第9話

 起きてみると、部屋の中がすっかり明るい。


 隣を見ると、美奈がいない。もう起きたんだろう。

 枕元の時計を見ると、十二時を回っている。自分の家ならあと二時間は寝るんだがな、と思いながら、そのままの体勢でぼんやりとする。夢の残像が頭に去来した。


 ……何で西郷隆盛が夢に出てきたんだろう。


 夢の中の西郷どんと俺は、なぜか親友のように親しげだった。俺は、よかったなあお前、という感じで、あの大きな背中を叩きながら、せごどん、せごどん、と鹿児島弁で何度も名前を呼んでいた。



 トイレに行って用を足し終わったとき、ようやく、ああそうか、と思い出す。昨日、ユカが、母方の実家が鹿児島にある、という話をチラッとしたんだった。あれで歴史小説で読んだ西郷隆盛の記憶が掘り起こされたんだろう。


 でも、何であんな些細なことが夢としてピックアップされんだろう。昨日はもっと重要な出来事がいっぱいあったのに。



 リビングに行ってみると、美奈とエリナがこっちを見て、おはようと言った。ユカはいない。帰ったのだろうか。

 エリナが、眠れました? と言った。


 「うん。勝手にベッドに寝ちゃったけど、よかったのかな?」


 「全然いいですよ。何か飲みます?」


 「じゃあ水か冷たいお茶もらっていいかな」


 エリナが台所へ立ったので、俺は美奈の顔を見た。美奈は俺の頭を見て、寝ぐせついてる、と言った。俺は、何時に起きた? と聞く。


 「十時前」


 「早っえー。何でそんな早く起きたの?」


 「何か目が覚めた。……お腹すいてる? 私たち、さっきコーンポタージュとトースト食べたけど」


 「腹は減ってない。俺、朝何も食べないんだよね」


 「もう昼だよ」


 「ははっ。そっか」


 エリナが2Lのペットボトルに入ったミネラルウォーターとコップを持ってきた。俺は立て続けに二杯、飲み干す。コップを置いたら、エリナが、清太さん今日何するんですか、と言った。


 「決めてないけど、まあパチ屋行くだろうね」


 「好きですね~。私と美奈も、もうちょっとしたら遊びに出かけるんです」


 「ふうん。ユカちゃんはどうしたの?」


 「ユカリは、清太さんが起きる五分くらい前に帰りました。サークルです」


      ◆                    ◆   


 エリナのマンションを出て、晴れた道を自転車で走る。


 まだ少し寝たりないが、この寝たりない感じが美奈とのセックスのせいだと思うと、悪い気分じゃない。ゆっくりと走りながら、自転車のベルを指先でドラムのように叩いて、リズムを取る。その、りんりん、という小さな音さえも吸い込んでしまうような青空だ。


 実をいうと俺は、普通の女の子とセックスしたことがないということに、内心かなりコンプレックスを感じていた。でも、もう今後一切、そのことで思い悩まなくてもいいのだ。しかも、これから美奈と付き合って、楽しい日々が続くのだとすれば、女関連のコンプレックスはもう何もかも消え去ってしまうに違いない。大変なツキが回ってきたものだ。



 日差しが少し暑いくらいなので、上着の袖を捲った。

 時計をつけた腕まくりの左手が、たくましく頼もしく見える。人は同じものを見ても、その時々の気分によって見え方がずいぶん違うものだ。


 人がいい気分でいたいと思うのは当然の欲求だ。しかし、いつでもそうできるかというと、当然そうじゃない。どうしても思い通りに行かないときがある。俺は、大学一年生の夏、あれよあれよという間に、暗く鬱屈した大学生に転落してしまったわけだが、あれは本当にどうすることもできなかった。

 考えてみると、人生はツキという名の海に浮かぶ小舟のようだ。浮かぶも沈むも、海の機嫌ひとつで決まる。


 麻雀という遊びが面白いのは、勝敗のカギを握るツキの動きが予測不可能だからだ。同じことが、サーフィンや魚釣りにも言える。波が良かったり悪かったり、魚が釣れたり釣れなかったり、いつも思い通りに行かないところに面白さがある。本当に面白い遊びとは、こういう、自分の思い通りに行かない部分をたっぷりと含んだ遊びだ。

 こう考えると、人生こそ、最も面白い遊びではないのかと思えてくる。良くも悪くも、本当に何が起こるか分からないからだ。麻雀のように金を賭ける遊びはスリルがあって面白いが、人生はその点でも秀逸だ。金どころか、自分の幸せが賭かっている。自分の全てが賭かっている。



 ……それにしても、この時計が、俺のツキを変えたのだろうか。それとも、たまたまツキが変わるタイミングで、俺がこの時計を手に入れたのだろうか。……


 時計が銀色の金具にちらちらと陽光を反射させて、ちょうど一時を示した。 


     ◆                   ◆


 アパートへ帰り着くと、すぐに服を着替えてベッドにもぐりこんだ。あと三時間ぐらい寝ようと思って目を閉じる。


 なかなか眠くならないので、起き上がって、ベッドの淵に腰掛け、ズボンとパンツを脱いだ。ペニスはすでに半分ほど勃起している。皮を剥くと、むくむくとさらに勃起する。

 亀頭周りがうっすら湿っているので、指でその湿り気をなすり取って、嗅いでみる。かすかに、美奈のにおいが残っている。

 美奈とのセックスを思い出しながら、十分くらいかけてオナニーし、射精した。ティッシュで手とペニスを拭き、丸めてゴミ箱に放り投げると、また横になって布団をかぶった。



 台所のほうから、冷蔵庫のコンデンサーがブィイインと鳴っている音が聞こえてくる。


 やはり昨日のセックスに興奮しているのか、眠れそうにない。あきらめて、そのまま布団の中でぼんやりとする。朝の夢の断片が、なぜかまた頭に去来した。何となく、どんな夢だったか思い出してみようという気になり、記憶を辿る。前後のストーリーは分からないが、一つ、別の場面を思い出した。


 ……布団の中で、美奈が裸で俺に馬乗りになっている。顔と顔が、三十センチくらいの距離だ。美奈は、その体勢で片方の耳に髪をかけた。

 俺が横をみると、そこは古い日本式の家で、畳の上に、長い刀とピストルがあった。時代劇で見るような行灯がぼんやりと部屋を照らしている。ピストルは、坂本竜馬が持っているような、旧式のピストルだ。……


 俺は、ああそうか、と思い出した。


 夢の中の俺は、坂本竜馬だったんだ。そうだそうだ。そう言えばそういう感じだった。竜馬が薩摩弁で、せごどん、と呼ぶのはおかしいけど、まあ夢にはよくある矛盾だろう。


 ふと、竜馬の、キンタマの手紙を思い出す。竜馬が姉に送った手紙の中に、キンタマを例にした名文があるのだ。俺は久しぶりにちゃんと読み返したくなって、ベッドから起き上がると、本棚から、司馬遼太郎の本を引っ張り出す。確かこのあたりの巻に書いてあったよな、と思うと、一発で当たりだった。


「……そもそも人間の一生は合点の行かぬはもとよりのこと。運のわるい者は風呂より出でんとしてきんたまをつめわりて死ぬる者あり。それにくらべて私などは運がつよく、なにほど死ぬる場へ出ても死なれず。自分で死なうと思ふても又生きねばならん事になり、今にては、日本第一の人物勝麟太郎と云ふ人の弟子になり……」


 ふふっ、と思わず笑ってしまった。

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