4:競馬
「競馬」とは、文字通り、競う馬たちを眺め、その行く末を見守る競技である。性質上賭け事の要素を多分に含んではいて、それがこのスポーツの人気に貢献しているのは疑いようはない。それでも、我先にと走り続ける競走馬たちの力強い姿、その生命の輝きは、金銭に関わるあれこれを度外視して、見る人を魅了するものだ。
とある競馬場にてレースの行く末を見守る少女、水原沙織という名前の彼女が競馬場を訪れるのも、他のでもない、その輝きに魅了されたからであった。
「……!」
沙織の眼下には、一面緑色をした、馬たちの戦場があって、今まさに戦いの真っ最中だ。沙織は、戦場の中の一頭、先頭集団から少し離れたところで必死に追いすがっているとある馬の姿を、真剣な面持ちで見つめていた。
「彼女」のことを沙織が初めて知ったのは、ある日曜の昼、食事を終えてテレビをつけた時だ。電源をつけたら、たまたま競馬中継が流れていたのがきっかけである。もとより競馬に興味のなかった沙織が、特に気にせずチャンネルを変えようとしたとき、テレビから聞こえてきた実況中継が、沙織を思いとどまらせた。
「8番、サオリレディー、今日も最下位でした」
リモコンを持つ手が、ピクリ、と震えた。
液晶に映る幾頭もの馬たち。その中の一頭に、なんとなく視線が向かう。沈んだ表情の騎手、8番という数字、なんとなく、チャンネルを変える気にはならなかった。
すぐさま沙織は、自分と同じ名前をした馬のことを、手元にあるスマートフォンで調べた。名前はサオリレディー、性別はメス。そして生まれ育った県が沙織と一致していることがわかると、沙織はその馬の走る姿を直に見てみたくなった。そして翌週、近くの競馬場で「彼女」が走ることを知ると、知人との予定をキャンセルして、競馬場へと足を運んだ。自分と同じ名前の彼女に、どことなく期待しながら。
結論から言えば、サオリレディーは弱かった。はじめて行った競馬場で、初めて買った馬券は、最下位という結果だけ残して、只の紙くずになった。それから沙織は彼女のレースを欠かさず確認するようにしたけれども、「サオリ」は、いつも最下位だった。
同じ名前をしたあの馬に、どこか自己投影をしているのだ。沙織は自覚している。契約社員として企業で事務仕事をしている沙織は、社会では「負けている」方に入るだろう。最近法律が変更され、契約社員は特定の期限を過ぎると解雇されることになった。タイムリミットは近い。そのうち職を失ってしまうだろう。恋人もいない一人暮らしの沙織は、人間社会という巨大なレース場において、後塵を拝しているのである。あの「サオリ」同様に「沙織」は、みんなの中で後ろのほうだった。
そんな自分だからこそ、同じ名前をした彼女に、どこか期待してしまう。彼女が最下位を抜け出したその時、「サオリ」が自らの力を示したその時を待ち望んでいるのだ。サオリが走る姿。その躍動感、力強さを、「沙織」は良く知っている。今は良い結果を出せていないけれど、「サオリ」が放つ生命の輝きは、他の馬たちと比較しても遜色あるものではない。彼女に、「さおり」もやればできるのだというところを見せてほしい、そんな願望を抱いているのである。
今も、自分の目の前で力を振り絞り、緑の上を駆け抜けるサオリの姿が見える。いつの間にか、一年近くの付き合いになった。自分の立っている場所からでは手のひらほどの大きさでしかない彼女。今回のレースはどうなるのだろう。「サオリ」は、最下位を脱することができるのだろうか。沙織は知らず手に力を込める。
レースが終わると二人の「さおり」は、喜色に満ちた雄たけびを上げた。それは、競馬場に響く様々な声や怒号に混ざって消えてしまったけれど、それでも、「さおり」には構わなかった。
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