超短編玉手箱(習作)

@ptarou

1:コーヒーと砂糖

 男は口につけたコップを傾けて、その中身を口内へ流し込んだ。灼熱の液体が舌の上を通りすぎていく。口からコップを離すその間にも、液体は喉を通過する。おなかのあたりまでたどり着くと、じんわりとその熱を体全体に伝えた。

「ふぅ」

 一つ息を吐く。吐息に混ざる渋い香りが鼻を刺激した。自分の口のにおいがどうなっているか、なんてことは、普段ならば気づくことなどできない。自身の口から出る息は、空気のように無色透明かつ無味無臭で、気づくことができないものである。だというのに、今に限ってそれを知覚しているのは、おそらく、吐き出される空気が今飲んだものによって色付けされたからなのだろう。

 男はじっと手元を覗き見る。コップの中には、黒い液体。もくもくと白い湯気をたてているそれの名前は、ブラックコーヒーといった。

 都内のコーヒーショップ、全国にチェーンしている店舗のうちの一つに男はいる。今は、仕事の休憩時間だ。店舗内に掲げられた時計が、ちょうど12を指している。本当なら昼食を取るべき時間なのだが、男にはその気はない。男の職場はハードなところで、土日にも平然と仕事がある。今日もついさっきまで、ほぼ休む合間もなく働きづめだった。どうにか一休みする時間は確保できたから、仕事場から離れて休憩しているのである。ただ、まだやるべきことが残っているため、食事などをして気が抜けるのだけは避けたい、でも何か口にはしておきたい。その葛藤の結果がコーヒーなのだ。ただし、選んだ理由はカフェインで眠気が飛ぶからで、コーヒー自体も別に好んで飲んでいるわけではない。

 コーヒーをみつめる。学生時代はコーヒー、ましてやブラックなぞ一口も飲んだことなかった。だが今では平然と飲むことができる。昔の自分が、白い砂糖を入れてようやく飲めるような、漆黒の液体。真っ黒なその色合いは、学生時代に何か暗いものを感じさせていて、それは自らとは無縁の遠くにあるものだった。けれども社会に出た今は、昔は受け入れられなかったこの暗さを、望んで飲み干している。受け入れている。甘さを持っていてはいけないのだ。何も知らない真っ白な甘さは捨てて、すべてを理解する真っ黒な苦さが必要なのである。

 しばらくコーヒーを飲みながらのんびりしていた男だったが、ポケットが何やら震動し始めたことがわかると、顔つきを険しくした。震えるケータイをポケットから取り出す。メールが届いている。「……ふぅ」

 メールの内容を確認した男は長く息を吐いてからコップを見る。まだ半分ほど残っていた。そして、はぁ、とため息をつく。

 それからしばらくすると、男はほんの少しだけ中身の残ったカップを店員に渡して、店の出口に向かう。店の出入り口は自動ドアで、近くに立てばすぐに開く。ゆっくりとドアの前で立ち止まると、ぼそっと口を開いた。

「やっぱり甘さもないとやっていけねえよ、苦しさだけじゃ」

 男のつぶやきは、自動ドアの開く音にかき消されるほどに小さい。どこか哀愁を漂う背中が、町の中に消えていく。

 店の中で男がコップを受け取った店員が、中身を捨てようとコップを傾けると、中からどろりと、固まった砂糖がこぼれ落ちた。

 

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