第11話

 水曜日がやってきた。

 俺は一限目の講義が終わるやいなや教室を飛び出し、早めにA301教室に入った。

 一番後ろの窓側の席に座って、美奈がやってくるのを待つ。


(まだ告白の返事を言わないにしても、どんな風に俺に接して来るだろう)


 「生体分子機構概論Ⅱ」と書かれたプリントの束を机の上に置いて、字面を眺めてみるが、さっぱり頭に入ってこない。シャーペンで小指の先くらいな円を書いて、中を真っ黒に塗りつぶした。


 美奈が、ユカと話しながら、教室へ入ってきた。二人は、教室内を見回して、俺から遠く離れた席にカバンを置いた。置きながら、ユカも美奈も、俺のほうへ笑顔を送ってよこした。何の含みもない、親しみのある普通の挨拶だ。



 講義が始まってすぐ、アポプラストとか、液胞プロテオームとか、俺の知らない言葉が先生の口から飛び出てきた。ぼんやりと、アポプラスト、とつぶやいて、はっとする。

 少なくとも、美奈と一緒の講義だけはしっかり理解しよう。もし美奈が分からない所があったときに俺が教えられたら格好いいじゃないか。


 俺はシャーペンを握り直し、ノートにアポプラストと、液胞内プロテオームと走り書きして、一言も聞き漏らさない覚悟で先生の顔を見た。


 集中している間に、気づけば一時間近く経っていた。ふと美奈を見ると、偶然だろうか、美奈も俺のほうを見た。美奈は隣でゆらゆらと居眠りしているユカリを指差して、目で笑い顔をつくった。俺は小さくうなずいて応える。


 すると先生がリン酸ホメオスタシスの話を始めたので、俺はまた聞き逃すまいと思って前を向く。

 と、ポケットの中で、ケイタイがブルッと震えた。何だろうと見ると、美奈からで、「眠い」とあった。俺は、自分はいつもぼうっとしてるくせに、まるで勉強家のようなスタンスで「気合」と返した。


 俺の返信を見た美奈の口元が、にっこりと笑った。


  ◆                          ◆


 木曜、金曜、土曜、と過ぎて、日曜も深夜1時を回った。美奈からは何の連絡もない。

 俺は、木金はそうでもなかったが、土日は結構期待していたので、拍子抜けした。ラスベガスでパチスロを打つ時も、家で本を読むときも、東林軒でラーメンを食う時も、いつも見える位置にケイタイを置いていたのだが、無駄に終わった。


 ベッドに寝そべってCDを聞きながら考える。

 一体、美奈は何をそんなに考えているんだろう。付き合うなら付き合う、付き合わないなら付き合わない、それだけの話ではないのだろうか。もう告白から一週間経つ。そろそろ返事を催促したくなってきた。明日の一限目は講義で一緒になるから、放課後に会う約束を取り付けてみようか。……


   ◆                       ◆  


 翌朝、温かい布団が気持ち良すぎて、思わず時間ぎりぎりまで睡眠を貪ってしまった。

 A107教室に入ると、タイミングを計ったかのようにチャイムが鳴る。教卓のカマキリ先生を見ると、すでにチョークの箱を空けて、書き良い長さのを探してるところだ。

 後ろから五番目の左端の席に座り、ぐるりと見回すが、美奈が見当たらない。欠席だろうか。ユカが俺の八つばかり向こうの席に一人で座ってる。



 美奈は現れないまま講義が終わり、俺は教室を出た所で、ユカリをつかまえた。


 「美奈ちゃん今日来てないの?」


 「そうなんですよ~。さっきメール送ってみたんだけど返事がなくて」


 「風邪かな?」


 「うーん。何なんですかねぇ? あっ、もしかして心配してます?」


 ユカが、冷やかすような顔をしたので、ついムキになってしまう。


 「全然」


 「またまた~。心配そうな顔したじゃないですか」


 「……」


 「ふふふ。何で黙るんですか。……あっ、美奈と何かありました?」 


 ユカはまつ毛の上向いた目を、興味津々といった感じで見開いた。そんなに美人ではないが、表情がくるくると動いて、愛嬌がある。


 「トラブル? トラブルはないよ」


 「そうですか。じゃあいい感じなんですか」


 「何も聞いてないの?」


 「この前公園行った、っていうのは聞きました」


 「うん。それで?」


 「それで、って何ですか。それだけですよ。……えっ何何? 他に何かあったの?」


  美奈は、付き合おうと言われたことを、ユカに言ってないのだろうか。


「いや、聞いてなければいいんだけどさ」


「良くない良くない。何何? なにしたんですか」


「何も聞いてないの? 公園の話」


 ユカは周りを見回すと、内緒話をする時のように、手で口元を隠した。そして、小さな声で、ちゅーしたんでしょ、と言って笑った。


 「いや。それじゃなくてさ」


 「え~! 何? じゃあ聞いてない」


 本当に知らないみたいだ。これはユカに話していいものだろうか。俺が黙ると、ユカは俺の顔を伺うように見た。


 「清太さんは、美奈のことどう思ってるんですか」


 「……好きだよ」


 「じゃあ付き合っちゃえばいいじゃないですか」


 「えっ、いや。……うん」


 「何ですか。何を迷ってるんですか」


 「俺は迷ってねえけど」


 「じゃあ、美奈に言ったらどうですか」


 「もう言ったよ」


 「ええっ?! いつですか」


 「だから、それが公園行ったときなんだよ。先週の月曜」


 ユカは斜め下を見て、腑に落ちない顔をした。


 「えー、何で話さなかったんだろう。……それで、何て言われたんですか?」


 「返事待って、って言われた」


 「ええ~っ! ……そうですか」


 「何なの、その反応は」


 「いや~。……」


 「何? 俺も言ったんだから、言ってよ」


 「うーん。……だって、美奈は清太さんのこと、好き好き言ってましたよ」


 「いつ?」


 「えー、最初に清太さんと話したときから言ってましたよ。鍋のときもそうだし」


 「公園行った後は?」


 「別に気持ちが変わったような感じは全然なかったけど……。美奈もいくらなんでもそんなにコロコロ気持ち変わんないと思いますよ」


 「そっか……」



 「……でも、何かいいですね、清太さん。今私、きゅんってしちゃいました」


 「何で? 何が」


 「だって顔が真剣なんですもん。それだけ想ってもらわれたら、美奈も嬉しいと思いますよ」


 「そうかな」


 「そうですよ。いつ美奈のこと好きになったんですか」


 「いつ? いつって言われても、最初から好きだったけど」


 「えー! そうなんだ。まあでもそうですよね、美奈かわいいし」


 俺は、うん、と相槌を打つのが照れくさいので、黙った。


 「しかも美奈ってかわいいだけじゃなくて、ダンスもできるし、頭もいいし」


 「ずいぶんほめるねえ」


 「だって本当のことですもん。ああ見えて行動力もあるし」


 「行動力あるの?」


 「ありますよぉ。だってほら、清太さんに連絡先聞いたのだって、すごくないですか。女の子から聞くって勇気いるじゃないですか」


 「そう、だね。確かに」


 「私、美奈が連絡先聞いてみるって言ったとき、びっくりしましたもん。えっ! って」


 ユカの、えっ、があまりに迫真の演技だから、面白くて笑ってしまう。何もそんなに驚きを再現しなくてもいいんじゃないかと思ってしまう程な顔だ。


 「ふふ。ほんと、それくらいびっくりしたんですから。美奈って、ときどきポンッって、驚くようなことを言うんですよね」


 「へえ、そうなんだ」


 「あ、清太さんまだそういう一面見てないですか」


 「うーん、……」


 一瞬、美奈とセックスしたときのシーンがいくつか頭に浮かんだが、まだないかな、と答える。


 「私が思うに、美奈は頭が良すぎるんじゃないですかねぇ」


 「そんなに頭いいんだ、美奈ちゃんって」


 「相当いいですよ。大学も特待生で入ったらしいですから」


 「ええ! すげえ」


 「美奈がこの大学入った理由知ってます? 家近いから、ですよ。本当はもっと上の大学行けたんでしょうけどね」


 「そうなんだ」


 ……


 別れ際に、ユカは、美奈が来たら俺にメールするように伝えておく、と言った。俺は、何か心配性みたいで格好悪いからやめてくれ、と言った。


   ◆                        ◆


 昼休みが来た。理学部棟を出て、工学部棟へと向かう。一階のジュース自販機の前で、生協のおばちゃんたちが赤いエプロンで弁当を売っている。俺は鶏のから揚げ弁当と明太子おにぎりとお茶を買った。

 理学部棟の前や学食前でも弁当は売っているのだが、絶対にそこでは買わないことにしている。同じ学部や学科の人間に一人で弁当を買っている姿を見られたくないからだ。


 大学に復帰して半年以上が過ぎたから、さすがに一人でいることには大分慣れてきた。しかし、一人で飯を食う姿を大学内で晒すことだけは、どうしてもできない。一人で飯を食うという、その行為自体は、漫画を読みながら、イヤホンで音楽を聴きながら、という工夫をすれば、そんなに退屈しないのだが、人に、あいつ寂しいやつだな、と思われるのが嫌なのだ。自意識過剰なのだろうか。あいつ一人で弁当を食ってるな、と思われる、ただそれだけでもう嫌だ。

 だから俺は昼飯を食うのに適した、人目につかない場所をいくつか持っている。一つは学校周辺にある、エブリタイムというマイナーなコンビニ横の小さなスペース。もう一つは少し離れているが、美奈を連れて行った天満山公園。学内では工学部棟のT205教室の奥にある、小さなテラスのようなスペースと、教養教育棟の四階以上の、非常階段だ。  


 今日は、工学部棟T205教室のテラスへ向かう。工学部棟では、知っている顔に出くわすことなどまずないので、廊下を歩いていても気が楽だ。テラスにつながるドアを開けると、誰も人がいない。テスト前以外は、滅多に人がくることはないのだ。いつものように、日の当たる壁にもたれて、コンクリートの地面に胡坐をかく。


 弁当を食べながら、ケイタイを見た。ユカリにああ言ったものの、もしかしたらという気持ちがある。しかしメールは来ていない。

 自分でメールを送ってみようかと思って、文面入力の画面を開いたが、そこでふとアイデアが浮かんだ。


(そうだ。夜電話をして、休んだ理由を聞こう。話に勢いがついたら向こうも返事を言うだろう)


 中庭を見下ろすと、ハクセキレイらしき鳥が二羽、トコトコと走っている。


   ◆                             ◆


 学校が終わってから、いつものようにラスベガス会館へ行く。前日の設定が四か五だったであろう『ホットロッドビーナス』が据え置きの気配なので、腰を落ち着けて打ってみようと決める。現金投資はすぐに終わったが、レギュラーが多く、出玉は出たり入ったりの展開だ。一回くらいまとまった波をつかまえたい。


 夜九時に、店の外に出て美奈に電話をかけた。8コール鳴らしたが出ない。もう一回かけて、7コール待ったがやはり出ない。風邪で寝ているのだろうか。がっついてるみたいでみっともないと考えて、それ以上かけるのはやめた。


 パチスロのほうは、十時過ぎにようやく一つ、まとまった波が来て、即ヤメする。勝ちは二万九千円だが、美奈から何の連絡も来ない。帰りに牛丼屋で特盛つゆだくを食べたが、まだ来ない。コンビニでマンガを立ち読みして、コーヒーを飲んだが、まだ来ない。家に帰って風呂から上がっても、まだ来ない。もう今日は諦めたほうがよさそうだ。しかし、メールも打てないほど風邪がひどいのだろうか。それとも、何か別の理由があって連絡をよこさないのだろうか。


  ◆                         ◆


 結局次の日の昼休みに、メールが来た。

 俺はエブリタイム横の小さなスペースで、シーフード味の大盛りカップラーメンをすすり込みながら、高菜昆布明太などが入った、大きな「バクダンおにぎり」をかじっているところだった。


 「昨日電話出れなくてゴメンね。気づかなかった」


 俺は耳にはめていたイヤホンを抜き取り、すかさず返信する。


 「そうなんだ。昨日の一限目来てなかったね。どうしたの?」


 イヤホンからシャカシャカと音が漏れる。金網の向こうにある更地の草を、風が揺らした。


 「昨日、朝から頭とお腹が痛くて学校休んだの」 


 「大丈夫? 風邪?」


 「違うの。生理痛。でも、もう大丈夫だよ」


 そこで一旦メールは止まったが、スパムおにぎりを食べる間に次の文を思いついた。


「明日四限目までだったよね? 放課後会えないかな?」


 こういう、返事が待ち遠しいメールに限って、返事が遅い。昼飯を食べているのか、それとも会うこと自体を迷っているのか、どっちなんだろう。冷たいお茶を飲んで、タバコを吸った。



 午後イチの講義の途中で、メールが返ってきた。


「明日はダンスの友達と会うから時間ない。ゴメンね。でも近々清太さんと二人で会いたいな。家に遊びに行くっていう約束してたの、覚えてる?」


 これはOKパターンのにおいがする。講義中なのに俺は思わずにやりと笑ってしまいそうになる。


 「覚えてるよ。家片付けたから、いつでも来なよ」


 「わーい。じゃあ土曜日は大丈夫?」


 「いいよ。何時?」


 「夕方以降がいいな」


 夕方以降。何でだ? 付き合いはじめたその日に、泊まるつもりなんだろうか。


 「わかった。夕食は一緒に食べるよね?」


 「うん。また時間は連絡するね」



 さて、飯はどこで何を食べるべきだろうか。

 場所は、遠出していたら俺の家に来るのが遅くなってしまうから、近場で済ませたほうがいい。食べるのは美奈の好きなものがいいだろう。今、メールが続いてるし、ついでに聞いておくか。


 「好きな食べ物、何?」


 「パスタとたこ焼きとブドウだよ~。でも、食べに行くのはどこでも大丈夫だよ」


 たこ焼きやブドウでは食事にならない。となると、パスタだ。

 俺の知っている限りでは、この辺にあるイタリアンは二軒。駅近くの『ナポリ屋』と、名前は分からないが住宅街の中にあるちょっとしゃれた感じの店だ。


 『ナポリ屋』は、一年生の五月頃、竜也が結月という彼女と初デートをした店だ。竜也はカレーにソースとマヨネーズをかけるような味覚センスの持ち主だからちょっと信用ならないが、パスタを二皿食べたぐらいうまかったそうだ。お前も彼女できたら四人で行こうぜ、と言われて、うん行こう、と答えた記憶がある。まだ俺と竜也が仲が良かった頃の話しだ。あの頃は本当に行きたかったし、また実際行くつもりだった。今となっては、竜也がデートした店で自分がデートすることに、抵抗を感じる。


 住宅街の店は、ケイタイで調べたら『リストランテ荒瀬』だと分かった。写真で見る限り、内装も気取りすぎた感じではないし、値段も、結構高いな、という程度だ。何より、写真の料理がうまそうで、口コミを見ても評判がいい。席数も多くて、予約もいらないみたいだ。ここに行ってみようか。

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