を担ってみてもいい頃じゃないか?」

 清次郎は自分の耳を疑った。

 普段ならここで何十分も嫌な説教が続くものだが、いま長官は清次郎が抱えてる問題をたいしたことないと、そのうえ簡単に解決してくれると明言したのだ。

 いったいどういう風の吹き回しなのかた長官の顔を伺う清次郎。

 そこでやっと、さっきの言葉には続きがあったことを思い出した。

 「あ、いや、重責だなんて、自分は……」

 「そんなに遠慮するな。時には抱負を明かしてこそ男というものだ」

 だがそんな抱負、清次郎は微塵も持っていない。

 彼が望むのはただ安定と平和。しかしそれを口にすると安定と平和は得られないという矛盾を長官の一家に加わってから何年も抱えて来ている。彼は一度も自ら長官の七光りを借りようと思っていない。ただ勝手に空から嫌なほど照らされているだけである。

 清次郎はそれを拒むことが出来ない。

 「実はな、ある研究所の所長の席が空席になってしまっている。その席にお前が着くといいのではないかと思っているんだ」

 「しょ、所長ですか?いやしかし、さすがにそんな席は私に無理があるのでは……?私が内定されと知らされるだけでマスコミが駆けつけて来ると思うんですが……」

 その突拍子もない提案に戸惑った清次郎は思わず反論を広げる。

 清次郎の今の地位も全面的に長官の思惑によるものだが、それでもまったくとんでもない人事ではなかった。少し目をそらせば誰も不幸にならないから、知らんふりするくらいの。

 しかし長官が今さっき話した内容はちょっとやそっとでは目を瞑ることができるような事案ではない。研究所の所長ともなればその分野への専門性はもちろん、機関の長に必要な能力と経験の要求値は凡人の想像を超えるものである。

 それだけの地位で、それだけの役職なのだ。

 「まあ、普通の研究所ならそうだろうが、実はこの研究所が少し特殊なところでな。一般はもちろん、そして内閣のうちでもごく一部しか知られていないところだ」

 「えっ、それって」

 清次郎は一瞬、長官が何を言い出したのかわからなかったが、次第にその言葉が何を意味するのかわかってしまい、信じられないという風に、もしくは縋るように長官に聞き返した。

 「じょ、冗談ですかね?」

 「……なに?」

 一気に世の中の不機嫌を全部集めてしまったかのような顔をした。

 そこで清次郎は自分の失策と、長官の言葉が冗談ではなかったという事実に二度も絶望した。

 「……ふん。まあ、気持ちはわからんでもない。この研究所は表面上では内調さえもこの機関のことはしらないことになっている。いわば秘密研究所のようなものだ」

 「……」

 長官の言葉はあまりにも現実味が希薄で、清次郎はこれはやはり悪い冗談だったのかと再び長官の顔を伺おうとしたが、長官の次の言葉がその希望を容易く踏みにじる。

 「言葉にしては冗談のようだが、本物の極秘事項だ。あまく見ると大変な目に会うのはお前のほうだよ」

 長官は箸をとって豪華な料理に手を伸ばし、今度は懐柔するような穏やかな口調で話を続けた。

 「これは機会だ。お前も頭になるのがどういうことなのか知っておくべきだからな。それと、まあ、俺が言うのもなんだが、悪くない役職だよ。なにせ極秘ということで、気にすべき目が少ないからな。実質的にお前の上は俺しかいないことになる。どの機関の長の座に比べても、これほど気楽な座はないぞ?」

 俺だったら羨ましいくらいだ、と呟く長官に言いがたい鬱憤が詰まるの感じる清次郎。しかし彼は目の前の料理も見向きする気もなれず、まるで罪人のように長官の言葉が終わるのを待つ。

 それでようやくしばしの沈黙が訪れると、清次郎は勇気を振り絞って口を開けた。

 「あの、その、妻に――」

 「いつまでダラダラと続けるつもりだ。お前もいい加減に周りに流されるだけではない、男の器ってものを見せなきゃならん時だろ。お前は誰の家族になったのか覚えてるのか?」

 懐柔の言葉などもういらないと思ったのか、きつくなった長官の言葉には空気さえ凍えさせるような威圧感を含んでいた。

 「す、少し考えを――」

 「やってくれるな?」

 それでも自分の意見を言おうとする清次郎の言葉を、居合のように素早く、鋭い長官の一言が両断する。

 視線は清次郎の方を向いてなかったが、清次郎は蛇に睨まれた蛙のようになってしまった。

 それから、

 「は、はい……」

 ただそれだけを答えて、この席でそれ以上なにかを清次郎が言う事はなかった。

 「所長?」

 料亭での話で清次郎の新しい職場が決められたのが一週間前のこと。

 長官と会った次の日から、まるで最初から決められていた予定だったかのように、清次郎の転勤の準備が着々と済まされた。

 元の部署で抱えていた問題など一週間も経たない内に綺麗さっぱり消えて、引き継ぎや周りへの伝達などの細かいことは清次郎も知らぬうちに終わっていて、赴任地に関する情報はいつの間にか清次郎に届き、あっという間に送別されて、気がつけば赴任地まで来てしまっている。

 気楽と思えるかも知れないが、ここ最近胃薬の服用回数が増えている彼の様子を見るとそうも言えない。

 そうやって全てが勝手に進んでいく間、居ても立ってもいられない清次郎は届いた資料をとりあえず確認して研究所がどういう所なのか知ろうとしたのだが、その内容がまったくデタラメのようにしか見えなかった。

 研究所は名前は親環境厚生研究所。

 いったい何を言ってるのか頭を傾げたくなる名前だったが、研究所の存在が極秘事項ということからそれがカモフラージュである事を察することができる。

 しかし大事なのはふざけた名前などではなく、その研究所の中身であって、彼が研究所の中身について知った時にはもう名前のことなど気にしてもいなかった。それほどその内容は衝撃的で、またにわかには信じられないくらいの内容であった。

 資料によると研究所の目的はおよそ三十年前に発見された最初のF個体を始めとした、F個体の確保とその実態の究明、となっていた。

 このF個体と言うものがいったいどういったものなのかに関する記述も簡略に書いており、そこからいくつかの項目だけ読んでみると、

 ・現代の科学知識では円満な説明が困難な物体への干渉を行える人物。

 ・言語を理解し、円滑な意思疎通が可能な哺乳綱ウサギ目と推定される動物個体。

 ・接触するだけで熱量とタンパク質を一方的に吸収する火成岩のような物体

 などと書いていた。

 つまりこの親環境厚生研究所という場所は、国が極秘で作り上げた、非現実的で超自然的な現象と物事を集めて研究する場所という、本当に悪い冗談にしか思えない内容だったのだ。

 資料にはその他にも詳しい説明が続いていたが、読めば読むほど清次郎はアホらしくなってきたので途中で読むことをやめた。

 そして研究所に着いた今でも、清次郎はこれが何かの悪ふざけではないかという疑問を消せなかった。

 「何をそんなに考えてるんですか?」

 若い男の声に呼ばれ、清次郎ははっと回想から戻る。

 清次郎の前には本田と名乗った総務課の補佐役が立っていた。

 どこにでもありそうだけどなかなかいない、人の良さそうな印象を持つ彼に、清次郎は少しほっとする。見慣れないところに来たときには誰も優しそうな人に心を許すものだが、清次郎の場合にはそれに加えて自分の部下になる人が好印象で喜んだのだ。なにせついこの前まで意地の悪い部下に悩まされていたものだから。気が強いとは言えない清次郎には何よりの朗報だった。

 前の事を思い出して少し涙が出そうになった清次郎だが、初日から情けない姿をみせまいとぐっとこらえて本田に答える。

 「何でもないよ……それより、中に入りますか」

 新しい職場では心機一転してうまくやってみようと、清次郎は自分に言い聞かせた。

 親環境厚生研究所の巨大なマークの下を潜って、施設の前面に位置している建物の中に入った二人。

 「ここが本館ですよ」

 研究所は合わせて四軒の建物で一つの施設になっており、その中で清次郎がいる場所は本館と呼ばれる建物だった。現代的ではあるが特にデザインを気にしてる風には見えなく、極秘と言えど国が関わると仕方がないのか、やはりいずれの政府機関の建物のような雰囲気を匂わせた。

 その特有の雰囲気が嫌いではない清次郎は内部を見まわって意外と広いと感じて感心していた。清次郎の先を歩いていた本田は、広い中央のロビーで足を止めて建物の構造を説明し始めた。

 「所長室はこの建物の一階ですよ。中央から左奥ですね。本館にはその他の事務部がおりまして、総務課が左側、会計課は右です。二階には休憩室と会議室、それと情報課と広報課がありまして――」

 「え、なに?広報課?」

 「?はい」

 本田の言葉におかしい所があったと感じた清次郎が説明を止めるが、本田はまったく身に覚えがないとの顔をしていた。

 その堂々としている本田の態度に、清次郎は自分の聞き間違いではないかという懸念を抱えがながら恐る恐ると疑問を呈した。

 「ここ極秘、だよね?」

 「ええ、まあ」

 「なのに広報…?」

 当然と言えば当然の疑問。

 広報というのは施設を世間によく知らせるためのものなのに、極秘の施設で広報の部署を置くのは矛盾と思ってもおかしくはない。

 「あ、それはですね、表向きの部署というか、一応親環境厚生研究所という名前ですから」

 「いや、その理屈はよくわからないけど……偽装の部署ってこと?実際には何をしてるの?」 

 自分の疑問が常識はずれではなかったことに一安心する清次郎だったが、それに対する本田の説明は漠然としすぎていたので素直に頭を頷くことができずに、眉間にしわを寄せてさらに疑問を増やしていく。

 せっかくの人の良さそうな本田に面倒な上司と思われたくはないと思いつつも、わからないことを有耶無耶に過ごして無能と罵られるのもまた避けたいため、専門外の分野の見知らぬところに慣れない役職に来ている清次郎の心はすでに穏やかではない。

 だが本田はそんな清次郎の心情をわかるはずもなく、雑談でもするように答え続けた。

 「だからまあ、表向きの――あ、苦情とか来たら彼らが出ますね」

 「え、苦情が来るの?」

 目を大きくして本田の言葉を繰り返す清次郎。

 いくら研究所が極秘組織で、外部からきた清次郎が内部事情に詳しくないとは言え、さすがにその発言はおかしいと思うしかない。

 苦情とはいったいどういうことなのか。ここは地元の役所か何かか?と、清次郎は自分の耳を疑うしかなかった。

 それに反して、本田は今の話題など大したこともない雑談とでも言うように、

 「そりゃまあ、たまには」

 と、無責任極まりない返事をよこす。

 そのあっさりした態度に、清次郎はしばし呆気にとられてしまった。

 特に重要でもないことに自分が突っかかりすぎたのかと思う反面、そのあしらわれているような対応に、つい一昨日の送別会でも関わらず減らず口を叩いていた前部下職員のことを重ねてしまう清次郎。

 清次郎は人の良さそうな印象に安心していた自分がもしかしたら純真過ぎたのでは、とまで思い至ろうとして、さすがに会ったばかりなのに失礼だろうと自分を責めてネガティブな考えを振りほどこうとする。

 「どうしました?」

 微妙な顔で口を閉ざしている清次郎を不審に思った本田が心配そうに声をかける。

 清次郎を見つめるその瞳には一点の曇りもなく、むしろ純粋な気遣いに満ちているように見えた。

 それを見た清次郎は自分の中の不安を鎮めて、まだ初日だから、そう思い直して詳しい事情はとりあえず後に回すことにした。

 「……いや、なんでもないから。続けてください」

 「?あとは三階に警備課と――」

 本館と他の棟に対する大体の説明は数分くらいで終わり、清次郎は改めて自分がここに赴任したという事実を思い知る。

 長官による強引な人事だったが、ここまで来てしまった以上はグズグズしてはいられないことを清次郎は知っていた。

 長官が自分に何を期待しているのか。

 清次郎にはその真意を計り知れずにいるが、失態をおかしたら散々言われるということは変わらない。

 正直なところもう公務生活に疲れきっている清次郎だったが、体が弱く、療養している妻のためにと、改めて気を引き締めた。

 「ふう……」

 心機一転したところで、さっさと他の職員に会いたいと思った清次郎が案内を担当してくれている本田を見たが、説明を終えた青年はそれ以上何か言うこともなく腕時計を確認しては、少しそわそわした様子を見せた。

 「?」

 どうしたのかと清次郎は思い、本田に話を掛けようとして、何か都合があるのかもと知れないとしばらく待つと、異様に長く腕時計を見ていた本田はどこかぎこちない態度で口を開けた。

 「その、それで、どうします?」

 唐突な質問に清次郎が戸惑う。

 「何を?」

 「いや、これからどうしますか、って話ですが」

 「あ、予定通り進めてください」

 事前に立てた就任式の予定を前に、自分の都合を聞く社交辞令と思った清次郎がそう答えると本田はバツが悪そうな顔で口を開く。

 「いやーそれが、実は僕、補佐とは言ってもつい先日決まったものでよくわからないんです。何より新しい所長が来るの初めてだから、何すればいいのかわからなくて」

 「はい?」

 気を取り直したところに水を差されて気合が削がれる。

 清次郎もまた機関の長のような席につくのはこれが初めてだから、少しは戸惑っている部分があった。

 しかし彼が持つ漠然とした常識では機関長くらいの席が変わると就任式するのが当たり前で、彼自身も公務員生活の中で何度も上官の就任式を経験して来たのだから、この研究所の所長になる自分もまたそうだろうという考えを持っていたが、まさか何も用意されなかったとは、彼は夢にも思わなかった。

 極秘だからと言ってしまえば仕方がないのだが、清次郎は研究所側からはなんの通達も貰ってないままこの場所に来たから前も後ろもわからない状態である。

 だから到着した時、彼を待つ人がいたことに、清次郎は心の奥底から感謝したのである。

 何の連絡もなかったが、自分の事をは伝わっているから特に問題はないだろうと。

 そう思っていたことが間違いだったと清次郎は思い知らされた。

 「?」

 なぜ清次郎が呆然としているのかまったく思い当たりがないと言いたそうな本田。

 何もわからなくなった清次郎は不安になって本田に聞いた。

 「その、私が今日ここに来るのは知ってるよね?」

 「誰がですか?」 

 清次郎は薄々と、どうやら本田という青年がそれほど優秀な人材ではないかも、と思い始めた。

 見た目がまともと言って中身までまともとは限らないという事実をいまさら思い出すしかないその天然っぷりに、清次郎はふと、なぜこの青年がここにいるのか気になった。

 「……失礼かも知れないけど、君はどうやってこの施設に入ったんだ……?」

 「僕は前任所長の姪なんで」

 あっさり過ぎる返答。

 要するに清次郎と同じのコネ人事。

 その答えを聞いて、清次郎はいくらか合点が行ったように「なるほど」と呟いて、わかりやすく落ち込んだ。

 本田の答えがあまりも情けなかったからなのか、もしくはコネ人事が蔓延する嘆くべき現実にに絶望したからなのか、それとも本田を通して何かの意図を感じ取ったからなのかは見るだけではわからない。

 ただ、彼の中に存在した僅かな意欲の塊がいま粉々になっているのは確かだった。

 しかしだからと言って泣き言を漏らしながら家に帰る訳にもいかなかったので、清次郎は無邪気な顔で指示を待つ青年に答えた。

 「……そうだね、とりあえず施設を見てまわろうかな」

 ふたりが最初に訪れた場所は本館一階の総務課だった。

 本館の西側、所長室のいく手前に位置している総務課のドアを勢い良く開けた本田は清次郎に総務課を紹介しようとしたが、そこには誰ひとりとして人の姿がいなかった。

 「あれ?誰もいないや」

 頭を傾げる本田を見る清次郎の不安はますます高まっていく。

 先ほどから続く予想外の事態に加え、本田の無邪気な言動を見ているだけで、清次郎は心身とも疲れていくのを感じていた。

 いったい何が起きていて、これから何が起きるのかを考えるだけで、すでに胃痛を感じてしまう清次郎。

 彼にとって何より怖いのは、まだこの研究所の極秘という部分に触れてもいないというところだった。

 そんな不安とストレスが募っていくばかりで、顔色が悪くなっていく清次郎の後ろから、女性の声が聞こえて来た。

 「本田さん?なんでここにいるんです?」

 「あ、アリサさん!みんなどこ行ったんですか?」

 アリサと呼ばれた女性が後ろから現れたことで、清次郎が驚いて後ろを向く。

 そこには背の高い、見た目から手腕の良さそうな眼鏡の女性が立っていた。

 「どこって、今から今日は新しい所長が来るからみんな大会議室に――」

 本田の質問に呆れたように答える女性は清次郎を見て言葉を止める。

 どうしたのだろうと清次郎が疑問に思う前に、女性の鋭い視線が僅か一秒足らずの時間で清次郎の全身に目を通し、ある結論に至ったように慎重な口調で清次郎に質問した。

 「もしかして、新しく来られた所長ですか?」

 「は、はい……」

 その答えを聞いた女性は、ほんの僅かな沈黙の中で全ての事情を把握したとでも言うように目を光らせて、清次郎に向かって深く頭を下げた。

 「申し訳ありません、何か行き違いがあったようです。今からご案内致しますので私に付いて来てください」

 清次郎は胃痛が和らぐのを感じた。

 いきなり現れた身だしなみが整っている端正な顔立ちのアリサという女性は、清次郎が欲しかった言葉はこれ以上なく完璧に言い当てたので、彼にはアリサの存在自体がまさに天から差し伸べられた救いの手のように見えたのだ。

 「え、就任式ってなんですか?」

 一方、案内役の本田には初耳のことだったようで、先ほども清次郎に見せていた『何を言っているのかよくわからない』という感情を全身で体現させていた。

 「なに寝ぼけているんですか。新しい所長が来るから当然でしょ?」

 「え、そうだったんですか……」

 どこから突っ込めばわからないほど深刻な無知っぷりを見せる本田にはアリサというやり手の女性も手に負えないようで、彼女は冷徹とも見える自分の無表情を少ししかめて、指で眼鏡を押さえながら本田に聞いた。

 「本田さんに案内役を任せたのは課長の人選でしたよね。何も聞かされてないんですか?」

 「お前はとにかく付きっきりでいればいい、だったかな」

 「……あのくそ肥満タヌキめ」

 本田の言葉を聞いた途端に悪態をつくアリサに清次郎はビクッと驚いたが、二人の会話に出てくる人物が誰だか気になったので、少し苛立っているように見えるアリサの様子を伺いながら質問した。

 「課長って…?」

 「本田さんの父方の叔父です」

 「ああ……って、え、本田さんの?ここは本田家かなにかです…?」

 まさかの事実に一步遅れて驚き、研究所が親族運営になってるのではと懸念する清次郎だったが、アリサは頭を振って答えた。

 「いいえ、今では総務課長だけです。前任の所長はもうなくなりましたから」

 「ええと……」

 「心臓疾患だったようです」

 淡々と事実を告げるアリサに清次郎が返答に困っていると、また後ろから人の声が聞こえて来た。

 「あ、ここにいらしてましたか!」

 中年の特有の脂ぎった声の主人は、その声から容易に想像できるような小太りの中年男性で、そのふくよかな顔には似合わないちょび髭を揺らせながら小走りで近づいてきた。

 三人の注目を浴びながら清次郎の前で止まった中年は、少し息を切らしながら笑顔を見せた。

 「いやいや、初めまして。わたくし、総務課長の本田洋介と申します。こうしてお目にかかること待ちわびていましたよ。なにかご不便なことがありましたらなんなりと言ってください。いやはや、新しい所長はなんとまあ、お若いのに優秀ですと聞いております!だからわたくし、所長を見た瞬間、これで我が研究所も安泰だ!と確信しました!ははは!あ、すでにご存知かも知れませんが、こっちは同じく総務課の英一郎です。気の抜けたように見えるけど、しっかりしてる奴ですよ?ははは」

 人に喋る暇も与えずに、騒がしく、かつ馴れ馴れしく自分を紹介する総務課長。

 清次郎は手を奪われるように握手されて、本田は彼の手によって強制的にお辞儀させられる。

 「は、はい……」

 総務課長の勢いについて行けず、かろうじて頷くだけの清次郎の横で無表情に戻っていたアリサが総務課長に聞いた。

 「所長を探しに来たんですか?」

 「おお、アリサくん丁度よかった。話があるので来てもらえるかね」

 「いま所長を大会議室に案内しようとしたところなんですが」

 「それはいいから」

 どうやら総務課長は最初からアリサを探しいたらしく、清次郎の置きっ放しにして二人の会話を始める。

 雑に扱われることだけはいつまで経っても慣れない清次郎は、その疎外感を耐え切れずに総務課長に言葉を掛けた。

 「あの……」

 「いやー、申し訳ないです所長。何やら下の連中が怠けているようで少々就任式の準備が遅れてしまっていて……わたくしがしっかりと躾けるべきでしたが、最近の若者といのはなかなか難しいもんで……許してやってください!」

 「あ、大丈夫です。はい」

 「そうですか!なんと心の広いことで!あ、失礼ですが少しだけこのアリサくんと話がありますので。いやいや、心配しないでください。大事な話ではないんですが、個人的なものがあって。ええ、はい。ははは、ちょっとで済む話なのですぐ帰します」

 しかしせっかく掛けた言葉も上手く交わされて、やがて総務課長はアリサを清次郎が何も聞けないところまで連れて話を始めた。

 残された清次郎が何とも言い難い寂しさに空中に手を泳がしていると、ただ佇んでいただけの本田が呟いた。

 「なんの話ですかね」

 「さあ……私に聞いてもね……」

 それっきりに口を開くことがなくなった二人がアリサが戻ってくることだけを待っていると、数メートル先で話していたアリサが大声を上げた。

 「それなら早く第二種封鎖命令を出さずになにしてるんです!」

 「ちょっと、アリサくん!声が大きい!」

 「なんのためのマニュアルなんです?!大体、二級隔離対象の魔王がなんでここにいるんです!」

 「それは二研課長の奴が……」

 何か穏やかではない話が繰り広げられていることを感知した清次郎だが、個人的という総務課長の言葉を思い出して近づこうとはしなかった。

 しかし怒声は続き、清次郎がその物騒な雰囲気に焦ってどうするべきかと悩んでいると、アリサが総務課長との話を終えて彼に駆け寄って来た。

 「すみません所長。いま隔離対象のF個体がこの建物の中に侵入しているので、すぐに封鎖が始まります。安全な場所に案内しますので付いて来てください」

 「え」

 いきなりの展開に戸惑った清次郎が間の抜けた声を漏らすと、

 「え」

 一步遅くアリサの言葉を理解した本田が引き継いで間抜けな声を出した。

 『お知らせします、この建物には第二封鎖命令が出ています。対応班を除いた館内の人達は速やかに指定された場所に避難してください。繰り返します――』

 緊張感を煽らせる案内放送が建物の全区画に響き渡る。

 うるさい警告音と建物の全域に設置されていた緊急用の遮断シャッターが下ろされる状況は外部人に近い清次郎にはパニックに陥りそうな展開だったが、そんな彼を誘導してくれているアリサという頼もしい女性のおかげで辛うじて理性を保つことが出来た。

 アリサに誘導されて到着したのは所長室と書かれた名札の部屋。

 清次郎は思わぬ方たちで訪れることになった自分の執務室を眺める余裕もなく、不安を抱えてアリサにこれからどうするべきか聞きたがったが、アリサは携帯で誰かと電話をしていた。

 総務課長と本田もまた彼の隣にいたが、清次郎は彼らに説明を求めようとはせず、アリサの電話が終わること待つ。

 「はい、すぐに所長室に来てください」

 短い会話で通話が終わると、清次郎は心細さを隠したそうにアリサに聞いた。

 「これからどうするんです?」

 「第二封鎖命令を含めて、緊急時には所長と各課長、最低でも所長と警備課長とその他の課長級の人物と“緊急対策本部”を立ち上げることになっています。この場合は本館に侵入したF個体に対する対策本部になるでしょう。そしてそういう対応には大体警備課の人間が行います。名前は警備課ですが、実務部隊と言ってもいいです」

 緊急状態というのに相変わらずの冷静さを見せるアリサの存在はそれだけで清次郎に安心を与えるものだったが、彼女の言葉に含まれている単語の物騒さと、今まで懸念していた“極秘”に関する漠然とした懸念がその安心感を僅かに上回っていたので、清次郎はパニックになりそうな

 「そ、そんなに危ない状態ならここだって危ないんじゃ」

 「対策本部は基本、この所長室の下にあるセーフルームに設置されるのが原則ですが、まだセーフルームに篭もるほどの状態とは判断されていない上、警備課長がもうすぐこっちに着くと思うので少々お待ち下さい」

 「で、でも……!」

 簡潔で非の打ち所のない答えだったが、気が小さい清次郎にはまだ完全に安心することが出来ないようで、彼は不安で震えながらアリサに助ける求める視線を送る。

 四十路のおじさんが十年以上年が離れた女性に縋り付く場面だった。

 それを側から見ていた総務課長が自分の甥である本田に耳打ちをした。

 「英一郎、所長がご不安だそうだからなんか気を紛らわさせて来い」

 「僕がですか?はあ……」

 急な命令に自信なさげに答える本田だったが、叔父の言うことに逆らうわけにはいかなかったので、不安がる清次郎に近づいてこういった。

 「所長、スマホゲーやります?」

 清次郎はその提案をどう思ったのか、何も答えず本田を見つめた。

 その様子から彼の提案が歓迎されていないことはその場の誰でもわかるものだった。だが、ただ一人、提案した本人である本田だけがその事実に気づかずに話を続ける。

 「これ僕のアカなんですけど、やることは簡単なんで。まず――」

 「本田さん、下がって」

 「はい」

 結局、天然っぷりを撒き散らす本田を見かねたアリサが彼を制止し、アリサが苦手な本田はあっさりと引っ込んだ。

 短くため息をついたアリサは行為はともかく、本田の意図を汲みとって清次郎に手帳のようなものを渡す。

 「緊急時の行動マニュアルです。所長用は別にありますが、今はとにかくこれを持ってください」

 たとえ無用なマニュアルでも持ってるだけで安心感を与えるには十分な代物であると思ったからの行動だったが、清次郎にはうってつけのものだったらしく、彼はアリサから受け取ったマニュアル手帳をさっそく開いた。

 目次からそれらしい項目を見つけた清次郎は素早くそのページを見通した。

 *封鎖命令の場合

 -封鎖は各研究施設の内部と外部の場合を分けて想定し、外部の封鎖、つまり施設全体の完全封鎖を第一種封鎖、各建物の封鎖を第二種封鎖とする。

 清次郎が見つけたページは状況にビッタリな項目だった。

 鳴り止まない警告音が耳障りだったが、清次郎はあえてその音を無視してマニュアルを読み続ける。

 (第一種は結構長いな……今は第二種と言っていたし、まずそちらから読むとしよう)

 -第二種封鎖命令の発令と同時に各施設は設置された封鎖装置によって自動的に閉鎖される。内部の人間は対応班を除き、すべての人員が指定された避難場所に移動する。

 -封鎖命令の解除までの――……

 (結局避難して待機することが全部だな……)

 アリサから受け取ったマニュアルは一般事務職員用のものであるため、それ以上の内容が書かれるはずがなかったが、清次郎は期待はずれの感を否めなかった。

 それでもっと自分を安心させるものはないのかと清次郎がまたアリサに縋ろうとした時、ガタッとドアノブが回って所長室に人が入って来た。

 「まったく、また誰がやらかしたんだよ」

 現れたのは図体の大きい眼帯の男。

 短い髪に険しい顔をしている彼は警備課の制服に思える服を着ていたが、所長室の誰よりもこの場と似合わない異質的な感じで、清次郎は見た目だけで威圧されてしまった。

 固まってしまった清次郎を傍らに、総務課長が特有のノリで口を開いた。

 「おお、村井くん!遅かったじゃないか。こっちはもう待ちくたびれたのわかっているのかね?おかげでこちらの――あ、そうそう。挨拶から入らないといかんな。申し訳ありません所長。どうも年が年なので……いえいえ、大丈夫です。あ、いま入って来た男が警備課長の村井太一君です。ちょっと見た目はあれですが実力は確かなものだから心配せずとも。はい。さあ、村井くん。こちらが今日から新しく所長として赴任された方です。早く挨拶しなさい」

 「新しい所長さん?あ、どうも、警備課長の村井です」

 「あ、はい、どうも……」

 総務課長の話に飲まされるように二人はぎこちなく挨拶を交わした。 

 だがそれからどうしたらいいのかわからずにいる清次郎に、アリサが自分に任せれば大丈夫だとなだめてから警備課長の村井の方に向き直った。

 「警備課長、現場は?」

 今日来たばかりの清次郎はともかく、総務課長でもないアリサが場を仕切っていることに村井は疑問を抱くこともなく素直に答えた。

 「さっき電話した時に準備は終わったって言ったから、着いたんじゃないか?」

 そう言ってズボンの後ろのポケットから無線機を取り出して通信を試みる村井。

 「ふー。こちら課長、現場の人員は状況を伝えろ」

 するとすぐさま無線機から返事が帰って来たので、村井はその場の全員に聞こえるように音量を上げた。

 『課長、こちらチャーリー。就任式のために集まっていた事務部と研究部の人員は全滅、我々警備課も会議室に遅刻した二名を除いては……あっ!三研課長、だめです!今は開けては――ザザーッ』

 無線機越しに聞こえて来た緊迫な警備課の人の声と途切れた通信から、状況がかなり深刻であることを素人の清次郎にも感じ取られた。

 しばらく誰も言葉を話すことなく静寂が所長室を包んだが、すぐに新しい無線の通信が入った。

 『こちらチャーリー。三研課長も犠牲に。オーバー』

 「ジジイ……対象の確保は出来そうか?」

 酷い知らせを聞いて無念さを堪えるように呟く村井。 

 清次郎にはジジイというのが誰を指しているのかわからなかっだが、村井の無念さは自分にも伝わったと思った。

 しかし同時に、いったいどのような惨劇が起こっているのか、清次郎には想像も及ばず、彼の指先は微かに震えていた。

 『現在動ける人員が二人しかいない上、現場が凄まじい状況になっているため、処分許可を要請する。オーバー』

 「わかった。命令が出るまで待機しろ。……だそうだ」

 村井はそこで通信を止めてアリサと所長になった清次郎に視線を向ける。

 「処分って……」

 またしても物々しい言葉に清次郎が困惑していると、今や彼にとっては専属補佐官のような感じになってきたアリサが説明を始めた。

 「こちらの了承なく隔離状態から放たれた個体は確保が基本ですが、確保の見込みがない場合はあらゆる手段で処分することになっています。もちろんその時は所長の認可が必要です」

 要するに手に負えない個体が騒ぎを起こす前に処理するという、研究所からすると至極当然な行為とのこと。

 だが今の清次郎にはその行為の正当性や合理性などはまったく眼中にないもので、彼の頭の大半を占拠していてるのは手に負えない事態のことというのがいったいどういうものなのだろうという恐怖で、それが元々気が弱い彼の不安を増幅させる。 

 「いったいどんな危険な存在だと言うんだ……!?」

 以前なら触れることもなかった未知の領域に足を踏み入れた清次郎は、得体のしれないF個体というものがもたらす脅威に取り乱す。

 すると、その様子を見ていたアリサが表情を変えることなく静に答えた。

 「ハエです」

 「え」

 清次郎は何度目かわからない間抜け声を出した。

 「通称『魔王』。十年前に首都港の貨物船から確保されたF個体です」

 「ま、魔王って……」

 清次郎の反応は構わなしに説明を続けるアリサ。

 しかし自分が想像していた答えとはまったく異なるその説明に、清次郎は話について行けずにいた。

 「管理番号089。二研からの報告によると、生体的な特徴はクロバエ科のキンバエに酷似しているとのことで、同一種と見ても問題はないそうです」

 「あんなのただのクソバエですよー……すみません」

 アリサと会ってから言葉数が少なかった本田が何か喋ったと思ったら、アリサに睨まれてまた口を閉ざした。

 「研究所で089の事を認識したのは十年前に届いたある情報からです」

 「情報…?」

 どうにか話に付いていこうと清次郎が疑問を口にする。

 「港湾一帯が糞まみれになったという情報です」

 「え」

 「当時の件は世間には食中毒の流行ということになっていますが、なにせ港湾で漏らした全員がなんの予兆なくその場で漏らしてしまったわけですので、バカげた話だと見過ごすにはわけにはいかず、とりあえず真相を調べると、F個体に分類されるべきだと情報課が判断しました。それから確保して今に至るということです」

 遠慮のない表現をしながらも要点を押さえて説明するアリサ。

 「今まで判明したのは089の羽ばたきの音から発生する音波が否応なく強力な排泄促進作用があり、誰もが音を聞いた同時に漏らすことが確認されています。数十回に及ぶ実験データもあるんですが、それは第二研究科から持ってこないだめですね」

 滞り無く進むその説明に段々清次郎の頭も整理されてきた。

 自分が懸念していた極秘の未知生物による凄惨な惨劇は行き過ぎた想像で、現実は多少深刻ではあるがどうしようもなくはない、自分がいつも対面していた職務上の問題と似ているようなものだったことを受け入れる清次郎。

 全滅とか、犠牲とか言っていたのはそういうことだったのかと、彼は紛らわしい会話をしていた警備課の人を恨めしく見つめるが、警備課長の村井はこっちを向いてもいなかったので、清次郎はため息をついてアリサとの話に戻った。

 「そう……いう問題ならその、いま現場にいる警備課の人も、危ないのでは?」

 「089に関する非常時のマニュアルはまず研究所特製の下剤で蔵内の内容物を予め空にして、オムツを着用することが前提となっています」

 その方法が一番有効な方法であることは清次郎にも納得できたが、想像するとなんとも言えない気持ちになったので、彼は頭を振って今までの話を整理した。

 「えっと、話を整理すると、就任式の予定だった大会議室はいま……」

 「ええ、あそこはもうクソのたまり場です」

 オブラートに包むつもりは毛頭もないアリサに清次郎がしばらく言葉を失っていると、

 「どうします?処分なり確保なり、早くした方がいいですぜ」

 村井が事態解決のための決断を催促した。

 警備課長の視線が自分に向いていることに気付き、自分が決定権者であることに思い至った清次郎は、その事実を少し負担に感じながら慎重な態度で質問した。

 「処分というのは具体的には何をするのかな?」

 「ハエジェットです」

 日本刀のように切りが良いアリサの返事。

 その切り味に戸惑いながら、清次郎は自分がどんな意図で質問をしたのかを説明する。

 「いや、でも089は管理対象だからそう簡単に殺してしまってはまずいのでは……」

 「ああ、それなら心配無用です。正確に言うといま大会議室にいるF個体は十年前に捕らえた個体の子孫個体ですから。元個体の子孫の中で希薄な確率で排泄促進の能力が発現するようで、正式な番号はたぶん“089-三桁の数字”です」

 だがやはりきりよく返されたので、清次郎はここで慎重になってもあまりがないと諦めてぼそっと呟いた。

 「まあ、だったら処分してよ……」

 言葉が終わると同時に、命令を待っていた村井が素早く無線を飛ばした。

 「ああ、こちら課長。処分の許可が出た。速やかに実行するように」

 『課長、こちらチャーリー。了解した』

 現場の警備課隊員が命令を受けて通信が終わる。

 清次郎が現場で行われる作戦行動を想像しながら、どれくらいで終わるのかと推定してみようとしたら、さほど時間が経たない内に現場からの通信が入った。

 『課長、こちらチャーリー。対象の処分に成功した。アウト』

 「オッケー。ご苦労さん」

 こうして、赴任した初日に清次郎をパニックさせた緊急事態は、彼が処分命令を出して十数秒のうちに解決された。

 「どうします?現場に行ってみます?」

 処分作戦が終了した直後、警備課長の村井がそう言い出したのでつい頷いた清次郎だが、アリサを含めて他の三人は他の用事があると断ったので、動揺してしまう清次郎。

 特に他の誰でもない本田が用事で抜けると言い出したことにはさすがの清次郎でも苛つきを覚えたのだが、だからと言って一緒に行ってもいいことはなさそうなので大会議室には村井と清次郎の二人で行くことになった。

 二階に上がる途端、臭ってくる悪臭に早くも後悔する清次郎は、通路の向こうで三階に上がる人の列を見つけた。

 「本館にシャワー室が三階にあるんですよ」

 村井の説明にそのむごたらしい人の行列の意味を理解した清次郎が心の中で彼らを慰めると、大会議室の方から一人の男が近づいて来た。

 まるで軍の戦闘服のように重装備をしている彼は、その様子に合わせたように警備課長を見て節度ある敬礼をして来たので清次郎はビクッとしてしまう。

 「課長、お疲れ様です」

 「おう、それで今度は誰がやらかしたんだ」

 「その、証言によると二研課長が……」

 「まあ、クソバエって時点でそうだろうとは思ったよ、まったく……あ、こちら新しい所長さん」

 側にいる清次郎のことは気にせず会話していた村井は、部下の視線で今さっき思い出したように清次郎を部下に紹介させた。

 「はっ、私は警備課の第三中隊所属の浜口勝也と申します。よろしくお願いします!」

 「あ、はい。よろしく……中隊?」

 またしても節度ある敬礼で硬い挨拶をしてくる警備課の隊員に戸惑いながら、気にかかるところを口にすると村井が気にすることないように答えた。

 「便宜上のものです、便宜上の。それより、今回の元凶に話を聞きますか。中にいるよね?」

 「はい!」

 誠実そうな部下に案内されて大会議室に入る二人。

 ドアを開けた瞬間見えたその惨状に、気の弱い清次郎は吐き気を催して口に手を当てる。

 その不愉快で嫌なものから目をそらした清次郎が横を見ると、強靭で強者の警備課長も思いっきり顔をしかめていた。

 「なんであそこにじっとしてんだ」

 村井の言葉につられた清次郎が会議室の中に視線を戻すと、ちょうど惨状の真っ只中にいる白衣を着た人の姿が見えた。

 なんとか吐きそうなのを耐えながら汚物地獄をかき分けて白衣にの人物の前にたどり着いた清次郎と村井。

 「なんでここに座ってんですか」

 少し苛ついた声で村井が聞くと、

 「こ、こんな状態で、う、動きたくない……」

 蒼白な顔色に、目の下にはっきりとクマが出来ている短髪の若い女性がどもりながら答えた。

 「こうしたのはアンタでしょうが……なにしたんです」

 「さ、散歩したいって言うから、ぼ、防音瓶に入れて来たけど、おとしちゃって……へ、へへ」

 怪しげに笑って答える犯人の様子に、清次郎は彼女がもとから話すのが苦手であることに気づいた。しかし話し方は置いといても、その内容が正気を疑いたくなるもので、色眼鏡で人を見たくない清次郎にも、白衣の彼女はあまりまともな人には見えなかった。

 「本当に勘弁して下さいよ。新しい所長が来て早々なんですかこれは」

 警備課長の責務でキッチリ事情を問いただしてはいるが、村井も人間なので一秒も早くこの場所から離れたさに少し切れる。

 「ご、ごめんさい」

 村井の言葉にビクついて謝る二研課長。

 その様子にそれ以上叱咤する気はなくなった警備課長は、ため息をついた。

 「はあ……付きっきりの彼はどこ行ったんです?」

 「きゅ、休暇だって……」

 「だからかー。仕方ないな」

 何が仕方ないものであるか清次郎にはわからなかったが、来たばかりの自分が知らないことがあるのは当然なので、あえて聞こうとせずに流した。

 もちろんその心はこの場所から逃げたいという強い意思である。

 それから村井はさっきと同じく清次郎を二研課長に紹介し、清次郎は彼女の名前が白石小森ということを知った。

 「は、初めまして、所長……あ、あの、言いたいことが……」

 「なんでしょう?」

 こんな時だからこそなるべくいい印象を与えたいと思った清次郎が笑って聞き返すと、白石はとんでもない事実を伝えた。

 「あ、あの、わたしが連れて来たのは、に、二匹なんだけど」

 「?」

 白石の言葉をすぐには理解できなかった清次郎が顔をかしげたその時、清次郎の耳にハエが飛ぶ音が聞こえて来た。

 「あ、くそ」

 警備課長が悪態をついて手で顔を覆う。

 それと同時に清次郎も状況を把握したのが、すでに弛緩していく筋肉を止めるすべもなく、彼は温かいそれを感じながら、ただ強く思った。

 (ああ、引退したい)

 しかし神田清次郎の親環境厚生研究所所長としての日々は、いま始まったばかりだった。

 流れる汚物を立ったまま感じながら、村井は清次郎に握手を求めて話した。

 「まあなんだ、これからよろしく頼みますよ、所長」

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