四 大合唱
アダムは民家の主人にとある物事を耳打ちし、最初は渋っていた主人だがついに頷くと家の奥から一通の手紙を持ち出してきてアダムに手渡した。
さて、アダムはこの手紙を持って王城へ向かおうとしたのだが、今行ってはおそらく先着三十人の中に入ってしまうことに気づき、時間を潰すために引き返してその家に上がりこみ「よく晴れた天気を快晴と呼ぶが暑すぎるとそれは快ではなく不快であり従って不快晴と呼ぶべきであるかどうか」について主人と侃々諤々喧々囂々の議論を交わした。議論は白熱し、やがては隣家の主人や斜向かいに住む学者、大学教授、高等遊民、その他諸々の知識人を交え他一大弁論大会となり、ついに素人の筈のアダムに言い負かされた大学教授が一人発狂して鉄道唱歌を歌い出した。
「汽笛一声新橋をはや我汽車は離れたり」
不毛な議論を意味もわからず見守っていた一般人たちはこれ幸いと輪唱を始め、隣家の主人は自慢の歌声を見せつけ、いや、聞かせつけようとした。
「愛宕の山に入りのこる月を旅路の友として」
まだ議論を続けていた者たちも懐かしのメロディに酔いしれ、いつしか口ずさみ始め、やがては大口開けて歌い始める始末。
「右は高輪泉岳寺四十七士の墓どころ
雪は消えても消えのこる名は千載の後までも」
騒ぎを聞きつけた王都楽団が各楽器を携えて駆けつけ、ついに王国一と称される指揮者までもが指揮棒引っ提げて颯爽と登場し、その場は上へ下への大混乱。
「窓より近く品川の台場も見えて波白く
海のあなたにうすがすむ山は上総か房州か」
プロによる素晴らしい伴奏が始まり、がなり立てていた人々もこりゃいかんと丁寧に歌うようになり、ついには即席合唱団、猫も杓子もその家の周囲に集まっては演奏と歌声に聞き惚れた。
「梅に名を得し大森をすぐれば早も川崎の
大師河原は程ちかし急げや電気の道すぐに」
さて、いい気になって歌っていたアダム、ここではっと我に返ってそういえばそろそろ行ってもよかろうと思い立ち、気持ち良く歌い続ける人々の間を抜けて駆け出した。
さて、王城の門の前に立つ衛兵、アダムの姿を認めるとこう言い放った。
「遅かったな。しかし運が良い。貴様で三十人目である。さあ、最後の一人として貴様に出した指示通りのものを我らに捧げよ」
呆然とそれを聞いていたアダム、もう少し歌い続けていればよかったと歯噛みしたがもはや手遅れ、仕方なく主人より受け取った一通の手紙を衛兵に差し出した。
「何だこれは。私は甘いものをもってこいと言った筈だ」
「これは何だ。私は苦いものをもってこいと言った筈だ」
衛兵たちはアダムを叩き出そうと迫ってきたが、アダムは落ち着き払ってただ一言「読んでみるがいい」とだけ述べた。それを聞いた衛兵たちは封を解き、額を付き合わせて手紙を読み始める。やがて読み終わった衛兵の片方、やや顔を赤くしてこう言った。
「確かに甘い」
「甘いはずである。それは主人がかつての想い人に送ろうと一晩かけて書き上げた、ラヴ・レタアの中のラヴ・レタア。そんじょそこらの人間が読めば余りの甘さに顔面自然発火間違いなしの代物であり、それをその程度の温度上昇で抑えるとはさすがは王国の精鋭たる衛兵、大したものだ」
アダムは衛兵を褒め称えた。しかし、もう一人の衛兵は顔を修羅のように変化させてアダムに迫った。
「これはちっとも苦くない、指示に即していないではないか」
アダムは平然として、またも一言だけこう述べた。
「いいや、これは苦いのだ」
衛兵は動きを止めた。
「理由を述べよ」
「その想い人は既に別の男性の妻であった」
それを聞いた衛兵、深く頷くと呟いた。
「苦い」
アダムは腕組みをして衛兵に向かって叫んだ。
「然り。この手紙はとろけるように甘く胸を刺すように苦い。これが指示通りでなくて一体何だというのだ」
二人の衛兵は顔を見合わせ、頷き合った。
「相違ない」
「進むがよい」
こうしてアダム、ついに王城に足を踏み入れたのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます