2:シャープペンシル

 やってしまった。椅子に座った少女は小さくため息をついた。手に握ったシャープペンシルがかすかに揺れる。少女は大きな円形になったテーブルの前に腰かけていた。大人数が座れるようになっているテーブルには、少女と他にも数人、本や筆記道具を持った人たちの姿。円の中央には、生気を感じないドライフラワーの大きな観葉植物が配置されている。そして少女の手元には一冊の本と、途中で途切れた書き込みがしてあるルーズリーフが一枚。さらにルーズリーフの書き込みが中断された部分には、ゴマ粒のような大きさをした折れたシャープペンシルの芯があった。

 とんとん、とシャープペンシルの頭をノックすると、ペンの先からひょっこりと黒い芯が、まるで何かから解放されたかのように勢いよく飛び出す。長さにして一センチあるかどうかといったそれは、ルーズリーフの上に着地すると、ころころと転がって折れた芯の横に並んだ。

 親子並んでいるみたいだ、といった感想を眼前にある光景に抱いた少女は、思考を現実へと引き戻そうと軽く頭を振った。

(最後の芯がなくなっちゃった)

 椅子を引いて机の下に置いてある鞄から筆箱を取りだそうと、体を潜らせたその時、ほわほわとした暖かな空気が少女の顔に当たった。湿り気のない、乾いた温風が机の下から排出されている。風の吹いている方向に目線を向けると、格子状になった枠が取り付けられた排出口が見つかった。暖房設備のようだ。規則正しく、常に一定のリズムで少女の顔面へと空気を吹きつけ続けてくるそれを数秒だけ眺めた後、本来の目的である筆箱を鞄からだして、机の上に設置。筆箱の口を閉じているファスナーをゆっくりと引き、慎重に中身を漁るも、シャープペンシルの芯は見当たらない。やっぱりか、と声に出さないよう口だけを動かすと、ぎゅっと目をつぶった。瞼の裏にじんわりとした感覚が広がる。乾燥した風に当たっていたため、目の潤いが失われていたのだろう。

 空気自体はこんなにも暖かいのに、自分の目にこんな仕打ちをするなんて、。シャープペンシルの芯がないことへの八つ当たりの意味も込めて、少女は心の中で独り言ちる。

 試験が近いのだ。少女の所属する大学の、今年入学した大学の、後期の試験が。

 少女は生粋の文系で、入った学部はまったく理数系を用いない学部だ。だからなのか、大学の試験は、内容にもよるがよっぽど専門的でなければちょっとした勉強で事足りる。普通ならば何ら焦ることはない。たかがシャープペンシルの芯を忘れたくらいで今のようにしょげるのがおかしいのだ。今少女は大学の図書館にいるから、ちょっと購買まで行って芯を買ってくればすむ話である。この程度の出費をためらうほど大学生の懐は寂しくない。

 だが、今回は常と異なり、そのちょっとした時間の消費を惜しまなければならない状態だった。

 理由は簡単、少女はスケジュール管理を失敗したのである。

 大学生ともなれば、あらかじめきっちりと予定を立てて、それに沿って行動するのが、女子にとってはほぼ当たり前だ。時たま勢いで予定がいの外出などをしてしまうこともあるけれど、大したダメージになることはない。

 ……ただしそれは試験が近づいていなければ、の前提付きである。

 要するに何が言いたいかというと、試験期間に勢いだけで遊んでしまい、現在そのしっぺ返しを食らっている、というだけの話である。

(やらかしたなあ、完全に)

 いっそのこと、遊んじゃったからその分試験先延ばしにしてください、そういってしまおうか。いや、そんなものが通用するわけがない。冗談交じりで言ったらどうだろう。いや、冗談だと思われるだけだ。テストもきっと基準点に届かないとアウトだろう、温情など見込めないに違いない、あの先生、冷たいからなあ。きっと冷酷に結果を下すはず。

 今するべきは勉強することのはずなのに、その本題はどっかにいってしまって、少女はうんうんとうなりながら思考の海に沈みはじめる。単位を落とした時のことを考えると、少女の背筋に冷たいものが走った。しばしののち、少女は決意する。うん、芯買って来よう。時間もったいない。そうやって、立ち上がろうとしたときだった。

「あの」

 少女の隣の席で勉強していた男性が、少女に向かって小声で話しかけてきたのだ。今決心したところだったんだけど、と少女は出鼻をくじかれた思いになる。「なんですか」と努めて笑顔になって聞いてみると、男性は静かに、あるものを少女へと差し出した。

「これ、使いますか」

「……えっ」

 それは、シャープペンシルの芯だった。

「いいんですか?」

 少女が問うと、男性はにっこりと微笑み、ええ、とうなづく。思わぬところから差し出された救いの手に、少女はちょっとうれしくなった。

「ありがとうございます!」

 小さな声で感謝をめいっぱい伝えた少女に男性は笑みを深め、こくりと首を動かして、テーブルに向きなおり勉強を再開する。それを見た少女も気持ちを切り替えて試験勉強に臨んだ。

 なんだかあったかい気持ちになれたあ、そんな風に思いながら、ルーズリーフに書き込み続ける。 勉強が終わって家に帰る頃になるとすっかり日も落ちて、とても寒かったけれど、少女の心の中は小さなぬくもりにあふれていた。

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